第九章
子どもの頃はそこそこ幸せな人生を送っていたと思うんだ。ごくごく普通だけど、幸せな。
サラリーマンの父親と、専業主婦の母親。両親が年を取ってから生まれた子どもだったから、兄弟姉妹はいない一人っ子だったけど、親の愛情いっぱいに育ったと思う。
母は庭仕事が大好きで、小さな庭に自然の森を作るかのように、丁寧に草木を植えて楽しんでた。
私もそんな母の作った密やかな森が好きで、四季折々に咲く花の名前、変わった葉っぱの木の名前をたくさん教えてもらった。
父も普段は仕事で忙しい人だったけど、お休みの日には母と一緒に庭仕事をしていたっけ。
中でも桜の木は春になると一際目立って美しかった。夏には毛虫がいっぱいついて大変だったけど、両親も私もこの桜がとても好きだった。
桜の花の咲く季節には、どこへ行かなくても家でお花見ができた。ときどき友だちも遊びに来て、一緒にお花見を楽しんだな。
両親ふたりともそんなふうに植物が好きだったから、私の名前も『花』って名付けたんだって。
何で花の中でも、特別に好きな花の名前を付けてくれなかったのと聞いたら、花に特別なものはないから、むしろどんな花も特別だからひとつを選べなくて『花』にしたんだって。
そんな生活が突如として終わったのは、高校2年生の冬だった。
そのときの記憶なんてほとんどない。
その日の夜、私は久しぶりに友だちの家に泊まりに行っていて、家にはいなかった。
突然の別れが訪れたのは、その日、その夜のことだった。
火事だった。
何もかもが焼き尽くされてなくなってしまった。言葉通り、何もかも。
気付いたら知らないおばさんたちと、知らない子どもたちがいる家にいた。
孤児院。
父も母も年を取っていたから、祖父母はもう他界してた。叔父さんがひとり親戚にいたけれど、疎遠になっていて面識があるとはとても言えるような関係じゃない。
本当に一人ぼっちになってしまった私は、いわゆる孤児院と呼ばれる施設に入るしかなかった。
でもどうやってここに辿り着いたか、まったく覚えてないんだ。
施設から今まで通っていた高校に登校したけど、友だちは揃って私を腫れ物のように扱う。仕方ないよね。私も逆の立場だったらそうするよ。
だけど、友だちの中途半端な優しさがつらくて、私はどんどん自分の殻の中に閉じ籠もっていったんだ。
そうすることでしか、自分を守ることができなかったんだ。
施設のおばさんたちは優しかった。でも一緒に過ごしている子どもたちは複雑な事情を抱えた子たちばかりだった。
痛みを分かち合える隙なんてなかった。みんな自分のことで手一杯、人のことになんて構っていられなかった。
私はこの施設でいちばんの新参者で、ここに来てしばらくは意識のないマリオネットのような人間で、誰ともしゃべらないし、目もどこを見ているかわからない気味の悪い人形だった。
誰もが私を避けた。いじめの対象にすらならない。
そこでは私は存在していなかったんだ。
それでも少しずつ自我を取り戻し、自分が元々いた場所ではないどこかにいることを自覚し始め、突然狼狽する。
ここは私のいるところじゃない。
私には帰る家がある。
私は施設を飛び出した。行くあてなんてないのに。
私が私でいるための場所はここじゃない。
持ち出せるだけのお金を掴んで、外に飛び出したんだ。