01
ロゼマリーが伯母の家に預けられたのは、十一歳の春のことだった。
両親は港町の裕福な商人だったので、ロゼマリーは町並みを見下ろす風通しのよい屋敷で、召使に囲まれて、丁寧に丁寧に扱われて育った。
帝国の北の海に面する港町を、帝都や他の都市からやってきた旅人たちは、とても寒いと評する。
けれどロゼマリーにしてみれば海の風は清涼で、景色はどこまでも青く、輝かしい夏と激しい冬が交互に訪れる一年は劇的で魅力的だった。
「いい子にしているのだよ、ローザ」出立前、父はロゼマリーの頭を撫でて言った。「ご領主様から直々のご注文なのだ。海の向こうの北の国から色の良い絹を買ってきて、船で運び、売るのだよ。伯母さまと一緒に待っておいで、ローザ。帰ってきたら、色とりどりの衣装をしつらえてあげよう。外国のお菓子も持ち帰ろう」
そして両親を乗せた船は穏やかな春の海に出航していった。
ロゼマリーは色とりどりの衣装とお菓子を楽しみに馬車に揺られて伯母の家に向かった。けれど、街道の南へ行くたび、どんどんと不機嫌になっていった。というのも、緑豊かな土地に吹く風は今までにないほど生暖かく感じられ、また、快い潮の代わりに香るのは、鼻の奥に重く残るような、土と植物の息吹だったから。
「信じられないわ」ロゼマリーは風通しの悪い都市を抜け、森の奥へ至る径を馬車の窓から眺めながら言った。「信じられないわ、みんな、よくこんな息苦しい場所で暮らしていられるわね」
御者は苦笑するばかりで口答えはしなかった。ロゼマリーが文句を言い募るうちにも、馬車はがたごとと砂利の道を走り抜け、ついには終点へと辿り着いた。
そこにはロゼマリーの屋敷よりもだいぶ小さな、二階建ての慎ましやかな家があり、手前の庭には花壇が設えられていた。伯母は土に汚れた手袋を外してロゼマリーの元に歩み寄り、あたたかく彼女を迎え入れた。
森の匂いには辟易していたけれど、招き入れられた家の木の調度と白い壁、素朴な刺繍の布に飾られた家のことは一目で気に入った。まるで絵本かおとぎ話のようだったから。
その日から、ロゼマリーは伯母の家で暮らすことになった。
伯母は優しく、家は素敵だったが、娯楽のない生活は単調で、ロゼマリーをすぐに飽きさせた。何より、着飾ってもそれを自慢する友達が一人もいないのは物足りなかった。
ロゼマリーには気に入らないことがもう一つあった。家には見知らぬ若い男がいて、まるで当たり前のように一緒に生活していた。彼はロゼマリーが気に入るくらいには見目の良い容姿をしていて、愛想もよく、たとえばロゼマリーが高い場所にあるものを取ろうとした時などには手伝ってくれたが、肝心な時には常に、ロゼマリーよりも伯母を優先しているように思えた。
伯母は少し体が弱かったから、不思議なことではなかった。しかし、ロゼマリーは両親の愛と関心を独占して育ち、富豪の娘として常に人に囲まれることに慣れていたので、彼の態度はおもしろくないと感じていた。
「あなた、誰なの?」三日も過ぎた頃の日差しが明るい朝、ロゼマリーが詰問すると、男はきょとんとした表情をした。「誰って、きみこそ誰?」
ロゼマリーは驚いて、男をまじまじと眺めた。きらきらした金髪と、海よりも青い切れ長の目は、絵本の王子様のように素敵なのに、どうしたらそんな馬鹿な質問をできるのだろう? 片方の腕が鉄であるように、頭の中も、人とは違うものでできているのだろうか。
「あたしはロゼマリー。シャルロッテ伯母さまの姪よ。伯母さまから聞いていないの?」
「聞いていないよ」男は答えた。ロゼマリーはその言葉にも驚いたが、男は続けて言った。「ロッテは、ただ、ローサという名前の可愛い女の子が来るとしか言っていなかった。彼女が言った通り、きみはとても可愛いから、それ以上のことは気にしなかったな」
ロゼマリーは可愛いと言われて嬉しくなった。しかしなんだかごまかされているような気がして、緩みそうになる頬を抑えて男を睨んだ。
「すぐ女の子を褒めて丸め込もうとする男は、悪いのよ」
「そうかなぁ」男は笑った。
「じゃあ、あなたは何なの? まさか、伯母さまの恋人だなんて言わないわよね?」
「内緒」男はロゼマリーの髪を撫でた。ロゼマリーは反射的に頭を抑えて身を引いた。男は肩を竦め、彼女にひらひらと手を振って、玄関脇に立てかけてあった弓を取り、家から出て行った。
その日の晩餐は、葡萄酒でやわらかく煮た山鳥だった。
ロゼマリーは、伯母から狩りの成果を褒められて嬉しそうに笑っている男の姿に少し嫉妬をおぼえた。ロゼマリーだって、伯母の手伝いをして料理をつくったのに。
「狩りが得意なのね」ロゼマリーは上品に料理を食べながら、男に言った。「意外だわ。暇そうにしているだけだと思ったら、役に立つじゃない」
男は食器を手に、微笑んだ。「ありがとう。希望があれば、明日はそれを猟ってくるよ」
「新鮮な、海の魚を食べたいわ」
ロゼマリーの言葉に、彼は少し困った顔をした。伯母の家は海から離れた森の中にあるから海の魚は釣れないし、運ぶにしても、塩漬けにしなければ腐ってしまう。
ロゼマリーは意地の悪い思いつきに少し満足した。けれど、伯母に穏やかに睨まれて、こっそり頬をふくらませた。ロゼマリーは自分が最も大切にされることに慣れていて、男が伯母を優先させることも、伯母が男の味方をすることも、何だか気に入らなかったのだ。
食事が終わると、男は皿や肉叉を台所へ片付けた。洗い物は伯母かロゼマリーがやる。鉄の手で食器を傷つけられてはいけないから。そう、ロゼマリーはあの腕のことも気に入らない。冷たいし、鉄の匂いがする。どうやってか知らないけれど、鉄を身体にくっつけるなんて信じられない。彼がロゼマリーの屋敷がある町へ来たら、潮風に腕を錆びさせられて閉口することだろう。
「あのひと、何なの?」ロゼマリーは囁いた。「伯母さま、騙されているのではなくて? 世の中には、一人暮しをしている女の人の家に転がり込んで、働きもせずに“きせい”している男もいるのですって」
伯母はくすくすと笑った。「そうね、彼はまさにその通りね」
「そんなの駄目よ」ロゼマリーは言ったが、台所から男が戻ってきたので口を噤んだ。彼はわけのわからない鼻歌を歌いながら現れて、伯母とロゼマリーに笑顔で手を振り、二階へ上がっていった。ロゼマリーは彼を憮然として見送ってから、再び言った。「騙されているのよ、伯母さま。見た目はいいけれど、あの人はよくないわ。だって、食べてすぐに寝るのはだらしないって、父さまが言っていたもの」
伯母はやはり、そうねえと言って笑った。ロゼマリーはますます不機嫌になった。
「あのひと、何なの、伯母さま?」繰り返して言うと、伯母は今度は答えた。「さあ、知らないわ。森に倒れていたから、何日か空き部屋に寝かしてあげただけよ。そうしたら、お礼に家の手伝いをしてくれるって言うから、お願いしているの」
「すっごく怪しい」ロゼマリーは言った。「大体、手伝うも何も、ほとんど働いていないじゃない。狩りだって、ときどきの獲物より、いつもあのひとが食べる量の方が多いのよ。あたし、ちゃんと見ているんだから。理由をつけて居座っているだけに決まっているわ」
「きっとそうなのでしょうね。でも、ローザ。お料理に使う薪がなくならないのはどうしてかしら」伯母は言った。「あなたが使いたいと言った古い鏡台を直したのは誰? 洗濯のための水を用意しているのは?」
「いつの間にそんなことをしていたの?」ロゼマリーは悔しさと納得できない気持ちから訊ねた。
伯母は笑った。「朝、あなたが起きて来る頃にはもうほとんど終わっているわ。あなたのおうちと違って、ここには召使がいないから、朝がとても早いのよ」
ロゼマリーは、世間知らずの怠け者だと言われたように感じて、思わず寝室に逃げ込んだ。けれど、両親がロゼマリーに期待しているのは、細々とした仕事で手を荒らすことではなくて、可愛らしさと礼儀と教養で貴公子に見初められて、爵位のある立派な貴族の家にお嫁にいくことだ。今だって、伯母の家には家庭教師はいないけれど、淑女が当然知っているべき文学作品を、一人で少しずつ読み進めている。
もやもやと悩むうちに寝入ってしまい、次に目が覚めた時には窓帷にうっすらとした朝日が透けていた。寝直そうと思ったが、何だか目が冴えていた。
外から聞こえる物音に、そっと帷をずらしてみると、男と、栗毛の馬と、驢馬が見えた。馬には鞍と鞍袋がつけられ、男も旅装に身を包んでいた。
まさか出て行くのだろうかと覗き見ていると、不意に、男が振り向いた。彼ははっきりとロゼマリーと視線を合わせて微笑み、何かを言った。おはよう。
ロゼマリーは驚いて帷を閉めた。深呼吸。何もやましいことなどないのだ。驚いただけで。そう結論づけてから、今度は帷を勢いよく払い、窓を開け放った。
「どこへ行くの? 出て行くなら、挨拶くらいするものよ」
「おはよう。町へ行くんだよ、買い物をしに」
「町へ?」ロゼマリーは訊ねた。伯母の家に来てからまだ五日も経っていなかったが、町の賑やかさが懐かしかった。「あたしも行くわ」
「ロッテに話しておいで」男はあっさり答えた。ロゼマリーは普段より慌しく身支度をして階下に降りた。
伯母はロゼマリーを見ると目を丸くした。「今朝は早いのね」
「あたしも町へ行くわ」
「あら。でも……」伯母は首を傾げた。
「あのひとは、伯母さまがいいって言えば、連れて行ってくれるって」
「そうねえ。あまり、彼を困らせないようにね」伯母は答えた。ロゼマリーはその言葉に少し不機嫌になった。それでも勉強した礼儀を思い出して、「ええ、伯母さま」となんとか応えて、身を翻した。
外に出ると男が待っていた。「馬に乗ったことは?」
「ないわ。いつも馬車だったもの」ロゼマリーは答えた。男は半ば予想していたような態度で頷いて、恭しくロゼマリーを抱き上げて鞍に乗せた。
「後ろに乗っても?」
「子供扱いしないで」ロゼマリーはきっぱりと言った。男は苦笑して、鞍の前部に跨った。「そんなに速くは走らせないけれど、ちゃんと捕まっていてね」
馬は森の径を進んでいった。ロゼマリーは、時折羽音を立てて寄ってくる虫と、馬の獣臭さにじきにうんざりした。馬が歩く振動で衣装が少しずつずれて、変なふうに捻れているのが不快だし、革の鞍とお尻が擦れて、すぐに痛み出した。
「やっぱり森は嫌よ」ロゼマリーは小声で言った。男には聞こえなかったらしく、返事はなかった。振り返ると、驢馬は大人しく馬のあとをついてきていた。ロゼマリーは、その湿った鼻面を見てまた嫌になった。
その時、大きな蜂が目の前に現れたので、刺されないよう、男の背に顔を押し付けた。そうすると剥き出しの手や首元も気になってきた。
「どうしたの、ローサちゃん」男が訊ねた。
「いつ森を抜けるの?」
「まだまだかかるよ」
ロゼマリーはできるだけ早くと彼に要求した。男は渋ったが、再度、ロゼマリーが強く言うと、従った。そのせいでじきに森を抜けた。しかし、馬が余計に揺れたから、ますますお尻が痛くなり、視界が開けた途端に休憩を要求しなければならなかった。
「んー、いい眺め」男は伸びをしながら言った。ロゼマリーはそんなことに気を散らすどころではなかったが、男が更に騒ぐので行く手に目を向けた。
そして息を呑んだ。
眼下には起伏に富んだ緑の大地と、埋もれるように小さな町があり、赤い屋根の家々が並んでいるのが見えた。蒼穹に向けて伸びる一際高い屋根は教会だ。屋根の上に聖印が燦めいている。
「絵本みたい」ロゼマリーは呟いた。男は満足そうに頷いて、「ぼく、こういう景色が好きなんだ」と、聞いてもいないことを言った。
ロゼマリーは素直に「そうね」と同意した。それから、ふと、思った。「伯母さまは、どうして町に住まないのかしら?」
男は肩を竦めた。ロゼマリーが覗き見た顔は何かを隠している風ではなかったから、知らないのだろう。ロゼマリーは疑問の答えが得られない不満と、心配していたほどには彼と伯母が親密ではないらしいと知った安堵の、両方を感じた。
二人は馬と驢馬を預け、町町の中を進んだ。石畳の町並みは玩具のようで、ロゼマリーの目を楽しませた。行き交う人々は故郷の港町とは違い、長袖の服に赤や紺色の短い上衣を重ねた衣装を着ていて、ロゼマリーはその可愛らしさにすっかり驚いた。青空から注ぐ日差しは強いが、山から吹き降ろす風は涼しく、心地良かった。
「あたし、この町なら好きになれたわ」ロゼマリーは言った。
男は苦笑した。「あの家は嫌い?」
ロゼマリーは答えた。「いいえ。でも、森は嫌い。土臭くて、虫が多いし、周りには木ばっかりなんだもの。家に――港町の、あたしの家にいた頃は、森もいいかなって少し思っていたけれど、がっかり」
「綺麗な花が咲いていて、泉の畔に可愛い鹿や小鳥がいて」
「そうよ、それよ!」ロゼマリーは勢い良く男を振り仰いだ。男は足をとめた。ロゼマリーは彼に言った。「想像と違いすぎるわ。期待しすぎていたのかしら」
「そういうの、森以外にもたくさんあると思うよ」
「どういうこと?」
「“美しい淑女と聞いていたのに、何だ、この我侭娘は!”」男は諳んじた。それはロゼマリーが今まさに読んでいる古典歌劇の台詞だった。
ロゼマリーは赤面した。「な……」
「……って、思う人だっているかも知れない。特に、先にいい話ばっかり聞いていたらね」
「あ、あたしが我侭だって言うの?」ロゼマリーは声を荒らげた。昨日の伯母の言葉を思い出して、余計に腹が立った。「あたしだって、あなたにがっかりしたわ。見た目は王子さまみたいなのに、他は全然、駄目なんだもの」
男はぱちくりと瞬きをして、ロゼマリーを見た。
「……王子さまだったら?」
「え?」
「ぼくが本当に、どこかの貴族の家を抜けだして来た、放蕩癖がある馬鹿息子だったら?」
ロゼマリーはまじまじと男を眺め、少し迷って、答えた。「嘘よ」
「なんで?」
「だって、本物の馬鹿息子は、自分のことを馬鹿息子なんて言わないわ」
男は一瞬黙り、それから笑った。「そうだね、うん。正しい。合っているのは馬鹿だけだ」
「そうね。自分でわざわざ言うところが、特に」ロゼマリーは冷たく言った。男は余計に笑って、笑いすぎて泣いたのか、生身の手で涙を拭う素振りを見せた。見た目だけなら理想の王子さまにとても近いのに残念すぎる、と、ロゼマリーは思った。何が残念って、残念なところだらけだ。