ep5 泣いた烏がもう笑う
「アラン。待たせたか?」
「いや、カイル兄。ボクはさっき来たばかりだよ。」
ボクは、急いた足取りで書斎に入って来たカイル兄に答えて、ティーテーブルに置かれていた【ブレイス王国自生薬草ペン画集】を閉じて元の位置へと戻した。
しかしカイル兄の書斎は、やはりカイル兄だなと納得するほかなかった。
窓からの採光で明るく照らされたライティングデスクへと向かって置かれた椅子に座れば、マントルピースが或る正面の壁に大きなチャーリー兄さんの肖像画が飾られ、ライティングデスクから顔を上げれば、肖像画のチャーリー兄さんと目が合うようになっていた。
カイル兄のチャーリー兄さん崇拝は、引っ越した此のエリアス・ハウスでも相変わらず健在なようでボクは安心した様な心配なような複雑な気分に成った。
書棚やキャビネットなどが置かれた隙間の壁には、チャーリー兄さんをモデルにした大小数々の絵画が飾られていた。
以前暮らしていたミドルクラスが多く住むハーマー通りに或る画商には、チャーリー兄さんをモデルにした色々なエッチングが売られていのを見付け、カイル兄は購入したのだろう。
チャーリー兄さんへの愛が重い、此の重度のブラコン過ぎるカイル兄へ、ボクは弟として『幸あれ』と願わずには居られない。
カイル兄は僕の向かいのソファーに腰を下ろすと、前に落ちてきた後ろで1つに括った明るい胡桃色の髪を苛立ち紛れに背中へ無造作へ追いやり、パールグレーの瞳を鋭く細めてボクを観た。
ボクが予想していた通りカイル兄は、グレイスの家キューリック公爵家とボクたちレスタード侯爵家は社会的な立場が違うコトを噛んで含めるよう説明し、カレッジを卒業して以降フラフラと遊んでいたコトにチクリチクリと小言を言った。
誰にも言えないけど、ボクだって昨年まで下衆い化粧師を遣っていたのに。
いつも話す機会を逃して居たけど、昨年化粧師を一身上の都合で辞任した時、クランベル公爵から7月の選挙に立候補するように頼まれていた。
20年前にチャーリー兄さんが立候補したラーン地区で、保守系のトール党として出て欲しいとのことだった。
若干悩んで居たけど、グレイスとの今度の事を考えて、ボクに迷いは無くなった。
チャーリー兄さんが帰宅するなら丁度いいから、後で話そう。
偶然、クランベル公爵と会ったコトにすれば大丈夫かな?
チャーリー兄さんもカイル兄も意外にチョロいから。
まあ、それにカイル兄に言われる迄もなく、そんなコトはボクも重々承知している。
だが彼女の話に依れば、ボクがウカウカのんびりしていると、兄であるキューリック公爵からグレイスは再婚話を勧められてしまう状況に或るのだ。
先程グレイスを馬車までエスコートしている間に、ボクたちは再び互いの想いを確認し合ったのだ。
ボクがグレイスへの恋心に気が付いたのは昨年だけど、グレイスは一緒に観劇をする前からボクに好感を持っていて、会う度に好きに成って行ったと伝えて呉れた。
そして現当主である兄スタンリー・アレク・キューリック公爵は、演劇好きな前当主とは違い、熱心に競走馬生産へ力を入れて居り、其れに役立つ家との縁組を考えていると言う話だ。
アルバート4世の庶子であるウィリアム・フレッツノーヴァ卿が主催している王立競走馬協会にも名を連ね、ブレイス王国内の各競馬場で優勝した馬との交配をさせ精力的に馬産を行っていた。
グレイスの夫であった故フレイル伯爵は、S・アレク・キューリック公爵と同じ競走馬クラブに名を連ねていた同好の士でも在り、その所為でグレイスの姉であるグレース・シャリーン・キューリック公爵令嬢は、同じく競走馬仲間のフローズン侯爵と婚姻していた。
そして、S・アレク・キューリック公爵と同じ馬仲間のキュー子爵の令嬢をグレイスの弟アルビン卿と婚姻させ、馬馬しい一族と成って居た。
皆、ギャンブル仲間でも在ったそうだ。
S・アレク・キューリック公爵が此処まで競走馬へのめり込む様に成った切っ掛けは、18歳の成人の儀にアルバート4世から数が希少なサラブレットの子馬を祝いにと賜ったからだとグレイスは話した。
「馬の子を作るばかりで、お義姉様がチフスで亡くなって以降、自分は再婚なさって居ませんのよ。」
グレイスは「後継が未だですのに。」そう言って少しだけ眉間を寄せた。
恐らく優秀な牝馬を生産した領地を持つ家との再婚を、今年フレイル伯爵の一周忌の喪が明ければ、兄のS・アレク・キューリック公爵から持ち掛けられるだろうと辛そうにグレイスが話していた。
馬と財産を観てから弟妹の婚姻先を決めてしまうキューリック公爵に、或る種の清々しさをボクは感じながらも、流石に2回もグレイスを馬と引き換えにして、余所の男へ呉れてヤル気はサラサラなかった。
昨今は、植民地のイラドや北カラメルで成功した新興のブルジョワ達と嫡男以外と婚姻関係を結ぶ上流階級の人々が増えて来たので、チャーリー兄さんやクランベル公爵に相談すれば何とかなるのではないかと、カイル兄と違いボクは楽観視している所も或った。
まあレスタード侯爵家は、4年前に叙されたばかりの出来立てホヤホヤの新興貴族であるけれど、キューリック公爵家も3代前迄は無爵位で在った訳だしね。
と言っても元の出自はエクワイアで或るのだけども。
其れに5年前、前スタンリー・キューリック公爵が亡くなられてから、S・アレク・キューリック公爵が馬産に全振りし始めたお陰で、ロイヤル・パークやイーバリー・パークやホワイト・ガーデンでのオペラなどへの後援が申し訳程度に成り、一部の音楽家を除いて劇団のスポンサーを降りてしまい、後任が決まるまでロドニアでの公演が騒ついた事があった。
他人の趣味は人それぞれだけど、演劇好きなボクとしては、少し腹立たしい相手でも或るんだよね。
S・アレク・キューリック公爵様は。
せめて馬への愛を10分の1でもグレイスや演劇へ向けてくれていたらと思わなくもない。
勿論ボクの勝手な想いでは或るけどさ。
カイル兄の常識的な面白味のない説教をボクが大人しく聞いて居ると、チャーリー兄さんが帰宅した事を執事のカールソンが告げに来た。
カールソンからの言葉を聞いたカイル兄は、チャーリー兄さんの帰宅を知らせに生真面目な表情を崩し、パールグレーの瞳を細くして笑みを浮かべて、勢いよく立ち上がりカールソンと共に書斎を後にした。
当然ボクもカイル兄の後に続いて行った。
※ ※ ※
カイル兄の書斎からキャメル色のカーペットを敷いた緩やかな螺旋階段を降りて、1階に或るスモーキングルームへと入って行き、オリエンタル・タイルに彩られた壁をゆったりとしたソファーに座って眺め、葉巻を燻らすチャーリー兄さんの近くへカイル兄とボクは歩いて行った。
ローゼブル宮殿から戻って来たチャーリー兄さんは、地毛で過ごすボク達と違い、白に見えない事も無いグレーのウィッグを被り、華やかな貴族らしい装いで整った表情の侭、和やかに話し掛けて来た。
「デイジーが連れて来た方は、グレイス・フレイル伯爵未亡人だったのだって?労働階級のカヴァネスとしてなど頼める訳ないのに。無礼が過ぎると俺が小キューリック公爵から、決闘を申し込まれたら如何するのかなぁ。デイジーには全く困ったモノだよ。色々気を使って呉れてカイルには感謝するしかなよ。カイル、有難う。」
チャーリー兄さんは、金色の瞳でカイル兄を捉えて優しい声で礼を述べた後、昔から仕えている従者のジーンへキャビネットからシガーケースを取り出させ、ソファーへ腰掛けたカイル兄の目の前に置かせた。
チャーリー兄さん病を拗らせているカイル兄は、有難く押し頂くようにして細かな真鍮細工のシガーケースの蓋を開けて、エスニア産の葉巻を手にした。
日頃は煙草なんて吸わない癖に、カイル兄はチャーリー兄さんから貰う葉巻なら「美味い。」と言って、取って置きの時間に燻らせているらしい。
執事見習いのユーリーから聞いた話だと。
ブレイス王国でのメインの煙草は、珈琲ハウス等で盛んに燻らされているバーニア産のブレンドされたパイプ煙草か、社交の場で貴婦人にも人気な嗅ぎ煙草だったりする。
エスニア産の葉巻はコッソリと密輸入されクランベル公爵経由で、チャーリー兄さんが貰っているモノだったりするのだ。
元々は、亡くなったエルザ姉さんの夫でチャーリー兄さんの友人だった故フリップ・ピバート中将が参加したクラブで葉巻を吸って居て、其れを観て真似たそうだ。
チャーリー兄さんが葉巻を吸い始めた頃は、レスタード家の借金返済に四苦八苦していたし、我が家にはスモーキングルームなんて小洒落た部屋なんてのも無いし、専らマッチョなフリップ義兄さんのタウンハウスへ遊びに行った時に、貰い葉巻を燻らせていたらしい。
「そう言えば、俺って葉巻を買った記憶が無いんだよなあ。クランベル公爵に葉巻の事を伝えると直ぐに用意して呉れたしね。まあ、葉巻の良い所は、存在を認知されていないので、税金が掛かってないってのが一番だよね。」
なんてコトをサラリと言って、チャーリー兄さんは楽しそうに笑っていたっけ。
パイプ煙草にも嗅ぎ煙草にも馬鹿高い関税と消費税が掛けられていて、バーニア産のパイプ煙草の税収は王室へ、嗅ぎ煙草の税収は政府の美味しい財源に成っているとか。
嗅ぎ煙草は香水屋が卸していて、煙草の含有率によりピンキリで税率が変動するらしいけど、バーニア産パイプ煙草の原価は40分の1も掛からないと話していた。
ボクは、女装するのに煙草の匂いが付くのが嫌で吸わないし、嗅がないのだけどね。
そしてボクが残念に思うのは、葉巻1つ燻らせても美しく見えるチャーリー兄さんだけど、葉巻を吸って居ると男らしく見えると、酷い勘違いを本人がしている所かな。
いい加減に『筋肉マッチョ=イケメン=モテメン』て言うチャーリー兄さんの幻想を誰かブチ壊して呉れないモノだろうか。
チャーリー兄さんとカイル兄が2人して紫煙を燻らせながら、ボクとグレイスの件を話していた。
カイル兄の説明を聞き終えて、チャーリー兄さんは葉巻を硝子の灰皿に於き、両腕を組み瞼を閉じてから暫し熟考して、形の良い桜色の唇を開いた。
「どうしたモノだろうな?アラン。」
「実はチャーリー兄さんに何とかして貰おうとボクは考えて居たのだけど。一応、S・アレク・キューリック公爵とチャーリー兄さんとは知り合いだし、話の持って行き方で何とか成るのではない?」
「おい、アラン。チャールズ兄さんの手を煩わせるような頼みごとをするな。唯でさえチャールズ兄さんは多忙なのに。アランさえ自制すれば済む問題だろう。」
「それは、あんまりだよ。カイル兄っ!グレイスだってボクのコトを慕っているって分っているのに。淑女であるグレイスの口から皆の前でボクが好きだと告白させて置いて。」
「僕は何もグレイス伯爵未亡人に告白を強いた覚えは無いよ。アランがデイジーの口車に乗ってアレコレ言ったからだろ?」
ボクとカイル兄は、つい互いの失態を言い募り口喧嘩に成りそうになった。
日頃は冷静なカイル兄だけど、チャーリー兄さんを前にすると動揺して感情的になって仕舞うようだ。
「はあ、コラコラ。カイルもアランも落ち着いてくれ。俺としては、好き合っている2人を応援したいけども小キューリック公爵は、社交界でも変人呼ばわりされる程の競走馬好きだしなあ。領地で獣医の育成から競馬場造りだけでは飽き足らず、其処を繋ぐ馬専用の移送道路を作ったり、橋を架けたりと競走馬至上主義で、、、。で、我が家には其の小キューリック公爵と取引出来るモノが無いのだよ、アラン。実際、俺は其処まで馬に興味無いしな。クランベル公爵からの依頼でアルバート4世の御子息ウィリアム・フレッツノーヴァ卿と王立競走馬協会を作ったけど、会を作ったのも運営も馬好きな4人の協会委員に任せたからなあ。」
「でもチャーリー兄さん。ソフィアとスティーブン卿との今後の問題も或るよね?案外、ボクとグレイスが纏まったら未来の展望が開けるかもよ?」
「うん?話を続けて呉れ、アラン。」
「確かにレスタード家はチャーリー兄さんを筆頭に悪評が高いけどね。」
「おいっ。チャールズ兄さんに向かってアランは何てことを言うのだっ!!」
「良いんだよ、カイル。アランの言う通りだからね。それで?」
「でもだよ。あのデイジー姉は、由緒るクランベル公爵の弟の優秀なスレイン・フォーリー男爵と婚姻して居て、エレンとジョンと言う子供が2人居る。それに亡くなったエルザ姉さんもピバート伯爵家の次男フリップ・ピバート中将と婚姻して、ナディアとフリップ・ダニエル・ピバートが生れていて、ダニエルは18歳に成ったらコーク男爵を正式に賜り、新たな貴族に成ることがアルバート5世の勅許状に寄り確定している。フリップ義兄さんが、アルバート5世を襲撃から守る為、亡くなったからね。此れでボクがキューリック公爵家の令嬢ブレイスと婚姻したら意外にソフィアとスティーブン卿との未来も開ける様な気がしない?仮にもチャーリー兄さんはレスタード侯爵なのだし、今だってコーデリア陛下に侍従長として仕えているのだし。」
ボクは、チャーリー兄さんや卑しい家柄だとレスタード家を貶められる噂や馬鹿にされる度に胸の底で燻っていた想いを軽い口調で吐露しながら、ジーンが置いた珈琲カップに口を付けた。
気にしないように生きて来たけど、ボクだって何も感じない訳では無かった。
ミルトン・スクールやスタンダード・カレッジで偶に絡まれたり、噂を聞いたりした時に。
でも、何時だってチャーリー兄さんは、ボクたちの為に必死で頑張っているのが分っていたから、何事もないコトにして、ボクは好奇心だけを磨いて楽しく生きてきた心算。
思えば、初めて女優アリスに成って女装した時、得も言われぬ快感を覚えてしまったのは、ボクがアラン・レスタードから脱するコトが出来たからなのかも知れない。
なんて言ったら、幾ら何でも少し恰好を付け過ぎだよね。
「まあ、妹たちと貴族家との婚姻とか俺が望んだモノでは無いがな。だけど、そうやって並べて改めて聞くとレスタード家は、野心を持って噂通りにアッパークラスへ根を張って行っている様に見えてくるな。俺からしたら面倒な事この上ないけども。しかし、アランは身分に対しての上昇志向など無いと思ってたけど、そう言う事を考えていたりしたのだなあ。」
「別にグレイスを好きだと気付く迄は余り考えた事もなかったよ。唯、グレイスとボクは共に生きていきたいと気付いてしまったから、、、。」
そう言葉に出すとボクは、不意に胸の奥から熱い感情が溢れて来て、目に映っていたチャーリー兄さんの優しい表情が涙で滲み始めた。
何でボクは涙が込み上げて来てるのだろう。
するとチャーリー兄さんの従者のジーンが、ボクにそっとハンカチーフを渡して呉れた。
ボクはジーンから質の良いクリーム色のハンカチーフを有難く受け取って、熱く潤んできた両目を押えた。
「、、、分ったよ、アラン。小キューリック公爵の対策を俺も考えてみるよ。」
「っ!!チャーリー兄さん!」
「チャールズ兄さんっ!」
「でも直ぐにフレイル伯爵未亡人との婚姻とかは無理だぞ?だからアランは短気を起して駆け落ちなそをしないでくれな。くれぐれもデイジーに唆されないように。それを約束して呉れるならフレイル伯爵未亡人を此のエリアス・ハウスへ招待して、暫くは傷心を癒す為に寛いで貰おう。カイルの話では、彼女からの達ての願いらしいしね。」
「チャールズ兄さん。今のアランに、それは危険だと思いますよ。腹を空かせた狼の前に食べろと生肉を置く様なモノです。」
「だそうだけど、アランはどうよ?俺が返事を用意する迄アランは、フレイル伯爵未亡人とは友人として接することを約束して貰えるか?」
「勿論、約束する。それにチャーリー兄さん、ボクだってそれ位は弁えているよ。カイル兄が心配だって言うなら、執事のカールソンやユーリーに命じて於けば良いだろ?」
「全く、チャールズ兄さんはアランに甘いのだから。」
「ははっ。まあさ、しっかりしたカイルが居るから、俺は安心しているのだよ。アランだって無謀な事をしないさ。大切な女性との未来が掛かっているのだから。しかし、アランの仕事は如何しよう。俺の持っている役職の何処かへ潜り込ませるか、、、。」
「いや、実は昨年クランベル公爵と偶然会って此の7月の選挙へ出る様に頼まれていたのをチャーリー兄さんに話すのを忘れていた。御免。」
「「はあっーーーーっっ!?」」
チャーリー兄さんとカイル兄の声が重なり、前に座るチャーリー兄さんと隣のソファに座るカイル兄が同時に金の瞳とパールグレーの瞳を大きく見開いてボクを見た。
その2人の仕草がそっくりで、ボクは思わず渡して貰って居たハンカチーフを握っていた掌を緩め、声に出して思い切り笑ってしまった。
「泣いた烏が、もう笑う。」
チャーリー兄さんの近くに立つジーンがそう呟いていたのをボクは知る由もない。