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ヴォオス戦記  作者: 南波 四十一
ヴォオス戦記・乱
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南部八貴族領動乱の結末! (その3)

 お久しぶりです。ヴォオス戦記を書いている人南波 四十一です。


 前回のあとがきで、その3で終わりみたいなことを書き、もしかしたらその4もあるかもなどとほざきましたが、結局その5まで書くことになりました。

 そして、その5はまとめになるので、一番長くなりました。。

 こだわらずにバラバラに投稿すればよかったかなと今頃になって後悔しております(苦笑)


 遅くなりましたが、とりあえず今日中にその3、4、5を投稿します。

 一応誤字脱字と以前発生した謎のバグの確認も済んでいますのでこれは確実です。


 それではヴォオス戦記の本編をどうぞ!

 南部八貴族領における最後の覇権争いと言ってもいい戦いが幕を開けていた。

 デニゾバに押し上げられる形でアブサラーとの戦端を開いたコークテラであったが、いざ戦端が開かれればその士気は高く、戦闘は激しいものとなっていた。


 コークテラ家の当主アタウェシュクは、王家・中央貴族派ということもあり、王家と中央貴族たちに対して強い反感を抱くアブサラー家の当主であるフスレウスから敵視されてきた。

 領土の境で揉め事が尽きることはなく、その原因は九割以上の割合でアブサラー側に非があった。

 それもそのはずで、アブサラー家当主フスレウスは嫌がらせを目的としてこれまで揉め事を起こしており、アタウェシュクの処理能力がどれほど高かろうと、揉め事をなくすことは不可能だった。


 貴族同士の兵を率いた私闘が禁止されているため、アタウェシュクは根気強く交渉し、問題を王宮へと上げて法的対応を続けてきた。

 だが、案件が多過ぎることと、アブサラー家だけでなく、コークテラ家自体もゾン貴族社会の中ではけして重要な存在とは言えないため、なかなか本腰を入れての対応は得られなかった。


 我慢の日々が続いたコークテラ家が、不本意な形ではあってもこの戦いに士気高く臨めているのは、これまでの鬱憤晴らしの側面が強かったからだ。


 対するアブサラー軍の士気も高い。

 こちらは元々いざとなれば中央と事を構えるだけの気概があった。

 それがここにきて南部八貴族領の再統一の目が出てきたのだ。やる気という意味ではアブサラー家当主フスレウスの方が、現時点ではセキズデニンをも上回っているかもしれない。


 激しいぶつかり合いは当初互角の展開を見せた。

 だが形勢は次第にアブサラー軍に傾き始める。

 ヤヴルドガン軍に増援を送ってなお、戦力ではアブサラー軍がコークテラ軍を上回っていたことと、事あるに備えていたアブサラー軍の方が、軍としての質で上回っていたからだ。


 ヤヴルドガン軍と増援部隊がメヴィケント軍を一呑みに出来なかったことは誤算であったが、戦況は大幅に優位であり、総崩れも目前との報告も入っていた。

 戦況優位のアブサラー軍の後方で自ら指揮を執っていたフスレウスは気を良くし、このままの勢いでコークテラ軍の背後に控えるデニゾバ軍も撃破してくれようと意気込んでいた。


 崩れ始めはしたが、コークテラ軍は粘り強かった。

 既に自領に押し返されたこともあり、引いてもコークテラの領土が蹂躙されるだけなので、攻め込んでいた時の勢いとは違う危機感からくる必死さが戦いに現れていた。


 攻撃的な性格のわりに戦の進め方は意外にも堅実的な手を打つフスレウスは、攻撃の厚みを増すため、遊撃部隊を増援に送り出す決断を下した。

 そこに待ちに待った朗報が届く。


「メヴィケント軍壊滅。ヤヴルドガン軍はメヴィケントの主要都市をほぼ制圧しました」

 メヴィケント家当主ヒュセインの健闘もむなしく、メヴィケントはヤヴルドガン軍とアブサラー軍の同盟軍の攻撃により陥落した。

「領主のヒュセインはどうなった?」

「最後はかなりの混戦となり、手傷は負わせたようですが、部下に守られ落ち延びたようです」

「そうか」

 メヴィケントの息の根を止めたかったが、すべてが思い通りにいくわけではない。

 フスレウスは眉間に一本のしわを刻んだだけで報告を飲み込んだ。


「増援部隊は今どうしている?」

 代わりに現実的な問いを投げる。

「ヤヴルドガン軍五百と共に、コークテラ領西より侵攻したとのことです」

「五百も寄越したかっ! エルデームめ、無理をしおって」

 言いつつフスレウスは大きく表情を緩めた。眉間のしわもあっさりと消えてなくなる。

 メヴィケント軍を倒したとはいえ、全滅させたわけではない。領主のヒュセインも生きているとあれば、敗残兵をまとめて領地を奪い返しに来る可能性もある。

 増援部隊の半数でも戻ればと思っていたが、ヤヴルドガン家当主エルデームは逆にこれまでの礼とばかりに戦力を削って寄越したのであった。


 エルデームはフスレウスを実の兄のように慕っている。

 これまでアブサラーもヤヴルドガンも王家・中央貴族派によって不当に虐げられ、見下されてきた。

 両家はエルデームが幼少のころから頻繁に互いの家を行き来する仲であったこともあり、いつか見返してやろうと努力するフスレウスの姿をエルデームは見て来た。

 今回の戦いを南部八貴族領のみに留めず、中央の領地もいくらか奪い取ってやろうと考えるエルデームは、自身の野心とフスレウスの背中を押すために、援軍を出すことを決意したのだった。


 フスレウスとエルデームの本当の相手はセキズデニンだ。

 四領を治め、瞬く間に戦力を整えてみせたデニゾバとの戦力差は大きい。

 この戦力差を埋めるためには、両軍が攻め込んでいるコークテラとメヴィケントの領民を奴隷として狩り集め、歩兵として戦力を増強させる必要がある。

 デニゾバの後押しを受け、粘るコークテラで奴隷狩りを行うのは難しい。

 エルデームのメヴィケントでの働きが今後の戦況を左右する。

 自身の行動の重要性をしっかりと理解していたエルデームは、援軍を送って戦力が手薄になっていることもあり、必死になって奴隷狩りを行った。


 流れは完全にアブサラー・ヤヴルドガン同盟軍に傾いていた。

 両軍の大将が優位を確実視したその時、全く予想外の報告がアブサラー軍本陣に届いた。

 アブサラー領にある補給拠点としていた都市が、デニゾバ軍によって陥落させられたのだ。


 目の前にいるはずの敵がいきなり背後に現れる。

 報告を受けたフスレウスは始め、誤報だと思い、あまりにも愚かしい報告に怒声を上げた。

 参謀たちも何かを勘違いするにしてもほどがあると怒りを露にしたが、一人の参謀が報告に来た兵士を見知っており、補給拠点の守備兵であることを思い出すと青ざめた。

 参謀の口利きで改めて兵士から補給拠点がいかにして陥落したかが報告され、フスレウスも怒りで赤く染まっていた顔を青ざめさせた。


 セキズデニンはコークテラ軍を先兵としてアブサラー軍を攻めていると見せかけ、コークテラ領からヤヴルドガン軍によって既に攻め落とされて無人となっていたメヴィケント領を抜け、ヤヴルドガン領を掠めるようにしてアブサラー領へと攻め入ったのだ。


 メヴィケント家当主ヒュセインは、セキズデニンと同じ王家・中央貴族派だった。

 フスレウスの感覚では、セキズデニンとヒュセインは力の優劣こそあれ、同じ側に立つ者同士という認識だった。

 事実ヒュセインはセキズデニンを頼り、領民をデニゾバ領へと逃がすべく必死に抗戦していた。

 勝ち目はなくとも領民のために粘り強く戦うその姿勢に、これまでヒュセインを評価していなかったフスレウスは秘かに感心していたくらいだ。

 まさかそのヒュセインの奮戦を助けるどころか、逆に隠れ蓑にして奇策を用いるとは、剛直な性格のフスレウスには見抜くことが出来なかった。


 補給を断たれたことは厳しいが、それ以上に背後を取られたという事実に兵士たちが動揺してしまったことが、アブサラー軍の立て直しを難しくした。

 背後を取られるということは、いざという時の退路も断たれたことを意味する。

 加えて前方にコークテラ軍が展開している状況では、挟撃を受ける危険性が極めて高く、戦術的にも厳しい状況に追い込まれていた。


 ここで素早く転身するか、正面のコークテラ軍を撃破することが出来ていれば、アブサラー軍は持ち直し、戦況を五分に戻すことが出来ただろう。

 だが、浮足立ってしまったアブサラー軍の反応は鈍く、戻ることも進むことも難しい状況に陥ってしまった。


 フスレウスが並の将であれば一歩遅れて転身し、背後をコークテラ軍に噛みつかれて挟撃され、戦いは終わっていただろう。

 だがここでフスレウスは苦渋の決断を下した。

 攻め込まれたアブサラー領には戻らず、西に向けて軍を進ませてメヴィケント領へと入り、ヤヴルドガン軍と合流してみせたのだ。

 それはわずかな守備兵力だけを残したアブサラー領をデニゾバ軍の前にさらす行為であり、領地が蹂躙させるのを指をくわえて眺めることを意味する。


 ここで勝負が決まると予想していたセキズデニンは、領地を荒らされようとも戦力を残すという決断を下したフスレウスの思い切りの良さに素直に感心した。

 そして容赦なくアブサラー領を蹂躙する。


 その間にアブサラー軍とヤヴルドガン軍は攻め落としたメヴィケント領からヤヴルドガン領まで軍を戻した。

 攻略のため各拠点を破壊してしまったメヴィケント領では、デニゾバ軍を迎え撃つには砦などの防御力が低いからだ。


 アブサラー領の要衝を抑えたセキズデニンは、最後の詰めとしてヤヴルドガン領の攻略に動いた。

 いや、動こうとしたまさにその瞬間、予期せぬ凶報によってその足を止められることになった。

 ファティマ率いる奴隷解放組織による、デニゾバの新主要都市陥落の報である。


「残してきた治安部隊や参謀共は何をしていたのだっ!」

 デニゾバ領内で反乱が起きているなどと、今に至るまで一言も聞いていなかったセキズデニンが、珍しく激高して怒声を上げる。


「……治安部隊は敗れ、参謀方も都市陥落の際に行方不明となられました」

「ぐぬぅっ……」

 想像以上の被害に、セさすがのキズデニンも呻いたきり続く言葉が見つからなかった。


 セキズデニンの計算が狂い始めた――。









 部下に助けられ、命からがら逃げ延びたヒュセインのもとに、まるでとどめを刺すかのような情報が舞い込んだ。

 必死の思いで逃がした領民たちが、デニゾバ軍によって保護されるのではなく、奴隷として捕らわれたと知らされたのだ。


「……やはり、始めからメヴィケント家を滅ぼし、領民を奴隷とするつもりであったか」

 脇腹に深手を負っていたヒュセインが、肩を落として呟いた。

「卑劣な真似をっ! セキズデニンは恥を知らんのかっ!」

 ここまで一人奮戦し、主を守ってきたズュベイルが怒りを爆発させる。

 ヒュセインの周囲を守っていた十人にも満たない騎士たちも、怒りを露にする。


「他に落ち延びた兵士たちはどうなった?」

「確認は出来ておりませんが、戦線崩壊に際し、デニゾバ軍に庇護を求めるように指示しておりましたので、おそらく……」

 士官の一人だろう。

 ヒュセインと合流する前に領民に関する情報を得て来た騎士の一人が、ヒュセインの問いから同胞の運命を悟り、自身でも口にしたくない答えを返す。


「そうであろうな。すべては窮地に遭って判断を誤った私の責任だ。領民も兵士も、皆奴隷にしてしまった……」

「ヒュセイン様のせいではありませんっ!」

 叫んだズュベイルも、他の騎士たちも、必死で声をかけて励まそうとする。

 その声を手で制してヒュセインは立ち上がった。


「ここまで希望を断たれれば、逆に覚悟が決まる。お前たち、共に死んでくれっ!」

「喜んで、お供いたしますっ!」

 ヒュセインらしくない言葉に、ズュベイルは笑みすら浮かべて応えた。

 領主であること、メヴィケント家の当主であること。様々なしがらみに縛られるヒュセインは、実は自分の命すら自由には出来ない。

 責任を放棄すれば好き勝手なことをすることが出来るが、まっとうしようとすれば多くの場面で自分を押し殺さねばならない。

 ここまで忍耐強く戦ってきたのは、領主としての責任を果たすためだった。

 ここまで逃げ延びて来たのは、当主として、血を絶やさないためだった。

 ゾン人らしからぬ責任感が、これまでずっとヒュセインという男の本質を押し殺し続けて来た。


 これまでのヒュセインであれば、ズュベイルたちに対して自分を見限り落ち延びるように言っただろう。

 当主として、家の最後は己一人の責任で全うしようとしたはずだ。

 それはヒュセインの人柄からくる優しさであり、仕える騎士にとっては惨い言葉でしかない。

 そうと知っていても、ヒュセインはこれまで尽くしてくれた者たちが生きることを望んだだろう。


 だが、奴隷に希望はない。

 ヒュセインはこの時、一欠けらの希望も残されていないことを理解していた。

 ならばもういいではないかと思った。

 理性ではなく、本能を優先して行動してもいいと、自分に許した。


 もはや逃げることにも、生き延びることにも意味を見出せなかった。

 今の自分には、すべてを奪ったセキズデニンに復讐することなど不可能であることもわかっている。

 だから結果は一切考えない。

 命ある限り、デニゾバ兵を殺すことだけを望んだ。

 そして、その望みがズュベイルたちも同じであることをヒュセインは理解していた。


 主の決意にメヴィケント騎士たちは疲労の極にあるにもかかわらず、それまでの戦い以上に奮い立った。

 脇腹をきつく縛り上げたヒュセインは、それまで庇っていた傷を、もはや気にも留めていなかった。

 血を失い青白くなった顔の中で、その目だけが復讐にギラギラと輝き、一種異様な空気を纏う。


 何もかも失ったメヴィケント家当主は、自身に残された唯一のものである命を捨てるために、デニゾバ軍の下へと向かった――。









 ファティマ率いる奴隷解放組織の侵攻速度は、これまでのゾンにおける戦の常識をはるかに超えるものだった。


 短期間で見事に四領をまとめ上げてみせたセキズデニンは、必要最小限の治安兵力のみを残して、残る兵力はアブサラーを筆頭とした南部八貴族領の残る四領攻略のために出征していた。

 治安部隊の抱えている兵力は確かに少なかったが、それでも正しく対応出来ていれば、奴隷解放組織の侵攻をいくらか食い止め、致命的なまでの侵攻を受ける前にセキズデニンからの援軍を受けることが出来たのだが、失態を隠そうとした治安部隊責任者を含めた側近たちの独断により、治安部隊はその兵力を的確に運用する前に各個撃破され、奴隷解放組織の侵攻を阻むどころか、むしろ手助けする結果となっていた。


 かつて四つの領地に分かれていた新デニゾバ領は広大で、まだ各地に無傷の治安部隊もあったが、態勢を整えて以降の奴隷解放組織はデニゾバ領を真っ二つに切り裂くように中央突破を図ったため、領地の東西に配置されていた部隊は相互の連絡手段が断たれてしまったことと、中核となるべき主要部隊が既に倒されてしまっていたこともあり、組織立って動くことが出来ず、遊兵と化してしまったこともファティマたちの侵攻に拍車をかける結果となった。


 旧キャブディル領の主要都市で、現デニゾバ領の主要都市でもあるディスタスを攻め落としたファティマは、デニゾバの行政の中心である各施設の襲撃をボラに任せると、自身はディスタスのもう一つの主要施設である奴隷市場へと襲撃をかけた。


 ナルバンタラーとサーヴェリラの領民を奴隷化して各地に再配置して新領内の安定を確かなものとしたセキズデニンは、それでもまだ余った余剰人員を、自由に取引する許可を出していた。

 奴隷こそがゾン経済の基礎であることは、デニゾバも同じだ。

 経済活動の停滞は、血流が止まるのと同じで、経済圏の生命線にかかわる。

 それはどれほど戦力を増強しようと、解決出来る問題ではない。

 残る四領を併合した後の経済回復のためにも、セキズデニンはぬかりなく手をまわしていた。


 ディスタスには新たに奴隷となった者たちではなく、セキズデニンが四領を支配する以前から奴隷だった者たちが集められていた。

 人同士のつながりを切るために、特にナルバンタラーとサーヴェリラでは人の移動が行われたのだが、そうなるとその土地に元々いた奴隷たちを出す必要があった。

 ナルバンタラーに新たに加わった奴隷は、元ナルバンタラーの領民だ。

 元々奴隷だった者たちにとってはこれまで自分たちを虐げて来た者たちということになる。

 直接ではなくとも、これまで自分たちを虐げて来た立場の者たちを、同じ奴隷と受け入れたりはしない。

 積年の恨みをぶつけるのは確実であり、せっかく手に入れた奴隷を、そんな理由で無駄にするつもりはないので、セキズデニンは元々奴隷だった者たちをディスタスに集めたのだ。


 ハムザを筆頭としたセキズデニン配下の有能な側近たちがいたにもかかわらず、情報伝達はひどく滞り、警備兵が配置されていた奴隷市場は混乱のまま組織立った反撃も出来ないうちに制圧された。

 ファティマは奴隷たちを繋ぎ止めている枷を外す鍵を手に入れると、自ら奴隷たちの解放に奔走した。

 大多数の奴隷たちが状況を上手く呑み込めないまま解放されていった。

 絶望があまりに深過ぎたため、幸運の受け入れ方がわからなかったのだ。


 一人の奴隷がようやく自分の上に舞い降りた幸運の意味を理解すると、その場にひざまずき、ファティマを崇めた。

 するとその周りにいた奴隷たちが次々とひざまずき、同じようにファティマを崇めだした。

 崇められるなどファティマの本意ではないのだが、今はそれを一人一人に伝えているような余裕はない。

 ファティマは解放された奴隷たちが興奮して場を混乱させることを避けるために、一度解放の手を止めると、胸を張ってひざまずく人々に向き合い、ただ右手を高く掲げた。


 戦士としての厳しい気配とは相容れないその美しい面差しが、人々に人ならざるものを感じさせ、その存在感をさらに際立たせた。

 そして人々は再び奴隷たちの枷を解いていくファティマを、特別な思いで見つめ続けた。


「聖女様……」

 誰かが呟いた。

 そして呟きは瞬く間に広がる。


「まいったな」

 強く言ってやめさせるというわけにもいかないので、ファティマはひたすら気恥ずかしさに耐えるしかなかった。

 

 心境は複雑であったが、それ以上に人々を枷から解き放ちたいという思いが強かったファティマは、その後も手を止めず、鍵束を操って人々を解放していった。

 どれくらいの時間が経っただろうか。

 一心不乱に枷を外していたファティマの時間の感覚は既になくなっていた。

 そしてついに最後の一人と思っていた奴隷の枷を外し、ファティマは周囲を見回した。


 そこでまだ解放されていない奴隷を見つける。

 まるで影の中に落ち込んだように座り込んでいたその奴隷と目が合った瞬間、ファティマは背中を冷たい感覚が走り抜けるのを感じた。

 一瞬棒立ちになったファティマであったが、すぐに気を取り直してその奴隷の下へと駆け寄った。


「もう大丈夫です。今、枷を外します」

 近づいてその目をのぞき込んでようやく理解した。

 その目には底の見えない断崖の淵から闇をのぞき込むかのような虚無があった。

 絶望の果てに心をなくす者を多く見て来たファティマにとって、その目はある意味見慣れてしまっているものであった。

 だがその虚無が見せかけのものであることを、ファティマは見抜いた。

 その目の奥では無限に燃え続けるかのような怒りの炎が、静かに燃えていた。


(強いっ!)


 痩せ衰えて骨と皮ばかりになってしまったその肉体には、ファティマに危害を加えられるような力は存在しない。

 だがそれでも内に秘めた怒りの大きさだけで、ファティマの背筋に冷たい汗を流させるだけの強さがあった。


 いったいどれほど惨い目に遭ってきたのだろうか。

 これまで見て来た多くの奴隷たちの誰よりも、その内に秘められた怒りは大きかった。

 普通は怒りが大きく育つ前に、それを抱える心の方が壊れてしまう。

 だが目の前の奴隷は心を壊すことなく怒りを抱え続け、それどころか心の内にあるものを隠すために偽りの絶望まで纏っている。

 いつ解放されるのか、そもそも解放されるのかすらわからない。

 むしろ一生を奴隷で過ごす者がほとんどである状況下で、自分を保ち、解放の時を待ち続けたその精神力は尋常ではなかった。


 ファティマの中に迷いが生まれる。


 この者を解き放っていいのかと――。


 この者が抱える怒りが、解放されることでなくなるという保証はない。

 むしろ怒りのままに他者を傷つけるだろう。

 

 理性の一部がこのままにすべきだと訴える。

 だが別の部分では、罪人として枷をはめられているわけではない者を、憶測から縛り続けることの罪を訴える。

 逡巡はわずかの間。

 ファティマは自力ではもはや持ち上げるのも辛そうな奴隷の大きな枷を持ち上げると、鍵を差し込み回した。

 それまで暗い穴のように何も映していなかった奴隷の目に、微かに驚きが浮かぶ。


 手と足の枷から解放された奴隷は、一瞬の迷いもなく立ち上がった。

 だがその手足は枷から解放されても疲労と衰弱からは解き放たれてはおらず、ひどく震えていた。

 立ち上がった奴隷は女性としてはかなりの長身であるファティマよりもさらに頭一つ分背が高かった。

 手足は萎え衰えようと、胸を張り、背筋を伸ばそうとする意志が、その奴隷をさらに大きく見せている。


 二人の視線が交差する。


 そこには感謝はなく、変わらず怒りの炎が燃え続けていたが、それまでその目を覆っていた虚無はなくなっていた。


 何かが違うと感じた。

 顔は幾度も骨折を繰り返したのだろう。鼻はよじれたように折れ曲がっており、顎も変形しているため元の人種を推定するのが難しかったが、違和感はそんなことではなかった。

 瞳の色が違うのだ。


 カーシュナーのような目も覚めるような鮮やかな緑とは違い、ファティマと同じ黒い瞳をしているのだが、その黒さが違った。

 その違いに気がつくと、垢と埃で頭に絡みついたごみのように見えるその頭髪の黒さにも、違和感があることに気がついた。


 目の前の奴隷は渡来人だったのだ。


 渡来人を見つけたら保護してほしいというカーシュナーの頼みを瞬時に思い出したファティマが、声を掛けようとしたとき、先に奴隷が口を開いた。


「感謝はしない。そしてお前たちを許しもしない」


 その言葉は、ファティマの耳には意味をなさない音として届いた。

 ゾン独自の言語でもなければ、大陸の共通言語である簡易ベルデ語でもなかった。

 意味は理解出来なかったが、その響きにはどこか古めかしく感じるものがあった。

 だが、ファティマに理解出来たのはそれだけだった。


 謎の言葉を発したその奴隷は、驚くファティマを置いて奴隷市場の出口へと向かった。

 咄嗟に保護を呼びかけようとしたファティマであったが、その背に刻まれた鞭打ちで出来たであろう無数の傷跡が語る無言の拒絶の前に、言葉は生まれる前に飲み込まれた。


 その足取りは覚束ない。

 枷はなくなったが、萎え衰えたその足には、前へと進む力がほとんど残されていない。

 その背中が語る拒絶は雄弁だったが、ファティマはそれを無視して奴隷に近づいた。そして自身が纏っていた外套をその背に掛けてやる。

 睨みつけてくる目を無視して、腰に結わえ付けていた食料と水の入った革袋もその手に押し付ける。

 一瞬拒絶の気配が膨れ上がったが、与えられた物のどれもが今の自分には必要なものであると認めた奴隷は、突き返さずに受け取った。


「感謝はしない」


 再び先ほどと同じ謎の言葉を残して、奴隷はゆっくりと、だがけして振り向くことはない足取りで去っていった。


 出会いと呼ぶにはあまりにも短く、何一つ交わることのなかった邂逅が、後の自分にどのようにかかわってくるのかを、この時のファティマには知る術はなかった――。

 16時ごろにその4を投稿します。

 引き続きお読みいただけましたら幸いです。

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