第七章
「大丈夫?顔色悪いよ?」
記憶の欠片を探し求める夢と現の間を行き来していた僕の頭は、眠りがあまりに浅く、身体を布団から引き剥がすのもつらいくらい重たかった。
「ああ…寝不足なだけ」
「何か嫌な夢でも見たの?すごくうなされてた」
「…そうか。悪かった」
「謝ることないわ」
ハナはそう言っていつも通り朝食を用意する。
今日は仕事に行きたくないな。
人生にそんな日は幾日となくある。むしろそういう日の方が多いかもしれない。
体調が悪いわけではない。ただただ眠たくて、身体と頭が重たく、未来へと進むのが億劫なのだ。
「仕事、行けそう?」
またハナが僕の心を見透かしたように聞く。いつもは何とも思わない、むしろ僕の心をよくわかってくれているのだなと関心すらするハナの何気ない質問にさえ苛立つ。
「…何なんだよ」
僕は尖った心を隠す余裕すらなく、いらいらした声で呟く。
ハナは驚いたように、けれどもこんな僕の態度を取る理由までわかっているかのような表情で僕を見る。
「君は誰なんだよ」
ハナは何も言わない。
「何しに僕の前に現れたんだ」
チョリソーを焼く油の跳ねる音だけが部屋に鳴り響く。
ハナが少し前に花屋でもらってきたゼラニウムは元気なく項垂れている。
薄い朝の光がぼんやりとハナの横顔を照らす。
「君は僕の記憶の中のどこにいるんだ」
確信があるわけではない。ハナと今までどこかで会ったかどうかなんて、僕の今の当てにならない記憶に尋ねてみたって答えなんか出るわけがない。
ジジジっと音を立てて、チョリソーの少し辛い香辛料の匂いが部屋に立ち込める。
「何か言えよ!」
僕は我慢ならず、声を荒げる。
ハナは静かな視線を僕に向ける。唇を真一文字に結んだまま、答えようとしない。
その冷静さが僕の苛立ちを余計に掻き立てる。
はぁ、と短いため息をついて、ハナは悲しそうな瞳で僕を見る。
きっと今、ハナが何を言ったとしても僕の心の刺々しい気持ちは解れない。そのことも彼女はわかっているから何も言わない。
僕は余計に苛つく。悪循環。
「出ていけよ」
僕は言ってはならない言葉を口にしてしまう。ハナはそう言われることもわかっていた。だからハナはひたすら冷静だった。
「…わかった。ごめん。ありがとう」
この三つの言葉にハナの気持ちのすべてが詰め込まれていた。
僕は発してしまった自分の言葉を取り消したいという後悔に苛まれながらも、これ以上どうしようもなく頭を抱え込み、ハナが玄関の扉を開けて出ていく音だけを聞いていた。
すべては夢だ。きっと悪い夢だ。人生なんて夢の一部に違いない。
神様がくれたほんの短い時間の中で、僕たちは僕たちそれぞれの夢を見ているだけなんだ。
目が覚めたそのときが死なのかもしれない。
夢の中で生きている僕たちは余計な痛みを感じる必要もない。
痛みを感じたところでこれは夢なんだから大丈夫だ。
記憶を失くしたところでこれは夢なんだから何ともない。
ちぐはぐなことが起きようと、夢なんだから当然だ。
大丈夫、これは夢だ。
落ち着け、落ち着け。
夢の中でもう一度寝て目覚めたら、またそこのキッチンで朝食を作っているはずだ。
悪い夢はきっときっと、続かない。