第一章
ソメイヨシノ―――サクラの一種。花は葉の出ぬ先に開き、つぼみは初め淡紅色で、次第に白色に変わる。成長は早いが木の寿命は短い。
春一歩手前。三寒四温で冬の気配を消し去るように、ほんのり温かな空気が空を染める。
桜の花のつぼみは、まだ咲くには寒すぎるとばかりに固く閉ざされ、北風に吹かれて揺れている。
少しずつ歩み来る春の足音はまだまだ遠いが、日の光を見ているとゆっくりとやって来ているのがわかる。
ぴりりと冷たい冬の寒さの上に春の柔らかな風が吹き抜けると、冬と春が混ざり合ってできた何となくぼけた色合いが、周りの景色の境界線をあやふやにさせる。
冬から春へと移ろうこの季節は何もかもが曖昧だ。
僕は冷たい空気から逃げるようにマフラーに顔を埋め、今日も駅へ向かう。満員電車がやって来て、堰を切ったようにどっと人を吐き出し、また同じだけの人を吸い込んで走り出す。
毎日この繰り返しだ。
これだけの人間に囲まれていながら、常に孤独を感じてしまうのは何故だろう。乾いた冬の景色を見ながら考える。
この大都会にあって孤独なのは当たり前だ。ひとりひとりが違う方向を向き、ひとりひとりが絡み合うことのない自分勝手なことを考えている。決して交錯することのない思いは狭い電車の空間の中で宙ぶらりんになって吊されている。誰もが自分の殻の中に閉じこもり、他人に触れられないように、注意深く自分の殻を守っている。だからひとりひとりの孤独が浮き彫りになって、強い孤独感を感じるのだ。
そんな意味のないことを考えていると、降車駅に到着した。今度は僕が人波にもまれて吐き出される番だ。
毎日僕は何のために生きているんだろう。
冬と春の合間のはっきりしない境界線の狭間でそんなことを考えながら、今日も退屈な一日が始まる。
「おはよう、宮田くん」
「…あ、ああ、おはよう、えーと…」
「遠藤よ、遠藤サエリ。まだ思い出せないかあ」
「あ、うん。ごめん」
「謝ることないわ。あんな事故に遭ったんだもの、生きて返ってきてくれただけでもよかったわ」
「…うん」
僕は曖昧に頷く。
どうやら僕は3ヶ月前に交通事故に巻き込まれ、記憶を一部失ってしまったらしい。
何もかもがぼんやりとしていて、靄の中にいるような気分。
すべての記憶を失ってしまったわけではない。景色、場所、道、空気、匂いは僕の海馬の中にかろうじて残っている。僕の周りにいた人たちの記憶だけがひどく、本当にひどくはっきりしないのだ。
幸いにも、僕の家族、同僚や知り合い、友人だったと思われる人たちは、僕にいろいろ懇切丁寧に教えてくれた。
人間関係に関しては、一から作り直していったようなものだ。家族や本当に親しい友人たちのことは、思い出すのに少々時間は要したものの記憶の欠片が残っていて、どうにか思い出すことができた。
問題はそれ以外の人たちだ。
この人とは事故前まで一体どのような関係で、どのような付き合いがあったのか。まるで思い出せない。僕にとってはほとんどの人間が初対面のようなものになってしまった。
孤独を強く感じるのは記憶を失ったからではないような気はしている。いろいろな人の話を聞いてみた結果、僕はもともと人付き合いも広い方ではなく、休日もひとりで過ごすことを好んでいたらしい。
それは記憶を失った今もそうだ。記憶が失われても、人の根本的な部分は変わらないらしい。
でも何となく、僕にとって非常に大事だったものを、どこかに置き忘れてきてしまっているような気がする。そのことが僕の孤独感を強めている気がしてならない。それが何なのか思い出せない限り、僕はいつまで経っても以前の僕には戻れないような気がするんだ。






