第八章
頭がガンガンする。頭の中で誰かがハンマーで頭蓋骨を叩いているみたいだ。
ゼラニウムの花は首から取れて落ちてしまった。拾って捨てる気にもならない。
そしてきみは、もう、いない。
ハナが出ていったその日、僕は結局仕事に向かった。家にいると要らないことばかり考えてしまうからだ。
年度末で、一年のうちで最も忙しい時期だったのが幸いだった。何も考えずに仕事に打ち込める。
「宮田くん、大丈夫?顔色悪いよ。無理するんじゃないよ」
課長が気にかけてくれる。
「はぁ。無理はしませんので大丈夫です」
どうでもいいような返事をして、またパソコンの画面に向かう。
「もう残業しないで帰りなさい」
「大丈夫だって言ってるじゃないですか。それにこの書類は明日までに仕上げないとプレゼンに間に合いませんよ」
課長はため息をついて、やれやれと言うように方をすくめ、首を振る。
「きみは以前こんなに仕事熱心ではなかったんだがね」
複雑な笑みを浮かべながら課長が言う。
「…何がおっしゃりたいんです?」
「まだ記憶を全部取り戻したわけじゃないんだよな」
「それは自分でもわかりません。自分の身にあった出来事自体を思い出せないんですから。何を思い出せないのか、何が全部なのかわからない。でも、記憶なんてなくても生きていけます」
「うん。僕もきみのプライベートのことまではよく知らない。だからきみの記憶のことはきみ以上に知らない。だけど事故に遭う前も後も、きみがこんなに仕事に打ち込むことなんてなかった。だから何かあったんじゃないかと心配しているだけだ。ただの杞憂なら気にしなくていい」
僕は言葉を返すことができずにパソコンの画面に目を向ける。
課長とこんな話をするなんて。
面倒だな。
仕事をさせてくれ。何もかも忘れたい。ハナとの記憶も消してほしい。ハナとの記憶がある限り、この刺々しい気持ちは消えない気がする。
そのうち忘れるのだろうか。忘れはしても記憶は消えないだろう。
「宮田くんはさ」
課長がまた口を開く。
「この1週間は少し落ち着いていたように見えたけどね」
課長が思ったよりちゃんと部下のことを見ていることに驚き、また視線を課長に向ける。
「どうして」
課長に不意にそんなことを言われ、繋ぐ言葉が見付からず、しどろもどろに出てきたのがこの言葉だった。
「どうして、かぁ。どうしてだろう。ただプライベートで何か変わったことがあったのかなと思ったんだ。それ以上はきみのことだから、悪いけどどうしてか僕にはわからない」
課長は快活に笑いながらそう言った。
この人はこんな人だったっけ。今まで僕は人にまったく興味がなかったし、課長とこんなふうに話をしたことがなかったから、少し混乱した。
「事故に遭って記憶がなくなって、何かと不便してるんじゃないかと思ったけど、この1週間は表情も穏やかになって、少しずつ落ち着いてきたから、もしかしたら記憶を取り戻したんじゃないかと思っていたんだよ」
「…記憶を失って不便に感じたことはないです」
僕はぶっきらぼうに答える。
「まぁとりわけ事故に遭ったときのことなんて、思い出したくもないだろうけどね。それ以外の記憶まで置いてきちゃうこともないだろうに」
「…」
僕は俯いて黙り込む。
あの事故。何故起きたのか、どうしてそこにいたのか、誰がその場にいたのか、まるで思い出せない。
目覚めたら病院の無機質な天井が見えた。ただそれだけだ。
「あのときの事故…」
僕は重く低く呟く。
「うん?」
「あのときの事故のこと、僕の両親から聞いたんですよね?」
「そうだよ」
「何て言ってたんです?」
「ただ事故に遭って、意識不明の状態が続いていたけどようやく目を覚ました。だけど今度は記憶を失っているから何かとご迷惑をおかけしますと」
「事故の詳細は」
「残念ながら聞いていない。そんなことは僕なんかよりきみに話すことだろう」
「思い出させたらつらいだろうからって…」
「そうか、親心としてはそうだろうな。警察からは?」
「少しの事情聴取はありましたけど、記憶がないんじゃどうしようも……」
僕はそこで黙り込む。
「どうした?」
警察に何て訊かれた?
記憶が曖昧で、あのとき何を訊かれたのかも思い出せない。
「僕は」
頭を抱えて課長に尋ねる。
「僕はどんな人間だったのですか」
「…宮田くんかぁ」
ガタンと椅子を引いて、課長は僕の隣に腰を下ろす。
「私の印象で話していいかい?」
「もちろんです」
「入社したときからとにかく真面目だったよ」
課長は穏やかに話し始める。
真面目で与えられた仕事はきっちりこなすけど、それ以上のことはしない。
残業なんて以ての外で、定時になると余程のことがない限りきっちり帰宅する。
他人と打ち解けるのが苦手だけれど、話せばきちんと話すことができる。
「あ、あと意外だったからよく覚えているんだけど」
と、課長が椅子をグイッと僕の方に向ける。
「きみ、植物が好きなんだな」
その答えが僕には意外すぎて、目を丸くして驚く。
「あれ?違ったかい?」
「いえ、好きですが…なぜそんなこと…?」
去年のちょうど今頃だ。僕は自分のデスクの上に桜の小枝を空になった500mlのペットボトルに不格好に飾っていたらしい。
僕がこんなことをするなんて思わなかったから、同僚が驚いたらしい。
桜が咲き始めた時期に、小さいけれど枝ごと歩道落ちてしまった桜を見つけ、まだ水に差しておけば咲くからと、人に踏まれる前に拾ってきたらしい。
植物は結構好きなんだ、中でもベタだけど桜がいちばん好きなんだと、僕は答えていたらしい。それを課長はそばで聞いていたからよく覚えていると言った。
「無機質な人間かと思っていたから、驚いたんだ。こんなかわいらしいことをするんだって」
僕は恥ずかしくなって俯く。
確かに桜はいちばん好きな花だけど。
ハナ。
きみのいちばん好きな花も桜だったな。
思い出して涙が出そうになる。ただでさえ泣くなんてことは滅多にないことなのに、人前で涙するなんてあり得ない。
ハナ。
きみはもう戻ってこないのかい?
僕は自分の空の心をこれからどうしたらいいのかわからなくなる。
涙を堪えようとすればするほど、涙が目から零れ落ちそうになり、僕は課長に背を向ける。
「きみはあまりにたくさんのものを見過ぎて、記憶をどこかに置いてくるしか術がなかったんだね」
課長の思いがけない言葉に、ついに涙が溢れ出てしまった。
ハナ。
きみは誰だったんだい?
きみと出会ったときからずっと思っていた疑問が、またぐるぐると頭の中を巡る。






