南部八貴族領動乱の結末! (その4)
本日は複数投稿を予定しており、この話の前にその3を投稿しております。
まだその3をお読みでなければ、そちらからお読みください。
それではその4の本編をどうぞ!
ヤヴルドガン領で態勢を整えたアブサラー軍とヤヴルドガン軍の同盟軍と、デニゾバ軍の戦いは、膠着状態となっていた。
それは戦力の拮抗から生まれた膠着ではなく、単純にデニゾバ軍の足が止まったことが主な原因であった。
セキズデニンの策により、奴隷解放の流れから完全に押し出され、存在そのものが既に消滅したと思われていた奴隷解放組織の侵攻は、虚を突かれたこともあり、さすがのセキズデニンをもってしても即座に対応する術がなかったからだ。
セキズデニンは始め、兵力を割き、奴隷解放組織の討伐部隊の編成を考えた。
だが敵は、相対しているアブサラー・ヤヴルドガン同盟軍だけではない。
形としては味方として存在しているが、実際は戦力差を背景にした強制により戦列に加えたコークテラ軍も、潜在的な敵対戦力と見なくてはならない。
メヴィケント家の末路がどうなったかを、コークテラ家の当主アタウェシュクが既に知っているからだ。
こんなことになるのなら、時間を掛けてでも同盟を成立させておけばよかったと後悔したが、すべては後の祭りであった。
それにしても、今頃になって奴隷解放組織の反撃を受けたことが腹立たしかった。
デニゾバにおける奴隷解放の流れから追い出し、その後の足取りもオメルに命じて追跡させていたが、組織の者たちは各地に散って事実上の崩壊状態だと報告を受けていた。
それがどうだ。
崩壊どころか旧デニゾバ領の地方都市をいくつも攻略され、新たな中央拠点と定めたディスタスまでもが落とされた。
それ自体が腹立たしい限りであったが、実務上はそこまで問題にはならない。
兵力の大半は今も自身の周辺に展開中であり、奴隷解放組織の反撃によって失った兵力は、南部八貴族領支配に向けての戦術展開に支障をきたすほどではない。
セキズデニンにとって本当に痛手となったのは、優秀な配下を失ったことであった。
大まかな指示のみで細部にわたって手配に怠りのなかったハムザと、密偵として優れた手腕を発揮していたオメルの二人が使えないことが特に状況を厳しくしていた。
どちらも死亡が確認されているわけではないが、奴隷解放組織の反撃に絡んで以降連絡が取れないでいる。
たとえ生きていても、必要な時に必要な場所にいなければ、それは死んでいるも同然だった。
補給の手配はすべてハムザに一任していた。
オメルがいれば、ヤヴルドガン領の偵察と工作も容易だった。
この二人がいないため、そのすべてが今、セキズデニンの両肩にのしかかっている。
既に交戦状態にある状況下で、奴隷解放組織討伐のために引き返すわけにはいかない。
そんなことをすればアブサラー・ヤヴルドガン同盟軍に背後から討たれるだけでなく、既に攻め滅ぼされたメヴィケント領に加え、コークテラ領も与えることになる。
そうなれば戦力比は拮抗するどころか、むしろデニゾバ軍不利の状況に傾く。
コークテラ軍が潜在的な敵対勢力である現状では戦力を分けて討伐部隊を編成するのは、コークテラ軍の首輪から、鎖を外すことになりかねない。
そうなれば正面にアブサラー・ヤヴルドガン同盟軍。内にコークテラ軍。そして背後に奴隷解放組織を置いての戦いということになる。
それでも負けるとは考えないセキズデニンであったが、勝っても甚大な被害を出すことは避けられない。
それでは意味がないのだ。
王家・中央貴族派が容易には手出し出来ないだけの勢力を築き上げなくては、勝っても最後には王家・中央貴族派に飲み込まれることになる。
かといって奴隷解放組織を放置しておけば、補給を完全に断たれる危険性が非常に高い。
幸いにも補給は凶報が届く前日に受けたばかりで当面のところ食料の心配はない。
セキズデニンはここでの決断がすべてを決することを理解していた。
悩んでいる時間はない。
今この瞬間も、ヤヴルドガン領では同盟軍が守備固めを進めており、デニゾバでは奴隷解放組織によってセキズデニンが整えた秩序を切り裂いている。
「全軍進軍開始だっ! 遅れた兵は即座に奴隷に堕とす。遅れる奴隷はその場で斬る。死に物狂いで進めっ!」
セキズデニンは勝利後に、より多くの戦力を残せる道を選んだ――。
◆
新デニゾバ領北西部。
そこはメヴィケント領と境を接する場所であり、アブサラー・ヤヴルドガン同盟軍との戦いに敗れて落ち延びてきた人々が、デニゾバ軍の張った網に掛けられている場所であった。
助けを求めて向かった先で、まさか奴隷狩りに遭うと思っていなかったメヴィケント領民たちは、絶望の内に身も心も縛り上げられていた。
疲弊していった領民と、戦い敗れてボロボロのメヴィケント兵を捕らえるのは容易なことであった。
デニゾバ兵たちは薄ら笑いを浮かべながら捕らえた人々から荷物を奪い、私腹を肥やすことに励んでいる。
そこに、玉砕覚悟でヒュセインと共に十人ほどの騎士が攻めかかった。
まさかメヴィケント家の当主自ら死地に飛び込んでくるとは思っていなかったデニゾバ兵たちは、落ち延びたメヴィケント兵が自棄になって突っ込んで来たと考え、これまでと同じように楽な仕事を片付けようと迎え撃った。
死を決意した主と、その近衛騎士たちだ。
たとえ疲弊していようと、その強さは覚悟のない兵士など及ぶものではなかった。
一瞬にして十人以上が切り伏せられ、次の瞬間には犠牲者は二十人を超えた。
油断が吹き飛び、デニゾバ兵たちも本気で迎撃に出てくる。
先手を取られて混乱こそしたが、数的優位がすぐにデニゾバ兵たちを落ち着かせ、組織だった包囲攻撃に移る。
捕らわれた領民たちを逃がすことは出来ない。
この襲撃は、始めから死ぬまでに何人のデニゾバ兵を殺せるかという性質のものであり、包囲を受けてもメヴィケント騎士たちの士気が衰えることはまったくない。
中でもズュベイルの戦いは凄まじく、一人で三、四人を一度に相手にしても、怯むどころかむしろ圧倒してみせるほどだった。
前線に出るのとは違い、楽な仕事と考えていたデニゾバ兵たちの気持ちが揺らぎ始める。
アブサラー・ヤヴルドガン同盟軍との戦いに勝利すれば、南部八貴族領を統一した大貴族領の上級領民という地位が待っているのだ。
こんなところで死兵相手に戦い命を落としては、それこそ死んでも死にきれない。
「退くな、馬鹿者共がっ!」
そこに数は少ないが、デニゾバ騎士たちが駆け付ける。
浮足立ちかけていたデニゾバ兵たちは、援軍の到着と、ここで逃げたら敵ではなく味方に背後から斬りつけられると悟り、腹を据え直してメヴィケント騎士たちに立ち向かった。
それまで圧倒していたメヴィケント騎士たちであったが、崩れず持ち直したデニゾバ兵たちの前に、一人欠け、二人欠け、徐々にその数を減らしていく。
ここまで獅子奮迅の活躍を見せていたズュベイルも、腕の立つデニゾバ騎士たちに囲まれ、仲間たちの支援が出来なくなっていた。
さらにもう一人が倒れたことで、ヒュセインの背ががら空きになる。
ここまで負傷を押して必死で剣を振り続けていヒュセインだったが、一瞬生じた隙を埋めることは出来なかった。
その背後に迫ったデニゾバ騎士の一人が、ヒュセインの背に剣を振り下ろす。
その騎士にズュベイルが必死に追いすがるが、別の騎士に行く手を遮られ、救出は間に合わない。
ヒュセインが死を覚悟した時、別のデニゾバ騎士と戦いっていたメヴィケント騎士の一人が、目の前の敵に背を向けて、ヒュセイン目掛けて振り下ろされていた剣を打ち払った。
そんなことをすれば当然目の前の敵に大きな隙を見せることになる。
メヴィケント騎士は、ヒュセインの背を守る代わりに、自身が敵の剣を背に受け、絶命した。
「おのれっ!!」
自分を守るために倒れた騎士を視界の隅に留めながら、ヒュセインはメヴィケント騎士を斬ったデニゾバ騎士に、怒りの一太刀を浴びせた。
首を深く切り裂かれたデニゾバ騎士が、血しぶきを撒き散らしながら倒れる。
「もう一息だっ! 倒しきれっ!」
デニゾバ騎士の一人が味方を鼓舞するべく声を上げる。
これに勇気づけられた兵士たちが、数を頼りの残りのメヴィケント騎士たちに襲い掛かった。
「もはや、これまでか……」
一瞬前に拾った命であったが、その余命が長くないことを、ヒュセインも悟らないわけにはいかなかった。
後悔はない。
始めから生き恥をさらさないために死にに来たのだ。
最後まで忠義を尽くしてくれる部下と共に死ねるのであれば本望だった。
悔いが残るとすれば、手の届くところで絶望に打ちひしがれている領民たちに、何の希望も与えてやれないことが、悔しく、情けなかった。
そこに包囲を突破したズュベイルが駆け付けてくる。
残りはヒュセインも含めてわずかに四人だった。
それまでに倒したデニゾバ兵の数はついに百を超えた。
もう何人か道連れにしてやろうと最後の力を振り絞ったときに、絶望が訪れた。
ようやくデニゾバ軍の弓箭兵部隊が到着したのだ。
よく訓練された動きでデニゾバ兵たちが瞬時に撤退し、弓箭兵部隊の前を開ける。
ヒュセインが道連れはこれ以上は望めないかと覚悟を決めたその瞬間、全く予想外の展開が待っていた。
恐ろしい速度で騎馬集団が近づいてくる。
この辺りでは暑さのために馬はほとんどいない。
事実ヒュセインやデニゾバ騎士たちも駱駝に乗っている。
何事かとデニゾバ兵たちが色めき立つ中、事態の異様さに気がついたデニゾバ騎士の一人が弓箭兵部隊に命令を発し、その狙いの先をヒュセインたちから謎の騎馬集団へと変えさせた。
この隙に弓箭兵部隊に突っ込もうかと考えたヒュセインであったが、弓を向けられ凝縮した筋肉は、すぐにはヒュセインの意思に従ってはくれなかった。
それはズュベイルたちも同じだったようで、悔しさのにじむうめき声をあげることしか出来なかった。
デニゾバ騎士は冷静だった。
謎の騎馬集団に慌てて矢を射るようなことはせず、十分に引き付けるためにしっかりと間合いを測った。
「放てっ!」
号令と共に弓箭兵部隊から無数の矢が放たれる。
デニゾバ騎士の読みは正確で、間合いは正確に測られていた。
謎の騎馬集団が矢を受け、無様に転がる様を幻視したデニゾバ騎士が、口角をあげる。
だがデニゾバ騎士は知らなかった。
謎の騎馬集団が駆る馬の脚力を。
矢が放たれる瞬間、騎馬集団は加速した。
誰もが全力で駆けていると思っていたその騎馬集団は、実はまだ実力の七割ほどしか出していなかったのだ。
加速は号令なし。
その加速は、全員が自らの意思で、完璧な間で行われた。
ヒュセインと、メヴィケント、デニゾバの両騎士たちだけが驚愕する。
加速したことにも驚いたが、号令なしで行われたことこそが、驚異的なことなのだ。
それだけで騎馬集団一人一人の戦術理解度が推し量れる。
加速の間が完璧だっただけではない。加速後の隊列には一切の乱れがない。
全体がどう動くか、全体の中で自分がどう動くべきなのかを、一人一人が過たず理解しているのだ。
小隊規模ではあるが、メヴィケント騎士団の精鋭を集めて同じことが出来るかと問われれば、ヒュセインは出来ないと答えるしかなかった。
一瞬の加速で、この騎馬集団が恐るべき戦闘集団であることが理解出来た。
そしてこの加速により、騎馬集団は全員無傷で矢の雨の下を潜り抜け、デニゾバ軍へと襲い掛かった。
先頭の一騎が、まるで蟻の列を踏み潰すかのように弓箭兵部隊を薙ぎ倒し、あっという間に通り抜けて弓箭兵部隊の背後にいたデニゾバ騎士に襲い掛かった。
迎え撃つのは弓箭兵部隊の指揮を執ったデニゾバ騎士。
奮戦するズュベイルをもってしても退けることが出来なかった最も腕の立つ騎士だ。
謎の騎兵は直前まで馬上で身を伏せ加速してから、一気に立ち上がった。
迎えるデニゾバ騎士も鐙に立って大上段に構える。
交差したのは一瞬。
だが振り下ろされた剣は、謎の騎兵の剣のみが相手に届いた。
「何という間合いだっ!」
ズュベイルが思わず声を上げる。
両者の身長差はほぼなかった。
であれば間合いもほぼ互角だ。
だがこの一騎打ちは圧倒的な間合いの差で決着がついた。
デニゾバ騎士が鐙に立ち、膂力に任せて真っ直ぐに切り捨てようとしたのに対して、謎の騎兵は馬上で可能な限り身を乗り出し、剣を振り下ろすというよりも、まるで短槍を投げつけるかのような直線的な軌道で、肉体がぐにゃりと伸びたかと錯覚するほど全身を使って剣を前へと突き出し、デニゾバ騎士の喉元を貫いたのだ。
届いたときには左の足は鐙から外れ、もはや曲乗りと言っていい状態になっていたのだが、謎の騎兵はそれが当たり前のように、デニゾバ騎士から剣を抜くと同時に鞍上へとその身を納めていた。
だが激しく動いたおかげで、日差しと砂埃から頭部を守っていた外套のフードが外れ、謎の騎兵の正体が露になる。
フードが背後に落ちると同時に、後頭部で束ねられていた黒く艶やかな長い頭髪が風に乗って流れた。
騎兵が一瞬だけヒュセインたちに視線を投げた。
厳めしい戦士の面構えを勝手に想像していたヒュセインとズュベイルたちは、黒髪をなびかせる美しい女の出現に、呆気に取られ、戦場であることも一瞬忘れ、見惚れた。
次の瞬間には謎の美女の視線は前方に向かい、残るデニゾバ騎士へと挑みかかった。
騎士隊長を討たれたデニゾバ騎士たちは一瞬浮足立ったが、相手が女であると確認すると、正体がつかめなかったとはいえ、女相手に怯えてしまったという恥辱もあり、怒り狂って突進した。
だがその剣は、謎の美女に届くことはなかった。
謎の美女を背後から追い抜いた二つの騎影がデニゾバ騎士たちの間に割り込み、デニゾバ騎士たちを粉砕してしまったからだ。
残るデニゾバ騎士と兵士たちを、謎の美女を中心に、三騎が連携を駆使して次々と打ち倒していく。
これに加わった他の騎兵も驚くべき腕の持ち主たちばかりであったが、この場を制圧した力の中心は、間違いなく謎の美女を中心にした三騎の働きによるものだった。
「安心してください! 私たちは奴隷解放組織です! あなたたちを今すぐ解放します!」
デニゾバ軍を掃討すると、謎の美女はすぐさま捕らえられた人々のもとに向かった。
馬上で背筋を伸ばすその姿は、女性であるにもかかわらず雄々しく、それでいてその瞳は、清らかな乙女のやさしさを帯びていた。
奴隷解放組織の名は、セキズデニンの策略もあり、デニゾバ以北にはあまり伝わっていなかった。
それでも噂程度には伝わっていた。
女に率いられた組織が、デニゾバで暴れているという、笑い話の類としてではあったが。
噂話を聞き、嘲りの言葉と共に笑いものにしていた相手がいきなり目の前に現れた。
どんな女のだろうか?
きっと化け物のように醜い大女に違いないと言って笑った。
本当にいるのかもわからず、ゾン人特有の誇張された話で、本当は男前に率いられているのを見間違えたのではないかとまで言われていた。
現実は全く異なった。
女の身でデニゾバ騎士を圧倒し、それでいて一切の欲を感じさせない涼やかな空気を纏っている。
美しく、それでいて凛々しい馬上の姿は、貴族であるヒュセインの目から見ても品位に満ち、貴族的というよりも、まさしく英雄的な存在感だった。
「……私はメヴィケント家当主ヒュセイン。我が民を救ってくれたこと、礼を言う。名を聞いてもよいか?」
ズュベイルの肩を借りたヒュセインが謎の美女の前に進み出て、礼を言う。
「私は奴隷解放組織の長を務めさせてもらっているファティマと申します」
ファティマは馬を降りると、ヒュセインの前まで歩み寄り、名乗った。
「き、貴様っ! 無礼であろうっ!」
目の前に堂々と立ち、名乗りを上げたファティマに、ズュベイルが怒り露にする。
「なんだ、てめえっ! やるかっ!」
これに対して即座に反応したのは、セレンだった。
さすがに怪我人を抱えたズュベイルにいきなり斬りかかるようなことはしなかったが、馬から飛び降りるとファティマの隣に並びズュベイルを睨みつけた。
そしてセレンとの間にファティマを挟むように、無言でエミーネも並ぶ。
自分のことなら自制がきくセレンだが、仲間に対する誹謗中傷などには本人よりも先に爆発してしまう。一応ボラに説教されて抑える努力はしているが、ファティマに関連することでは未だに抑えがきかない
ファティマはセレンの前にだけスッと腕を出すと、視線をヒュセインからズュベイルへと向けた。
「私は奴隷解放組織の長です。奴隷制度の枠組みを支配している貴族に対して、折る膝は持ち合わせてはいません」
言葉使いは丁寧で、その表情は穏やかだが、言葉の内容は辛辣だった。
何よりその瞳の奥に宿る光には、鋼の硬さがあった。
「やめろ、ズュベイル。領地も民も守れず、敗れて追われた今の私は、もはや貴族とは言えんよ」
再び怒声を張り上げようとしたズュベイルを制すると、ヒュセインは苦い笑みを浮かべた。
「何をおっしゃられますかっ!! ヒュセイン様は今でも立派なメヴィケント家のご当主様ですっ!」
まるで言葉で胸を切り裂かれたかのように、ズュベイルは苦悶の表情を浮かべる。
ヒュセインがこれまで貴族して持ちえたものを、何一つ守れなかったという現実は、メヴィケント家の筆頭騎士を苦しめずにはおかない。
「卑下するわけではないが、もはや何の力も持たない肩書に縛られて、恩人に礼も言えんことの方が、私には情けないことと思えるのだ。南部ではそんなことはなかったが、中央では貴族の地位には値札が貼られ、売り買いされている。醜悪な商品にすがりつくような無様な真似を、私はしたくない」
ヴォオスでもあったことだが、没落貴族が最後の手段として爵位を売ることがある。
ゾンはその傾向がより顕著だ。
無能な領主の下で領地が没落していくよりも、新しい領主の下で領地が栄える方が、領民にとってもありがたい。
経済という観点からみれば、無能な領主が領地を食い潰す前に金銭によって代替わりするのは、むしろ健全なことと言える。
放蕩の限りを尽くして富を失い、地位までも失ってしまう中央の無能な貴族と、今回戦乱に巻き込まれて領地を失うことになったヒュセインは違うと訴えたかったズュベイルであったが、現実を直視しているヒュセインの言いたいことが理解出来ないわけではない。
これ以上の言葉は、ヒュセインに辛い現実を口にさせることにしかならないと気づき、押し黙った。
「部下の非礼を許してほしい。忠義に厚い男なのだ」
「お気になさらずに。そちらの騎士殿の反応は当たり前のことですから」
まだズュベイルを睨みつけているセレンの前から腕は降ろさずに、ファティマはヒュセインの謝罪を受け入れた。
「これから我々をどうするつもりだ?」
現実的なヒュセインは、敗北の痛みを胸に抱えつつも、領民と兵士たちの先行きに意識を向ける。
領地を攻め滅ぼされ、自身も傷ついている状況下で、まず初めに領民の身を案じたゾン貴族らしからぬヒュセインに、ファティマは興味を抱いた。
「身分にかかわらず、我々の考えに賛同出来る者たちは保護し、賛同出来ない者たちには水と食料を与え、後は各自の判断に任せます」
「君たちの考えとは?」
「組織の名が示す通り、奴隷制度の廃止と、女性の暴力支配からの解放です」
ファティマは微塵の気負いもなく、己の考えを言葉にした。
「奴隷制度の廃止など、夢物語にすぎん。不可能だっ!」
ズュベイルが反射的に異を唱える。
「隣の国では奴隷制度廃止令が執行されてから既に五十年が経とうとしてます。国力は衰退するどころか、多くの優秀な人材を得て発展し、さらなる繁栄を果たしています。あなたはそれでも奴隷制度の廃止は夢物語だとおっしゃるのですか?」
ファティマはヴォオスを例にとり、ズュベイルに問いかける。
「不可能だ。ヴォオスとゾンは違う。ゾンでは無理だ」
ズュベイルの答えは頑なだった。
「あなたはそう考えるでしょう。これまでずっと支配する側にいたのですから」
対するファティマの答えは素っ気ないものだった。
ズュベイルの頭が固いのではなく、奴隷制度が社会基盤となっているゾンでは、奴隷本人ですら、奴隷になること、奴隷であることは拒むが、奴隷制度そのものを否定することはない。
思考の根底に奴隷制度が染みついてしまっているのだ。
「女性の解放というのは初めて耳にした」
ズュベイルとは違い、思考が柔軟なヒュセインが、ファティマが奴隷制度の廃止と共に掲げた女性の暴力支配からの解放という言葉に驚きを覚えていた。
だが同時に納得も出来た。
領民や兵士たちを救うどころか、最後の意地として、死ぬまで戦い抜くことしか出来なかった自分を救ってくれた奴隷解放組織の戦士たちは、全員が女性だったからだ。
「これまで女性はその家の家長の所有物でした。婚姻は財産と勢力拡大のための手段であり、女性はそのための道具でした。子を産み、家を存続させることが目的であるため、子を産めない女性は奴隷に堕とされもしました。何を思い、何を感じ、何を望んでいるかなど一顧だにされず、物として扱われてきました」
ファティマによって言葉にされるまで、ヒュセイン自身もそのことについて何の疑問も抱いていなかったことに気がついた。
身内の女性の婚姻を、利益のみを追求して決めたりはせず、出来る限りの良縁を見つけられるように気を配りはしたが、当人の意思や希望などを聞こうとは、これまで一度も思ったことはなかった。
良縁がそのまま女性の幸せだと思い込んでいた。
「私たちは一個の女という物ではなく、それぞれが独立した考えを持つ、一人の人間であり、嬉しければ笑い、悲しければ泣く、感情を持った人間なのです」
言葉と共にファティマの黒い瞳が強い光を放つ。
「奴隷は家畜ではなく、女は物ではない。奴隷制度だけではなく、ありとあらゆる人間性に対する否定と、私たちは戦うのです」
その言葉はファティマ一個人の言葉ではなかった。
その両脇を固めるセレンとエミーネだけでなく、その周囲に立つ女戦士たち全員の意志が込められた言葉だった。
その言葉の重さに、ヒュセインは言葉を返すことが出来なかった。
一瞬言葉の空白が生まれ、ヒュセインは口を開こうとしたとき、両者の下に恐ろしい勢いで一騎の騎馬は駆け寄せて来た。
ズュベイルがヒュセインの間に出て剣に手を掛け、セレンも気を張り詰めるが、騎馬が手綱を引いて馬を止めると、緊張を解いた。
「ミランじゃねえか! 今頃来ても遅いぞ!」
騎馬の正体は、カーシュナーの弟子の一人であるミランだった。
カーシュナーは基本奴隷解放組織の活動に口を挟まないが、武器・食料などの供給と共に、情報も提供してくれていた。
その関係で奴隷解放組織のもとを訪れることの多いミランとは、さすがのセレンも打ち解けていた。
軽口をたたいたのも、自分たちの戦況を心配して、ミランが駆けつけて来たと思ったからだ。
「今すぐ逃げてくださいっ!」
だが駆けつけたミランにはセレンの軽口に応じるような余裕は全くなかった。
いつもは年下とは思えないほど穏やかで落ち着いているミランの初めて目にする焦りの色に、セレンの表情は一瞬で引き締まった。
それはセレンだけでなく、ファティマも同様だった。
「直ちに撤退するっ! 急げっ!」
ファティマは理由を問わなかった。
兄弟子にあたるミランがここまで切羽詰まっているのだ。間違いなく非常事態だ。
「待てっ! いったい何事だっ!」
だが、はいそうですかと従えない者もいる。
ズュベイルだ。
「こちらはどなたですか?」
ファティマを必死で探していたミランの目には、ヒュセインたちの姿は映っていなかったのだ。
「メヴィケント家の当主ヒュセイン殿と、騎士ズュベイル殿だ」
意外な人物の登場に、驚きでミラン目がわずかに見開かれる。
だがすぐに意識を切り替え、ミランはヒュセインに向き直った。
「メヴィケント家当主ヒュセイン様。馬上から失礼致します」
先程はヒュセインを前にして膝をつこうとしなかったファティマに怒りを露にしたズュベイルであったが、その切迫した様子から事態の重要性を感じ取り、余計な口は挟まなかった。
「メティルイゼット王子率いるゾン軍五万が、ここ南部に向け進軍中ですっ!」
「五万っ!」
だがこの情報に対して驚きの声を上げたのはセレンだった。
メティルイゼット王子は中央貴族の計略により、ゾン北部に追いやられたと聞いていた。
それだけに真逆のゾン南部に、五万もの兵を率いて進軍しているという情報に、驚かずにはいられなかったのだ。
「ヒュセイン様っ! ついにゾン軍が動いてくれましたぞっ!」
セレンとは異なり、この情報に歓喜したのはズュベイルだった。
ヒュセインは戦いの前に国王に宛てて南部の動乱鎮圧を願い出ていた。
ズュベイルはそれが叶ったと思ったのだ。
「残念ですが、メティルイゼット王子の行動は、王命を無視した完全な独断です。我々の掴んだ情報では、この行動は南部八貴族領の動乱鎮圧が目的ではなく、この機に乗じて南部八貴族領を平定することです」
「嘘をつくなっ! だいたい貴様はどこの何者だっ! どうしてそのような情報を知っているっ!」
ズュベイルの言葉はもっともなものであった。
ヒュセインの性格上あまり他の領地へ密偵などは送り込んでいなかったのが、全力で情報収集していたとしても、ゾン国の王子の独断行動を探り出すことなど不可能だった。
その情報を得たというミランの言葉をズュベイルが疑うのは、無理もないことなのだ。
「嘘だと思うのはそちらの自由です。そもそもこちらにはあなた方に情報を提供する義務はありませんので」
ズュベイルとの問答に意味はないと切り捨てたミランは、もう見向きもしなかった。
「ファティマ。都合がつく限りの荷車を用意しました。今すぐ引き返してここに連れてくるので、自力で歩ける者たちはすぐに南へ向かわせて下さい。メティルイゼット王子の<神速>の異名は伊達ではありません。追いつかれたらどうすることも出来ない。とにかく急いでください」
言うが早いか、ミランは来た時の勢いのまま走り去った。
「ここにあなたたちの領主ヒュセイン殿がいる。彼について行きたい者、我々と共に来たい者、それとは別に独自に行動したいと考えている者、それぞれいると思います。生死を左右する選択です。本来であれば考える時間を与えてやりたかったのですが、時間がありません。今ここで決断してください」
ファティマは助け出したばかりのメヴィケントの領民に決断を促した。
「あ、あの、私たちは連れて行ってもらっても何の役にも立ちません。それでもついて行っていいんですか?」
乳飲み子を片手に抱え、もう片方の手でも幼い子供の手を引いている女性がファティマに尋ねた。
「おいっ! 何勝手なことしてんだっ!」
だがファティマが応える前に、一人の男が女性の髪を掴み、怒鳴りつける。
即座に動いたのはセレンだった。
男がしたように髪の毛を鷲掴みにすると、全体重を掛けて引き倒し、そのまま仲間の方に投げ飛ばす。
男は女戦士たちの怒りを買い、四方八方から蹴り飛ばされて一瞬でボロ雑巾のような有様となった。
セレンが動く傍ら、ファティマは女性と子供たちの保護に動いていた。
男が倒れるときに引きずられた女性と乳飲み子を片手で軽々と受け止めると、幼い子供も同時に抱きとめる。
「あなたたちを歓迎します。私たちと共にくれば、生きる術は身に着けることが出来ます。自分のことを何の役にも立たないなどと言ってはいけない」
ファティマが優しい笑みを浮かべると、女性はその腕の中で号泣した。
「立ち止まっている時間はありません。皆さん行動をっ!」
そう言うとファティマは女性の肩を押し、歩くことを促した。
泣いている場合ではないと悟った女性が、頬を濡らしながらも歩き出す。
この出来事に触発されたのだろう。
女性たちの多くが動き始める。
それに対して反射的に手を上げようとしてしまった愚かな男たちが、女戦士たちの鉄拳制裁に遭い、ヒュセインに泣きついた。
ズュベイルが剣を抜くと、残る騎士たちも剣を構える。
ファティマたちは命の恩人ではあるが、だからといって支配下にある領民たちを連れ去る権利はない。
たとえそれが保護目的であったとしても、メヴィケント家の支配権を守るため、受け入れることは出来なかった。
場を緊張が支配する。
それを破ったのは、ヒュセインが家紋のついた剣を投げ捨てた音だった。
「ヒュ、ヒュセイン様?」
ズュベイルが困惑しつつ主を振り返る。
そこには先程まであった死を覚悟した悲壮感はなく、どこか晴れ晴れとした顔があった。
「ファティマ。私は奴隷解放組織の考えを受け入れる」
そう言うとヒュセインは今日まで支配してきたメヴィケントの領民たちに向き直った。
「皆、心して聞いてくれ。ここにメヴィケント家当主ヒュセインは、ゾン貴族としての生得の権利のすべてを放棄し、メヴィケント家を廃絶することを宣言する」
「ヒュ、ヒュセイン様っ!」
困惑を驚愕に換えて、ズュベイルは再度主の名を口にした。
「私にはお前たちを守り導く力はもうない。ついてくるなとは言わないが、共に来ても生き残れる保証はない。むしろ私の名前が厄介事を引き寄せ、共に行く者に不幸を招くかもしれない。彼女たちの考えに納得出来る者は共に行け。生きることを諦めてはいけない。だが一つ警告しておく。特に男たち。その場しのぎのために彼女たちについて行くことはやめておけ。そこらで転がっている男たちのようになるからな」
ヒュセインの言葉にニヤリと笑ったのは、奴隷解放組織の女戦士たちだけだった。
「我々の考えを受け入れたのなら、あなたも共に行きますか?」
ファティマが尋ねる。
「それはやめておこう。これまで意識してこなかったが、男が女性の人間性を無視し、暴力で支配してきた事実がどれほど醜いことだったか思い知った。だがそんな醜い者たちも、これまで領民として私に仕えてくれた者たちだ。行く当てなどないが、彼らをここに捨て置くわけにはいかない。状況が落ち着き、それぞれが自分たちの行く末を決められるまでは、何とか導いていこうと思う」
ヒュセインが共に来れば、ファティマたちの考えに納得出来ていない者たちも従うだろう。
それは奴隷解放組織に厄介事の火種を持ち込むことにしかならない。
奴隷制度に対する明確な拒否も、女性を所有することをやめることの出来ない者たちも、ヒュセインはそれ以外の者たちがファティマたちに救われるために、まとめて引き受けることにしたのだ。
「わかりました。では一つだけ忠告を」
これ以上ここで足を止めていることが致命的な遅れになりかねないと考えていたファティマは、ヒュセインが言葉にしなかった意図を汲み取り、それ以上は無理に誘おうとはしなかった。
「西の辺境地帯へ向かうことをお勧めします。そちらにはかつての鉱山採掘の跡地が存在します。そこに身を潜め、毎日周囲に目を配り、薄い三本の狼煙が上がるのを待ってください。見つけたら直ちにその場所に信頼出来る使いの者を差し向けてください。上手くすれば生き延びられるかもしれません」
ヒュセインはファティマの忠告を真摯に受け止めた。
「……ゾン軍に庇護を求めるという手もあるが?」
ズュベイルが口を開く。言いつつも、自分の言葉に確信が持てていないことがありありと見て取れる。
「本来デニゾバがナルバンタラーを攻めた時点で、ゾン軍は動かなくてはいけませんでした。動乱を放置したゾン軍が今になって動いた。それも、中央貴族によってゾン北部へと遠ざけられていたはずのメティルイゼット王子がです。メティルイゼット王子が南部侵攻軍の指揮を執っていること自体が異常であるうえに、その旗下に五万もの兵が従っているということは、おそらくゾン正規軍ではなく、大部分が貴族の私兵であると推測出来ます」
ファティマの答えに、ズュベイルの顔色が悪くなっていく。
「この行動がメティルイゼット王子の独断であり、その行動に王子を北部に遠ざけたはずの貴族たちが加わっているということは、手の平を返すだけの、それ相応の報酬を用意したということ」
「……報酬」
呟いたのはヒュセインだった。
「メティルイゼット王子は南部八貴族領のすべての民を奴隷として召し上げる決断を下し、そこにこれまで反メティルイゼット王子派だった貴族たちも乗った。この南部侵攻は、動乱鎮圧などではなく、南部を滅ぼす覚悟の独断行動でしょう」
言い切るファティマの言葉には、確信めいた響きがあった。
「それほどの情報を、どうやって手に入れているのだ……」
ファティマの言葉を信じることが出来ないでいるズュベイルであったが、それでももはやその口から否定の言葉が出ることはなかった。
忠告はした。
それ以上の会話は無用と、ファティマは馬上に戻った。
セレンたちも後に続く。
「忠告感謝する。この恩、命があればいつか返そうっ!」
ヒュセインは見送りに際し、そう声を掛けた。
それに対して、ファティマは何も応えなかった。
恩を売るのはファティマの本意ではないからだ。
「おいっ! そこのへっぽこ騎士っ! あんたよりもずっと物分かりの良い主に最後までついて行けよっ!」
始めの勢いを失い、あきらかな迷いを見せているズュベイルをセレンが挑発する。
お前の忠義はその程度かという意図を含んだものであったが、狙い過たず、見事にズュベイルを怒らせる。
「言われるまでもないっ!」
自分でも単純だと思いつつも、ズュベイルは言葉を返さずにはいられなかった。
「私はもう、お主の主ではない。ついて来ても俸給はないぞ」
すべてを失くし、すべてを捨てる決意をしたからだろうか。死を決意した時とは異なる開き直った空気がヒュセインにはあった。
そんな主の珍しい軽口に、ズュベイルがどう返していいかわからずおろおろする。
人々がそれぞれに動き始める。
誰もが一度、故郷であるメヴィケントの方角に目を向けるが、帰ることはかなわない。
生き残った騎士たちは、誰よりも長く、守ることの出来なかった故郷を見つめていた。
そしてファティマに続かなかった者たちだけがその場に残されることになり、自分では何も決断出来ず、ひたすらヒュセインを見つめ続けている。
行かねばならない。
すべてを失くし、すべてを捨てても、責任を放棄するつもりはない。
声を掛け、自らが動くことで、行動を促す。
ヒュセインは最後に、故郷メヴィケントではなく、ファティマへと目を向けた。
馬上に在って背筋を伸ばす姿は堂々として、続くことを選んだ者たちだけでなく、共に戦う者たちにも安心感を与えている。
あのような存在で在りたかったと、羨む気持ちが頭をもたげる。
だが不思議とその思いは妬心には変わらなかった。
ただ素直に凄いと思う。
振り返り、後に続く者たちを見る。
自分にもまだ出来ることがあると思い直したヒュセインは、同じように安心感は与えてやれなくとも、せめて踏み出す足が鈍らぬように、背筋を伸ばして歩き出した。
そのすぐ後ろを、妙に誇らしげなズュベイルが続いた――。
その5は17時頃に投稿いたします。