05
「お母さま、ねえ、これ、お母さまの?」
娘が手にした赤い上衣に、ロゼマリーは目を細めた。「あら、あら。懐かしいわねえ。どうしたの?」
「屋根裏の櫃に入っていたのよ。古いけれど、可愛いわ。ねえ、これくださる?」
「またお母様の昔のお服を荒らしていたのね」ロゼマリーはくすくす笑って、娘の額を軽くつついた。娘は満面の笑顔で「ねえ、いいでしょう?」と言った。少し生意気なくらいの言葉遣いと、八歳という年相応の振る舞いに、ロゼマリーは胸の奥があたたかくなるのを感じた。
「そうね……でも、あなたには少し大きいわよ」
「平気よ。だって、去年からこんなに伸びたわ」彼女は、こんなに、と言いながら、額の高さに手をやった。きっと、去年の身長はこのくらいだったということを伝えたいのだろう。
――きみくらいの年頃の子は、すぐに背が伸びるからね。
ああ。懐かしい。もう顔も思い出せないあの男。ロゼマリーはあの男が去った半年後、家に戻った。あの一日だけが冒険で、あとの日々は平穏に過ぎ去った。両親が海の向こうから帰ってきて、ロゼマリーも再び馬車に乗り、やがて潮風の匂いを嗅ぎとった時の感情を、ロゼマリーはまだおぼえていた。
伯母はその三年後に亡くなった。森の家で、一人で、しかし幸せそうな表情だったと。結局、ロゼマリーは伯母のことをほとんど知らないままだった。
ロゼマリーは、十八歳で下級貴族の家へ嫁に入った。夫の一目惚れだった。ロゼマリーの結婚は、両親が望んだほどはぱっとしなかったが、誰の予想よりもすんなりと進み、それまでに聞いていた社交界の恐ろしい噂なんて嘘のように平穏だった。
「それ、お父様が見たら喜ぶわよ」
「え?」
「あのね、お父様は、それを着ているお母様に一目惚れをしたのよ?」
見初められた日、ロゼマリーは、海の向こうの布でしつらえてもらった衣装の上に、その赤い上衣を着ていた。港町では、山間の民の素朴な衣装は珍しく、流行りの服装で飾り立てた誰よりもロゼマリーを華やかに見せていたから。それ以来、赤い上衣は夫婦の思い出の品になった。
「えええ?」娘はまじまじと赤い上衣を見下ろして、それから顔を輝かせた。「ねえ、お願い。そのお話を聞きたいわ。お父様とお母様が会った日のお話よ」
そうね、とロゼマリーは微笑んだ。微笑みながら、内心では数年ぶりに、夫ではない男のことを考えていた。
彼が王子でも何でもないことをロゼマリーはもう知っていた。知り合いの商人の一人がたまたまあの男のことを知っていて、あれは貨で戦争を引き受ける傭兵だったのだと教えてくれた。徒党を組まず、一人で戦場を渡る変わり者。名の知れた腕利きだったと。
あの男は、ロゼマリーと出会った四年後に死んだのだそうだ。山の方で起こり、ロゼマリーの港町さえ不安に陥れたあの災厄に関わって、多くの男達とおなじように命を落とした。
「そのお話、前にもしたわよ」ロゼマリーは笑いながら言った。
「でも、この服のことは教えてくれなかったわ」娘は頬をふくらませた。彼女はもう、上衣を欲しがっていたことを忘れて、両親の若かりし日の恋愛に興味を移している。
ロゼマリーもおなじようにあの男のことを意識の端に追いやった。あれは些細な出来事に過ぎなかった。ロゼマリーはあれから数えきれないほどの人々と出会い、すれ違ってきた。嘘つきの王子さまも、そのうちの一人に過ぎない。何より、今は夫と娘が誰よりも愛おしい。
ロゼマリーは娘の髪を撫でた。
「仕方がないわねえ。でも、少しお待ちなさい。お茶を用意して、お庭でお話しましょう」
「ええ!」
娘は頷いた。そして上衣を抱き抱えて駆けていった。
ロゼマリーはその後ろ姿に、男のことでも、伯母のことでもなく、森で過ごした幼いひとときを思い出して、目を伏せた。
[終]