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02

 だけど、本当に王子さまだったら? そうだとしたら考えてみる価値はあるかも知れない。少なくとも隣に黙って立っていさせるだけならじゅうぶん合格なのだ。残念なところを矯正するには、結構、手を焼きそうだけれど。

 ロゼマリーは改めて男をまじまじと眺めた。

「ローサちゃん?」

「……あなた、貴族の礼儀作法は知っている?」

「必要以上には存じません、お嬢様」男は、言葉こそ適当だが完璧な発音で答えた。ロゼマリーは驚いて、逆に胡散臭いものを見る視線で男を見上げた。男は楽しそうに笑って目を逸らした。「職業柄、たまに必要なんだ」

「職業? 狩人や家具職人に、貴族の言葉が必要なの?」

「必要だよ。貴婦人の食卓に獲物を献上する時にも、姫君の寝室を飾る鏡台のお披露目をする時にも……さて、食事にしよう。乗馬はお腹が空くでしょう?」

「そうね」ロゼマリーは頷いた。実際にその通りだった。

 久しぶりの町なので、見たい店はいくらでもあったが、まずは食事というのは悪くない考えだった。

「ねえ、そのあとは、あたし、ここの人がみんな着ているような、赤い上衣が欲しいわ。とても可愛いもの。真っ白な長衣を伯母さまの家に持ってきているの。重ねて着たら、きっと、とても素敵よ」

「それは、ぼくに買えって言ってるんだよね?」男が訊ねた。ロゼマリーは言い返した。「王子さまなら、そのくらい平気なのでなくて?」

 男は苦笑し、一着だけだと請け負った。ロゼマリーは満足した。

 ロゼマリーはそれから、お菓子を買いたい、小物を見たいと、思いつくままに希望を告げた。

 男は行く手の時計台を見上げた。「わかった」彼は、女の子の買い物にはとても時間がかかることなんて知っているよと言わんばかりの表情で頷いた。「ただし、三時には町を出るよ。あまり遅くなるとロッテが……」

「伯母さまに怒られるのなんて、怖くないわ」ロゼマリーは言った。男は微かに笑ったが、言い返さなかった。

 朝食は、素朴な山間料理だった。濃い味付けをされた肉と山菜にロゼマリーはあまり満足しなかったが、山苺の果汁と牛乳を混ぜた飲み物のことはとても気に入った。いずれにしても、早朝から何も食べておらず、また乗馬で疲れていたから、ロゼマリーはお上品な食器使いで総ての皿を空にした。男は更に、ロゼマリーのために小さな焼き菓子を注文してくれた。

 紅茶を飲んで、外に出た。日が少し高くなり、石畳に白く反射して眩しく見えていた。

「いたぞ、あの娘だ」

 声が聞こえた。ロゼマリーが周囲を見渡すと、数人の若者が二人に向かって駆けてくるのが見えた。ロゼマリーは思わず足をとめた。

「知り合い?」男が訊ねた。

「さあ、知らないわ」ロゼマリーは答えたが、若者たちの視線はロゼマリーに固定されており、彼らはまっすぐにロゼマリーに向かってきていた。なんだか、その姿は蛇が這ってくるようにも見えた。もちろん、そういう風におかしな動きをしていたわけではなかったけれど。

 男がロゼマリーの前に割り込み、若者たちに声をかけた。「お兄さんたち、この子に用?」

 若者二人は顔を見合わせた。ロゼマリーは改めて彼らを見た。二人はこの都市の人々とは違う飾り気のない格好をしていて、商人とも貴族とも平民とも雰囲気が異なっているように見えた。

 片方の若者が答えた。「親御さんに頼まれて、お嬢さんを迎えに来たのさ」

「嘘」男が即答した。

 若者は一瞬、ぎょっとしたような顔をした。「嘘じゃない。彼女はラウク商会のご令嬢のロゼマリーだろ?」

 今度は男が不思議そうな顔をした。彼はロゼマリーを振り向いた。「……そうなの?」

 ロゼマリーはそうよと答えようとしたが、男の後ろで若者が棒のようなものを振り上げるのを見たので、思わず息を呑んだ。

 男はロゼマリーの表情から異変を察したらしく若者を振り返り、「わ」と声を上げて腕を掲げた。棒――握りやすく加工された木製の棒は鉄に弾かれ、若者は衝撃に一瞬、硬直した。その隙に男はロゼマリーの手を引いて駆け出した。

「きみのお父さんとお母さん、過激な人だねえ」

「違うわよ! 知らない、あたしの家にはあんな気持ち悪い人いないもの」

 背後から怒鳴り声が追ってきた。道行く人々が何事かと視線を向けてきたが、それ以上に関わろうという者はいないようだった。

 ロゼマリーは男を見上げた。「追いつかれちゃう」

 男はわずかな間、思案の表情を浮かべたが、いきなりロゼマリーの手を引き寄せ、そのまま一挙動で彼女の体を抱え上げた。そしてすぐに再び走り出す。

 彼は結構な速さで角を曲がり、追手の姿が見えるか見えないかの内に路地裏に逃げ込んだ。家々の間の複雑な隘路を適当としか思えない順番で駆け抜けると、追手の気配はなくなった。

「はい、お疲れさま」

 男はロゼマリーを降ろした。

 ロゼマリーは少しの間ぽかんとしていたが、我に返ると慌てて服の裾を直し、周囲を見渡した。彼女は人の気配がしないことを確かめてから口を開いた。

「逃げている間、心当たりを考えたのだけど、お父さまの商売敵に、一人、そういうことをしそうな人がいるわ。前に、人質を取って、別の商人の事業を潰したことがあるのよ。きっと、うちの商売を邪魔するために、あたしを掠いに来たんだわ」

「え、そういう話なの?」

「何が?」

 男は苦笑した。「何でもない。可愛い女の子の護衛なら、嬉しい仕事だよ」

「がらの悪い人たちと繋がってて、お客を脅して、商品を無理やり高い値段で買わせたり、他の商人との取引をやめさせたりするって聞いたことがあるわ」

 言っているうちに、親や周囲の大人達から聞いていた悪評を思い出してきた。彼が、ご領主から直々に注文を受けて高級品の輸入の手配をしているロゼマリーの両親の邪魔をしようとするのは不自然ではないように感じられた。

「今までにちょっかいをかけられたことは?」男が訊ねた。

「何年か前に一度。でも、召使や護衛が一緒にいたから平気だったわ。今度は……」

 ロゼマリーは男をじろじろと眺めた。輝くばかりの金髪、切れ長の青い目、端正な顔立ち。引き締まった首、意外と広い肩幅。旅装、鉄の腕、生身の手。見た目はいいが、問題は中身だ……ロゼマリーは判断に迷い、声をひそめた。「あなた、強い?」

「うん」男はあっさりと頷いた。

 その潔さに、ロゼマリーはひどく不安になった。

「早く、伯母さまの家に戻りましょう? また見つかったら大変だわ。あの二人だけとは限らないもの」

 男は午前の空を見上げた。路地の合間からは太陽は見えず、抜けるような蒼に、薄い雲が幾筋か白を添えていた。ロゼマリーは彼の返事を待ちきれず、いらいらして言った。「何を考えているの?」

「え? うん」男はロゼマリーに視線を戻した。「買い物をどうしようかなぁ。帰っても、食べるものがないよ」

「それどころじゃないでしょう!?」ロゼマリーは叫んだ。「追いかけられているのよ!」

「でも、とりあえず銀行に行きたいな。武器を預けてあるんだ。持ち歩くとロッテが嫌がるから」

「……武器?」いきなり物騒な言葉だ、とロゼマリーは思った。今、一番必要なものかも知れないけれど。「狩人の武器?」

「獣も狩れるね。うまくすれば」男は肩を竦めた。「なくてもいいけれど、お貨を引き出す必要があるかな。手持ちで足りるかなぁ……」男はまだ買い物を諦めていないらしかった。

 ロゼマリーは彼を睨んだ。男は苦笑した。「だって、そのために来たんだから。ぼくは簡単には計画を変えないよ」

 彼はさっさと歩き出した。ロゼマリーはどこへ向かっているのかと訊ねたが、恐らく目的地なんてないのだろうとも思った。町は小さく、すぐに表通りに出ることができた。ロゼマリーは恐る恐る見渡した。先程の若者たちの姿はなかった。

「見つかったらどうするのよ」

「一、人目のあるところに逃げる。ニ、警備隊の派出所に駆け込む。三、……」男はわずかに声を落とした。「ぼくが格好良く撃退する」

「え?」

 男は答えず、前の晩にも聞いた鼻歌を歌いながら、のこのこと歩いていった。ロゼマリーは不安になりながらもついていくことにした。もちろん、文句は言いながら。

 男はロゼマリーの態度を咎めなかった。それどころか、姿を隠すためと称して、ロゼマリーに、頭巾がついた赤い上衣を買った。ロゼマリーは裾に透かし模様の入った上衣を羽織り、肩が暖まるのを感じてから、風が思った以上に冷たく、体が冷えていたことに気づいた。

 伯母の家では暖炉や他の暖房器具が丁度いいように調節していたから、あまり意識したことはなかった。港町から持ってきた服のざっくりとした生地は、山の気候には合わないようだ。

「うん、似合う」男はそう言いながら、ロゼマリーの頭巾を引き上げて、彼女にかぶらせた。

「少し大きいわ」

「きみくらいの年頃の子は、すぐに背が伸びるからね。丈が長く見えるけれど、平気、可愛い」

「そうかしら」ロゼマリーは店の鏡に映っていた自分の姿を思い出した。悪い感じはしなかった。少し大きめの上衣を羽織った少女というのも、可憐に見えていいかも知れない。

 ロゼマリーは上衣の裾をなびかせるようにくるりと一周して、少し機嫌を直した。「次はどこ?」

「市場。あそこは人が多いから、見つかってもそんな騒ぎにはできないと思う」

「そうだといいわね」ロゼマリーは答えた。正午を告げる鐘が聞こえた。あれ以来、一時間以上、若者たちの姿を見ておらず、諦めて去ったのかも知れないと思い始めていた。

 だとしたら、この男も意外と役に立つものだ。と、改めて見ていたら、重要なことに思い当たった。

「あたし、あなたの名前を知らないわ」

「えっ!?」男がひどく驚いた声を上げた。「なんでっ? 何日も一緒にいたよね」

「名乗らないあなたがいけないわ。伯母さまも“ちょっと”とか“あなた”としか呼ばないし。いい? あたしが今までに会ったことがある立派な人たちは、初対面でまずご挨拶をするし、そうでなければ知り合いが紹介をしてくれるものよ。そうでないのは召使くらいだもの」

「きみ、本当にお行儀がいい子だね」男の声には呆れのようなものが含まれていた。彼は言った。「ヘルフテって呼んで」

 ロゼマリーは彼を睨んだ。「半分[ヘルフテ]? それは名前ではないわ。あたしを馬鹿にしているの?」

 男は苦い顔をした。「マックス」

「総て[マクシムム]? マクスウェル? それともただのマックス?」

「マクシミリアン」

 あまり聞かない名前だけれど、貴族の命名法に則った人名のような響きだった。ロゼマリーは訊ねようと口を開きかけたが、男が遮るように手を振って、背中を向けて歩き出した。

 そして、すぐに立ち止まった。ロゼマリーは、行く手から、鎖帷子で武装した騎士らしき人物が数人、駆けてくるのを見た。

「いたぞ、あの男だ」

 男が首を傾げた。「おや?」

「女の子を連れているぞ」鎖帷子の一人が言った。

 もう一人が、憤然とした様子で答えた。「奥さまをたぶらかしただけでは済まず、子供にまで手を出しているのか……!」

 他の鎖帷子が言った。「なんて見境のない! やはり生かしておくわけにはいかんぞ」

「……」男は立ち止まったまま、鎖帷子の一団が一定の距離でとまり、剣の柄に手をかけるのを眺めていた。

 ロゼマリーは状況がわからず黙っていたが、この男が何かの犯罪者である可能性に気づいて身を引こうとした。その一瞬前に、男の腕が伸びてロゼマリーを捕まえた。痛みはなかったが、ロゼマリーは突然のことに驚いて「きゃっ」と声を上げた。

 鎖帷子が余計に色めき立った。

「人質か!? なんと卑劣な……」

 男はようやく口を開いた。「ええと、じゃあ、そういうことで」

「ちょっと」ロゼマリーは叫んだ。「どういうことよ、ねえ!」

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