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「……どうしよう」
ラナリアはぼんやりと泡まみれの皿を見つめながら呟いた。
胸の中で夕食前の出来事を反芻する。
『今日、お前の故郷へ行ってきた』
突然そんなことを言った旦那様は、いつにも増して口が重そうに見えた。
何故、と訊きかけて口を噤む。
自分にかけられた呪いを解くために決まっているからだ。
ラナリアの故国はある日突然滅亡した。唯一の生き残りであるラナリア自身は、その前後の記憶を失っているため実感はないが、彼がそう教えてくれた。
その消えた記憶の期間の後には、もう既に呪いを受けていたことを考えれば、それを解く鍵が彼の地あるというのは、想像に難くない。
なぜ今更? という疑問は湧いたが。
しかし、珍しく言葉に迷っているらしい旦那様の姿に、ラナリアはじっと彼の言葉の続きを待つ。
『――お前には、二つのうちどちらかを選んでほしい』
『選ぶ、ですか……?』
彼はこくりと頷く。
『一つは、私と共にお前の故郷へ行き呪いを解くこと。もう一つは、私が別の解呪法を探すこと』
それは今までと何が違うのか、とラナリアは目を瞬かせる。その様子で彼も、ラナリアがその二択の意味をよく理解出来ていないと分かったらしく、言葉を続けた。
『前者は、早く解決する代わりに危険が伴う。解呪前に私から離れるようなことがあればただでは済まないだろう。それに――』
彼が少しだけ、哀れみを含んだような視線を向けた。
『記憶を封じるほどの衝撃的な出来事を、思い出させることになる可能性が高い』
『あ……』
愛する故郷が滅びた日の記憶、それが蘇る。それは、とても恐ろしいことのように思えた。
記憶が失われているということは、覚えていては――生きていけない。それほどの衝撃を受けたということだ。
記憶があろうと無かろうと、もうそれらは過去のこと。思い出したからといって、皆が戻ってくるわけではない。
幸せな頃の記憶は、しっかりと胸にある。
ならば、それで良いのではないか。そう思えてしまう。
けれど、それならばもう一つの選択肢は、と思う。
ラナリアが目の前の彼をちらりと見ると、彼も話を続けた。
『もう一つは、短期的には平和な解決法だ。だが――』
『……だが?』
『いつ解呪法が見つかるのか……、見つけられるのか、それが分からない。お前か、それとも私か、どちらかが死ぬ……。その時になってもこのままかも知れない。』
『旦那様、でも……?』
『ああ……』
こちらを選んだ場合、一生この家から出られない覚悟をすべきであること。それと、もしこの家に守りを施している彼に、何か万が一があれば、遠からず呪いに殺されてしまうこと。それらを説明された。
その後は、どこかぼんやりしたまま夕食を済ませ、よく覚えていない。
何かしていた方が良いから、と皿洗いをしているものの、先程から何度か手を滑らせている。奇跡的に一枚も割れていないが。
彼は「よく考えて結論を出すように」と言っていた。
だが、どちらを選べば良いのか、皆目検討もつかなかった。
前者はとかく恐ろしい。消えてしまった記憶が蘇るのは、何か良くないことのように思えて仕方がない。
だからといって、後者を選ぶ気にもなれなかった。この家から一歩でも出れば、あの黒い手に捕まってしまう。その恐怖が一生続くかもしれない。それも嫌だった。
この二年間で彼がどうにか解呪しようとしてくれていたことは分かっていた。
そんな彼が、改めて選択を迫った。
その意味が分からないわけではない。
つまりは、彼の力だけでは、おそらく解呪は不可能だと判断したと言うことだ。
そのことに察しがついている以上、後者を選んだ末に何か方法が見つかる――という可能性は低かった。
「どうしたらいいの……」
キッチンの小窓にふと目をやれば、細い細い三日月がこちらを嘲笑っているように見えた。