南部八貴族領動乱の結末! (その5)
本日は連続投稿しております。
その5の前に3、4を投稿しておりますので、まだお読みでない方はそちらからお読みください。
それでは本編をどうぞ!
「これはどういうことでございましょうか、ヤズベッシュ様」
ゾン国宰相をつかまえて、言葉こそ丁寧だが、その奥に形にしない批判をはっきりと込めて尋ねたのは、ゾン国随一の美女、パラセネムであった。
有力貴族の出身であり、大国ゾンの宰相を務めるヤズベッシュに対して圧力を掛けることの出来る人間は少ない。
パラセネムも元を辿れば中級貴族の出身に過ぎず、現在の立場も中央貴族の一つであるシセクダーギ家の侯爵夫人であるにすぎない。
だがその美貌を駆使して築き上げたパラセネムの人脈は、宰相ヤズベッシュをして侮りがたく、何よりヤズベッシュはパラセネムの美貌に骨抜きにされている。
「考えの浅い者共が、目先の利益に踊らされおってな。私も大いに憤慨しておる」
メティルイゼット王子の南部侵攻において、反メティルイゼット王子派だったはずの貴族が、私兵を率いて多数参加していることを、ヤズベッシュは侮蔑と共に嘆いてみせる。
日頃国王からの無理難題を処理しているヤズベッシュは、圧力を掛けられることにある意味慣れてしまっている。
相手がパラセネム以外であれば不快感が真っ先に来ただろうが、パラセネムとの関係を失いたくないヤズベッシュは、圧力を掛けられていることに対して怒るのではなく、反射的にパラセネムの機嫌を伺ってしまっていた。
「そちらも問題ですが、私がお尋ね申し上げているのは、北に派遣されたメティルイゼット王子が、どうして切り離したはずの直属の部隊と合流し、南部に進軍しているのかということです」
声の響きにも、表情にも一切怒りの感情は表れていないが、その瞳は怒りのために冷たく光っている。
他人の顔色を窺わせたら王宮一のヤズベッシュが、その光を見逃すはずはなく、内心肝を冷やしたが、それと同時にその冷たさに興奮を覚えていた。
自身の魅力をよく理解し、最大限に利用してきたパラセネムであったが、四六時中盛りつかれては苛立ちを隠すのに苦労する。
頭痛を覚えたパラセネムは、目を閉じて眉間を押さえた。
メティルイゼット王子の勢力拡大を防ぐために、パラセネムはヤズベッシュを筆頭に中央貴族の有力者たちに働きかけ、中央から遠ざけることで封じ込めようとした。
この策は上手くいき、メティルイゼット王子が進言した南部平定は退けられ、逆に北部防衛の名目で直属部隊と切り離したうえで中央から遠ざけることが出来た。
この間に南部八貴族領に一大勢力を築き上げさせ、これを利用することでパラセネム自身の勢力拡大を図った。
この仕掛けにデニゾバ領主セキズデニンが乗り、なかなかに優秀な働きを示したので一人ほくそ笑んでいたパラセネムだったが、結果セキズデニンが治めようが、アブサラー領主フスレウスが治めようが、その勢力がパラセネムに有利に働くように手は打ってあった。
これが上手くいけば、ゾン国内の勢力を細分化する目途が立ち、パラセネムがさらに暗躍する余地が生まれる。
さすがに王家を打倒し、パラセネム自身が隣国ヴォオスのように女王の地位に納まるというわけにはいかないが、傀儡の王を立て、自分が王妃となって影からゾン全土を支配するという野望も夢ではなくなる。
あと一年もいらなかった。半年あれば十分だった。
だが計画は目の前の男がメティルイゼット王子の封じ込めに失敗したおかげで、ほぼ確実に破綻することがパラセネムにはわかっていた。
ここでヤズベッシュを叱責しても意味はない。
むしろ粗相をした犬にご褒美を与えることにしかならない。
まだ使える男ではあるので、パラセネムは内心の怒りと苛立ちを何とか抑えると、ヤズベッシュを追い払った。
「始末しますか?」
パラセネムの背後の仕切りの裏で待機していたパラセネムの腹心の部下であるクラリサが、不快感も露に確認する。
「そうしたいところだけれど、生かしておきましょう。あれでも国王の面倒は上手くみているし、利用価値はまだあるわ」
メティルイゼット王子の封じ込めに失敗するという大失態を演じてしまったヤズベッシュであったが、今後のメティルイゼット王子の勢力拡大を阻止するためには必要な駒だ。
表立っての中央貴族に対する影響力が小さいことが、パラセネムの数少ない弱みの一つなのだ。
「南部はメティルイゼット王子の手に渡る。これはもうどうすることも出来ない事実。次をどうするかが大事なのでは?」
そう言って断りもなくパラセネムの私室に入ってきたのは、ゾン随一の美女と謳われるパラセネムをして魅入られそうになるほどの美貌の持ち主だった。
長い指で長く伸ばした艶やかな巻き毛をくるくるともて遊ぶ姿は、あまりにも完璧過ぎて、生きた人間ではなく、一つの芸術作品のような印象を見る者に与える。
「……オクタヴィアン。勝手に入ってくるとは無礼であろう」
クラリサが注意するが、一瞬見惚れてしまったために言葉が遅れてしまったので、取って付けたようにしか聞こえなかった。
事実注意されたオクタヴィアンは、まったく悪びれた様子がない。
「お主ほどの美貌の持ち主が、武勇に加えて知性まで兼ね備えているのだから、お主を世に送り出した神々は、よほどお主を気に入っているのであろうな」
「神々に気に入られているかどうかはわかりませんが、一柱は私を生み出すのに積極的にお力をご行使いただけたと己惚れております」
しれっと返したオクタヴィアンの軽口に、パラセネムは鈴を鳴らすような美しい声で笑った。
オクタヴィアン。
最近パラセネムの情夫の地位に納まった旅の楽師だ。
男であるにもかかわらず、男でも色欲を覚えるほどの美貌の持ち主で、パラセネムの邸に楽師として売り込みに訪れたところを一目で気に入られ、パラセネムに囲われている。
癖のある巻き毛と褐色の肌はゾン人らしく見えるのだが、その顔形は本人曰く祖先に多くの人種の血が加わっているため、人種不明の奇跡の造形だった。
身長は190センチ近くもあり、頭は小さく、それでいて手足は長く、その造形は顔だけでなく、全身すべてが神が自ら手掛けた創作物であるかのように整っている。
これで色を頼りに生きていればまだ可愛げがあるのだが、その剣の腕はパラセネムの護衛を務めるクラリサをもしのぎ、本業の楽師としての腕前も宮廷に上がれるほどなのだから、非の打ちどころがなさ過ぎて、人から羨まれる以上に、妬みからくる反感を買っている。
一つ所に留まらず、旅の楽師として生計を立てているのも、
「ご婦人方の愛を一身に集めてしまうため、妬心に狂った醜男に命を狙われるので、一つ所に長く留まることが出来ないのです」
というのが理由だ。
一見冗談に聞こえるが、身も心もすべてパラセネムに捧げているクラリサをして、長く見詰めていると心がざわついてくるので、今では事実だろうと思っている。
「認めるのは癪ですが、オクタヴィアンの言う通りです。南部がメティルイゼット王子によって平定されれば、中央に不足していた奴隷が供給されることになります。そうなれば市場は大きく動き、東部貴族との睨み合いにも変化が見られるはず。ここをどう動くかで、パラセネム様のお力も大きく伸ばせるかと」
クラリサがパラセネムに進言する。
「伸ばせるのではなく、伸ばすのです。メティルイゼット王子が南部を平定するといっても、一人で独占出来るわけではありません。利に目が眩んで参戦している貴族が多いことを考えれば、むしろその後の利権争いで大きく混乱するでしょう」
クラリサに言われるまでもなく、パラセネムの頭脳もメティルイゼット王子の南部侵攻のその後に向かい回転を始めていた。
「上手く立ち回れば、メティルイゼット王子の勢力拡大を阻止するに留まらず、メティルイゼット王子をこれまで支持してきた貴族たちを離反させ、逆に勢力を削ることも出来るかもしれません。そちらに密偵を出しましょうか?」
主の意を酌み、クラリサの頭脳も素早く回転する。
「メティルイゼット王子派の貴族の、他家との交友関係も、最新の情報を揃えなさい。利益でなびく者、楔が必要な者をそれぞれ見極められれば、ヤズベッシュにも汚名をすすぐ機会となるでしょう」
「出来れば見極めまでやってもらいたいものです」
パラセネムの指示に、ヤズベッシュを嫌っているクラリサが不満を口にする。
「そこまで優秀だと、逆に操りにくいわ。あれはあれくらいでいいのよ」
クラリサのヤズベッシュ嫌いを面白く思っているパラセネムが、小さく笑う。
「あれ以下になられたらたまったものではありません」
クラリサの大きなため息に、パラセネムはついに吹き出した。
大国の宰相を悪し様に言う主従を、オクタヴィアンは美しい笑みを浮かべたまま眺めていた。
その完璧な唇の線が、わずかではあるが皮肉な角度に口角を上げたことに気がついた者はいなかった――。
◆
「<神速>ってのも、伊達じゃねえみたいだな」
そう呟いたのは、メティルイゼット王子の呼びかけに応じて参戦しているバラー家当主ケーナン率いる私兵部隊に、傭兵部隊の隊長として参加させられている<海王>の二つ名を持つ傭兵シルヴァだった。
ゾン国王都エディルマティヤへと乗り込んだシルヴァであったが、奴隷不足はクロクスの優秀な部下たちでも簡単には対応することが出来ず、各地で頻発する野盗による奴隷狩りからクロクス所有の奴隷たちを守るために、本来の目的を一時置いて、野盗撃退任務をこなしていた。
本物の野盗もいたが、多くは野盗を装った貴族の私兵で、貴族同士の私闘が禁じられているため、各地で野盗が出没することになり、野盗を装っている手前、撃退されても表立って非難することが出来ないため、隣接する貴族同士の関係は、日毎に険悪になっていった。
バラー家も襲撃の被害に遭い、守備兵が撃破されて奴隷を奪われた。
兵士の頭数こそ揃っていたが、当主であるケーナン自身が武芸に不向きであることもあり、バラー軍は弱卒ばかりで、襲撃に耐えられなかったのだ。
バラー家当主ケーナンは、ゾン中央での活動に便宜を図っているという伝手を頼りに、ゾンにおけるクロクスの代理人に泣きついた。
結果としてここでもシルヴァは駆り出されることになり、この時の活躍のせいでケーナンにすっかり気に入られ、南部侵攻軍に加わっていた。
いいように使われるのは本意ではないが、野盗や、それを装った貴族の奴隷狩り部隊との小競り合いに飽きていたシルヴァは、ケーナンとクロクスの代理人に泣きつかれたこともあるが、<神速>とまで謳われるメティルイゼット王子の戦いぶりが噂程のものなのか、一度直接見てみるのもいいかと考えた。
もっとも、追加報酬がなければ容赦なく断っていた。
「宣戦布告も、降伏勧告もなしか。格式張ったことが好きな王侯貴族らしくねえな。戦好きの戦馬鹿と聞いてはいたが、恰好よりも結果を重視しているあたり、そこらの戦上手な貴族とは格が違うみてえだな」
「突撃に合わせて進軍中に一度速度を落として兵士たちの呼吸を整えていましたよね。斥候もかなりの数を出して敵の位置を正確に測っていたし、並の将軍の二、三手先を見て戦を進めている感じですね」
シルヴァの言葉に応えたのは、戦場には不似合いな、無垢な少年のような空気を纏った美貌の剣士だった。
「イジドールって戦術もわかるんだな!」
自身も気づいていたが、周囲には戦術が理解出来る人間がいないため口にしなかったことを、花や小動物が好きなイジドールの口から聞くとは思っていなかったシルヴァが大袈裟に驚いてみせる。
「少しですけど」
そう言って困ったように笑うイジドールの姿は、戦場の空気に煽られて周囲の傭兵たちが殺気立っていることもあり、余計に浮いていた。
はたから見ると場違いなその空気感と美貌のために浮いているようにしか見えないだろうが、イジドールと共に戦列に加わっているシルヴァの部下たちにとっては、イジドールの存在はそんな表面的なものではけして表すことが出来ないものだった。
イジドールが彼らの中で浮いているのは、戦士として、あるいは生き物として、どこかが決定的に違うと思わせるその戦い方にあった。
「出番ありますかね?」
イジドールが戦況を見つめながら尋ねる。その口調は期待薄と感じていることを表していた。
「ここではねえだろ」
返すシルヴァの言葉にも、欠片の期待もない。
もっともシルヴァはこの戦自体には興味がない。
クロクスに雇われているという立場上やむなく参戦しているに過ぎない。
メティルイゼット王子の用兵が見られればそれでいいのだ。
「出番がないと特別報酬も少なくなるんじゃないですか?」
イジドール自身には金銭に対する執着はなかったが、共に行動するシルヴァの部下たちは、特別報酬に対して大いに乗り気になっている。
活躍に対する出来高払いなので、一般兵をいくら倒しても特別報酬にはつながらない。
それなりに名のある騎士や、武将の首級を上げなければ特別報酬は得られず、出番がなければその機会はけして訪れない。
「俺らはよそ者だ。ケーナンの頼みで参戦しているとはいえ、活躍し過ぎるとやっかまれる。アブサラーとヤヴルドガンの同盟軍だったか? こいつらの大将首もそれなりの報酬が出るだろうが、一番じゃねえ。どうせ狙うなら、一番の大将首を取らねえと、それこそこんな埃っぽいところまで来た甲斐がねえ。俺たちの狙いは次の戦だ」
イジドールの問いに対して、シルヴァは不敵な笑みを浮かべながら答えた。
「それに、俺らが活躍しなけりゃ勝てねえ程の相手でもねえだろ」
デニゾバとの交戦中に背後から攻撃を受けたアブサラー・ヤヴルドガン同盟軍は、シルヴァの見立て通りメティルイゼット王子率いる五万の軍勢の前に粉砕された。
この戦いでシルヴァとイジドールという卓越した二人の戦士がその実力を披露する機会はついに訪れなかった――。
◆
アブサラー・ヤヴルドガン同盟軍を討ち破ったメティルイゼット王子は、従軍した貴族たちに、兵半数を残し、残る戦力でアブサラー、ヤヴルドガン両領における奴隷狩りを行うことを許した。
条件はゾン軍監督官の同行と、捕らえた奴隷の正確な数の報告だけという破格のもので、普段はメティルイゼット王子の権力増大を忌避している貴族たちも歓声を上げた。
戦力を半減させたが、そもそも自分に対して従順ではない貴族たちの存在は、<神速>を以って鳴るメティルイゼット王子にとっては重い足枷以外の何物でもなかった。
大戦力を整えての侵攻ではあったが、まだ戦も半ばのこの時期に奴隷狩りを許したのは、邪魔な足枷を振り払うためだ。
奴隷狩りを餌に釣り出したのだから、当然貴族たちは奴隷狩り部隊の指揮を自ら執る。
それは、奪い合いを防ぐために監督官がつけられているため、奴隷狩りは早い者勝ちという決まりが暗黙の内に定められているため、奴隷狩りを部下のみに任せていると、微妙な案件では他家の当主本人に圧力を掛けられると、私兵部隊の隊長では押し切られてしまう。
なので、利益を損なわないために、参戦した各家の当主たちは全員奴隷狩りへと参加せざるを得ないのだ。
足を鈍らせる足枷が外れたメティルイゼット王子率いるゾン軍は、<神速>の名に恥じない速度で移動を開始した。
戦力差でアブサラー・ヤヴルドガン同盟軍を一戦で撃破し、その後恐るべき速さで進軍したゾン軍は、デニゾバ軍の虚を突いた。
戦術眼に優れるセキズデニンであったが、戦っている敵の背後から、その勢力をはるかに上回る軍勢が迫っていた事実を知る術はなかった。
情報がまったくなかった緊急事態に、ここまで南部八貴族領の戦いを主導してきたセキズデニンも、後手に回らざるを得なかった。
「斥候はまだ戻らんのかっ!」
アブサラー・ヤヴルドガン同盟軍を早期に掃滅するべく力押しの全面攻撃に出たセキズデニンであったが、その目の前でアブサラー・ヤヴルドガン同盟軍が大きく崩れた。
隙を見せてデニゾバ軍を引き込み、罠にかける算段かと疑い、デニゾバ軍の足は逆に鈍った。
だがその混乱は尋常ではなく、判断に迷ったセキズデニンは偵察のため斥候を放った。
しかし混乱のあまりの大きさに斥候も近づくことが出来ず、ろくな報告が入ってこない。
やむなくさらに斥候を広範囲に放ったが、混乱するアブサラー・ヤヴルドガン同盟軍を大きく迂回しなくてはならず、偵察には時間がかかった。
冷静さを保とうと努力しているセキズデニンであったが、語気が荒くなるのを抑えることが出来ない。
報告が届かないまま、前方のアブサラー・ヤヴルドガン同盟軍がいきなり割れた。
逃げ散るアブサラー・ヤヴルドガン同盟軍の兵士たちを呑み込みながら、その軍勢は恐るべき勢いで突き進んでくる。
その先頭には、ゾン軍の中でもメティルイゼット王子直属の軍だけが掲げることを許されている戦旗が翻っていた。
想像外のものを目にしたセキズデニンは、ただ茫然とその旗を眺める。
「……なんだそれは」
意識しない言葉がこぼれる。
「……なんでそんなものがここにある」
「……何故あなたがここにいる」
「メティルイゼット王子っ!!」
セキズデニンは最後に絶叫した。
セキズデニンは王家・中央貴族派の南部貴族だった。
その勢力が拡大することは、東部貴族との衝突を目前に控えている中央にとっては有利に働く。
だからセキズデニンのナルバンタラー侵攻は黙認された。
はずだった――。
「セ、セキズデニン様っ!」
呆然とするセキズデニンに対し、将校の一人が指示を仰ぐ。
その将校が呆然とするセキズデニンより先に行動出来たのも、目の前の急展開に思考がついていかず、判断をセキズデニンに頼ったからに過ぎなかった。
将校の醜態がセキズデニンに冷静さを取り戻させる。
「敵勢力がわからない。一度後方の砦に拠って態勢を立て直す。全軍速やかに後退だっ!」
セキズデニンの命令に忠実に従うことに慣れているデニゾバ軍の将校たちは、まだ混乱から抜け出し切れてはいないが、命令に押されて動き始めた。
軍としての練度が高いデニゾバ軍は、始めの衝撃が冷めやらないまま、それでも秩序だって撤退を開始した。
それに対し、デニゾバ軍に後ろから押されるように進軍していたコークテラ軍は、突然メティルイゼット王子麾下のゾン軍が現れたことに驚いた。そして驚きが去ると、諸手を挙げて歓迎した。
コークテラ家当主アタウェシュクも、セキズデニンと同じく王家・中央貴族派の南部貴族だ。
南部八貴族領の動乱に関しても、巻き込まれて参戦しているに過ぎない。
本来であればとうの昔に鎮圧軍が派遣されてしかるべきだったのだ。
表面上は同盟だが、実質デニゾバに属領扱いされていたアタウェシュクは、ようやくセキズデニンによる支配から解放されると思い安堵した。
自分たちがコークテラ軍であることを示すために、アタウェシュクは兵士たちに軍旗を振らせ、ゾン軍に知らせた。
目の前にゾン軍が迫る。
そしてその足が緩まる気配はない。
ゾン軍が南部八貴族領の動乱を鎮圧に来てくれたのだと歓喜していたコークテラ軍に動揺が走る。
救援に駆けつける、ではなく、明らかな突撃速度に、アタウェシュクも遅まきながらに異変に気づく。
「し、使者だっ! 使者を出せっ!」
抗戦の意思がないことを伝えるため、アタウェシュクが慌てて指示を出す。
だが、コークテラ軍から使者が出ることはなかった。
戦うことも逃げることも出来ないまま、コークテラ軍はゾン軍の突撃に呑み込まれた――。
◆
アブサラー領の放棄されていた砦へ何とか辿り着いたデニゾバ軍であったが、ゾン軍は直後に砦へと殺到した。
休む間もなく城壁を挟んだ攻防に突入する。
さして堅牢ではない城壁に次々と梯子が掛けられ、ゾン兵たちが砂糖に集まる蟻のように群がった。
コークテラ軍を粉砕し、警告もなければ、降伏勧告もない攻撃に、セキズデニンはメティルイゼット王子の意図を明確に察した。
デニゾバ軍の殲滅である。
セキズデニンはまず一度、敵の勢いを止めるよう命じた。
デニゾバ軍は精兵だ。
今は不意を衝かれ、勢いに押されているに過ぎない。
ここまで連勝を重ねたデニゾバ兵たちにも、精兵だという矜持がある。
砦の規模が小さいことが幸いした。
ゾン軍は兵力差を活かしきれず、デニゾバ軍の必死の守りの前についにその足が止まる。
「そろそろ出番だな」
戦況を眺めていたシルヴァが、舌なめずりしそうな口調で呟く。
「いつだかのヴォオスの城塞と比べりゃあ、屁みたいなもんすね」
部下の一人も、デニゾバ軍に勢いを止められてしまったメティルイゼット王子直下の正規軍の後ろ姿に、侮蔑の笑みを向ける。
「これでデニゾバ軍は落ち着けますね。逆に勢いを失ったゾン軍は、消耗戦に引きずり込まれる。デニゾバ軍の本隊はここにいるでしょうが、広げた領地の治安維持のために、デニゾバにはまだ予備兵力がある。その兵力が駆けつけるまで耐えられれば、デニゾバ軍に逆転の目が生まれる。城壁に拠って戦えるデニゾバ軍とゾン軍とでは、同じ消耗戦でも少なくても三対一、多ければ五対一以上で被害に差が出る。援軍が駆けつけた時の戦力差次第では、負けますね」
イジドールが正確に戦況を見抜く。
もっとも、イジドールが読んだデニゾバ軍の治安維持が主体の予備兵力は、ファティマたち奴隷解放組織との戦いに敗れて援軍に駆け付けられる状態ではないのだが、この戦場でその情報を持つ者は一人もいない。
戦況をある程度読める者であれば、いずれは戦いの潮目が変わったことに気づき、ゾン軍の士気は低下する。
「よっしゃ! 王子様が手を打つ前に、最大戦功かっさらうとするか!」
シルヴァの号令一下、傭兵部隊は砦目指して駆け出した。
シルヴァは、最も早く戦況が膠着状態に陥った城壁へと向かった。
足の止まったゾン正規軍兵士たちを押し退け、梯子二台を強引に立て掛ける。
ゾン軍の猛攻を押し返し、ようやく一息ついた直後のこの攻撃に、デニゾバ軍の反応が一瞬遅れる。
本来であればそれは致命傷になどけしてならない遅れであった。
だが、この攻撃の先陣に立っていたのがシルヴァとイジドールの二人であったことがデニゾバ軍の不幸であった。
梯子はほぼ垂直に城壁に掛かっている。
これを登るには、頭上からの攻撃を避けるため、盾を構えながら一段一段登るのが普通だ。
少なくともゾン兵はそうやって城壁攻略を目指していた。
対応が一瞬遅れたところで、梯子の半分も登ることは出来ない。
十分対応可能な遅れだった。
だがその一瞬の隙を衝いて、シルヴァとイジドールは城壁上へと辿り着いてみせた。
ほぼ垂直の梯子を手も使わず、まるで平地を走るかのような速度で駆け上がったのだ。
他の人間が同じことをしようとすれば、重心の軸がわずかでも狂った瞬間ずれた方向に自分から飛び出していくことになる。
だが二人は重心の軸を真上に定め、わずかな狂いもなく駆け上がった。
人間離れした平衡感覚だ。
「ぼーっとしてんじゃねえよ」
シルヴァとイジドールの神業に呆気に取られているデニゾバ兵に、シルヴァは不敵に言い放った。
相手がその言葉に反応する前に、シルヴァの剣が命を奪う。
一瞬のうちに三人を斬り捨てたシルヴァは、並のゾン人では比較にならないその巨体を躍らせ、城壁上を竜巻のように暴れまわった。城壁上からの攻撃が途絶えた隙に、シルヴァの部下たちも素早く梯子を登り、城壁上に拠点を築く。
それまでの一進一退の攻防が何だったのかと思えるほど鮮やかな攻撃だった。
城壁の一角を奪われたデニゾバ兵は、慌ててその奪回に向かった。
その行動は迅速と言えたが、シルヴァとイジドールの行動はその先を行っていた。
城壁上の一角を崩すと場を部下たちに任せ、二人は鍵縄を使って砦内へと侵入する。そして城門へと向かった。
城壁上に意識が集中していたデニゾバ軍の守備は、城門の内側にはまだ配置されていなかった。
まさかたった二人で城門を狙ってくるなどとは大将であるセキズデニンですら想像していなかった事態だ。
男四人で運ぶ巨大な閂に取り付いたシルヴァは、次の瞬間にはたった一人で閂を外し、城門を蹴り開け開放した。
デニゾバ兵に慌てる時間すら与えない程シルヴァの部隊の連携は見事なものだった。
シルヴァが城門を開け放つと同時に、その正面奥で待機していた駱駝部隊が、味方のゾン兵を薙ぎ倒しながら城門に殺到し、砦へと攻め込んだ。
メティルイゼット王子直下のゾン軍を止め、ここから巻き返しだと士気が高揚した直後の城門突破に、デニゾバ軍の動きが完全に停止する。
どうすればいいのか。
思考停止状態に陥り、次の行動が取れないでいるデニゾバ兵をしり目に、なだれ込んだ傭兵たちから駱駝を受け取ったシルヴァは、間髪入れずに砦奥へと攻め込んだ。
あまりの急展開についていけなかったのはゾン軍も同様だったが、シルヴァの部隊の動きに引っ張られ、流れに呑み込まれるように砦へと乗り込んだ。
一度動き出せば流れが出来る。
逆転の流れを再度ひっくり返したシルヴァは、自らが生み出した流れに乗って最大戦功を目指した。
ゾン軍の攻勢を何とか押し止めることに成功したセキズデニンは、砦の指揮官室でようやく一息ついていた。
頭の中では奴隷解放組織への対応は捨て、治安部隊を搔き集めてゾン軍の側面を衝く算段を立てていた。
ゾン軍が手出し出来ないだけの勢力を築き上げるための戦いであったが、逆にここでゾン軍を撃退出来れば、南部八貴族領の領主に留まらず、一気にゾン国の覇者の椅子も見えてくる。
考えようによってはより大きな機会が自らセキズデニンの下へとやって来たとも言える。
想定外過ぎる事態に一度は平静を失いかけたセキズデニンであったが、落ち着きを取り戻した今、その頭脳は再び忙しく回転し始めていた。
自らの思考に入り込み過ぎていたセキズデニンは、事態の変化に気づくのが遅れた。
気づいたときには砦内に明らかに戦いよるものとわかる喧騒が響き渡っていた。
「何事かっ!」
その声に応えるように、扉が激しく開かれた。
文字通り衛兵の一人が室内に転がり込んでくる。
「セ、セキズデニン様っ! お逃げくださいっ!」
床に転がったまま、衛兵はそれだけを叫んだ。
「私は何事かと訊いているのだっ!」
状況を理解出来ないセキズデニンは、衛兵を怒鳴りつけた。
ここが謀ですべてを手に入れようとしたセキズデニンの限界だった。
セキズデニンの戦場とは、兵を指揮する本陣だった。
剣を持ち、先陣に立ったことなどただの一度もない。
むしろ、そんなことをするのは二流以下の策士のすることだと考えていた。
それ自体は間違いではない。
だが、人の生き死に対して距離を置いてきたセキズデニンは、自身に迫る死の臭いを嗅ぎ取る嗅覚を持ち合わせていなかった。
もたもたしているうちに戸口に敵兵が現れる。
戸口を完全に塞ぐほどの巨体を目にして、セキズデニンはようやく戦況が自身の死の一歩手前まで迫っていたことを理解した。
「ば、馬鹿なっ! どうやってここにっ!?」
直前までのセキズデニンの認識は、事態が逆転し始めたというものだった。
事実ゾン軍の攻撃を何とかしのぎ切り、ここから反撃開始と戦術を練るところだった。
敵兵が目の前に現れる要素などどこにもなかったのだ。
「あんたの部下を斬り捨てて」
問われた敵兵は不敵に答えた。
「もっとも、ここまで辿り着いたのは俺一人だけどな」
敵兵がさらに軽口をたたいている隙に、駆け込んで来た衛兵が斬りかかる。
しかし衛兵は何の役にも立たなかった。
セキズデニンから視線を外しもせず、敵兵は衛兵の剣を目の片隅に捕らえながら弾き、返す一振りでその首筋を叩き斬った。
その血がセキズデニンの顔面に降り注ぎ、セキズデニンは悲鳴を上げて腰を抜かした。
「……認めん。認めんぞ」
「何を?」
「こんなことは断じて認めんっ! 私はゾンの覇権に手を掛けているのだぞっ!」
「あっそ。俺には関係ねえよ」
錯乱し、激高するセキズデニンとは対照的に、敵兵はむしろ冷めた目でそんなセキズデニンを見下ろした。
そして、セキズデニンが知覚することも出来ない速度で踏み込むと、現実を直視出来ずに揺れていた目を見開いたままの首を宙に飛ばした。
過去幾人もの野心家がそうであったように、セキズデニンの野心も、あと一歩のところでその歩みを止めた。
その名も、これまでに成し遂げたことも、過去の敗北者たちの間に埋もれる。
これ以後、セキズデニンの名が語られることはなかった――。
戦いの転換点で、その流れを見事に変えてみせた部隊の働きを、メティルイゼット王子は面白そうに眺めていた。
セキズデニンの首が砦内を一周すると、戦いは終息へと向かった。
デニゾバ軍は優秀だ。
だが、その優秀さを、自分たちの頭脳で活かす能力はない。
良くも悪くも彼らはセキズデニンの意思を具現化する優秀な手足であり、頭を失ったことでその機能は麻痺してしまっていた。
「仕掛ける時期を見極めたその戦術眼も見事なら、その後の速攻もまた見事だ。どこの貴族の兵だ?」
メティルイゼット王子が将校の一人に尋ねる。
「ケーナン侯爵が置いていった傭兵だそうです」
「ケーナン軍の兵士ではないのか」
正規の兵士ではなく、傭兵の一部隊が戦局を決定づけたという事実を聞かされても、メティルイゼット王子は眉一つ動かさなかった。
元々貴族たちが残していく戦力の質に期待などしていなかった。数さえ揃っていれば十分勝てるだけの策を整えていたので、質に関しても貴族たちには一切求めていなかった。
奴隷狩りに行くのに、自身の抱える戦力の主力を残していくお人好しはゾン貴族にはいない。
デニゾバ軍とぶつかれば戦力が消耗するのはわかりきっている。
残していくとすれば、たとえ優秀であっても傭兵を残す。
消耗品であることが、傭兵の役割の一つでもあるからだ。
「部隊を率いている者の名は?」
「シルヴァです」
「シルヴァ? 聞き覚えがあるが、思い出せんな」
メティルイゼット王子が小首をかしげる。
「無理もありません。海戦で名を馳せた傭兵ですから」
「ああ、あの<海王>か。まさかこんな水溜まりもないような場所でその名を耳にするとはな」
砂漠に海の王という組み合わせに、メティルイゼット王子は小さく笑った。
「陸戦もいけるというわけか」
「そのようで」
メティルイゼット王子の表情には笑みがあったが、答えたゾン軍将校の表情は苦虫を噛み潰したように歪んでいた。
「私の知略を信頼してくれるのはいいが、少しは自分の頭も使わなくてはな」
「申し訳ございません」
メティルイゼット王子の言葉に、将校は深々と頭を下げた。
「部隊長たちの戦術理解度の低下にもつながる。改善案をまとめておけ」
「はっ」
指摘されるまでもなく、傭兵に出し抜かれた形になった将校も思うところがあったようで、即座に他の幕僚たちを集めに行った。
その姿を視界の隅に見て、メティルイゼット王子は満足気に小さくうなずいた。
そして視線を一つの部隊へと向ける。
その部隊の先頭に、ゾン人とは思えない巨漢の戦士がいた。
メティルイゼット王子の弟で、一部では<人喰い>などと呼ばれているカーディル王子だ。
その部隊は、出撃直前で待ったがかかり、そのまま出番を失った部隊だった。
思いのほかデニゾバ軍が優秀で、数を頼みの力押しでは遠からず攻めあぐねると見たメティルイゼット王子は、シルヴァが採ったのとまったく同じ戦術を用意していた。
デニゾバ軍が状況を逆転したと思い、精神的な隙が生まれるのを待ち、カーディルに特攻を仕掛けさせるつもりでいたのだ。
結局はシルヴァの部隊の仕掛けが早かったため、その策が発動されることはなかったが、シルヴァの部隊が参戦していなくても、セキズデニンは同じ運命を辿っていたことになる。
「投降を呼びかけろ。奴隷ではなく正規兵として迎え入れると伝えよ」
勝ちの見えていたメティルイゼット王子は、デニゾバ軍の将兵を奴隷とするか、配下に迎え入れるかを見極めるために、ここまで投降を呼びかけることなく戦っていた。
その実力を見極めたメティルイゼット王子はデニゾバ兵を配下に迎えることにし、奴隷どころか皆殺しにされるのではないかと怯えていたデニゾバ兵たちは、素直に投降した。
デニゾバ軍との戦いが終わった。
ところが、戦い終わらぬ場所が一か所だけあった。
始めに、真っ向から戦い斬られたであろう傷を持つ死体が転がり、次には、逃げ傷を負った死体が事がっていた。
そして今、逃げることを諦めるしかなかったデニゾバ兵たちが、恐怖に押し潰されながら戦っていた。
「お頭っ! こっちですっ!」
血相を変えた部下に連れてこられたのは、シルヴァだった。
死体で埋め尽くされた一角を目にし、何が起きているのか瞬時に悟る。
その目は自然と死の中心へと向けられる。
そこには、死を撒く者、イジドールの姿があった。
イジドールは怒りに駆られているわけではなかった。
血に酔って、我を忘れているわけでもない。
冷静に、ただ平静に、死を撒いているだけだった。
無感動に、無表情にデニゾバ兵たちを殺し続ける姿に、恐れ知らずのシルヴァの部下たちも、止めることも出来ずにただ眺めている。
「しょうがねえなぁ」
言いつつ頭をぼりぼり掻くと、シルヴァは、躊躇なくイジドールに近づいていった。
イジドールがシルヴァの間合いに入った瞬間、周囲にいた者たちの目には、イジドールの身体がふわりと浮き上がったように見えた。
そして次の瞬間には、イジドールの鋭い剣先が、シルヴァの首筋へと迫っていた。
甲高い、金属同士が激突する音が響く。
「あれ?」
まさかの手応えに、イジドールが小首をかしげる。
「お疲れ。その辺で十分だぜ」
尋常ならざる間合いから飛び込んで来たイジドールの斬撃を受け止めたシルヴァは、危うく殺されかけたことなど歯牙にもかけず、不敵に笑った。
「あ、お疲れ様です。もういいんですか?」
自分の斬撃を受け止めた相手がシルヴァだと気がついたイジドールが、こちらも何事もなかったかのような爽やかな笑みを浮かべて答えた。
自分がしたことの意味を理解出来ないのではなく、理解したうえでそのすべてを特別なこととは捉えていないのだ。
「お、お前、なんでこんなことすんだよ……」
傭兵の一人が、怯えつつも質す。
「こんなこととは?」
それに対して、イジドールは幼い子供のように首をかしげる。
何について問われているのか本気でわからないのだ。
「殺し過ぎだろっ! 逃げた奴も、武器を捨てて命乞いしている奴も、全部殺しやがって……。何考えてんだよっ!」
傭兵は怯えを振り払うように声を荒げた。
相手が怯える意味も、声を荒げる意味も、イジドールには通じていない。
ただその様子を憐れみの目で見つめ、慰めようと手を伸ばした。
傭兵はまるで毒蛇でも投げつけられたかのように、慌てて飛び退く。
イジドールは行き場を失った手を、少し悲しそうに引っ込めた。
「殺してはいけなかったんでしょうか?」
イジドールはシルヴァに尋ねる。
「お前さんはなんで殺す?」
シルヴァは、問いに対して問で返した。
「なんで? ここは戦場ですよね? 殺し合いに来ているんじゃないんですか?」
「そうだな。俺たちは敵も味方も殺し合いに来ている」
「だから殺したんです」
イジドールは、それですべてだと言わんばかりの笑みを浮かべた。
「だそうだ」
それに対して、シルヴァはイジドールに対しては何も言わず、怯えている部下へと視線を向けた。
「く、狂って……」
「行け」
イジドールを恐怖の眼で見つめる部下に、シルヴァは野良犬を追い払うように手を振った。
そこで傭兵はイジドールからシルヴァへと視線を移した。
いつもの不敵な笑みを浮かべているが、その目は笑ってはいなかった。
シルヴァの部下に学のある者はいないが、目端の利かない者はいない。
傭兵は即座に口を閉ざすと二人の視界から出て行った。
「なんだか、悪いことしちゃいましたかね?」
「気にすんな。誰だって他人のすべてがわかるわけじゃない」
シルヴァはそう答えると、イジドールの頭を乱暴に撫でた。
「うわぁっ! やめてくださいよ!」
くしゃくしゃにされた頭を抱えながらイジドールが逃げ出す。
その姿は無邪気そのものだった。
邪気がないというより、負の感情がない。
ことに怒りや妬みといった感情はまったく感じられない。
良いことのように思えるが、怒りや妬みを持たない人間はいない。
負の感情を持たないため、イジドールは他人の怒りや妬みを理解出来ない。
一番厄介なのは、恐怖心がないことだ。
だから他人の恐怖も理解出来ない。
負の感情がないので、理由がない限りは他人を傷つけるようなことはしない。
負の感情がないので、罪の意識もない。
故に、理由があれば殺すことをためらわない。
止められなければ殺しつくすまでやめない。
配下の傭兵が怯えたのは当然だ。
普段の穏やかな表情まま、容赦なく敵を殺していく。
まともな感覚を持った人間の目には、異常者にしか見えないはずだ。
これまでの観察から、シルヴァはイジドールが殺人快楽者の類ではないと理解していた。
ただ、感情の欠落がその行動を異常者のように見せているに過ぎない。
戦場になど連れてこなければ、イジドールは生涯を通じて他人を傷つけるようなことはなかっただろう。
(子供のまま大人になったっていうより……)
そこでシルヴァはイジドールについての考察をやめた。
実に馬鹿げた考えが浮かんだからだ。
足りない部分は自分が補ってやればいい。
厄介なお子様を押し付けられたようなものだが、幸い聞き分けは良い。
重要なのは自分に劣らぬ戦闘力を持つ者が、自分の配下にいるという事実だ。
「大将首は取った。俺らの仕事はここまでだ。帰るぞ」
「はい」
二人はイジドールが作った血の海を、足を真っ赤に染めながら渡った――。
◆
その後のメティルイゼット王子の行動は徹底したものだった。
セキズデニンを討ち取った後、ゾン軍はそのまま南下し、南部八貴族領のすべての都市、集落を襲撃し、全住民を奴隷とした。
しかし、旧デニゾバ領では特に南東部から南にかけての集落が無人化しており、奴隷狩りの成果は上がらなかった。
そしてメティルイゼット王子の侵略は、ゾン最南端の都市、ファルダハンへ辿り着いてようやく終わった。
無人の都市を前に、メティルイゼット王子はしばし無言で佇んだ。
住民たちは当然逃げ出したのだろうが、その足取りがまったく掴めない。
一人や二人なら話は別だが、数万の人間が、短期間にここまで徹底して痕跡を消すなど不可能だ。
報告で奴隷解放組織の名を耳にした。
真偽のほどは定かでないが、ここファルダハンから、ディスタスまでのデニゾバ治安部隊を撃破し、旧デニゾバ領の奴隷を数多く解放したという。
事実、南部八貴族領で狩り集めた奴隷の中で、デニゾバだけでなく、ナルバンタラー、メヴィケントの領民の数が極めて少ない。
組織的に逃げ出したのは間違いないだろう。
メティルイゼット王子は始め、動乱のすべてはセキズデニンの野心の上に存在していたと考えていた。
だが本当にそうだったのだろうか?
その下で、別の誰かの意思が蠢いていたのではないか?
そこまで考えて、思考は断たれた。
帰還準備が整ったとの報告が入ったからだ。
不足していた奴隷の確保は出来た。
これでいつでも東部貴族との戦を始められる。
おそらく有史以来の大戦となるだろう。
いつまでも南の果ての地のことに思考を割いている暇はない。
メティルイゼット王子の思考は、早くも次に待つ戦のために、王都エディルマティヤでどのように戦略を練るかへと向かっていた――。
◆
「長い任務だったね。ご苦労様」
カーシュナーは王都エディルマティヤの拠点で、二人の人物に労いの言葉を掛けていた。
「お役に立てて何よりです」
二人は同時に答え、頭を下げた。
「役に立ったどころじゃないさ。完璧な働きだったよ。ハムザ、オメル」
カーシュナーの前にいたのは、行方不明とされていたセキズデニンの腹心の部下、ハムザとオメルの二人だった。
「メティルイゼット王子の動きが思いのほか早く、少し慌てさせられました」
そう言って苦笑を浮かべたのは、オメルであった。
セキズデニンの前では一度も見せたことのない表情だ。
「あれには私も焦ったよ。さすがは<神速>といったところかな」
答えるカーシュナーも、苦笑いせずにはおれなかった。
「それにしても彼女は凄いですね。いや、凄いなんて言葉では言い表せませんね。私は彼女に英雄とは何かを見た気がします」
ハムザはディスタスでのファティマの行動を、自分の目で確かめていた。
そして私欲なく働くファティマを、英雄と認めていた。
あるいは解放された奴隷たちが口にしたように、聖女と。
「あのまま彼女に南部八貴族領を託しても良かったのではありませんか?」
直接的には接触していないが、セキズデニンから離れて以降、間接的に奴隷解放組織を支援していたオメルも、ファティマを高く評価していた。
オメルの言葉に、カーシュナーは首を横に振った。
「ファティマが南部を治めても、中央、東部との力関係から三竦みにはならない。何より彼女の目的である奴隷解放の思想が、南部で止まってしまう。それでは意味がない」
カーシュナーの説明に、ハムザとオメルはなるほどとうなずいた。
仮に南部八貴族領を奴隷解放組織が支配した場合、中央にとって脅威となることは間違いないが、せっかく中央と対立させた東部貴族にとっても脅威となってしまう。
最悪の場合、奴隷解放組織を共通の敵として、中央と東部を、一時的であるにせよ、手を結ばせる結果となりかねない。
中央だけでも戦力的に対抗するのが難しいのに、ここに東部貴族が加われば、南部に勝ち目はない。
「大切なのはゾンの民に、奴隷解放の思想を広め、奴隷制度を廃止せることだ。私とファティマが戦っているのも、ひとえにそのためだ。それが叶うのであれば、別にゾンという国を打倒する必要もない」
「そうでした。彼女があまりにも輝いて見えるものだから、彼女の導きの先に広がる平和なゾンを夢見てしまいました」
ハムザが面目なさげに後ろ頭を掻いた。
「夢で終わらせはしない。今は無理でも、いつか我らも力となって、彼女の治世を実現しよう」
同じ平和なゾンを夢見たのだろう。
頭脳派なハムザと違い行動派のオメルは、今は現実的ではないというという事実を受け入れたうえで、その先を口にする。
そんな二人を見つめながら、ボラに続き、また有能な味方が去ってしまうなと思いつつも、カーシュナーはニヤリと笑った。
ゾン人がゾンのために、奴隷制度の廃止を目指して戦う。
それはカーシュナーの目指すものが間違いではないという何よりの証拠であった。
ファティマはファティマの意思で戦いっている。
支援こそしているが、カーシュナーから指示を出したことはただの一度もない。
ファティマが得たものは、すべて彼女自身の行いよって得られたものだ。
それが徐々に大きく育つ様を見るのは、他には得難い楽しみであった。
ファティマは現在南方民族の地に、メティルイゼット王子の侵略の手からからくも逃げ切ることが出来た人々と共に避難している。
普通ならいずれのたれ死ぬしかない行程であったが、カーシュナーはそこに南方民族の地第二の城塞都市を築いていた。
この都市に南部八貴族領からの避難民を収容する目算があったから、カーシュナーは南部八貴族領を滅ぼしたのだ。
南方民族の地に、強力な軍を配置することで奴隷狩りを阻止したのは、ゾンの奴隷制を崩す始めの一歩に過ぎなかった。
次に必要なのは、ゾン人の中に、奴隷に堕ちることの恐怖をあらためて植え付けることだった。
ゾンでは南方民族の地における奴隷狩り開始以降、ゾン人が奴隷となることは少なくなった。
ゾン人奴隷の大半が、罪人が刑罰の一つとして奴隷に堕ちたもので、他には借金の形に売り飛ばされた者、奴隷の子などが存在する。
ゾン人で奴隷になることは愚かさの証であり、目端の利くゾン人であれば、滅多に奴隷に堕ちることはない。
故に、平民の底辺に存在するようなゾン人でない限り、奴隷落ちという不幸は日常的に不安を覚えなくてはならないような脅威ではなかったのだ。
だが、もはやそうではない。
南部八貴族領は攻め滅ぼされ、その領民のことごとくが奴隷にされた。
これにより中央の奴隷不足は解消される。
だが、次にいつその矛先が自分に向けられるかという恐怖も生まれた。
奴隷に堕ちた者たちが抱える恐怖はそんなものの比ではない。
ゾン人の恐怖はゾン人に伝わる。
たとえ経済活動が回復したとしても、これまで通りにはいかない。
奴隷はあくまで消耗品であり、南方奴隷の供給はいまだに途絶えたままなのだ。
ゾン人の手で、ゾン人に対して大規模な奴隷狩りを行わせる。
そのためにカーシュナーはまず初めに南方民族の地に強力な軍隊を置き、ゾン及び西方諸国を深刻な奴隷不足状態にした。
そして、奴隷不足からゾンの秩序が乱れるときに備え、以前からセキズデニンの下に潜り込ませていたハムザとオメルにセキズデニンの行動を誘導させ、南部八貴族領で動乱を引き起こさせた。
そして最後に、王家、中央貴族たちを扇動し、南部八貴族領の動乱鎮圧という大義名分を与えて南部八貴族領を滅ぼさせようとした。
最後の最後でメティルイゼット王子の行動の速さに慌てさせられたが、目的は完璧に果たされた。
その中でファティマが果たした役割はない。
ファティマが何を成そうが、何を成すまいが、カーシュナーの計画には一切支障が出ないように図られていた。
奴隷解放を訴え戦ったファティマも、南部八貴族領を支配しようとしたセキズデニンも、そして南部八貴族領を滅ぼしたメティルイゼット王子でさえも、カーシュナーの手のひらの上で、カーシュナーが描いた筋書きをなぞっていたに過ぎない。
南部八貴族領の動乱により、多くの命が失われ、何万もの人々が奴隷に身を堕とすことになった。
そのすべてに責任があることを、カーシュナーは正しく理解していた。
動乱によって流れた血も、これから流される奴隷に堕ちた人々の涙も、これからカーシュナーが成そうとしていることによってもたらされる血と涙の量からすれば、ほんの一滴に過ぎない
血と涙でぬかるんだ泥の道が、目の前に広がっている。
そうと知っていても、カーシュナーの歩みは止まらない。
止まればすべての犠牲が無駄になるからだ。
動乱の結末に対して、カーシュナーは納得はしても満足感は覚えなかった。
その歩みは、ようやく二歩目を刻んだに過ぎない。
先は長く、終わりは遠い。
それでも、どう歩むかは既に頭の中にある。
脳裏に描き出された険しい道のりに、カーシュナーは挑む様にニヤリと笑った――。
この後18時頃にヴォオス語録を投稿します。
こちらは物語ではなく人名録のようなものになっておりますので、設定マニアの方以外はお読みにならないよご注意ください。