第六章
ハナが家に来てから一週間。あんなに孤独を感じていた僕の心は、ハナの太陽のような温かさに溶かされ、すっかりきみと一緒にいることに心地よささえ感じるようになっていた。
きみと過ごす二度目の週末は、再びの散歩に出かけた。家から迷子になりながら当てもなく歩き続けた。
きみと初めて会った一週間前より、春の気配が濃くなっている。だんだん冬との境目がわからなくなり、ついにはすべてが春の色に塗り替えられたような空気。
少し埃っぽくて、空気の層が冬よりも厚くなって、それが僕の周りに纏わり付く。
暖かくなって、固く閉ざされていた花の蕾も緩みだし、一斉に咲き始める。
「見て、あの家のお庭。ショカツサイが満開!」
「薄紫色の菜の花」
「…確かに。知ってる?ショカツサイは諸葛孔明が戦の食糧用に栽培したから諸葛菜って名付けられたって」
「へえ。知らなかったけど『諸葛』を名乗っているくらいだから何か関係はあったんだろうな。てことは食べられるのかい?」
「花大根って別名があるけど、残念ながら根っこは食べられないわ。その代わり若芽やつぼみはおひたしや天ぷらなんかにするとおいしく食べられる」
「食べたことあるのかい」
「一度だけ」
「どうだった?」
「ほろ苦い春の味」
植物の小話に花を咲かせながら、僕たちは歩く。春の道をひたすら歩く。
こんな何もなさそうな住宅街だって、歩いてみるといろいろなところに春を見つけられる。
人はいつの時代も庭先に草木を植え、花を愛でる。人間関係はいつだって面倒くさくて厄介だけれど、植物はただ黙ってそこにいてくれる。
手をかければかけただけ美しい花をつける。名もない雑草でさえ可憐な花が咲けば心に柔らかな風が流れ込んでくる。
何もない部屋にも一輪の花があるだけで、明るい空気が広がる。
きみみたいに。
「きみは何の花がいちばん好きなんだい?」
「…桜」
「へえ」
「意外とありふれてるって思ったでしょ」
「あ、いや、そんな」
「マサキは図星だとすぐに動揺するからわかりやすい」
「いや、いろいろ知ってるから、僕が知らないような花の名前が出てくるかと思ったんだ」
「実際は何でも好きよ。特に春に咲く名もないような花は大好き」
きみは僕以上に僕のことを知っているみたいだ。まるで僕の心が読めているように、僕の心より早く先回りして動く。
だから一緒にいても苦ではないのかな。
僕たちは歩く。春を見つけにひたすら歩く。
その日はたくさん歩いたからさすがに疲れた。夕食もそこそこに、僕たちはすぐに眠りに就き昏々と寝た。お互いの存在を忘れるくらいに。
そして僕は夢を見た。多分、これは夢。
暗闇の中で何かに足を捕らわれて、動けなくなってもがき苦しんでいる僕。深い深い眠りの底から抜け出せなくなって、苦しくて伸ばす手は暗闇の空を掴むだけで救いようがない。
此処はどこなのか。
ぼんやり見える景色は夢か現か、境界線がわからない。
この景色、見たことがあるような、ないような…何もかもが曖昧な世界。
やがて僕の頭上に容赦なく鉄の塊がゆっくりと落ちてくる。僕を押し潰そうとじわじわと近付いてくる。
この感覚は、何だったろう。どこかで味わったことがある、この嫌な感覚。
必死に記憶の隅々まで探し回るけれど、どうしても思い出せない。
そのうちに、こんなに嫌な感覚を味わったことなんてあるはずがないと、記憶の存在にまた蓋をする。
足元の深い闇は、僕の消えてしまった記憶をよりいっそう奥底へと押しやる。
助けてくれ、誰か僕を、助けてくれ。
暗闇の中に浮かび上がるハナの姿。僕に気付いて手を差し伸べようとする。
いや、君に助けられる筋合いなんてない。つい数日前に知り合ったばかりで、僕は君のことなんてほとんど何も知らないに等しい。
なのに、僕が救いを求めるのは君で、君は僕を助けようとこちらに向かって走ってくる。
僕は孤独な人間だから、君くらいしか助けを求めるような人を知らないんだ。
それにしたって、どうして君なんだ。
君はどうして僕の前に現れたのか。
そして君はいったい誰なんだ?
答えは出るはずもなく、僕は一晩中もがき苦しんだ。
記憶なんて戻らなくても構わないと思っていた。
僕の今までの人生の中で関わった人間なんて本当に数少ないし、関わった友人たちともさほど深い付き合いではなかったから。
それらの記憶がなくなったとしても、僕は痛くもかゆくもない。
僕と関わりのあった人たちとの楽しかった思い出はもちろんある。
けれど、その記憶を差し引いたとしても、僕のこれからの人生に多大な影響があるとは思えない。
なのに今、ハナと過ごした時間の記憶を失うのが怖くてたまらない。
ハナと過ごしたこの一週間は、今までの僕の人生の中でいちばん人間らしく、そして眩しく輝いていた。
それを失うのが、こんなにも怖いなんて。
君は誰なんだ。
僕をこんな気持ちにさせる君は誰なんだ。
また同じ疑問が湧いて出てきて僕を苦しめる。