混沌を加速させる者たち
一月以上も空いてしまい申し訳ありませんでした。
なかなか一気に書く時間が取れなくて、思った以上に進みませんでした。
そのせいか、内容も薄い気がしますが、状況を動かす人々を久しぶりに書くことが出来たので、南波個人としては非常に気に入っている回となりました。
能書きはこのくらいにしておきます。
じゃないとまた愚痴だらけになってしまいますので(苦笑)
それではヴォオス戦記の本編をどうぞ!
セキズデニンによって支配されることになった南部八貴族領の内の四領は、領内の整備が急速に行われていた。
デニゾバ領民とキャヴディル領民を中心とした新領地の領民に加え、対キャヴディル戦において結果を出したナルバンタラー軍元兵士を正式にデニゾバ軍に加えたことで、領内の経済網と軍組織は大きく充実した。
個人事業と領地分割が見直され、ナルバンタラーの元領民とサーヴェリラの元領民たちが奴隷の身分に堕とされたことで領民の数と奴隷の数の均衡がとれるようになり、区画整理などでかなり強引な手段がとられたが、新しいデニゾバで領民となった者たちは素直にセキズデニンの手腕を敬い、忠誠を誓った。
不満が大きくくすぶったのはナルバンタラーの反乱奴隷たちだった。
奴隷の身分からは確かに解放された。
だがその辿り着いた先は、奴隷と大差のない搾取される立場だった。
働きに応じて土地を割り振られた元デニゾバ領民と元キャヴディル領民の下に小作人として置かれた彼らは、借家で暮らし、借地を耕し、結局自分自身以外は何も持てない立場に甘んじるしかなかった。
鎖からは解き放たれたが、賃料と租税につながれた彼らは、相も変わらず他人の利益のためにあくせく働くだけの日々を過ごすことになった。
セキズデニンの密偵であるオメルによって反乱をそそのかされ、ファティマたちが掲げた奴隷解放とは全く異なる、思想ですらない不満と願望の混合物を喚き散らして同じ奴隷たちを戦場に連れ出し、支払うことの出来ない希望を手形として切ってしまった一部の者たちは、約束が違うとセキズデニンに訴えた。
セキズデニンと話が出来ると考えている時点で認識が甘過ぎるのだが、セキズデニンは問答無用で捕らえることも、部下に門前払いさせることもせず、彼らに自分に直接不満を訴える機会を与えた。
すべての話を無言で聞いていたセキズデニンは、その圧力によって相手が口を閉ざすと冷たく笑い、衛兵の一人に告げ、全員の処刑を命じた。
当然の権利を主張したつもりでいた彼らは、いきなり殺されることになり、真っ青になって慌てふためいた。
その姿にセキズデニンの冷たい笑みが嗜虐に染まる。
自分がちらつかせた餌に飛びつき、それが与えられないと知って怒り、最後にすべてを奪われることになると知った彼らの顔を見るために、セキズデニンは彼らに陳情の場を与えたのだ。
新たな怒りと恐怖、一度は克服したはずの絶望に再び囚われた彼らを、セキズデニンはせせら笑った。
セキズデニンは他の貴族のように奴隷を家畜とみなしてはいない。
自分と同じように感情を持ち、考える力を持つ人間であるとみなしている。
だから面白いのだ。
愚かしく踊る彼らが――。
絶望に打ち沈む彼らが――。
他人を操り、その喜びも絶望も意のままに操る全能感が、快感となって身の内側を巡るのだ。
絶望を絞り出した時点で、セキズデニンにとって彼らはもはや何の価値もないものでしかなかった。
処刑を命じはしたが、その結果に興味はまるでない。
セキズデニンの嗜虐性は肉体的なものよりも、精神的な部分に多く割り振られており、血を見て興奮するということはないので、わざわざ処刑に立ち会って価値ある自分の時間を浪費するような愚かな真似はしない。
そこで腹心の部下であるハムザが口を開く。
旧キャヴディル領にある金鉱山で鉱山奴隷が不足しているという事実を告げる。
再び冷たく笑ったセキズデニンは処刑を取り止め、元奴隷たちを今度は罪人として強制労働に送り出した。
死よりも辛いと言われる鉱山での強制労働に、先ほど以上の絶望に満ちた背中を見せる男たちを見て、セキズデニンはついに堪え切れなくなって声を上げた笑った。
ナルバンタラーの地で小作人となった元奴隷たちのもとに、自分たちを率いた男たちの末路が伝わると、不満の声は聴かれなくなった。
元奴隷たちは理不尽な暴力がなくなっただけマシと自分たちを慰め、搾取される日々を受け入れた。
セキズデニンの勝利により、多くのものを得た者たちがいたが、大半はそれよりも悲惨な人生へと転がり落ちた。
だがそれがゾンにおける日常であり、新デニゾバ領はある意味日常を取り戻したと言えた――。
◆
そこはゾン貴族の館の中でも最上級に位置する煌びやかな建物だった。
冬の季節の王都エディルマティヤは、季節の恵みと大河アスイーからもたらされる涼によって、一年の内でもっとも快適な夜を過ごすことが出来る。
日が傾けば一日の仕事を終えた平民たちが屋外に設置した長椅子に並び、涼と果実酒を楽しむ姿がそこかしこで見られる。
奴隷不足と東部貴族との緊張で例年ほどの活気と余裕はうかがえないものの、それでも人々はまだ、人生を楽しむだけの気持ちは持ち合わせていた。
平民たちと同じように、アスイー河を渡って辿り着いた肌をなでる涼風を、館の主は露台に据えられた長椅子で、平民たちと同じ様に果実酒を片手に楽しんでいた。
違うのは物理的にも階級的にもはるかに高い位置から、平民にはその存在すらも知られていない高級果実酒で喉を潤し、一日の労働に対する自分自身へのねぎらいを楽しむ人々を、労働とは無縁の柔らかい自身の腕を枕に無感動に眺めているところだろう。
「この短期間に三領。思っていたより仕事が出来る男だったみたい。それとも、配下に優秀な人材でもいたのかしら? その可能性の方が高そうね」
館の主は独り言のように呟いたが、その背後には長身の南方民族の女戦士が彫像のように身動き一つせずに控えており、その首には拳闘奴隷が身に着けるような首輪がはめられている。
返事を求められていないとわかっている女戦士は言葉は返さなかったが、関心が夜景を眺めることから自分へと向いたことを悟り口を開く。
「パラセネム様。王宮に放っている密偵から知らせが入りました。この度の南部動乱に対して、メティルイゼット王子が混乱鎮圧のための派兵を国王陛下に進言したそうです」
ゾン国一の美女との呼び声も高いシセクダーギ家の未亡人であるパラセネムは、報告を受けると絹糸のような光沢と滑らかさを持つ髪を指に巻き付け、思索にふけった。
「相変わらず気忙しい男ね。もう少し性格にゆとりがあれば、ザバッシュ将軍ともここまで関係がこじれることもなかったでしょうに」
パラセネムはため息とともに自国の王子を酷評した。
「今回の動き、あなたはどう見ているの、クラリサ?」
そして背後に立つ女戦士に問いかける。
「常識的なものだと考えます」
「あの王子に常識なんてあったかしら?」
クラリサの返答に、パラセネムが皮肉な笑みを浮かべる。
「貴族同士の私闘は禁止されています。むしろここまで放置した国王陛下の対応が異例なのであって、これを正そうとするメティルイゼット王子の進言は常識的なものです。むしろセキズデニン様が挙兵した時点で他の廷臣たちが、事態を傍観する国王陛下を諫めるべきで、今回のメティルイゼット王子の行動は、何もしようとしたない周囲の者たちに愛想をつかしての行動と思われます」
「まあ、そうね」
形としては自分の意見を退けられたパラセネムであったが、その口調は明らかにクラリサとの会話を楽しんでいた。
「でも、それだけかしら?」
明確に何をと問わないパラセネムの意図を、クラリサは過たず汲み取る。
「南部の混乱鎮圧と見せて、そのまま南部を平定してしまうおつもりなのではないでしょうか。セキズデニン様がまとめられた戦力をそのまま吸収すれば、戦力が拮抗して戦況が動かせなくなっている東部貴族との関係も一気に変えることが出来ます」
「そうね」
パラセネムはクラリサの意見が自分の考えと一致していることに満足気に微笑んだ。
「<神速>とまで言われる王子の戦術眼には、おそらく今回の進言の裏には東部貴族の討伐まで見えているのでしょうね」
そう言うとパラセネムの視線は、夕闇の中で早くも煌々と光を放っている王宮に向けられた。
「宮中にもう一人、同じ視点を持つ者がいれば、あの王子はその才能を開花させられたかもしれないけれど、他人の足を引っ張ることしか能のない愚か者たちの中で、才能を見せ過ぎればどうなるかがわからない時点でそこまでの男だったということ。そのことに周りも、本人も気づいていない」
パラセネムは冷笑を浮かべると、視線を王宮から戻す。
「ゾンという国にとっては不幸な出来事なのでしょうけど、私の目には出来の悪い喜劇にしか映らないわ」
外した視線を再び王宮に戻すと、パラセネムは声をあげて笑った。
「私はどうすればいいかしら、クラリサ?」
嘲笑を治めると、パラセネムは問いかけた。
「動き出せばメティルイゼット王子の行動力から、最後にはご自身の思い通りにされるでしょう。そうなればゾン貴族全体の力が最も弱まった状況でメティルイゼット王子のゾン再統一が成されます。悪政を敷くとは思えませんが、厳しく隙のない統治をなさるでしょう。そうなってからではこちらは動くに動けなくなります。武力でメティルイゼット王子を攻略するのは不可能。行動させないことが最善かと思われます」
クラリサは言葉を省略したが、その見通しの中で、力を得たメティルイゼット王子が父親である現国王を排除すると確信している。
そのことにパラセネムは気づいていた。
「<神速>も、止まっていてはその力は発揮出来ない。あなたの言う通り、行動させなければいい。しばらく忙しくなりそうね」
そう言うとパラセネムは手にした酒杯から果実酒を一気に飲み干し、夕涼みを早々に切り上げた。
翌日、宰相ヤズベッシュを筆頭としたゾン中央貴族の主だった者たちが、北のルオ・リシタ国の動向を危険視し、派兵を進言した。
これを受け、国王アリラヒムはルオ・リシタ国との国境線の防衛強化を決め、同時に不穏な動きを見せる西方諸国牽制も含めた任務を、王子にして将軍でもあるメティルイゼットに命じた。
自身の進言を別命を授けることで拒否した国王に対し、メティルイゼット王子はその内心を微塵も表ににじませることなく拝命し、王都を発った。
パラセネムが行ったことは、単に貴族たちの不安を煽る流言を流しただけだった。
セキズデニンは既に東部貴族と盟約を結んでおり、メティルイゼット王子が南部に軍を派兵した隙に中央攻めに出るつもりであること。
ルオ・リシタのゾン侵攻が秘かに計画されていること。
隣接する西方諸国が結託し、ゾン侵攻を目論んでいること。
どの噂もないと断言出来ないきな臭さを纏っていたが、結局は国王と中央貴族の臆病さがメティルイゼット王子の手足を縛ることになった。
この結果にパラセネムは満足していた。
だが自分が流した流言の中に真実が含まれていたことを、さすがのパラセネムも知る由もなかった――。
◆
前日に降った雪が早くも溶け出し、通りをぬかるみに変え、道行く人々が泥を撥ね散らかしていく。
人と同じように通りを行く荷馬たちが、ところかまわず糞尿を垂れ流すため、ぬかるみ全体が鼻が曲がりそうな悪臭を放っている。
そこはゾンと隣接する西方諸国の一つジャイラグルブ。
その王都ヤイフォスの大通りは、王都を大陸隊商路が通っているにもかかわらず、ゾンの地方都市にも劣る有様で、王宮へと続く大通りよりもむしろ、隊商路筋の方がはるかに清潔で見栄えよく保たれている。
「臭い」
女性が持つ美とは異なる男性の美を具現化したかのような美しい相貌を不快気に歪めながら、その男は言った。
「まだ慣れないの、アデちゃん?」
通りから染み込んでくる悪臭に対してすでに鼻が麻痺している年齢不詳の男がニヤニヤ笑いを向ける。
鼻の上に不快感を表すしわを作っているのは傭兵のアデルラールで、その様子を見てニヤニヤしているのがアデルラールの雇い主であるジェウデトだった。
ジェウデトは本業である密偵の仕事を放り出して西方諸国を対ゾンに向けて扇動している最中で、アデルラールはその護衛としてジェウデトに従っている。
「隊商路の方に行けばいいだろう」
ゾンなどの砂漠地帯を行き来する旅人は目元以外は布を巻き、焼けつくような日差しと砂塵から頭部を保護するが、アデルラールは砂漠地帯以外でも頭と口元を布で覆っている。
ジェウデトに文句を言いながら、さらにもう一枚口元に布を巻き付けたアデルラールの言葉は不明瞭になったが、ジェウデトは抗議の言葉を聞き違えることはなった。
「あっちじゃ目立ち過ぎるからね。悪いけど我慢して」
雇い主というより息子に甘すぎる父親のような口調でジェウデトはなだめた。
今いる酒場は昼間食堂として店を開けているごくありふれた酒場で、お世辞にも清潔とは言い難いが、狭いおかげでジェウデトとアデルラールが陣取る席からは、入り口はもちろん酒場全体が見渡せるので、密偵などが近づけないという利点があった。
ここヤイフォスは、直接ゾンと境を接するジャイラグルブ国の王都ということもあり、さまざまな国の密偵が跳梁跋扈しており、さすがのジェウデトも油断の出来ない都市だった。
もっとも、ジェウデトが真に警戒しているのはカーシュナーが放っている優秀な密偵たちであり、同僚のゾン暗部の密偵や地元ジャイラグルブの密偵、西方諸国の国々が放った質の劣る密偵などは歯牙にもかけていない。
現状カーシュナーに対して何かを仕掛けるという腹積もりはないが、ジェウデトは自分の影にカーシュナーの手が触れることをはっきりと警戒していた。
そこに根拠はない。だが、一度掴まれたらカーシュナーの視界から外れることは出来ないだろうと、ジェウデトは確信している。
(だから面白いんだけどね)
内心の言葉を表に出さず、ただニヤニヤ笑うジェウデトを、アデルラールは冷たい目で眺めた。
「本当にこんな小国がゾンに噛みつくのか?」
ジェウデトの手腕を微塵も疑ってはいないアデルラールではあったが、国力の差があり過ぎてジャイラグルブがゾン軍と事を構える絵がどうしても想像出来ず、疑いの目を向ける。
「ジャイラグルブ一国で歯向かうわけじゃないよ」
アデルラールの疑いの目を、ジェウデトは軽く肩をすくめるだけでかわしてみせる。
ゾンとジャイラグルブは大陸隊商路によって縫い付けられるように隣接しているが、西方諸国として一括りにされている小国群の中で、アルタク国、ジュムフ国という二国もゾンと国境を接している。
他にもルオ・リシタ国が一部国境を接しているが、ジェウデトがこれまで動き回っていたのは西方諸国とゾン北西部で、ルオ・リシタには一歩も踏み入れていないことは、護衛という名目で引きずり回されているアデルラールはよく知っている。
ジャイラグルブが一国では動けないのはアデルラールが疑った通りで、これを動かそうとすれば、必然的にアルタク、ジュムフを巻き込むしかない。
「アルタクか?」
推理を働かせてアデルラールが訪ねる。
アルタクは地形的に見てジャイラグルブの南隣の国になる。ジュムフはそのアルタクを間に挟んでさらに南に位置するので、連携を考えればアルタクが妥当なのだ。
「いや、ジュムフも動くよ」
アデルラールの思考を完全に読み切り、ジェウデトは応えた。
「……後方支援か」
ジュムフはアルタクと違い地形が特殊で、ゾンへ直接大軍を進軍させるのが難しい。そのおかげで逆にゾンから侵略されずに済んでいるのでジュムフにとってはむしろ利点と言えるのだが、その地形的特性からアデルラールはジュムフが食料などの物資の支援という形で参戦すると読んだのだ。
「それも違う。ジュムフ軍も全軍が戦力として参加する」
「馬鹿を言うな。ジュムフとゾンの間には極端に水源の乏しい砂漠がある。軍を進めようと思ったら、その何倍もの糧食部隊を用意して水を運ばなければ不可能だ。ゾンの国力ならばまだしも、ジュムフ程度の国にそれほどの軍費が賄えるわけがない。砂漠を抜けたところで金欠になって終わりだ」
アデルラールがつまらない冗談はよせとばかりに首を横に振った。
「砂漠は通らない」
「じゃあ、北に迂回してアルタクを通り抜けるとでもいうつもりか?」
アデルラールが鼻で笑う。
アルタクはジュムフとの国境線に設けた関所で、ジュムフから運び込まれる商品に高い関税を課している。
地形的に西方諸国の他の国々に渡ろうとするとジュムフの商人はアルタクを通らなくてはならず、西方諸国の他の国々の商品もアルタクを経由して辿り着くため、結果その価格は関税のため他の国々の数倍の価格でジュムフ国内に出回ることになる。
地形的不利を利用し、アルタクはジュムフから多くの利益を吸い上げている。
必然的に両国の関係は悪く、戦争状態に突入しないのは、ジュムフとゾンとの境となっている砂漠に一本だけ存在している交易路から主要な輸出品がゾンへと流れているため生じる摩擦が少ないからに過ぎない。
アデルラールはその事実から絶対にないこととして口にしたのだ。
「…………」
それに対してジェウデトは顔中に広がる笑みを浮かべて無言を通す。
「……おい、まさか!」
「そのまさか」
無言の意味を察したアデルラールが珍しく驚きを表すと、ジェウデトはニヤニヤと笑った。
「どんな手を使ったっ!」
ジュムフ軍にアルタク国内を通過させるという常識ではありえない軍事行動を可能にしてみせたジェウデトに、普段どこまでもジェウデトに無関心なアデルラールが問い質す。
「アデちゃんは一つ思い違いをしている」
ジェウデトが指を一本立てて振って見せる。嫌味でやっているわけでもないのに絶妙にイライラさせるのは、ジェウデトの性としか言いようがない。
その指をアデルラールがガッと握り、関節を逆方向にねじる。
「痛いからっ! 折れちゃうからっ!」
「イライラさせるな」
関節をさらにぐりぐりと痛めつけてから、アデルラールはジェウデトを開放する。
「……ゾンは西方諸国から比べると逆らいようがないほどの大国かもしれないけど、今相手にしなきゃいけないのは大国全体じゃない」
その説明でアデルラールもジェウデトの言わんとしていることを理解する。
「ことを構えるとして、相手取るのは王国軍と中央貴族の私兵だけということか。だがそれでもジャイラグラブや他の二国にとっては荷が重過ぎるだろう」
ゾン軍はその戦力を王都エディルマティヤのある中央に集中させている。
東部貴族や南部貴族の戦力がなくても、西方諸国の国が三国束になったところで上回ることは出来ない。
隣国ヴォオスを攻め込んだ三国同時侵攻とは桁が違うのだ。
「確かに数字だけを見ればそうなるけど、中央はその戦力すべてを西方諸国に振り分けることは出来ない。そんなことをすれば東部貴族に一気に攻め込まれて、王都をぶんどられちゃうからね。半分の戦力も振り分けられない。南部も混沌としている以上万が一に備えておかないわけにもいかない」
「そうなると、一万も動かせないか」
頭の中でおおよそのゾン軍戦力を計算し、アデルラールが頭の中の地図に配置する。
「ルオ・リシタ国への警戒も怠れない。クライツベルヘン家のお坊ちゃんがルオ・リシタを荒らしてくれたからね。攻め込むだけの余裕がルオ・リシタにないとしても、元々中の悪いゾンは無視することが出来ない。メティルイゼット王子であれば無視出来るかもしれないけど、中央北部の貴族たちが大騒ぎしてそれを許さない。西方諸国の動きに対して割ける戦力は、良くて半数の五千。ルオ・リシタに対する長年の警戒心と恐怖を計算に入れれば、実質動かせるのは三千から四千だろうね」
ジェウデトの読みに、アデルラールが鼻で笑う。
臆病で見栄っ張りの貴族たちが、自分の手で自分の首を絞めていることに呆れたのだ。
「まあ、それだけでそそのかすのは無理なんだけどね」
「そのうえで上手くそそのかしたということか」
ここまで状況を説明しておいてそれをあっさり否定したジェウデトに対して、アデルラールも全く動じない。
相手が弱みを見せれば噛みついていくのは当たり前のことだが、それだけで長年不仲の国同士をつなげることは難しい。
ジュムフには長年の恨みをわき押しやらせ、アルタクには他国軍を無防備に自国内へと招じ入れるという恐怖を脇に押しやらせるだけの餌が必要なのだ。
「それぞれの王家の特徴とか、有力者の性格とか、その辺はこれまでお仕事として真面目に調べてきたからね。担ぎ出すのはお手のもんだよ」
ジェウデトは簡単に言っているが、ゾンの他の密偵では、いかに小国といえどもジェウデトと同じことは出来ないとアデルラールは知っていた。
「いよいよゾンを支配する気になったのか?」
アデルラールが黒曜石のように美しい瞳に鋭い光を宿らせる。
「そんなくそつまんないことするわけないでしょ。それにこんな程度の国が多少寄ったところでゾン正規軍は突破出来ないよ。たとえ数で上回ってもね」
ジェウデトは皮肉な笑みを浮かべた。
「じゃあ、何のために国を三つも動かしているんだ? それなりの金と労力までかけて」
「それこそ楽しむためさ。贅沢に暮らすだけなら金はもう十分にある。でもそこに価値なんてない」
アデルラールの問いに対して、ジェウデトは野心的なゾン人全員が歯ぎしりしそうなことを平気で言い放った。
「変に膠着していた状況が、せっかく大きく揺れだしたんだから、これを後押ししない手はないないでしょ。クライツベルヘン家の坊やの大き過ぎる計画がまとまり始めた。世界の流れに世の中のぼんくらどもが気づいたときには、ゾン人だけじゃなく、大陸中が慌てふためくことになる。その様を早く見たいのさ」
「それで、最後に全部を台無しにするつもりなんだろ?」
「その通り。その時の坊やの顔を想像するだけで、おじさんは頑張れるのです」
「度し難い変態だな」
アデルラールが心底からのため息をつく。
「お褒めにあずかり光栄です」
それに対してジェウデトは、ニヤニヤと笑うだけだった――。
◆
セキズデニンによる電光石火の侵攻により、デニゾバ領はその版図を四倍に広げ、ゾン南部は混乱から一転、緊張状態からくる静けさに支配されていた。
南部八貴族領の残る四領であるアブサラー、ヤヴルドガン、メヴィケント、コークテラは、他の三領の動静をうかがっている間にデニゾバが急激な勢力拡大を成し遂げてしまったため動くに動けなくなってしまい、守りを固めてひたすら次の動きを待っている。
冬枯れの草原を焼く野火のように広がっていた奴隷の反乱も、平民と奴隷の立場が入れ替わったことにより下火となり、デニゾバのみならず、南部八貴族領内で明確な反乱の動きは見られていない。
五人となった領主たちばかりでなく、民衆の関心も完全に次の軍事行動へと向けられ、誰もが息をひそめて先行きをうかがっている。
そんな人々の記憶から早くも忘れ去られた男たちが、旧キャヴディル領のとある金鉱山にいた。
セキズデニンによって放り込まれた元反乱奴隷たちだ。
彼らはセキズデニンの言葉を信じ、彼らなりに必死で戦った。
奴隷という人ならざる境遇から脱するために、それこそ死に物狂いで戦った。
奴隷は常に理不尽な暴力にさらされる。
痛みと恐怖は人を臆病にさせる。
奴隷の反乱は恐ろしい勢いで広がっていったが、動き出すまでが大変だった。
臆病で希望を持たない仲間たちを鼓舞し、恐怖で始めの一歩を踏み出せないでいる仲間たちの先頭を切って走る。
無秩序で無計画な暴徒と化して広がらないように私欲を抑えて統率し、ようやく仲間たちとともに奴隷の身から解放された。
だがその先に待っていたのは、奴隷とさほど大差のない小作人という人生だった。
自身の強い不満もあったが、仲間たちのため彼らはセキズデニンに抗議した。
その結果が今の境遇だ。
過酷な鉱山労働を、罪人として強制されている。
何故こうなってしまったのかと考える。
贅沢な暮らしがしたいと高望みしたわけではない。
その機会があれば迷わず飛びついただろうが、彼らが望んだのは意味もなく殴られることがなく、生きていける程度の食糧と水が日々得られる生活だった。
隣の国のヴォオスには、奴隷はいないと聞いた。
労働には対価があり、才覚次第で誰もがより良い暮らしを得られる機会がある。
奴隷の反乱の火付けとなった組織が伝えていたのは、奴隷であることの怒りや不満ではなく、ゾンも人が人らしく生きれる社会を目指すべきだという思想だった。
そんなものは、死にかけた奴隷が見た幻覚だと嗤った。
ありもしない夢を見るほど、奴隷であるということは辛い。
嗤いはしたが、それはもちろん可笑しかったからではない。
そんな夢、幻を、胸の内に抱いていては気が狂ってしまうからだ。
受け入れることを拒んだ夢物語が、頭の中を延々と巡る。
初めに耳にした奴隷解放組織の言葉の意味が今ようやく理解出来る。
奴隷制度があるからこの苦しみはなくならないのだ。
反乱は仲間のためでもあったが、何より自分のためだった。
一人ではどうすることも出来ない。
だから仲間を集めた。
仲間と戦った。
だがすべては自分自身を奴隷という地獄から解放するための行動だ。
代わりに別の誰かが奴隷になるとして、それが自分になんの関係がある?
自分が解放されるのなら知ったことではない。
いや、戦っている間はそんなことすら考えてはいなかった。
自分も奴隷を生み出す側の人間だったのだと、今になってようやく悟った。
支配する者だけが奴隷制度に加担しているわけではないのだ。
そして奴隷解放運動の本当の意味はそこにあった。
私欲のためだけに戦ってしまったことを後悔する。
あれは自由を勝ち取るための戦いなどではなかった。
奴隷制度という枠組みの中で、奴隷という軛を押し付けあうものでしかなった。
枠組みを外から眺める特権階級者にとっては何かが変わる戦いではない。
つるはしを持ち上げ、目の前の岩盤に振り下ろす。
つるはしの先端は小さな岩のかけらをこぼしただけで跳ね返された。
反動で手からつるはしが落ちる。
即座に飛んでくる見張りの怒声。
鋭い鞭の一撃が飛んでこないだけまだマシだが、すぐに作業に戻れなければ確実に鞭打たれるだろう。
意識が朦朧とする。
身体は意思に反して緩慢な動きしか返してくれない。
ようやく落としたつるはしを手に取る。
指の関節が曲がったままになってしまった手は、もはや握力を失い、つるはしを握ることも出来ない。
視界の隅に、怒りに顔を歪めた見張りが近づいてくる姿を捉える。
急いでつるはしを取り、立ち上がろうするが、限界を超えた身体はただ震えるだけで意思に従おうとはしなかった。
ここで死ぬのか。
殴り殺されるのか、過労で死ぬのかはわからないが、死ぬことだけは確かだ。
こんな死に方なのかと、他人事のように考える。
こんな命の使い方しか出来なかったことが情けなくて泣きたくなった。
だが枯れたその身体は、涙の一滴すらも自分の自由にはしてくれなかった。
影が震える自分の体を覆いつくす。
鞭が振り上げられるのを、ただ見ていることしか出来ない。
目は閉じずにいようと意地を張る。
せめて睨みつけてやりたかったが、力なく霞むその眼には、何の力もこもらない。
振り上げた手が止まる。
次に来る痛みを覚悟する。
だが痛みは身体を襲わず、心に衝撃がもたらされる。
鞭を振り上げた見張りの胸から剣先が現れたのだ。
その時になって初めて気がつく。
坑道内に喧騒が満ち、そこかしこから怒声と悲鳴が響いていた。
そこに見張りが漏らした苦悶の声が、自らの血に溺れるような音で加わる。
鉱山が襲撃されているのだ。
真横に見張りの体が倒れてくる。
背中から胸まで刺し貫かれた見張りは、倒れる前にこと切れていた。
今では身体から漏れ出してくる血が岩盤に広がり、見張りの身体を飲み込もうとしてる怪しい影のようになっている。
「生きていたか」
それまで見張りの立っていたところに、血を滴らせた曲刀をさげた男が現れる。松明の明かりで逆行となり、その人相は影に飲まれているが、その声には覚えがあった。
「……あんたは」
「セキズデニンに文句を言いに行って、鉱山送りにされたと聞いてな」
そう言うと男は手を差し出した。
震える弱々しい手を差し伸べると、男はその手を力強く握りしめ、引き立たせる。
「無茶をする」
そう言って苦笑いを浮かべた。
立った次の瞬間突き飛ばされる。
何事かと思う間もなく鉱山の警備兵の一人が斬りかかり、周囲が剣戟の渦に飲み込まれる。
「離れていろっ!」
身を打つ鞭より鋭い声に叩かれ、戦いの中から必死で這い出す。
先ほどまで言うことを聞こうとしてくれなかった身体が、生きる希望に活力を得たのか、何とか走ってくれる。
戦いの喧騒は激しく、そして短かった。
戦いは襲撃者側の圧勝だった。
「逃げたい奴は好きに逃げろ。俺たちは奴隷狩りに来たわけじゃないからな。行く当てがなくて、俺たちについてきたい奴も好きにしろ。ただし、俺たちのやり方に従えない奴は、秘密保持のために殺す。今すぐ腹を決めろ。警備兵は全滅させたが、遠からず巡回兵が来る。そうなれば鉱山が襲撃を受けたことは露見し、部隊が差し向けられる。捕まれば情報を聞き出すために拷問を受けて死ぬことになるぞ」
先ほど助けてくれた男が、呆然とする奴隷と犯罪者としてこの鉱山に送り込まれた男たちに選択を迫る。
男が背を向けると、奴隷と犯罪者たちは目が覚めたようにその背について歩き出す。
「まともに歩けない者たちに手を貸せっ!」
男はそう言いながら、先ほど助けた男の腕を取り、肩を貸す。
「さ、さっきはありがとう。あんたは命の恩人だ」
礼の言葉に対して、男は何も言わなかったが、応える代わりに肩をすくめたことが、借りた肩から伝わった。
「あんたは反乱の手助けをしてくれた人だよな」
「そうだ」
「いきなりいなくなっちまったから、どうしたのかと思ってた」
絶望の淵から救われた男は混乱と興奮のため、多弁になっていた。
「ほかにも支援が必要な奴隷たちが大勢いたからな。一つ所に留まっている余裕はなかった」
会話は体力を消耗させるが、今は興奮剤の役割を果たしてくれると考え、襲撃者の男は助けた男の質問に答えていた。
「そうだったのか。あんたは立派な人なんだな」
「そうでもない。助けたつもりがこんな結果になってしまった」
結果とは、助けられた男の無残な姿を指したものだった。
「これはあんたのせいじゃない。俺が馬鹿だったからだ」
「お前が愚かなのではない。セキズデニンが悪魔のように狡猾で邪悪なせいだ」
その言葉に、自分をこんな地獄に送り込んだ人でなしの顔が脳裏に浮かぶ。
「貴族の言葉を信じるなんてどうかしていた。奴らが俺たちなんかとの約束を守るはずがなかったんだ」
怒りは一瞬で嘆きに変わり、言葉が沈み込む。
「連中にしてみれば、奴隷も家畜も一緒だからな。そもそも約束したつもりもない。自分にとって最も有利な結果となるように事態を動かしただけだ。得をした奴らは約束が守られたと勝手に思うかもしれないが、セキズデニンはそもそも他人を利用するだけで、他人のために何かをするなどという発想を持っていない」
襲撃者の男の言葉は、助けられたとこの胸を抉った。
「俺は若い女が首領を務めているという奴隷解放組織の言葉を嗤った」
助けられた男が懺悔をするかのように言葉を紡ぐ。
「今まで俺たちを奴隷としてこき使い、殴ってきた連中が奴隷になって、代わりに俺たちが支配する側になれば、こんなに気分のいいことはないと思っていた。だから、奴隷制度そのものをなくそうという言葉の意味が理解出来ていなかった」
助けられた男がため息をつく。
「奴隷の苦しみは、奴隷としてすべてを奪われ、虐げられてきた者にしかわからない。その中で生まれた怒りも恨みもすべてはお前たちのものだ。他の誰にも、お前たちの思いを語る資格はない。怒りを忘れず、恨みを晴らす権利が、お前たちにはある」
予想外の言葉に、助けられた男は肩を貸してくれている男の横顔を食い入るように見つめた。
「理屈やきれい事だけでは人は動かん。奴隷解放組織の言葉がお前たちに届かなかったのは、無理もないことだ。だがあの女は、それで諦めるほど底の浅い覚悟で奴隷解放を口にしたわけじゃない。女の身で戦いの日々に身を投げ、今も戦っている。いつかその言葉で、ゾンの人々の心が動くことを信じている」
「今ならよくわかる。奴隷制度が存在する世の中じゃ、どんだけ戦っても、誰を倒しても、新しい奴隷が生まれるだけだって」
「そいつに気がつくのは難しいことだ。ことにゾンや西方諸国は経済の根底を奴隷労働で支えているからな。奴隷は必要悪であり、いて当たり前の存在だ。いない世界を想像することが出来ない」
男の言葉に、助けられた男は小さくうなずいた。
「もう一度戦いたい」
「何のために?」
肩を貸す男は、前を見つめたまま問いかける。
「奴隷制度を壊すために」
助けられた男は、自分自身の言葉に驚きつつも、自分の中で形にならないまま存在していた想いに、今初めて向き合えたことに気がつく。
「それこそが、本当の意味での解放だから」
向き合えば答えは一つしかないと理解出来る。
「くだらない死に方をするところだった。あんたのおかげで拾えた命だ。今度こそ意味のある使い方をしたい」
霞んで力のなかった眼に、今は確かな光が宿っている。
「そんな言葉が聞けるとはな。助けに来た甲斐があった」
そこで初めて襲撃者の男は笑みを浮かべた。
「もう一度戦うために、支援してほしい」
助けられた男は、もはや助けられるだけの男ではなくなっていた。
「支援しよう。だがその前に」
そこで襲撃者の男は言葉を切る。
助けられた男が次の言葉を待つ。
「そのボロボロの身体を治すことだ」
言われて男は苦笑した。
「今走り出しても、三歩も行かずに死ぬだけだ」
「まったくだ。反乱を起こす前の方がもう少し肉があった」
細かく震え、骨と皮ばかりの無残な己の手を見つめる。
「でもまだ生きてる」
「ああ、それこそが肝心だ」
男はしっかりとうなずくと、前を見た。
「もう一度戦える」
その言葉は、自分自身に向けられた言葉だった。
「今度こそ、意味のある生き方をしてみせる」
名もない奴隷のちっぽけな誓いを、その隣で聞いた男はけして笑わなかった。
セキズデニンの手腕によって鎮火された奴隷解放の戦いの炎が、今再び燃え上がる。
その炎の色は、頃までとは異なるものになるであろうと、心を奮い立たせる男の隣で、肩を貸す男は確信していた――。
次の話で何とか南部八貴族領の話をまとめたいと思っています。
なるべく早めに投稿出来るよう頑張りますので、次回もお付き合いいただければ幸いです。