西へ
炎上を続けるトカッド城塞を遠目に、ミデンブルク城塞兵は祝杯を上げていた。
五年前の大侵攻後に急造され、ヴォオスの南国境線の脅威となっていた目の上のコブがなくなったのだから、喜ぶのも無理はない。しかし、全員が気持ちのどこかに警戒心を持っている。
トカッド城塞の陥落は、上から下まで、すべての将兵の油断が最大の原因だったからだ。ここで万が一にもザバッシュ将軍が兵を引き返してミデンブルク城塞を攻撃し、陥落するような事態に至れば、この場にいる全員が、ヴォオスとゾンの両国で、歴史上稀に見る愚か者として笑われることになる。
ザバッシュ将軍は、自身のメティルイゼット王子に対する根深い反感を利用され、戦力に余裕がある内に自身の領地へと撤退しただけで、戦いに敗れたわけではない。奴隷を中心とした歩兵こそ失いはしたが、それでもまだ十分戦えるだけの正規兵力を保持していたからだ。
ミデンブルク城塞を覆ていた真っ黒な煤は、雪と風に拭われ、あらかたなくなっていた。もっとも、城壁の下などには、真っ黒な雪が溜まっている。
炎に呑まれたはずの城塞は、再建時に設けられた特殊な構造の煙突を抜けて噴き上がった炎で、実際にミデンブルク城塞が炎上したわけではなかったのだ。これらの仕掛けは城塞の再建を監督するためにクライツベルヘンから来ていたセインデルトの仕事であった。
外から見た限りでは、城塞の各所から火の手が上がっているように見える細工で、カーシュナーの設計依頼で、セインデルトが勝手に設置したものであった。
ドルクなどは作戦当初はかなり腹を立てていたが、その見事な結果を前に、王国所有の城塞を勝手に改造したことには目をつぶることにしたようだ。
「しかし、こんなに上手くいくとは思わなんだ。まさかザバッシュの奴が、そこまでメティルイゼットに対して強い反感を持っていたとは知らなかった」
ミデンブルクの将軍の一人、ドルク将軍が、同僚のレオフリード将軍に、周囲の喧騒を眺めながら言う。 血と泥で汚れきっていたドルクは、汚れを落とし、服装を改めていた。だが、死んだふりをするために家畜の血を大量に浴びていたため独特の臭いが残ってしまい、時折顔をしかめている。
「ザバッシュを徹底的に調べつくしたカーシュナー卿の功績ですね」
レオフリードは、そんなドルクに苦笑しつつ答えた。
ザバッシュに赤の精製水を返した後、レオフリードはトカッド城塞に対して徹底的に火を放った。そして、カーシュナーの要請で火事場泥棒よろしくヴォオス軍を牽制するため大量に運び込まれた糧食の類を押収して帰還していた。
「それにしても惜しいことをしたな。混乱に乗じて一気に攻め込み、トカッド城塞を手に入れることも出来たのだがな」
遠くで超巨大な松明と化しているトカッド城塞に目を移すと、ドルクはこぼした。
「そんなことをすれば、ゾンと本格的な戦になります。第一増援が見込めない状況で、ヘルデ河を背にして敵地で城塞に立て籠ったところで、いかほども持ちこたえられません」
「わかっている。正直なことを言うと、お主がうらやましいのだ。俺のしたことと言えば、死んだふりだけだぞ! あのザバッシュと一騎打ちのうえ、敗走に追い込んだお主とは雲泥の差だ!」
「そこは何もドルク将軍の武勇を疑ってのことではありませんよ。むしろ、鉄壁と異名をとる将軍の死でなければ、トカッド城塞にあそこまでの衝撃と、その後の油断は生まれなかったでしょう」
二人の会話に加わったセインデルトが、なだめるように言った。
「それも分かっている。俺は古い人間だ。どうも謀は性に合わん。ザバッシュとは若いころから戦場で顔を合わせてきた。奴とはやはり正面切ってケリをつけたかったのだ」
「にもかかわらず弟の策に乗っていただき、弟に代わってお礼申し上げます」
いたずら好きの普段の姿が、こういう時に足を引っ張るのか、セインデルトはドルクから白々しいと言いたげな目でにらまれる。
「ふん! 殿下が鎖につながれ、檻に入ってまで芝居を打つというのに、俺がわがままを言えるわけがないだろう!」
「殿下は驚くほど変わられました」
ドルクの言葉を受け、レオフリードが満面の笑みを浮かべて言う。
カーシュナーの策を持ち帰ったときのリードリットのことを思い出したのだ。
ドルクもその時のことを思い出し、何度もうなずく。
「よもや我らに命じるのではなく、協力してくれるよう頭を下げられるとは思わなんだ。おかげでおかしな汗が噴き出したからな」
「殿下には我々に対する指揮権がなかったことは確かですが、以前の殿下なら、それでも強引に押し通そうとされたでしょう。ですが、今回は作戦の理を解き、自らが率先して汚れ役を引き受けてみせた。武人として功を上げることにこだわっておられたころならば、むしろ今回の作戦にもっとも反対されていたでしょう」
「貴殿の弟は、いったいどんな魔法を使ったのだ?」
問われてセインデルトは肩をすくめた。
「詳しいことは何も。ただ、赤髪に金色の瞳を持ってお生まれになられた殿下に対して、王族と貴族たちは正面から向き合うことをしてきませんでした。殿下が何事も強引に押し切ろうとされるのは、我々が殿下の言葉を始めからはねつけようと身構えているからです。カーシュが何かしたとすれば、人として、殿下と正面から向き合い、真っ向から己の考えをぶつけ、殿下の御考えを真っ向から受け止めたのでしょう」
「なるほど」
レオフリードが真剣な表情でうなずく。自身もリードリットの境遇に対して思うところがあったに違いない。だが、それを表に出しても、リードリットにとっては不快な同情にしかならなかったはずだ。
「もっとも、それは不敬に当たる行為でもあるので、クライツベルヘン家の人間としては、弟の行動を褒めてやるわけにもいかないので複雑な心境ですがね」
珍しく苦笑するセインデルトを見て、ドルクはこの兄の、表現こそ歪んでいるが弟に対する深い愛情を感じ取った。
その弟を探して、ドルクは城外に急遽設置された無数の天幕の間を駆け回り、指示を飛ばしているカーシュナーに目を向けた。
「あのひょろ長い身体のどこに、あれほどの体力が詰まっておるのか不思議でかなわん」
救出した奴隷たちと共に帰還したカーシュナーは、一時も休まずそのまま奴隷たちのために新しい衣類と防寒着、食事と身体を休めるための天幕の設営準備の監督とに奔走していた。
事前にダーンが十分な下準備をしていたので、凍えていた二万人以上の奴隷たちも、すぐに一息つくことが出来た。河一つ渡っただけで、冷え込みはグッと増していたのだ。
「体力に関しては、兄二人と共に徹底的に鍛え上げたので、二三日休まなくても平気でしょう。それよりも、あいつにとってはここからが本番なのです。助けました。後は勝手にしろでは、生活力を全く持たない奴隷たちは、飢えて死ぬか、野盗にでも身を落として犯罪者として生きるしか道はありませんからね。独り立ちできるところまで面倒を見て、はじめて助けたと言えるのです」
「まるで、奴隷解放と、その後の社会制度を確立してのけた三賢王様方の偉業を、たった一人で成そうとしているようなものではないか。いくらなんでも無理のし過ぎだろう?」
ドルクが真剣に心配する。
「たった一人ではないようですよ」
セインデルトは遠目で働く弟に、本人には決して見せないやさしい視線を送りつつ、嬉しいそうに言った。
「なるほど」
「そのようですね」
セインデルトの言葉に、改めて視線を送った二人の将軍は、笑みを浮かべてうなずいた。
忙しく立ち働くカーシュナーの周りにはミランと南方奴隷の青年の他に、ダーンを始めとするクライツベルヘンから従ってきた兵士たちに加えて、女性の密偵たちが、少しでもカーシュナーの負担を減らそうと働いていた。そこには以外にも、シヴァとリードリット、赤玲騎士団の姿まである。
「うちの非番のはずの連中まで混じっておらんか?」
「そのようですね。どうやら祝宴は早々に切り上げたと見えます」
ドルクの言葉に、どこか嬉しそうにレオフリードが答える。
「はて? うちはいつからこんなにお人好しが増えたのだ?」
「人を動かす理想があそこにはあります。命じる権利でもなければ強制出来る立場でもなく、率先して働く背中が、周囲の人間を動かしている」
「確かにそうだ。口先だけの男には誰もついてはいかん。どうれ、レオフリード卿。全体の監督はお主に任せるぞ。城壁の上は寒すぎる。俺は少し身体を動かしてくることにする」
「下にいかれるおつもりでしたら、私が行きますが?」
「冗談ではない! 俺は結局死んだふりしかしておらんのだ。こんなことで働いたと言えるか。若造に俺はまだまだ働けるということを教えてやりに行ってくる。次は俺の出番を作ってもらわんとかなわんからな」
ドルクはそう言うと、足早に去っていった。しばらくして景気のいい声が、奴隷たちの天幕の間から聞こえてくる。
「セインデルト卿は行かれないのですか?」
レオフリードが面白そうにたずねる。
「行っても煙たがられるだけですよ」
セインデルトはそう言って笑った。
「カーシュナー卿の頭の中には、いったいどれほど前から今日のためのことがあったのでしょうか?急場の策のはずなのに、必要なものはすべて整っていました。特に女性の密偵には驚きましたが、衣類や天幕、食料まで怠りなく用意されていた。てっきり食料は私が押収するように頼まれていた糧食を当てにしていたものとばかり思っていましたが、その必要はまったくなかった」
レオフリードは真顔に戻って質問する。カーシュナーが用意したもの。特に密偵などの人材は、ひと声かければ用意出来るようなものではない。しっかりとした教育と経験がなくては、今回の任務はこなせなかったはずである。
「おそらく、ゴドフリート様に師事していた幼少のころには、すでに大きな絵図面は頭の中にあったのでしょう。驚かれるかもしれませんが、今回あいつが用いたものすべて、あいつの個人資産から出ているはずです」
「!!!!!」
さすがのレオフリードも、驚きに声が出ない。
「いつの間にか密偵と商人の真似事みたいなことをして、独自の情報網と財産を築き上げていました。当家の密偵が監視していたはずなのですが、むしろこちらが内情を探られていたようで、有能な人材をごっそりと引き抜かれていました」
とんでもない話を、セインデルトは嬉しそうに話す。
「そ、それは、本来であれば反逆であり、クライツベルヘン家の乗っ取りを考えていると疑われても仕方ない行為ではないですか!」
「いや、そうでもないですよ」
「いや、普通はそうでしょう!」
「いやいや、そうなるように仕向けて教育したのは、他でもない我らが父にして、現クライツベルヘン家当主ヴァウレル本人ですから」
「!!!!!」
レオフリードが再び声にならない叫びをあげる。
「期待通りの成長だと、さすがはゴドフリート、見事な教育だと大笑いしていました」
そう言うセインデルトも、その時のことを思い出したのか、笑っている。
「……五大家の特異性は理解しているつもりでしたが、一貴族の出である私には、到底理解出来ないようです」
レオフリードは疲れたように肩を落とした。トカッド城塞から帰還を果たした時も疲労の影すら見せなかった男だが、クライツベルヘン家の非常識には、精神的に疲労を覚えたらしい。
「そんなわけですので、あいつの頭の中で、いつ今日の日のための準備が始まったのかはわかりません。ですが、遅くとも五年前の大侵攻の直後には動いていたはずです。いや、それ以前にゾン国の西方にある都市でヴォオス人商人としての拠点を構えていたはずですから、大侵攻云々する以前に、あいつの中ではゾンに対する何らかの働きかけが始まっていたのかもしれません」
「……とんでもない行動力ですね。しかし、それは危うい行動とも言える。一歩間違えば、ヴォオスとゾンとの間に無用な戦端を開くことになる。それもクライツベルヘンの名の下に」
「奴隷制度の廃止が成ってはや五十年。大陸最大の奴隷売買国家と、奴隷解放国家が隣り合っている現状で、受け身に回る怖さがわからない将軍とは思えませんが?」
「確かに。ですが、ヴォオスがゾンとの戦を避けるために、クライツベルヘンを切り捨てる可能性はどう考えられているのですか?」
「さあ、どうでしょう。ただ、俺に言えることは、クライツベルヘンを切り捨てて、ヴォオスが生き延びる道はないということだけです。ヴォオスを食い荒らしたいと考えている敵はゾンだけではないのですから」
答えたセインデルトの顔は、カーシュナーが時折見せる悪い顔が、幼児の笑顔に見えるほどの冷たさを秘めていた。やりたければやればいい。先に滅びるのは国の方だと、その瞳は嘲笑っている。
レオフリードは肌が粟立つのを感じた。王家の血の力にも畏怖を覚えるが、五大家が持つ得体の知れない力は、やはり確実に血の中に溶け込んでいると確信する。
「卑小なる身でいかほどのことが出来るかわかりませんが、王家と五大家が対立するような事態にならないよう全力を尽くしましょう」
レオフリードは固まりそうになる頬を無理やり歪めて微笑んだ。
「その心配だけはないと、俺は考えていますがね」
セインデルトは先程までの冷気をおさめると、カーシュナーに何事かからかわれたようで、怒ってカーシュナーを追い掛け回すリードリットを見て微笑んだ。先程のレオフリードと違い、その笑みはごく自然にセインデルトの頬をゆるませる。
「カーシュが何を考えているにせよ、それはすべて殿下ありきで考えていることでしょうから、王家と五大家が割れることはまずないでしょう。むしろ、建国以来もっとも深く王家と五大家が絡む可能性すらあります」
「過去最大ともいえる国難の時期にあって、カーシュナー卿は救国の英雄としてリードリット殿下を考えているということですか?」
「むしろ国が乱れると言いたげですね」
セインデルトの鋭い指摘に、レオフリードは咄嗟に返す言葉が出てこなかった。
「……これは決して殿下の責ではありません。ですが、貴族社会では、まるで渡来人のごときそのお姿を忌避する者は、殿下がこの先どのような功績を上げられようといなくなることはないでしょう。軍師ライドバッハが起こした大反乱に対して、国内勢力を糾合するための旗印としては、殿下はあまりに不利なお立場にあられます」
「いや、まったくその通り! いったいどうすれば良いでしょうか? こうなったらいっそのこと、宰相殿にヴォオスを売り渡して再統一でもしますか? 国内はもうすでに、半分以上そんな感じでしょう?」
セインデルトが生来のいたずら気質を発揮して、めちゃくちゃなことを言い出す。生真面目に話し続けるということがどうしても出来なのだ。
この痛烈過ぎる皮肉に、生真面目なレオフリードは真剣に考え込んでしまう。
「えっ! 真に受けられたのですか!」
さすがのセインデルトも慌てる。
「真に受けたのではありません。軍師殿が、宰相殿を奸臣としてその排除を決意させるほど、この国の腐敗の根は深いのだということを改めて考えていたのです」
「ゴドフリート様が宮廷に愛想を尽かすほどにね」
レオフリードはカーシュナーに初めて出会ったときに語っていたように、前大将軍ゴドフリートを敬愛している。そのゴドフリートが、宰相クロクスの生み出した金貨の流れに溺れて驕る廷臣たちと、三愚王と揶揄される無能な君主たちに続いて即位した現国王バールリウスの国政に対する無関心さに嫌気がさして宮廷を去ったことに胸を痛めていた。宮廷に出仕していた時などは、ヴォオスの行く末に不安を感じない日はなかったほどだ。
それだけにセインデルトの皮肉は、レオフリードに深く刺さったのだ。
「どうせなら悪しきものはすべて破壊してしまえばいい。ここまで腐りきってしまった以上、ヴォオス再建の道は他にないと、あいつは考えているのかもしれません」
「…………」
「その時が来たとき、将軍がどちら側につくか次第で、ヴォオスの運命が左右されるかもしれませんな」
「…………」
「さて、俺もそろそろ弟の仕事の邪魔でもしに行くとしますか」
真剣に悩むレオフリードの肩を軽く叩くと、セインデルトもその場を後にした。
残されたレオフリードは、トカッド城塞陥落の余韻などすっかり忘れて、これから先のヴォオスの命運に思いを馳せた。
「トカッド城塞は陥落し、ゾン国内にザバッシュという火種を放つことにも成功した。だが、ヴォオスはまだ何一つ好転したわけではない。……私はどう行動すべきなのだろうか」
生真面目な騎士は、悩みを放つように空を見上げた。夜空は大陸を終わらない冬に呑み込んでいる厚い雲に支配され、星々の輝きを見ることは叶わない。
レオフリードは再びカーシュナーへと視線を転じる。無数の松明に照らし出されて、リードリットやその腹心のアナベル、ドルクの姿も見える。
暖かい衣服を身にまとい、満足のいく食事をさせてもらった奴隷たちの顔も、松明の暖かい光に照らされている。
それは地上に輝く希望の星のように、レオフリードには見えた。何かを願うのならば、こちらの星々の方が叶いそうだと思い、レオフリードは笑った。強張っていた頬も、今度は自然にゆるんでくれた。
骨身に染みついた貴族としての習いは抜けない。王家に尽くし、ときに剣となり、ときに盾となることこそ、建国以来王家に仕えてきた武門の貴族の嫡男として、レオフリードに課せられた使命でもあった。
だが、建国王であり、魔神ラタトスを打ち倒した伝説の勇者ウィレアム一世は、虐げられた人々のために戦ったのだ。建国の理念は人々のためであり、自身が至尊の座に就き、その恩恵を子孫たちが無条件で受け継ぐためでは決してない。
レオフリードの答えは出た。建国王の理念を受け継ぐことだ。それこそが本当の意味での忠誠と言えるだろう。五大家は、少なくともクライツベルヘン家はそうあろうと努めている。
心が決まると、レオフリードは全身が軽くなったかのように感じた。
レオフリードは配下の千騎長たちを呼び集めて指示を与えると、自身もさっそく城壁を離れた。
地上で輝く星々に、自分も混ざるために――。
◆
「ふう! これでようやく一息つけるかな。みなさん、ご協力感謝いたします」
カーシュナーはそう言うと、リードリットを始めとした周囲を囲む人々に頭を下げた。隣にいたミランや南方奴隷の青年が急いで頭を下げる。これを受けて、二万人以上の感謝の声が上がる。
「どれ、我々も少し休むとするか。殿下やカーシュナー卿は、明日にはミデンブルクを発たれるのであろう? 休まねば身体が持たんぞ」
一仕事終えた満足感に頬をゆるめたドルクが、カーシュナーに休息を勧める。
「そうさせていただきます。ドルク将軍には、作戦だけでなく、いろいろとお手伝いいただき感謝しております」
「なに、若いころはゴドフリート様に散々お世話になったのだ。それを考えれば、ゴドフリート様の弟子であるお主に対して協力を惜しむような恩知らずな真似は出来んて」
ドルクはそう言うと、カーシュナーの背中をドンドンと叩いた。そして驚きに目をむく。
「兄上から二人の兄と共に徹底的に鍛えたと聞いてはいたが、鋼のような背中をしておるではないか!これは剣の腕も相当期待出来そうだな!」
「剣の腕前ならば私が保障するぞ、ドルク。カーシュには自慢の剣を折られているからな」
「あの厚刃の剣をですか!!」
驚くドルクにリードリットが何故か自慢げに一騎打ちの経緯を説明する。聞き終えたドルクは疲れた顔でカーシュナーを見つめた。
「お主、無茶にも程があるぞ! 殿下に剣を向けるなど……」
「剣だけでなく、蹴りと目つぶしを食らったうえに、鞘で頭を叩き割られもしたぞ」
「…………」
「まあ、殿下はいろいろな意味で石頭ですから、そのくらいしないと、な感じです」
一瞬怒鳴りつけようとしたしたドルクだが、これまでのリードリットの言動を思い出し、やむなしといった表情でうなづいた。
「ドルク。貴様今納得したな? カーシュの言葉に納得したであろう? それはどういう意味だ?」
リードリットがドルクの耳元で囁く。声こそ小さいが、怒っているのがはっきりとわかる。
ドルクはまるで尻尾を踏まれた猫のように慌てて飛び退ると、
「これ以上の長話をして殿下やカーシュナー卿の休息のお邪魔をしては申し訳ない。歩哨に立っている兵士たちの監督もしなくてはなりませんので、この辺で失礼させていただきます」
急いでその場に背を向けた。その背中にリードリットが声をかける。
「ドルク将軍。話の続きは帰ってからまたしようか」
ドルクは突撃命令を受けた新兵のような勢いで走り去った。
「それでは殿下。我々も休ませてもらうことにいたしましょう」
「休むのはかまわんが、明日以降彼らの面倒は誰が見るのだ? ここで放り出しては助けたことにならんのだろう?」
「御心配にはおよびません。クライツベルヘン領に彼らの受け入れ準備は出来ておりますし、引率者と警護の兵の手配も済んでおります。明日我らが発った後で彼らが困ることはありません」
「何から何まで手抜かりなしか。逆に何も出来ない王国の現体制を考えると、恥ずかしいやら情けないやらで、どうしようもないな」
リードリットはそう言うと、がっくりと肩を落とした。今この場で解放された元奴隷たちに提供されている物資のすべてが、実はカーシュナーの個人資産から出されているということを知って、リードリットの無力感は大きくなる一方であった。
「殿下……」
そんなリードリットに声をかけるアナベルも、それ以上は言葉が続かなかった。自身もかつては女性の地位向上のためにと、王都に女性専用の私塾を開いていた。理想を形にすることがどれほどの労力を必要とするか知っているだけに、カーシュナーが今この場にいる人々のためにはらったであろう努力の大きさを考えると、アナベルも言葉がみつからなかったのだ。
そんな二人を無視して、二人の男がカーシュナーの前に膝をついて頭を下げる。
「カーシュナー様! お願いがあります!」
「おねがい!」
二人は思いつめたように大声で言った。
「うわあぁっ!! びっくりした! なんだよ二人とも。寝ている人もいるんだから、大きな声出すなよ」
言われて慌てて口をつぐんだが、思いつめたような瞳は、カーシュナーからひと時も離れようとしない。 カーシュナーを見上げているのは、ミランと元南方奴隷の青年の二人であった。
「俺を連れて行ってください!」
「おれも!」
「ええっ! 二人ともこれまで苦労して来たんだから、クライツベルヘンに行って安心して暮らせよ。俺はこれからずっと戦場を駆けまわるんだからさ。南方民族の君は、国内の混乱が落ち着いたら、必ず故郷へ帰してあげるから、無理しなくていいよ」
「連れて行ってください!」
「おれも!」
カーシュナーが何を言っても二人は同じ言葉を繰り返すばかりで、意思を曲げようとはしなかった。
「けちけちすんなよカーシュ。連れてってやれよ~」
そこへセインデルトが軽すぎる口調でからんでくる。
「あれ? 兄さんまだいたの?」
「つ、冷たすぎる! これが血を分けた兄弟に対する態度か……」
「俺がこれから向かう先は命の保証がない場所なんだ。俺は二人に死んでほしくないんだよ」
兄を無視してカーシュナーは二人の説得を続ける。
「いや、だから説得するのを諦めろよカーシュ」
「兄さんは口を挟まないでくれ!」
「そうじゃなくて、二人の目が、お前が絶対譲らない時の目と同じ目をしてるんだよ。こうなったら絶対に引かないから、お前はもう二人を育てることを考えるしかないんだよ。自分を守れるようにな」
「…………」
「お願いします!」
「おねがい!」
カーシュナーは先程のリードリットのように、大きく肩を落とした。
「何でついて来たいんだよ。大変なだけだぞ」
「弱いままじゃ嫌なんだ! 俺は強くなりたい。カーシュナー様みたいに、弱い人たちを助けるために強くなりたい!」
「おれも! つよくなりたい!」
「強くなりたいなら、クライツベルヘンでちゃんと訓練出来るように手配してやる……」
「カーシュナー様みたいに強くなりたい!」
「おれも!」
「……ミランはわかったけど、君もかい?」
南方民族の青年は何度もうなずいた。暗がりの中、大きな瞳の白目の部分ばかりが浮かび上がるため、驚いて目をむいているように見える。
「きぞく、わるいやつら! でも、あなただけ、ただしいことした! おれ、しんじる。あなただけはしんじられる!」
たどたどしい言葉ながら、思いのたけは強く伝わってくる。カーシュナーの行動が、青年の心を打ったのだ。
「ここまで惚れ込まれて断ったら、男じゃないぜ」
これまで傍観していたシヴァが口を挟んでくる。いつものふざけた口調だが、視線は意外に真剣だ。
「わかった。ついてきていいよ。でも、ついてくる以上は泣き言は聞かないからな!」
「はい!」
二人の答えが初めて一つになった。
「ところで、君の名前はなんて言うんだい?」
カーシュナーが南方民族の青年にたずねる。
「わすれた」
「……忘れちゃったの?」
「わすれた」
「あの~、そいつのことなんですけど……」
二人の成り行きを見守っていた人々の中から、一人の男がおずおずと手を上げる。
「はい! そこの君!」
カーシュナーにビシッと指さされた男は一瞬怯んだが、それでも言葉を続ける。
「俺はずっとこいつと一緒だったんですけど、こいつ自身まだかなり小さい時に捕まったみたいで、仲間も連れてこられて早々に闘技場で猛獣に殺されちまって誰も名前を知らんのです。俺らはずっと、クロンボって呼んでました」
カーシュナーは顔全体で不満を表した。クロンボは間違いなく差別からきている蔑称だからだ。
「そいつはいつも他の奴隷たちからいじめられていました。けど、身体が大きくなってからは立場が逆転したのに、いじめ返したりしないで、鞭でひどく打たれた奴を看病してやったりしていました。……俺はこいつがいじめられているとき何もしてやれなかったのに、こいつは何度も助けてくれました。いい奴なんです!」
カーシュナーのしかめられていた表情が一気に緩む。視線を向けられた青年は、
「おれ、ただしいことしただけ。あたりまえ」
「そうだね。それは当たり前にすべき正しい行いだ。でも、本当にそれが出来る人間は滅多にいない。君には相応しい名前が必要だ」
「なまえください!」
「わかった。君たちの故郷の言葉で、戦士を意味する言葉を贈ろう。君の名前は、今日からモランだ。その名に恥じない強い戦士になれ!」
「モラン! おれ、モラン! ありがと! おれ、うれしい!」
モランの喜びを、隣にいたミランも我がことように喜んだ。モランのことを教えてくれた男も、涙を流して喜んでいる。
「こりゃあ、にぎやかになるな」
シヴァが嬉しそうに言う。
「俺は安全なところにいてほしいんだけどな~」
「言うな、言うな。自分だって敵陣のど真ん中に乗り込んで行っただろ。男ってのは守られるために生まれて来たんじゃねえ。お前さんみたいに守るために生まれてくるんだ。戦いの本能が前を向く限り、男は他人の背中に隠れて生きることは出来ねえんだよ」
「おっ! なんかそれっぽいこと言いやがって、腹立つな!」
「なんだよ! 俺いいこと言いましたよね、お兄さん!」
「心が震えたよ。シヴァ君!」
「二人とも、震えるような心ないでしょ!」
「ひどい! ひどすぎるぞ! 我が弟よ!」
「お前ら、考え直すなら今の内だぞ!」
この三人のやり取りに、ミランもモランもゲラゲラと笑った。
「こういうところがすごいと思うんですよ! どんな時も余裕があるってすごくないですか?」
ミランが笑いながらダーンに確認する。
「そうだな。追い詰められて思考が停止するということがないからな。精神的ゆとりは、確かに強さにつながると俺も思うよ。ただな、ふざけてはいけないときでもやろうとするのだけは勘弁してほしいがな」
認めつつも、最後には眉間にしわを寄せるダーンであった。
「さて、仲間も増えたことだし、真面目に俺たちも休むとしよう。ヴォオス西部へ駆けつける予定が遅れてしまっているからな」
ダーンの小言が始まりそうな気配を察したカーシュナーは、すかさず話を逸らした。
救出した元奴隷たちのために出来ることは一通り終わった。一つ肩の荷が下りたカーシュナーは、次なる戦場へと思考を飛ばした――。
◆
翌朝早く、クライツベルヘン家から新たな増援を得たカーシュナーは、五千騎となった麾下の兵と、リードリットと赤玲騎士団五千騎と共に出発の準備を急いでいた。その様子を眺めながら、リードリットはカーシュナーにたずねた。
「本当にこのまま出発してもよいのだろうか? トカッド城塞こそザバッシュを欺いて陥落させることに成功したが、時間が経てばザバッシュも今回のことにメティルイゼットが一切係わっていなかったことに気がついて、ゾン国軍が総力を挙げて報復に出て来るのではないか?」
「それはないと思います。ゾン国の密偵から、ザバッシュ将軍がヴォオスと結託し、トカッド城塞を焼き払い、王都へ向けて兵を挙げたという情報が、メティルイゼット王子の下へ入っているはずですから」
「どうやってそんなこと……。いや、そこまでがお主の謀の内だったのだな」
リードリットは、カーシュナーの思考の広さと深さについていこうとするのをやめていた。ただ、この男の言動には、必ず相応の根拠があるのだということだけ、自分が理解していればいい。あとは、カーシュナーに出来ないことを自分がやり遂げれば、大きな結果に結びつくはずだ。
「メティルイゼット王子とザバッシュ将軍の確執は、本人たちが思っている以上に根深かったのです。ザバッシュは武人としても高名を馳せていますが、家柄もゾン建国以前から、周辺地域を納めていた、自国の歴史以上に長い系図を持つ名門貴族の出身です。これに対して、メティルイゼット王子は、独自の用兵論を持ち、事あるごとに戦略、戦術論で意見が衝突するザバッシュ将軍を疎ましく感じていました。加えて、妃にザバッシュ将軍の家系とは長い間反目しあってきた他の大貴族の娘を迎えたこともあり、溝は深まる一方だったのです。
そこに来て五年前の大侵攻です。メティルイゼット王子にとっては有史以来の大成果でしたが、ザバッシュ将軍にしてみれば、大量の奴隷の獲得で覆い隠されていますが、殿下も参戦された王都での攻防戦と、それに続く撤退戦とでメティルイゼット王子が数万の将兵を失ったことを挙げ、大侵攻はゾン国の軍事力に甚大な打撃を与えた大失敗であると非難しました」
「ふむ。どちらかと言えばザバッシュの意見の方が筋が通っているな。メティルイゼット王子が多くの兵を失っていなければ、再度の侵攻もあり得たはずだ」
「はい。その筋を、メティルイゼット王子は自身の立場を強く押し出すことで捻じ曲げたのです」
「それではザバッシュが反感を抱くのは無理もなかろう。逆に、今までよく表面化せずにおったものだ」
「王都とトカッド城塞との間に広がっていた距離が、二人の最終的な決裂を引き延ばしていたのです。その距離を、情報を走らせることで繋げた今、ゾン国はそう簡単には一つになれないはずです」
「これまでは個人の武勇に重きを置いていたが、情報の持つ力の何と大きいことか! メティルイゼット王子のようにならんためにも、私も広い視野を持つように心掛けんといかんな」
「広く物事が見渡せても、それは取捨選択の幅が広がるだけで、判断力や決断力に欠ける人間にとっては迷走への入り口が増えることにしかなりません。殿下は王道をお進みください。道を塞ぐものは、それが何であれ、我々が取り除いてご覧に入れます」
「やけに大口を叩くいではないか。珍しいな」
「正直に申し上げますと、殿下があれこれ考えたところでろくな意見が出ないのですから、邪魔にならないようにしていてくださいということです」
「わかっておるわ!!」
言葉の終わりに強烈な肘打ちが、カーシュナーの脇腹に叩き込まれる。
たまらずカーシュナーが雪の上で転げまわるのを無視して、リードリットはひらりと馬に飛び乗った。
「我らはこれより西方の地を荒らす賊どもの討伐に向かう! 全員私についてまいれ!」
言うが早いかリードリットは馬を走らせた。これに赤玲騎士団が続き、ダーンとその配下の兵士たちが続く。
一人取り残されたカーシュナーは、蹄が雪に覆われた大地を打つくぐもった音が大気を満たす中、
「あ、あんまりだ……」
と言って力尽きた。
その背中に、セインデルトが投げつけた雪玉が命中する。
カーシュナーはもそもそと起き上がると雪を払い、黙ってリードリットたちの後を追っていった――。
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