森林地帯攻防戦!
土曜日に投稿しようと頑張っていたのですが、強制参加の忘年会で大風邪をもらってしまい、丸三日寝込んでおりました。
具合が悪いだけならまだよかったのですが、熱のせいで身体中の関節が痛み、ろくに眠ることも出来ませんでした。
幸いインフルエンザではなかったのでよかったですが、みなさんも風邪にはご注意ください。
遅くなってしまい申し訳ありませんでした。
それではヴォオス戦記の本編をどうぞ。
腹の探り合いであるべきはずの初戦で惨敗を喫した逃亡貴族軍は、雇い入れたイェ・ソン人戦力を生かすべく、平地での騎兵戦を捨て、森林戦に切り替えた。
本来追われる立場である逃亡貴族たちに敵を引き込む戦い方は悪手でしかないないのだが、ルートルーンの存在からリードリットの意図を見抜いたローベルトは、敵が増援を待つような時間を掛けた戦いを選択しないことを逆手に取り、敢えて引き込み、受ける戦いを選択したのだ。
初戦での兵力の損失は大きかったが、まだ無傷のイェ・ソン人三千の兵力がある。
リードリットがこの戦いのためにどれだけの兵力を投入したかは確かめようがないが、赤玲騎士団の戦力が仮に五千として、ルートルーン率いる部隊二千と合わせれば七千になる。
損失分を含めると戦力的にはほぼ互角の状況ではあるが、統率を乱していたボニファスが死んだことで、むしろ逃亡貴族たちはローベルトのもと一つにまとまった。
そして、後がない状況に追い詰められていることをようやく理解し、覚悟を決めた。
ここにイェ・ソン人を加えれば、互角以上戦いが展開出来る。
「敵を引き込む役目、どなたが適任でしょうか? 私でよければ……」
元貴族の一人がローベルトに尋ねる。
引いて戦うことに決めた以上、敵には踏み込んで来てもらわなければならない。
敵の足が鈍ければ攻め込んで挑発し、それに敵が乗ってきたらつかず離れずで引き込む必要がある。
戦況を見極め、敵の動きを読む力が必要な難しい役どころで、何より敵の矢面に立つためもっとも危険にさらされることになる。
半端な覚悟で出来る役目ではない。
尋ねた元貴族は自らこの役を買って出ようとしたが、ローベルトはこの申し出を遮ると、答えた。
「私が出よう」
その答えに、尋ねた元貴族だけでなく、それを聞いた他の元貴族たちも驚きの声を上げる。
総大将であるべきはずのローベルトが、自ら先陣を切ると言い出したのだから驚くのも無理はない。
「別に追い詰められ、やけを起こしたわけではない」
巌のような顔をわずかにほころばせると、ローベルトは反対される前に自ら口を開いた。
笑ったところなど見たことがなかった他の者たちは、その意外さと余裕に落ち着きを取り戻し、ローベルトの言葉に耳を傾ける。
「ルートルーン殿下が参戦されたことは想定外の出来事だったが、逆に好機でもある。その身柄を押さえることが出来れば、雲隠れしたリードリットをおびき出すことが出来る。この戦、敵兵を倒し、勝利したところで、肝心のリードリットを取り逃がせば何の意味もない。逆に、リードリットさえ倒してしまえば、後はどのような状況になろうとどうとでもなる。それどころか、次期王位継承権第一位にあらせられるルートルーン殿下がいらっしゃれば、大将軍であるレオフリード卿や、中立の立場を取っている貴族たちを説得するのも容易になる」
ローベルトの言葉に、全員が感嘆の声を上げる。
新参のシヴァやオリオンの実力は一切認めていない逃亡貴族たちであるが、名門の出で、その実力も抜きん出ているレオフリードの存在を無視出来る者などこのヴォオスにはいない。
大将軍となり、ヴォオス全軍を預かる身となった今ではなおさらだ。
五大家の存在も厄介だが、貴族社会にとどまらず、民衆からも圧倒的な支持を受けているレオフリードの存在は逃亡貴族たちにとって、敵に回すとかなり厄介な存在と言える。
リードリット側についている貴族たちなど、リードリットが死ねば簡単に手の平を返すだろうから何の心配もしていないが、生真面目なレオフリードとの関係が一度こじれたら、その修復には時間を取られることになる。
五大家がどう動くか定かではない以上、早めにヴォオス軍を掌中に収めておかないと、自分たちの復権どころか命そのものが危ない。
「私はルートルーン殿下がお小さいころからよく知っている。殿下がこの戦いに参戦されたのも、ロンドウェイク殿下に私がお仕えさせていただいていたことが多少は関係しているはずだ。私が出れば殿下は、必ず私を説得すべく前線に出て来られるだろう」
説明を聞く元貴族たちが大きくうなずく。
「剣の腕前は向上されたそうだが、そのお人柄は今も変わらないと聞く。卑怯者と謗られるやもしれんが、今回だけはその善良なお人柄を利用させていただこう。陣中にお招きすることが出来れば、殿下に我々の想いをお伝えすることが出来る。殿下は王家の血を最も色濃く受け継ぐ男児だ。きっと我らの想いをご理解してくださるはずだ」
ルートルーンを新王に、その側近として権勢を振るう自分を想像した元貴族たちが、目の色を変える。
「それに、策はすでに定まっている。状況に応じて兵力を投入しさえすればいい。必ずしも私が指揮を執らねばならないわけではない。その点では、平民の寄せ集めでしかない赤玲騎士団と違い、幼いころから人の上に立ち、どう人を使うかを学んできた我らとでは、指揮官としての質が天と地ほども違う。誰が指揮を執ったとしても、赤玲騎士団相手に後れを取ることはない」
ローベルトの言葉に貴族としての矜持を刺激された元貴族たちが、胸を張って指揮の引継ぎを請け負う。
逃亡貴族軍が動き出した――。
◆
「突撃の準備をしろっ!」
ヴォオス人兵士が偉そうにがなり立てる。
とうの昔に戦いの準備を終わらせていたイェ・ソン人たちは、冷ややかな目でヴォオス人兵士を一瞥すると無言で隊列を整える。
指揮官ではなく、あくまで伝令役に過ぎないヴォオス人兵士は、ヴォオスにあって異国人の中に一人でいるということに今さらながらに気がつき、顔を強張らせる。
「ようやく仕事だ。やるぞ、お前らっ!」
ツェベグデードが檄を飛ばすと、イェ・ソン人たちは目の前に親の仇がいるかのような勢いで咆哮した。
騎馬の民である矜持を捨て、歩兵に甘んじなくてはならない状況に、誰もが苛立ちを覚えている。
彼らにとって自分が誰の側にあるかなどどうでもいいことであり、勝者が誰になろうと関係ない。
今はただ、腹の底で渦巻くどす黒い感情をぶつけられれば、何が相手だろうとかまわないという心境にある。
「あまり煽るな。苛立ちから全員気持ちが前がかりになっている。このままでは突っ込み過ぎて無駄に死人を出すことになるぞ」
サンイルウェスというイェ・ソン人が、ツェベグデードに釘を刺す。
イェ・ソン人としてはかなり大柄なツェベグデードと並んでも遜色のない長身の持ち主であるが、線が細く、ツェベグデードほどの迫力はない。
戦士としての技量も確かだろうが、参謀的役割りを担っているのだろう。周囲が感情の渦に身を任せる中、冷静さを保っている。
「こいつらは血の気が多過ぎる。多少流した方が落ち着くだろう。まあ、突っ込ませ過ぎないように気を付けておく」
ツェベグデードはサンイルウェスの助言を素直に受け入れた。
かつてはイェ・ソン軍で数千を指揮したほどの男だ。
野盗に身を落としたとは言え、戦の基本は心得ている。
「まさか、ヴォオスにまで来て森林戦をやることになるとはな。草原出の俺らには、何とも嫌な地形だぜ」
話を変えるためというより、伝令兼監視役として従軍しているヴォオス人兵士の目をごまかすために、ツェベグデードは少々わざとらしいくらい大きな声を出す。
「安心しろ。土地勘のないお前たちに複雑な任務を与えることはない。私が指示する場所に全力で突っ込み、敵を蹴散らせばいい」
兵士はイェ・ソン人を安心させるためというより、不安から逃亡を企てさせないために、気休めを口にする。
万が一にもイェ・ソン人たちがここで逃亡しようものなら、責任を取らされるのは自分だからだ。
「貴様が指し示す場所は最も危険な場所だろうが。安心が聞いて呆れる」
サンイルウェスが小声で吐き捨てる。
「前の方は俺が適当に見ておく。お前は後ろの味方に目を光らせておいてくれ。絶対に油断するな」
殺気立つ手下たちに兵士が視線を向けた隙に、ツェベグデードがサンイルウェスに囁く。
「心配するな。そもそも味方だなどと思ってはいない」
ウェスターシュが逃亡貴族たちの真意を見抜いてみせたことで、野盗団の幹部たちはこれから戦うことになる赤玲騎士団ではなく、逃亡貴族たちを敵とみなしてこの場にいる。
逃亡貴族を裏切り、赤玲騎士団に味方するという策もあったが、それでは大した実入りにはならないというウェスターシュの忠告により、イェ・ソン人野盗団は何も気づいていない振りをして、逃亡貴族に雇われた。
「逃げ回ってる貴族共だけじゃなく、その敵であるヴォオス人共もコケにして、奪えるだけ奪えばいい。ヴォオス人共の金で、ヴォオス人共が怒り狂う様を、高い酒でも飲みながら見物しようぜ」
ウェスターシュの皮肉の効いた物言いは、イェ・ソン人たちに大いにウケた。その思いがあればこそ、胸糞悪いヴォオス人貴族に我慢して従うことにした一因でもある。
号令が下り、イェ・ソン人たちは移動を開始した。
なじみの薄い地上戦に加え、見通しの悪い森林戦でもある。
本来イェ・ソン人が力を発揮出来る環境ではないのだが、野盗として北の大陸隊商路周辺の小国を襲撃する過程で、あらゆる状況の戦闘を経験して来た。
山国であるエストバを襲撃した際に、森林戦も経験済みだ。
そういった経緯を調べたうえで、クロクスの配下はこのイェ・ソン人野盗団に白羽の矢を立てた。
だが、誰にとっての幸か不幸かはわからないが、その事実は逃亡貴族たちには伝わっていなかった。
イェ・ソン人たちは単なる捨て駒として進む。
この起用が、戦局を大きく左右することを、戦いを主導する者たちは誰も知ることはなかった――。
◆
事ここに至って、逃げる場所などない逃亡貴族たちが、引いた戦術に出るであろうことを、ヨナタンは見抜いていた。
戦略的にはすでに負けている逃亡貴族には、リードリットを討つという局地的勝利以外に逆転の目はない。
戦術眼という点でローベルトを上回る人材がいないことを鑑みて、ヨナタンはローベルトがリードリットの意図を見抜き、現状の勢力で逃亡貴族を討伐し、ルートルーンに名を成さしめようとしている状況を逆手に取ってくるだろうと考えたのだ。
リタからの情報を得てから、ヨナタンは逃亡中の貴族たちの人物像を徹底的に掘り下げた。
彼らを知る人々から個人としての細かい情報を得るのはもちろんのこと、逃亡以前に治めていた領地に関することや、血縁者に関することまで、繋がりのある事柄はすべて調べ上げた。
ボニファスとローベルトの間に確執が生まれ、作戦指揮に影響を及ぼすことを期待していたが、ボニファスの愚かさと、ローベルトの見切りの早さによってその期待は叶わなかった。
だがその代わりに、ヨナタンはローベルトの人物像を完全に把握することが出来た。
歴戦の勇士であることは間違いない事実であるが、その上でヨナタンは、勝利を確信した。
「敵の大将であるローベルトはおそらく、殿下を誘い出すため、先陣を切って出撃してくるでしょう」
「今も変わらず、父に忠義を尽くしてくれているのだな」
ヨナタンの言葉に、ルートルーンはわずかに表情を曇らせた。
「ですがそれは、歪んだ忠義です」
「わかっている。それを正してやるのが、息子として私がしてやれる唯一のことだろう」
「本当は誘いに乗らないことが最善なのですが……」
ヨナタンが表情を歪めながら言葉を濁す。
「心の問題は、最善の道を行けば常に答えへと辿り着くわけではない。まして私は未熟者だ。問題と向き合わずに乗り越えることは出来ない」
「本当に真面目ですね、殿下は。そういう部分こそ、以前お話しくださったカーシュナー卿の影響を受けてくださればいいのに。少しは周りの心労も考慮してください」
口では文句を言いつつも、ヨナタンの目は主に対する信頼に満ちている。
「熱くなり過ぎないでください。殿下の実力がローベルトに劣るとは思っておりませんが、相手は多くの戦場を経験した歴戦の勇士です。その経験値は侮れません」
「わかっている。大将同士の一騎打ちをやるつもりは毛頭ない。ここからの私は、軍師ヨナタンの一兵卒のつもりで働く。お主の采配にこの命を預ける」
「殿下が予定通りに行動してくださるのであれば、この戦の後、必ずそのお命お返しいたします。勝利の利息付きで」
自分の指揮一つで主を窮地に追いやりかねない状況で、ヨナタンは軽口を叩いてみせた。
それは自信から来るものではなかった。
自分を押し潰そうとする重圧との戦いの果てに辿り着いたものだと、ルートルーンにはわかっていた。
「お主の方こそ視線を広げ過ぎて足元の小石に足を取られるなよ。我らはここから始まるのだ。万が一のことも許さん」
表情を厳めしく引き締めての言葉であったが、その声には隠し切れない友に対する想いが込められていた。
「肝に銘じておきます」
思わず涙ぐみそうになったヨナタンは、深く頭を下げることで表情を隠した。
「へイン。お主に兵五十を与える。この地は起伏の激しい土地だ。森も深い。地の利を得ている我らに有利な地形ではあるが、その特性故に、こちらの視界を妨げ、敵に身を潜ませる。先ほどまでの平地の戦いとはわけが違う。不測の事態に備え、ヨナタンを守れ。お主の弟は、この戦をもってヴォオスの新たな柱の一人となる。命に代えても守り抜けっ!」
ルートルーンは自身の護衛騎士であるへインを見据えると、意外なほど厳しい声で命じた。
「お待ちください、殿下っ! 前線に出るのです。兄をお連れください。その実力はシヴァ将軍に徹底的に鍛えられたおかげで、一年前とは比べ物にならないほど向上しております。兄ならば、それこそいざというときにはその命を捨てて殿下のための盾となるでしょう。兄が殿下と共にあると思えば、私も安心して指揮に専念出来ます」
へインが応える前に、ヨナタンが慌てて異を挟む。
「へインの実力なら、弟のお主よりもよく知っている。お主の兄だから護衛騎士に取り立てたのではない。その忠誠にも微塵の疑いもない。だからこそ命じたのだ。私のためにその身を挺してくれる騎士は他にもいる。シヴァ将軍に鍛えられたという意味で言えば、皆同じだ。だが、へイン以上にお前のためにすべてを賭して戦える男が他にいるか? 居りはすまい。私も後ろを気にしながら戦いたくはない。相手はローベルトだ。前だけに集中するためにも、本陣の守りは信の置ける男に任せたいのだ」
そう言われてしまうとヨナタンも返せない。
下手な言葉は他の護衛騎士の矜持に傷をつけることになる。
「それにな」
ルートルーンは不意にヨナタンに耳打ちする。
「おそらく五大家のどなたかの配慮だろう。恐ろしく腕の立つ少年騎士が従軍している。へインの代わりにその者を連れていく故心配するな」
「内密に、ということですか?」
五大家からは何も聞かされていなかったヨナタンが怪訝な表情を浮かべる。
「おそらく我らの手柄におかしな言いがかりをつけさせないための配慮であろう。私もお主もまだまだ未熟ということだ」
ルートルーンの言葉に、ヨナタンも苦笑を浮かべるしかなかった。
この戦いはあくまでルートルーンの勝利として終わらなければ意味がない。
他の誰が名を成しても、それではリードリットの意には添えないのだ。
「というわけだ。へイン。後は任せる」
「はっ! お任せくださいっ!」
へインは分厚い胸を叩いて応えた。
ルートルーンは本陣を後にすると、父に忠義を尽くしてくれた男と対峙するために前線に向かった――。
◆
前線に向かったルートルーンであったが、ヨナタンの読み通りにローベルトが出陣してきても、すぐには向き合わず、むしろ他の逃亡貴族の部隊に向けて戦端を開いていた。
この地を戦いの舞台に選んだのは逃亡貴族たちであったが、この地を舞台に選ぶように仕向けたのはリードリットだ。
事前にこの森林部のことは調べ尽くしていた。
その情報をもとに作戦を組み立てたのはヨナタンであり、ヨナタンの策では、決着は昼と夜との境である逢魔が時と定めていた。
地形に不慣れな逃亡貴族たちを徹底的に叩くために、ヨナタンは敵の視界をも奪おうと考えたのだ。
「ここにきて時間稼ぎか」
ローベルトが苛立ちをにじませつつ呟く。
時間の経過がけして状況を優位に運ぶことのない逃亡貴族軍としては、敵のこの行動は援軍の到着を待つかのように映り、次第に焦り始めていく。
逃亡貴族たちの心理状態を見抜いていたヨナタンは、逃亡貴族たちが自分たちの状況からヨナタンの策の意図を読み違えるであろうことまで計算して策を立てていた。
さすがのローベルトも、このヨナタンの計算から外れることは出来なかった。
日がさらに傾き、木々の影が長く伸び始めると、森林部は途端にその闇を深めた。
視界はまだ十分に利くが、木々に加えて暗さの増したこの状況では、先を見通すことは不可能だった。
各所で遭遇戦が起こっているが、逃亡貴族は常に先手を取っていた。
だが、いざ戦いとなるとルートルーンの部隊も赤玲騎士団も、巧みに逃亡貴族軍の勢いを削ぎ、深入りしてこない。
一見戦況は互角、あるいは逃亡貴族軍優位に見えたが、実際の戦況が見えていたのは、高みの見物を決め込んでいるリードリットたちと、赤玲騎士団幹部、そしてヨナタンだけであった。
前線でヨナタンの策の一つの駒に徹しているルートルーンでさえ実際の戦況は見極められずにいた。
敵を押し込んでいるように見える逃亡貴族や、ルートルーンを追って前線を駆けずり回っているローベルトに、ヨナタンの策を見抜けというのは酷な話であった。
「ローベルトよ。久しいな」
西日が低く差し込むころになって、ローベルトはようやくルートルーンを捉えた。
「……殿下もご壮健で何よりでございます」
母親似で線が細く、優しげな面立ちだったころのルートルーンしか記憶になかったローベルトは、たくましく成長したルートルーンを前に、思わず息を呑んだ。
顔はやはり母親似だ。
だが、自分を真っ直ぐ見据えるその瞳は、覇気に満ちていた時のロンドウェイクに瓜二つだ。
纏う空気も並みの騎士など及びもつかないほどのものに成長している。
よくぞここまでと、感傷的な気分が湧き上がってくるのを無理やり抑えなくてはならないほどだ。
「殿下。どうか何も言わず、このローベルトと共にお越しください」
ローベルトは馬上で恭しく頭を下げる。
「私は陛下の臣下の一人だ。陛下に対して弓引く者に、従うことはない」
ルートルーンは静かな声ではねのけた。
互いの兵が殺気立つ中でのこの落ち着き振りが、そのままルートルーンの不動の忠誠心を表している。
「どうしてもお聞き入れいただけませんか」
ローベルトが苦痛に耐えるかのように顔をしかめる。
「聞けぬな」
ルートルーンの答えは取り付く島もないほど簡潔なものだった。
「父に良く仕えてくれたことには息子として感謝している。だが、お主は陛下に剣を向けた。私から陛下に対して助命を願い出ることは出来ん。故に私は、お主を説得しない。お主もこれ以上言葉を重ねるな。父への忠誠から事を起こしたのであれば、その信念に従え」
「……ご無礼、お許しください」
ローベルトは言葉と共に剣先をルートルーンに向けた。
「かかれっ!」
号令はルートルーンの方が一瞬早かった。
護衛騎士を中心としたルートルーンの部隊と、ローベルト配下の部隊が激突する。
意を決したローベルトの斬撃は厳しかった。
ルートルーンも見事に受け止めたが、地力の差は明確で、押し合うことを早々に諦め、いなして側面を取る。
だが、ローベルトも簡単に側面を取らせたりはしない。
力をいなされた方向に素早く回転すると、回り込もうとしていたルートルーンの脚に斬りつける。
ルートルーンは危うく脚を切り裂かれる寸前でローベルトの剣先を打ち落とし、回り込むのをやめて距離を取った。
ローベルトが追撃を掛けようとした瞬間、乱戦となった戦況が二人の間に両軍の騎兵を押し流し、二人を乱戦の渦に呑み込む。
ルートルーン側の騎士からすれば、王位継承権第一位にあるルートルーンに、おいそれと一騎打ちなどさせるつもりはない。
そこはロンドウェイクに仕えていたローベルトも承知している。
おいそれと追い込めるなどとは始めから考えてはいない。
だが、こうして手の届く距離に捉えた以上、何が何でもルートルーンの身柄を押さえる覚悟だ。
ローベルトは懸命に追った。
ルートルーンも逃げているわけではないのだが、大将としての立場上、指揮を放り出し、一人の騎士としてローベルトと向き合うわけにはいかない。
若いが感情に流されず、指揮に徹している。
人の上に立つ者としての資質としては十分だ。
それでいて本陣に留まらず、こうして前線に身を置いている。
それがひとえに父であるロンドウェイクに仕えた自分に対する義理からであることに、ローベルトはルートルーンに亡き父ロンドウェイクをも上回る武人としての器を感じていた。
ローベルトの目的はいつの間にかすり替わっていた。
主であるロンドウェイクの敵であるリードリットを討つこと以上に、ルートルーンこそヴォオスの至尊の座にふさわしい人物であり、亡き主の悲願を叶えることこそ、臣下の務めと思い定めていた。
ルートルーンの人柄を考えれば、リードリットが生きている限り、けして玉座を求めたりはしないだろう。だが、リードリット亡き後のヴォオスを混乱から救うためであれば、ルートルーンは私心を捨てて玉座に着くはずだ。
恨まれてもかまわない。
ヴォオスの玉座に正当なる王を据えることが出来るのなら、それで本望だ。
ルートルーンもいつかはわかってくれるはずだ。
今日この日の行いの正しさを――。
自分にとって都合のいい幻想を追っていたローベルトと、現実的にヨナタンの策を実行していたルートルーンの差が、ここで如実に表れる。
誘い込む目的だったはずの逃亡貴族たちは、敵が崩れやすいことから戦況が優位に展開していると思い込み、いつの間にか戦いの姿勢が前がかりになり、追撃を厳しくしていた。
そしてその事実に、ローベルトは気がつくことが出来ず、ルートルーンは冷静に戦況を見つめていた。
この状況がルートルーンによって作られていることに気がつかない逃亡貴族たちは、ローベルトがルートルーンに食らいついて逃がさないようにしていると思い込み、追撃の勢いに拍車をかける。
そして、他の敵部隊を追いつつ、ルートルーンの部隊を包囲するように全体が動き、ルートルーンを森林部の一点に追い詰めていく。
その動きは逃亡貴族たちの指揮官としての優秀さの表れであったが、その能力さえ計算に入れたヨナタンによる戦況の誘導でもあった。
ヨナタンの策をルートルーンが見事に遂行し、逃亡貴族たちはルートルーンを追い込んでいるつもりで、逆にある一点に導かれていた。
そこは細かな起伏が連なる浅い窪地になっていた。
ルートルーンの部隊は退くために、自然と起伏に沿って走ることで窪地の底に向かっているように見える。
ローベルトはここにかつて水の流れがあり、地形の変化によって涸れた小さな湖の跡であろうと推測した。
このまま行けば湖底部の袋小路に追い込むことが出来る。
味方の他の部隊もこちらの動きを読んでよく連動してくれている。
このまま行けばルートルーンの身柄を確実に抑えることが出来る。
そうなれば、戦いの勝敗はほぼ決する。
あとはリードリットを捕らえるだけだ。
勝利を確信して突き進んだローベルトは、だがその先で、予想だにしないものを見ることになった。
それは、本来このような場所にあるはずのない、艀の一団だった――。
◆
重い何かが崩れ去る、鈍い響きが木々の間にこだまする。
ローベルトと連動して同じようにこの湖の跡に辿り着いた部隊が、不安げに周囲を見回す。
わずかな振動が足元を揺らし、木々の梢を振るわせる。
振動は音と共に次第に大きさを増し、馬たちが不安げないななきを上げる。
誰もが状況を理解出来ず、異様な事態に足を止めてる。
ローベルトが判断に迷ったその時、逃亡貴族軍の後方に位置した兵士たちの間から、悲鳴が上がった。
「み、水だっ! 水が押し寄せてくるぞっ!」
恐怖にひきつったその言葉は、直後に轟音と化した水の流れに呑み込まれた。
「馬鹿なっ! 水の絶えたこの森の中で、水攻めだとっ!」
ローベルトもここまでの移動である程度この広大な森林地帯の地形や状況を把握していた。
この近辺に川はない。
その痕跡自体は今この場にはっきりと残っているが、長年かけて積み重なった腐葉土の層と、岩や石を覆う苔などから、水の流れが絶えて久しいことは明らかだ。
「恐ろしいお方だ」
ルートルーンと共に艀に立つヨナタンは、小さく呟いた。
この地はローベルトの推測通り、水が果てて久しく、かつての水の流れはどこにも見当たらない。
だが、それは以前の川の流れが地形の変化によって地下に潜り、地上から姿を消しただけのことで、川の流れは今でも確かにこの森林地帯に存在していた。
初めてリタからこの情報を得たとき、ヨナタンはこの地下の川を戦術に組み込むつもりはなかった。
逃亡貴族を迎え撃つために、さきにこの地に陣を構えることが出来るのなら話は別だが、逃亡貴族を追う形でこの森林地帯に入るため、水攻めを行えるほどの水量を溜める工作が出来ないからだ。
「騙されたと思って見に行ってみろ」
リタがそれだけしか言わなかったため、ヨナタンは水攻めを組み込まない戦術を立てたうえで、この森林地帯に入るとすぐに指示された地点へと確認に向かった。
そこでヨナタンは言葉を失う光景を目にすることになった。
地下には巨大な貯水池がすでに出来上がっており、組み立て式の簡易艀までが備えられていたのだ。
「……いったい、誰が」
それ以上言葉が出てこないヨナタンに、その隣で同じように絶句していたルートルーンが推測を口にする。
「盗賊ギルドがこんなものをこんなところに作る理由はない。それに、いくら情報に通じているとはいえ、これは明らかに軍事目的の施設だ。盗賊ギルドが扱うような情報ではない。リタ殿がここを知っていた理由はおそらく一つ。カーシュナー卿から情報を受けていたのだろう」
その言葉に、呆気に取られていたヨナタンが、食い入るようにルートルーンの横顔を見つめる。
「カーシュナー卿は何故ここを知っていたのでしょうか? この貯水池や組み立て式の艀の状態から見て、五年は経っていないはずです。いったい誰が、何の目的で……」
「おそらくカーシュナー卿が、この地で水攻めを行う目的で造り上げたのだろう」
「なあっ!」
その答えに、ヨナタンは再び絶句するしかなかった。
「これは短い期間だが、その人となりに触れた私なりの推測でしかないのだが、カーシュナー卿はゴドフリート卿の教えを受ける以前から、クロクスの台頭によるヴォオスの時代の逆行を懸念しておられたらしい。終わらない冬という未曽有の大災害によって現在に至ているが、もし終わらない冬がなければ、クロクスはその権勢をさらに増し、今でもヴォオスを牛耳っていただろう」
「これらはすべて、打倒クロクスのための備えだったと?」
ルートルーンがすべてを語る前にその意味を理解したヨナタンが、思わずその言葉を遮って口を挟む。
「そう考えると辻褄が合う。クロクスの権勢は絶大だった。父上もヴォオス軍の大将軍という立場にあったが、対抗するどころかクロクスを抑えることもかなわなかった。そのクロクスを倒そうというのだ。備えはいくらあっても十分とは言えなかったはずだ」
「これは来る日の決戦に備えてのものだったということですか」
「正しくはそのうちの一つというところだろう」
「このような仕掛けが、他にもまだあるということですかっ!」
ルートルーンの言葉にヨナタンが驚きの声を上げる。
「この地は起伏に富み、森も深く、戦術を駆使するのに適した地形だ。だが、同時に大軍を展開するには不向きな地形でもある。もしクロクスがヴォオスでの権力を失わずにいたら、動員出来た兵力は百万にも届いただろう。この地での勝利が無意味とは言わないが、この地での勝利が戦略的勝利を決定づけることはなかったはずだ」
ヨナタンはルートルーンの説明を受け、瞬時にそうなったときの戦略と、それに基づく戦術とを構築してみた。
確かにルートルーンの言葉通りだと納得する。
戦況の推移にもよるが、ヴォオス北部と中央の中間地点に存在する森林地帯での戦闘が、戦略的勝利を決定づけるような戦いになる可能性は極めて低い。
「あのカーシュナー卿が、一戦のみの戦術的勝利だけを見据えてこのような罠を事前に準備して終わるはずがない。これらすべてが、強大な勢力を誇っていたクロクスを打倒するための布石の一部だったのだろう」
「……いったいどれほど先まで未来を見据えていらしたのでしょうか」
ヨナタンがため息をつくように言葉を吐き出した。
「想像もつかない。だが、この罠を活用出来なければ、私もお主も、リタ殿に告げ口をされ、いざカーシュナー卿にお会いした時には、徹底的に笑われ、からかわれることだけは間違いない」
軽口にも聞こえかねないルートルーンの言葉だが、そこには心底げんなりとした空気があった。
リタだけでも手に負えないことは、ヨナタンも嫌というほど思い知らされている。
そこにリタをも上回ろうという人物が加わるのだ。どんな目に遭わせられるか知れたものではない。
「笑い者になるのは確かに嫌ですが、それ以上にこれだけの仕掛けを活かせなければ、私はただの無能者です。殿下のお側にお仕えすると誓った以上、無能者になり下がるわけにはいきません。この戦い、必ず勝利して見せます」
この言葉通り、ヨナタンははるか昔に干上がった湖に濁流を流し込み、逃亡貴族軍を一飲みにしたのであった。
湖底には向かわず、その周囲に展開してい逃亡貴族軍も、罠の発動に合わせて一気に攻めに転じた赤玲騎士団に追い込まれ、水際に追い詰められていく。
ヨナタンは濁流の流れにも耐えて浮かび上がる艀の上から指揮を執り、湖岸に追い詰められた逃亡貴族軍を背後から矢を射かけて挟撃し、濁流にも飲まれず何とか浮かび上がった逃亡貴族軍も容赦なく射倒していった。
茶色く濁っていた水に、大量の血が流れ込んで赤黒く変色し始めたころ、戦いは終わった。
最後の流れが注ぎ込んだ時、水はかつての湖面をはるかに超えて流れ広がり、多くの水死体を湖岸に押し流していた。
そんな死体が転がる湖岸に艀をつけるとルートルーンは飛び降り、空の木箱を括りつけられて溺死を逃れた馬の一頭を捕まえると素早く飛び乗った。
そして、ある一点を目掛けて一気に馬を駆け寄せる。
そのあまりに素早い行動に、ついていけたのはたった一騎のみであった。
ルートルーンは指揮をヨナタンに託し、ただ一点のみを見据えていた。
自分を追い、ここまでたどり着いていたローベルトだ。
ローベルトは状況を掴むと必死の形相で艀に取り付こうと攻め寄せたが、矢の雨による迎撃により馬を失い、押し寄せて来た濁流につかまり飲み込まれた。
さすがに流れが強過ぎるため翻弄され、泳ぐどころではなかったが、それでも何とか浮かび続け、湖岸に転がる溺死者の群れには加わらず、最後には命あるまま湖岸に流れ着いていた。
ルートルーンはそんなローベルトの姿を、過去の思い出と共に凝視し続けた。
今すぐ艀を向かわせ、無骨で真面目過ぎる、尊敬に値する男を助けたいという衝動と戦いながら。
そして今、ルートルーンは命を長らえたローベルトのもとに向かっている。
命の無事を喜ぶためでもなければ、翻意を促すために説得に向かっているわけでもなく。
目的はただ一つ。
自分自身の手で、ローベルトの命を絶つためだ。
幼き頃、その大きな手で抱き上げてもらったことがあった。
父を真似て剣を取る自分に、子供と侮らず、真摯に向き合い指導してくれたこともあった。
饒舌とは程遠い性格にもかかわらず、父の戦話を熱心に語り聞かせてもらったこともあった。
ルートルーンの記憶の中には、ローベルトに対する宝物のような思い出しかない。
だからこそ討つ。
それがルートルーンがローベルトに対してしてやれる唯一の手向けだからだ。
ローベルト目掛けて駆ける途中、大気の変化をルートルーンの耳は聞きつけた。
先ほど荒れ狂った奔流の先走りが地を揺らし、木々の梢を鳴らしたように、再び大地が震動し、先ほど以上の勢いで森の木々がざわめきだしたのだ。
蓄えられていた水はすべて流れ出し、今ではありふれた川の流れ程度の水流しかないはずだ。
間違っても地を揺るがすような流れにはならない。
異変に気付いたのはルートルーンだけではない。
勝利に高揚していた兵士たちも、不安げに見通すことの出来ない周囲の森に目を凝らしている。
先程までの逃亡貴族軍の兵士と同じように――。
ここでも大将としての意識がルートルーンの足を止めさせる。
追って来ていた騎士が追いつき、ルートルーンの後方に控えたとき、それは姿を現した。
イェ・ソン人の大騎兵部隊が――。