後編
それ以来、私は今まで以上に真剣に教会に行くようになった。
それまでは義務感から行っていた礼拝に、信仰を持って行くようになった。
心から神に祈った。
だが、それは神聖な祈りではなく低俗なお願いでしかなかった。
「どうかあれが見つかる事がありませんように」
そんな私の心の変化に妻は気が付いた。
「最近やけに熱心に礼拝に行くわね。何かあったの」
「別に何かがあったわけじゃないさ。なんとなく、そうなっただけ」
何も知らない妻に全てを打ち明けるわけにはいかない。だから適当にごまかした。
例え動機が不純であったとしても、信仰は心の在り方を変える。
心が変われば行動も変わる。
私はそれまで以上に労働に励んだ。そして贅沢を控えた。
見る人から見ればつまらない生き方かもしれないが、それでもまだあれが見つかっていないという幸福が私を鼓舞した。
いつしか娘も大きくなり、スコップなどで遊ぶ事もなくなった。妻も元々庭をいじるような趣味を持っているわけでもないので、庭の一角を掘り返すような事は起こらなかった。
気が付けば娘は結婚し家を離れた。
私もその分、年を取った。
全盛期のように体を動かす事は難しくなり、本職の肉体労働は規模を縮めざるをえなかった。
その代わりに僅かだが国から高齢者への給付金がもらえるようになった。
そして私には副業もあった。
はるか昔、あの老人に「なんの役にも立たない事」と罵られた趣味が、今では副業として生活の支えの一部となっていた。
私は副業の収入が入るたびに、心の中で老人に悪態をついた。「どうだ、見たことか」と。
そんな財政状況であるため、資金面ではゆとりが有った。
私と妻、老人二人がつつましやかに暮らしていく分には今の収入で十分だった。
蓄えにまわった金は一財産となっていた。
そうしてできた一財産を何に使おうかと考えた。
長らくつつましやかに暮らしてきた為、何かが欲しいという欲求もあまり沸き起こってこない。
娘夫婦に渡すか、いっそのこと教会に寄付でもしようかとも考えたが、一つの良い案を思いつく。
「あのお金だけど、生活資金が無くて困っている若者に貸すのはどうだろう」
妻にも意見を求めた。
私自身が若い時に金を借りた事で貧乏な学生生活を乗り切る事が出来た。
あの時の私と同じように、困っている若者が居るかもしれない。
「いいと思うわ。
私が見ている限り、昔からあなたがやろうと決めた事は全部良い事ばかり。
今回のその考えもきっと良い事に違いないわ。
善人のあなたらしい、とても良い選択だと思うわ」
心の奥を小さな針に刺された気がした。
うっかりあの日の触感や臭いを思い出しそうになった。
無理矢理に笑みを浮かべて、妻に答えた。
「賛成してくれてありがとう。早速、色々と掛け合ってみるよ」
話を打ち切って、離席した。
今の私には妻と笑顔で会話を続ける余裕は無くなっていた。
私が本当に善人であれば、庭の一角にあれが埋まっている事はないだろう。
こんなにも誰かに見つかる事を恐れて、手足が震える事もなかっただろう。
私はきっと善人なんかではない。
数日後には教会の仲介で一人の学生を知ることになった。
学業の成績は優秀だが金銭面で苦労している、まさに私が求めていた人材だった。
話はすぐに進み、学生との契約が成立した。
学生は満面の笑みで私に言った。
「ありがとうございます。このお金があれば滞納した家賃が払えます。アパートから追い出される心配がなくなりました。
このお金は、少額ずつにはなってしまいますが必ずお返しいたします」
「無理をしない程度で良いから、その分学業に励みなさい」
握手をした学生の手は若者らしく熱かった。
学生と別れた後、仲介をしてくれた司祭が話しかけてきた。
「今回もまた良い事をしましたね」
「そんなに褒められるほどの事ではありません。手元に少々まとまったお金が有っただけですから」
「ご謙遜を。あなたのような善人が私の勤めるこの教会の信徒であることを誇りに思います」
「私は善人なんかでは、」
私は反射的に否定した。
皆が私の事を善人だと称える。そこにいるのは昔に犯してしまった罪の重さに何とか耐えているだけの凡夫なのに。
「いえいえ。あなたが日ごろから行っている善行は村の皆の良い規範となっています。
ですからもっと自信をもって胸を張って下さい」
「そんな、もったいない言葉です」
「本当にあなたの噂で悪い話を聞いた事がありません。
あ、一つだけありました」
笑顔で話す司祭の言葉に、心音が大きくなった。
「そ、それは、どういった、」
冷静を装ったが、装えたかどうかはわからない。
もしかしたら、隠し通せていると思っているのは自分だけだったのでは。
すでに司祭の知る所になっており、私が罪の告白をするのを待っているのでは。
今の今まで隠し通せて僅かなりにも幸せを感じていたが、それは砂上の楼閣だったのか。
「娘さんの結婚式の時に、娘さんがおっしゃっていましたよ。
「私の父が幼い頃に祖父に叱られて、その腹いせに祖父の大切なコートを土の中に埋めてしまった。私が知っている唯一の父の悪行です。その昔話以外では父の悪行は聞いた事がありません。本当に尊敬できる父です」と」
司祭は変わらず笑顔で語ってくれた。
私はそのでっち上げた昔話の話題が司祭から語られた事で、安堵から崩れ落ちそうになった。
良かった。ばれた訳ではなかった。
それにしても娘もよくその話を覚えていたものだ。あんなとっさについたでまかせの話なのに。
「娘がそんな話を、」
「おや、聞いていませんでしたか」
「どうでしょう。とにかく娘の結婚という事で頭がいっぱいで、肝心の娘の話は聞き流していたかもしれません」
「新婦の父も色々と大変ですからね。
しかしコートを土の中に埋めるとは大胆な事をしましたね」
「子供の時のやらかしですから」
「それからお父様には気が付かれなかったのですか」
「何がどう幸いしたのか、父は生涯その事を気づきませんでした。ずっとただ失くしたと思い込んでいました」
「では、その事をお父様には謝罪していないのですか」
「そうですね。結局父には言い出せませんでした」
「今からでも改めて天に居るお父様に謝罪をしてみては。きっと神様もその様子を微笑ましく見届けてくれるでしょう」
「今更ではありませんか」
「罪を悔い改める。その行為に遅すぎるなんて事はありません。神様はあなたの心からの言葉をずっと待っています」
「・・・では、日を改めて。しかるべき心待ちで罪を告白しましょう」
「それが良いと思います」
司祭は終始笑顔だった。
やはり神は全てを知った上で待っているのだ。
私が罪を告白するその時を。
こうやって折に触れては、私にあの事を思い出させる。
だがここまで隠し通せてこれたのだ。これから先も隠し通せるだろう。
例え司祭が相手でも、この事は誰にも話さない。
話してしまえば全てが終わってしまうから。
それから毎月、その学生と会うようになった。
律儀に毎月返済をしてくれた。
ついでに毎回雑談を交わした。
情熱に満ちた学生の意見を聞くだけで、私は身も心も若返る気がした。
ただ、一つ気になった事があった。
田舎出身の彼には、言葉遣いや所作の端々に粗野な部分があった。
優秀な彼の事だ。社会に出れば表舞台で輝く日も来るだろう。そんな時にあの粗野な所が出てしまえば、彼は恥をかくだろう。
金の貸し借りという妙な縁ではあるが、知り合った以上は老婆心ながら彼にちゃんとした立ち居振る舞いを教え覚えてもらおう。
そう思い、彼と会うたびに彼の粗野な所を指摘した。
最初の数回こそ、彼も素直に聞いてくれた。しかし、そのうちに私が指摘すると露骨に嫌な顔をするようになっていった。
そうなると彼との雑談も無くなっていき、本当に金の返済のためだけに会うようになっていった。
私は彼の事を思って言っているだけなのに。
彼とろくに話せないまま、月日は流れた。
彼がもうすぐ学校を卒業するという時に、一つの話を聞いた。
優秀な彼は卒業後の就職先が決定したらしい。
私は祝いの品を片手に彼の住むアパートを目指した。
突如尋ねて来た私を無下に追い返すわけにもいかなかったようで、上がっていってはどうですか、と声をかけられた。
私がその言葉に甘えて入室しようとする。
「ちょっと今は散らかっていますが」
彼がそう断りを入れたように、部屋の中は雑然としていた。
部屋の至る所に彼の趣味の成果物と思われる作品が散らばっていた。
「すごい量だね」
私が好意的にそれらを見ていると思ったらしく、彼は饒舌に説明を始めた。
「今度、同好の仲間が集まって催しがあるんです。そこに出品しないかと誘われまして。出品出来る数も限りがあるのでどれにしようかと考え中なのです」
私自身、副業として僅かばかりの収入になる趣味を持っている。
しかし、彼の趣味とは全く別ものだったので、彼の趣味に関してはほとんど知らなかった。
私の知識に対してそれらは真新しすぎて、どれも同じにしか見えなかった。
「趣味に没頭するのも良いが、いくら就職先が決まったとはいえ卒業を控えて学業も忙しいのだろう」
私の一言にひどく落胆を示し、彼は先ほどより声色を低くして答えた。
「あなたはもう少し理解がある人だと思っていました」
「理解が無いわけではない、理解が及ばないだけだ。
私にはとてもじゃないがこれらがやるべき学業を差し置いてまでやる価値があるものとは思えない」
私は思った事をそのまま口にしてしまった。だがそれは本心だった。
彼の趣味に関して詳しくないが、きっとこれは私の趣味のように稼ぐ手段にはなりはしないだろう。
そんな無駄な事に時間を費やしていられるほど、彼は暇ではないはずだ。
私の言葉は彼を激高させてしまった。
「あなたはいつもそうだ。僕のやることを全て否定していく。
巷では皆、あなたの事を善人だと誉めそやしていますが、僕はそうは思わない。
あなたは自分の意見を押し付けるだけで、人の意見に全く耳を貸さない、ただのわがままな人だ」
彼の言葉が私の中の何かを決壊させた。
頭に血がのぼり、思った事を考慮もせずにそのまま口から出し、彼に叩きつけた。
「そんななんの役にも立たない事に時間とお金を使っている暇が有ったら、もっと将来に有益な勉強に勤しんだらどうだ」
言ってから妙な既視感を覚えた。
次の瞬間、壁に立てかけてあったはずの農具をいつの間にか手に持っていた彼は、両手を振り上げ力いっぱいに私の頭めがけて振り下ろした。
衝撃と激痛で遠のく意識の中で考えた。
どうしてこうなってしまったのだろう。ただ彼の事を思って言っただけなのに。
理由を探る為か過去の記憶が瞬時に流れる。
その中で一つ気が付いた。あの時の老人もまた、今の私と同じように「何が起こったのかわからない」といった表情をしていた。