獣の首を捧げよ
「心獣」と呼ばれる生き物がいる。
字の如く、獣の形をしているが地上に現存するあらゆる動物の種と似て異なる姿を持ち、どの固体も同じ姿形を持つものがない生き物。
それらは時に風を操り、遠見遠聞をし、陰を渡るなど、様々な不思議な力を持つ。
棲み処は女の腹。
温かく安穏としたそこで、宿主である女と共にすくすく育つ。
故に、女の死は心獣の死でもあった。
とはいえ、所詮女はただの檻。檻は己で開けられぬ。
檻の扉を開く“鍵”は男。
檻が許した鍵だけが、女の心獣を自由に遣えるのだ。
対価はただ一つ。
獣を身に宿す性か、女は血に飢える。その時に己が身を捧げ喉を潤してやるだけ。
その、ささやかな代償のみ。
なんてことはない。
獣から人へと進化の道を辿った人間が、女は獣の形を、男は獣の心を忘れられなかっただけのこと。
力を持つものが頂を極める、ただそれだけのこと。
***********
はっ、はっ、と己の息しか聞こえぬ闇の中を、白縫は走っていた。
異様に動きの遅い己の手足を恨みながら、目指すは我が家。小さく、煤汚れた、けれど優しい『母』のいる温かな家。
---けれど白縫は知っている。
これは夢で、あの惨劇を止めるのに間に合わない。
それでも、懸命に手足を動かす先、見慣れた我が家をみつけ、一層我武者羅に駆けた。
「かあさま!!!!」
駆けた勢いのまま、粗末な扉を壊す勢いで飛び込む。
普段、『母』がその呼びかけを許すことはない。
何故なら、白縫の本当の母親は別にいて、その方は自分とは似ても似つかぬ尊い方で、己にそのような呼び方は相応しくないと言って。
それでも、母親が我が子を貧しさ故に殺すことが茶飯事のこのご時勢、白縫をここまで育ててくれた『母』は、白縫にとっては『母親』であったから。
心の中で幾度となく呼びかけたことはあったけれど、初めて声を通して---必死に呼ばったその声に、応えはなかった。
狭い室内に佇む背の高い黒い影は3つ。
それぞれの側にゆらりと漂うあれらは、各々が操ることを許された心獣。
床を夥しく濡らす赤い液体。
----やめて、見たくない。
けれど、白縫はあの時のように目線をずらしてしまった。
「かあ…さま…」
床に転がった『母』の首。
見開かれた濁った目と、目が、合う。
「---っ!!!」
跳ね上がるように上体を起こした白縫は、荒い息を繰り返す。
豪奢な寝台の上、汗に濡れた体に着物が張り付き気持ちが悪い。
時刻はまだ日が昇りきっていない早朝。
簡素な、けれど上質な必要最低限の調度品で整えられた室内。
扉の外に控える武官は、部屋の主が目覚めたことにまだ気づいていないようだ。
侍女が来るまで大分時間がある。
「くそ」
それまでに不快な汗を流してしまおうと、先ほどの悪夢を記憶の奥に無理やり押しやり1人毒づくと、ひんやりとする床に足を降ろした。
--白縫はあの日、囚われた。
大小の国が覇権争いに勤しむ中で一際力を持つ大国、銘炎国。
その国王の数少ない姫君が白縫とは--それこそ悪夢以外の何ものでもない。
銘炎国が首都、明張。
民が憧れて止まない王宮瑠淦宮が、白縫の現在の鳥籠である。
瑠淦宮に連れられて、すでに1つの季節が過ぎ去った。
時が経てば経つ程、銘炎国王に対する憎しみは募るばかり。
現在、銘炎国王に娘は1人しかいない。
後は皇子が4人。
近しい王族も、極端に女の数が少ない。
銘炎国王族は、慢性的に心獣不足に悩まされているのだ。
故に、白縫を血眼になって探し出したのだろう。
しかし、だからなんだというのか。
悪戯をした白縫を叱り、心細く泣いた白縫を抱きしめあやし、哀楽を共にして寄り添い生きたのは『母』だ。
白縫の母は『母』だけであり、白縫のたった1人の家族を殺したのは銘炎国王。
同じ血が流れるだけの他人の事情なぞ、知ったことではない。
瑠淦宮に連れられてからというもの、多くの人に傅かれ、贅沢な品々に囲まれ、高度な教育を授けられ、大国の姫君としての生活が始まった。
だが、それらの何一つとして、白縫の心を動かすものはない。
『母』が殺されたあの日、白縫の心も殺された。
白縫がこの窮屈な鳥籠の中に留まる理由はただ一つ、銘炎国王を弑すため。
遠征に出ている銘炎国王と対面するその時、その首を食い千切ってやるためだけ。
だから、白縫は今日も仮面を被る。
唇を噛みきるほど食い締めながら、愚かで無垢な姫君の仮面を。
***********
「---では、本日はここまでと致しましょう」
「もうそんな時間なのでしょうか。つまらない。折角面白い処なのに」
国史の教師の号令に、白縫は不満気に反論する。
皺の刻まれた目尻をさらにさげ、老師は楽し気に笑った。
「姫様は嬉しいことを仰る。勤勉なお姿に、私も感動致しまする。ここだけのお話、このように真剣にお話を聞いて頂けるのは姫様でお二人目でございます」
「え?けれど、先生は颯伽殿下たちにもお教えになったと--」
「はい。ですから、殿下たち含めてでございます」
「嫌だわ、先生ったら」
くすくす、と笑いあえば、控える侍女たちも相好を崩す。
「ですが姫様、颯伽殿下は貴女様のお兄様です。殿下などと他人行儀に仰らず、兄上と呼ばれては如何ですか?きっと、お兄様方はお喜びになりますよ」
「--私は、今までただの貧しい村人でした。それがいきなり姫君だなんて…。私でさえ未だ信じきれていないというのに、殿下方にとっては尚更でしょう」
「まさか!姫様がお越しになられた際には、お兄様方はそれはもうお喜びになられたのですよ」
当たり前である。心獣が増えるのだから。
誰が「兄」などと呼んでやるものか。
胸の内、燻る思いを秘め、白縫は立ち上がる。
「もう少し、心構えが出来ましたら、是非そうお呼びさせて頂きたいと思います。先生、本日は有難うございました」
大勢の侍女--という名の監視を引き連れ、大理石の敷き詰められた広大な廊下を、かつかつと硬質な音を響かせながら進む。
与えられた部屋へと戻る道中、向かいから来る人影を認め、白縫は思わず肩を揺らす。
白縫が気付いたことがわかったのだろう、男は膝をついた。
「白の姫君におかれましては、ご機嫌麗しく。颯伽殿下より、桜桐庭へお招きするよう申しつかっております。随侍致しますことお許し頂きたく」
無骨に切り揃えた銀に近い濃灰の髪がさらりと風にゆれる。
眼帯に覆われていない榛色の瞳が、鋭く白縫を射抜く。
「…許す。案内を」
声が僅かに震えたのに気づいたのはきっと白縫だけ。
「お前たちは下がってよい」
白縫の背後の侍女に命を下す男--颯伽第1皇子付き武官、右近衛少将亜誠の隻眼を、白縫はじっと見つめた。
いつか、『母』がぽろりと漏らしたことがある。
『母』には血を分けた、実の息子がいるのだと。
震える寂しい声で、きっと、自分を殺したい程憎んでいるだろうと続けたことが。
例え、『母』から聞いていなかったとしても、白縫はきっとすぐに亜誠が『母』の息子だとわかっただろう。
白縫をいつだって見守っていた『母』の榛色の瞳と、亜誠の瞳は同じなのだから。
「では、姫君。参りましょう」
それが、『母』とは真逆の温度を宿してたとしても。
当然だ。
白縫は、彼の『母』を奪った娘。
彼が受け取るべき、愛と慈しみを、横から掻っ攫った罪深き子供なのだから。
白縫の心はあの日に死んでしまったけれど、その残りカスがこの男に対してだけ微かに動く。
『母』を奪った罪悪感と、身勝手にも感じる親しみ、拒絶される寂しさと---名を付けられぬ感情が渦巻き、胸を締め付ける。
前を行く男の後頭部ばかり睨んでいたため、気配に聡い武人である亜誠にはその視線でさえ喧しかったのだろう。
「--何か?」
足を止めぬまま、無口が常である彼が珍しく口を開いた。
「い、いいえ。貴方の髪、雲の色ね。とても素敵」
「父方の血がでたもので。--この色だけが、私の誇れるものです」
「---」
言外に、母親譲りの榛色の瞳が疎ましいのだと告げられた。
「亜誠!」
敬称も忘れ、その腕に縋り付く。
避けることもできただろうに、亜誠は腕にぶら下がる白縫を見下ろした。
「私は、貴方の瞳が好きです。とても、大好きなのよ。どうか、そのように寂しいことを言わないで」
「……」
かさついた、分厚い掌が白縫の手を包んだかと思うと、そっと彼の腕から外された。
「それは、ご命令でしょうか姫君」
白縫が、どの面を下げて、亜誠に命令など下せるものか。
「…いいえ、いいえ…」
下に向かって呟く白縫に飽きたかのように、亜誠は歩みを再開してしまう。
かける言葉を持たぬ白縫は、一際強く唇を噛み締める。
色濃くなった唇を、亜誠が昏い目で見やったことに気付かずに。
庭師が丹精込めた花溢れる風流な庭園、桜桐庭。
それを一望できる四阿には、既に3つの人影があった。
「颯伽殿下よりお招き頂いたと存じ、白縫参りました」
「よく来たね、白縫。そんな処にいないで、こちらにお座り」
「有難う存じます」
「ヘぇ〜。これが、白縫姉上?ちょっと予想外。平民上がりのくせに、大人しくてつまらない。僕は若笹。君の弟ということになるけれど、呼び捨てになんてしないでよね」
少し癖毛の黒髪、猫のような碧眼を細めたのは、若笹第4皇子。
「颯伽兄様!!この女をこの席に呼ばないでとあれ程お願いしたのに、紅椿のお願いを無下になさるなんて大嫌い!」
若笹皇子に抱きついたのは、面差しの似た、こちらは薄紅色の瞳の紅椿姫。
若笹皇子の双子の妹である。
「こらこら。お前たちは本当にもう、口が悪い…。新しい家族に向かって酷いことを言うんじゃないよ。--すまないね、白縫。この子たちは、末子とあって、私たちが甘やかしてきたものだから、加減というものを知らないんだ」
黒髪を後ろに撫でつけ、濃紅の瞳を今は隠してにこりと清廉に微笑むのは、颯伽第1皇子。
白縫をここに招いた本人である。
「勿体無いお言葉です、颯伽殿下。紅椿姫は、大好きなお兄様をとられてしまうとお思いで心細くいらっしゃるのでしょう」
「白縫は大人だねぇ。これで紅椿の一つ上なんだから、驚きだ」
「颯伽兄様!!---そこのお前!颯伽兄様に気に入られようと媚を売るんじゃないわよ!これだから下賎な者は!」
「紅椿、五月蝿いから耳元で叫ぶなよ」
紅椿の言葉に、白縫は心の中で嘲笑う。
媚を売る?この男に?
そんなものが通用する男か、これが。
あの日、『母』を殺した3つの影の内の一つである颯伽皇子は、酷薄に唇を緩めた。
その瞳はいつだって、白縫の一挙手一投足を見逃さず、白縫の企みを見透かそうと冷たく見据えているというのに。
あの時。
『母』の死を目の当たりにした白縫は無我夢中で颯伽皇子たちに飛びかかったのだ。
その姿を忘れるはずがない颯伽皇子は、この短い期間に大人しく姫君に収まった白縫に不信感しか抱いてないだろう。
現に今だって、獲物を前に、どう甚振ってやろうかと考える猫のような爛々とした光を宿しているではないか。
「颯伽殿下…。やはり、私にはこのような席は勿体無く。退席をお許し下さいませ---っ?!」
視線を下げた白縫は、顎に指がかかったと思った瞬間、強い力で上を向かされた。
「私はお前に下がれと言った覚えはないよ。--あぁ、やはり、お前の面差しは父上に瓜二つだね。そのように、険しい顔をすれば、特に」
「うわ、本当だ」と若笹皇子の嫌そうな声と、「颯伽お兄様から離れなさいよ!」という紅椿の声が遠くで聞こえる。
白縫が顔を顰めているのは、颯伽皇子の指が痛い程顎に食い込んでいるためだ。
白縫と同じ色彩の顔が、目の前でにこりと笑う。
「そうは言っても、今回の茶会はそう時間を置かず終わらせなければならないんだ。だから、もう少しだけ、付き合っておくれ」
「何故か、お聞きしても?」
するり、と離れていく指が、猫の顎を撫でるかのように動いて去っていった。
「父上---銘炎国王陛下が本日お戻りだ。夜にはお前を披露するための宴が開かれる。その準備のため、少し慌ただしくなるからさ」
----あぁ、やっと帰ってきた。『母』の仇。お前を待っていた。
嬉しさのせいか、くらりと視界が歪んだ。
思わず動かした視線の先、四阿の側で護衛の任についていた亜誠と目があった気がした。
***********
白縫は、華麗な刺繍の施された豪奢な着物を羽織り、回廊を渡っていた。
颯伽皇子の言葉通り、手短に茶会を済ませた後は、やれ湯浴みやら化粧やら宴会の作法やらであっという間に夜となった。
白縫が今向かってい玉蘭の間には、主要な王族貴族と---待ちわびた、銘炎国王が揃っている。
機会は一瞬。
それだけで、白縫にとっては充分。
「白縫様。こちらでお待ちを」
先導していた侍女が、扉の前で止まる。
分厚い扉越しに、喧騒が騒がしい。
既に場は温まっているようだ。
白縫は、今一度今回の作法を思い返す。
王の座る玉座の下まで進み、膝を付き礼をする。
王より声がかかって顔を上げる---それ以降の返答についても色々言われたが、それ以降のことはもはや関係ないことと白縫は耳半分しか聞いていない。
「---白縫姫、ご入場ーーーー!」
声とともに、白縫の目の前が開かれる。
両脇に、ズラリと並んでいるのは主要な貴族の面々。
下座から上座へ足を進めるにつれ、見覚えのある顔がはっきりとしてくる。
一段と高くなったところ、玉座に腰掛ける男の顔は、今は御簾に隠れて見えない。
一段下、白縫より豪華な着物に身を包んだ女は、若笹皇子と紅椿姫の母である第一側女。
さらに下、颯伽皇子から順に皇子皇女が座す。
では、あれが第二皇子と第三皇子か。
颯伽皇子の背後に、亜誠の姿も見つけ、視線を逸らす。
「白縫姫、そちらで」
周囲を観察しながら足を進めていると、既に定例の位置にまで来ていたようだ。
もう少しだけでも近づきたいものだが、ここで不審がられても元も子もない。
しきたり通り、白縫は膝をつく。
ここから、文官の長い前口上のはずだが、壇上からの声がそれを黙らせた。
「お前が白縫か。許す。顔をあげろ」
思っていたより若々しい声。
これが、憎むべき仇の声。
憎悪と喜びが混じり、今にも飛びかかりそうになる体を押さえつける。
抑えきれなかった震えは、傍目にはただの緊張と取られたのか。
「白縫。顔をあげろ」
なかなか顔をあげない白縫に痺れを切らしたのか、二度、声がかかった。
白縫はようやっと、機械じみた動きでゆっくりと面をあげた。
玉座に腰掛け、行儀悪くも膝に肘をつきこちらを見やる男は、40に手が届くというのに未だ若々しかった。
日に焼けた肌、少しパサついた黒髪、こちらを見据える目つきの悪い瞳は白縫と同じ濃紅。強面だが、整った顔立ち。
銘炎国王の落とし胤としてふってわいた白縫に、誰もその出自を疑う発言がなかったことに、今なら納得できる。
白縫と彼の王の何と似たことか。
「---はっ!確かに俺の娘だな!白鶴の面差しもある」
「それにしても俺に似すぎではないか?---特にその目。---何を企んでいる?俺の白縫」
王の言葉に、周囲の武官が緊張を走らせる。
白縫は、誰も己を警戒させないため、血涙を流しながら被った無害の姫君の仮面を脱ぎ捨てた。
白縫は体術に秀でていたわけではない。
白縫は、参謀に秀でていたわけではない。
白縫は、武器を仕込ませたわけではない。
けれど、銘炎国王を殺せると確信している理由。
「初めまして、オトウサマ。そしてさようなら。私は私の『母』を殺したあなたが、殺したい程大っ嫌いだ」
己の中の「檻」を壊す。
瞬間襲いかかってくる酷い目眩。当たり前だ。己で己を壊しているようなもの。
けれど、白縫が唯一できること。
「出ておいで。私の心獣」
白縫の影から飛び出し銘炎国王にむかって一直線に駆け抜ける優美な獣。
白縫の心獣。
鍵がなくとも、白縫は心獣を檻から呼び出すことができた。
誰もが間に合わない。
当の銘炎国王その人でさえ、剣を抜けきらないまま。
鋭い牙を持つ獣の顎が、銘炎国王の喉笛に喰いつこうとした瞬間。
獣と王の間に身体を滑り込ませた人物を認め、白縫は息を呑んだ。
同時に、白縫の身体は地に引き倒される。
「陛下!!!」
悲鳴と、怒号と。
音の洪水が一挙に戻る。
白縫の身動きを封じるのは、白縫より長い蛇のような心獣。
その上で白縫を押さえつけるのは颯伽皇子。
ではこの心獣は皇子が操るものか。
酷い目眩に襲われながら、満足に動くことも出来ない中で、なんとか壇上へと顔を向け---。
「---あぁ---」
憎き彼の王は---。
頬に傷を負っただけ、そこに生きている。
息を、している----。
「俺は大事ない。亜誠、お前は大丈夫か?」
「ご心配には及びません。牙に引っ掛けられただけのようです」
白縫の心獣から王を守った亜誠は、肩に深手を負いながらも、しっかりとした動きで立ち上がった。
二人の側で不満気に漂う靄は、しかしすぅと消えてしまった。
実体を保てなくなった白縫の心獣が、白縫の中に戻ってきたことを感じる。
がんがんと、頭の中で鐘が鳴り響くような目眩。
己で檻を壊してしまった代償と---最悪のタイミングでの、久方ぶりの血液への飢えである。
「---さて、白縫。この俺に傷を負わせた刺客は久しぶりだ。褒めて遣わそう。お前が俺を殺す理由は先程聞いた通りというわけだが---。どうしたものか。特異な力を持つお前を、俺はますます殺す気はない。だが、大人しくしていないと扱い方を変える必要がある」
「何を仰るのです、我が王!この娘は王を殺そうとしたのですよ!早々に死罪になさってください!」
「あぁ、そう喚くな。-------」
「----!-----!」
目眩と、飢えが酷くて、周囲の音が水の中から聞いているかのように不明瞭だ。
白縫の不調にいち早く気付いたのは颯伽皇子だった。
「?白縫、お前酷い顔色---まさか、「飢え」が始まったのかい?!父上、亜誠を貸してください!」
颯伽皇子が顔色を変えた。
女を襲う「飢え」は、酷い時には心を殺し、廃人となる場合もある。
「お前、貸すって物じゃねぇんだから---おい、白縫が「飢え」てるのか、それは」
「どこから見てもそうでしょう!丁度血を流した亜誠がいる。亜誠、早くこちらに来い!」
颯伽皇子に抱き抱えられ、脂汗の浮かぶ額に張り付いた前髪が優しく払われる。
薄っすらと瞼をあげれば、亜誠がどこか戸惑ったような顔をして覗き込んでいた。
「白縫、聞こえているね?亜誠の血を飲みなさい」
「……嫌だ…」
「何を言ってる、そんな死にそうな顔をして!」
「うるさい、死なない。…今までだって飲んでこなかった。暫くしたら治る…」
「今までって…まさかお前、今まで一度も血を飲んだことがないのかい?!」
「……」
白縫の沈黙の肯定に、颯伽皇子と亜誠は顔色を変えた。
確かに、女は鍵となる男から血を飲むのが普通だ。
しかし、鍵を見つけていない女でも、等しく「飢え」は襲ってくる。
その場合、近親者から血を分けてもらう。
だが、鍵が見つからず、近親者もいない女もいる。
血を飲むことが出来ず、「飢え」を癒すことが出来ない女は、20を数える程生きた例しがない。
「白縫。我儘を言わずに飲みなさい。女が一度も血を飲まずに生きることは、どの道できないのだよ」
「…要らない…」
「…その強情さは我が王家に相応しいけれどね…」
「亜誠の血だけは…要らない」
白縫の言葉を聞いた亜誠が、眉根を寄せる。
「何故です」
答える気はない。
颯伽皇子の胸に顔を押し付けるように、拒絶を表した。
亜誠がますます尖った気配を出し始めた。
---だってお前、私の邪魔をしたじゃないか。お前は、憎い王の味方じゃないか。
「白縫。あまりにも聞き分けがないと、無理やりねじ込むよ」
とうとう物騒なことを言い出した颯伽皇子の顔をぼーっと見上げ、静観している銘炎国王を振り向いた。
「王よ。先程お前は言ったな。私がお前に傷をつけたこと、褒めて遣わすと」
「言ったな。さすが、銘炎国王の娘。俺の娘だ」
「では、褒美を貰いたい」
周囲が慄いた。
自分を殺しかけた者に褒美を与えよなどと狂ったことを言い出す皇女に、聞いていた者は正気を疑った。
ただ、王その人は、楽しげに唇を釣り上げた。
「いいだろう。何が欲しい、白縫」
力が入らない腕を、震えながら無理やり持ち上げ指差した。
「亜誠が欲しい」
「---え」
細い指で指された亜誠は、困惑も露わに固まった。
周囲の者は尚のこと、余りに突飛な内容に声も出ない。
「---はっ、はははは!颯伽、どうする?可愛い妹の初めてのおねだりは、お前の武官だそうだ」
「……いいでしょう。亜誠は白縫に譲ります」
不承不承といった態で、颯伽皇子は吐き出した。
そして、未だ固まったままの亜誠の腕に、白縫を託す。
「あ、の、颯伽殿下」
「聞いていただろう、亜誠。今この時より、お前の主人は白縫に変更だ」
「おい、白縫、聞こえたか?颯伽がお前に亜誠をやるとさ。亜誠はお前のものだ」
亜誠の肩に寄りかかり、その肩越しに王を見やる。
楽しげな濃紅と、「飢え」に苛まれる濃紅が交わる。
「---次は殺す」
小さな囁きは、白縫が身を預けた男と---唇の動きを読んだ、殺意を向けられた男しかわからなかった。
「俺の娘は俺に似て威勢がいい」
ほざく王の言葉を聞き流し、白縫の心獣がつけた傷跡に舌を伸ばす。
王への暗殺宣言を聞いた亜誠は、その身を固くしたものの、白縫を優しく抱えたまま。
白縫が肩の傷に口をつけやすいようにと身を捻ってきたので。
---今は、いい。
亜誠を手に入れた。
両腕にこの男を抱いて、いつの日か、銘炎国王の首を喰いちぎろう。
いつかの日の夢を脳裏に描きながら、白縫は瞼を下ろした-------。