催涙雨からのメッセージ
鼻先にポツリと垂れた一滴は、季節の流れを感じさせるに十分なものであった。
「うわっ、めんどくさぁ」
つい感情が声に出てしまった。ある意味これもこの季節ならではの心情ではないだろうか。
あと五分も歩けば駅に着く。走れば二分しないくらいだろうか。
それを踏まえて傘を取り出すか走るか迷ったが、ここは走らない。
この通りは地盤沈下の影響か、よく水たまりができやすい。走れば早朝まで降り続いていた雨による水が跳ねる可能性がある。
だが、そんなことよりも純粋に出勤前、もとい朝から走るのがめんどくさい。
思考が固まった俺は最近買ったばかりの薄グレーのリュックを前にかついでチャックを少々強引に開いた。
なぜかわからないが、このチャックはよく引っかかりがちだ。
もしかして不良品?
そうこうしている間に電車の発車時刻が迫る。
「ゆっくりしすぎたか……」
結局傘を閉じて走ることにした。あの時間はなんだったんだろうな。
リュックを再び背負い直し、俺は一歩、また一歩と徐々に地を蹴る力を強めた。
* * *
悪天候時の唯一の利点、本来乗る電車の一本前の電車が遅延でタイミング良く来ること。
いつも乗る八時三十五分発の電車が時間を過ぎても電光掲示板から消えない。いや、さらに言えば前駅にも到着していないようだ。
これは貴重なアドバンテージ。二重の意味で。
俺はこれから身を委ねる満員電車と、“もう一つの要因”に備えるため、陰雨で湿った駅構内のベンチに腰を落とした。
満員電車でも座れたらなぁ。
毎朝同じ時間、電車、車両に乗る者として切実な願いである。まあ今日は少し違うが。
俺はお気に入りの青と白の水玉模様のネクタイを整え、紺のスーツにできたシワを伸ばしながら息を一つ吐いた。
例え曲がっていなくてもつい手が伸びてしまうのはサラリーマンの習性と言っていいだろう。
『まもなく電車がまいります。電車が遅れまして——』
八時四十五分。
早口なアナウンスが一瞬、強さを増す雨風を切り裂いた。
「さて……と」
重い腰を持ち上げ、いつものように二番ホームの先頭車両付近の自販機で麦茶を購入。
俺が覚えている限り、他のラインナップが変わってもこの麦茶の位置と値段は変わらない。
安心、安定価格ってやつだ。
麦茶がガコンっと音を立てて落ちると、電車が湿った空気を押し出すように到着した。
この時なぜか、右眉付近から頬骨にかけて刻まれた傷跡がズキッと痛んだ。
たまに痛みが創傷を辿って脳にまで響く感覚があるが、これは一種の後遺症のようなものだ。痛みがあまりにもひどい場合のみ、病院に行くようにしている。
それと、この傷を極力見られたくないがために右側の髪をあえて伸ばしている。だからたまに髪が目に入って痛くなる。
『まもなく発車します。駆け込み乗車は——』
慌ただしく鳴るチャイム。
遅れて鼻腔を突く焦げたニオイ。
これらはいつになっても嫌悪を覚える。
そしてそれに背中を強く押されながら、今日も満員電車は重苦しく動き出した。
* * *
いつも同じ時間、同じ車両に乗っていると、だんだん俺と同じような乗客の顔を覚えるものだ。
例えば、次の駅で毎度疲れ切った表情で乗り込んでくる五十代ほどのサラリーマン。
あくまで俺の中だけだが、前頭部から髪が後退していることから“コブダイ”と命名して記憶した。
何を気にしているのか、左手薬指の指輪を不安そうに撫でているのをよく見かける。
そのさらに次の駅では大学生くらいであろうか、ひときわ目立つ青髪に赤の大きなヘッドホンを首にかけた大柄な男が人混みに紛れながら流れてくる。
こっちは青と赤で可愛らしいから“ドンちゃん”と心の中で呼んでいる。
幼さが残る面持ちが逆にインパクトを残している。
そのほかにもこの時間の面々は十人十色、様々な姿を見せるが共通点もあった。
それは、何かを諦めたような死んだ目をしていることだ。
俺も例外ではない。きっと、もっとひどい目をしているはずだ。
社会に出て現実に打ちのめされた人間は、いつしか事が丸く収まる方に動くものだと俺は思う。
嘆き、妥協し、何も見つけられず、そんな自分に嫌になり逃亡。
そんな奴ばかりだ。
そしてほとんどの人間は安定とは名ばかりの奴隷契約を結ぶ。
卑屈な考えなのは十分承知している。
だがこれも社会に出て三年、様々なものを見てきた俺の経験則だ。誰に否定されるものでもない。
『次の駅は○○。○○。お出口は——』
こんな天気も相まってかなりネガティブな思考になってしまった。もしかしたら古傷のせいでもあるのかもしれない。
だが、そんなことより問題は次の駅だ。
“ヤツ”が確実にこの車両に乗ってくる。
そうこう考えていると、電車は問題の駅にすぐさま到着した。少し勢いよく止まったせいか、前に背負った俺のリュックが前方でつり革に捕まるコブダイの背中を強く叩いてしまった。
コブダイは特に気にしていない様子だが、一応小さく頭を下げた。
と、同時に車両のドアは溜まった空気を吐き出すように開き、その先には“ヤツ”がいた。
「マサくーん! おはようござマンタ!」
相田ユミ、憂鬱な朝に刺激的すぎるスパイスを投じるそいつは細い体であれよあれよと人混みをくぐり抜け、俺の定位置である車両の座席中央付近に身を寄せた。
「マサくん、おはようござマンタ」
「何度も言わないで。恥ずかしいから」
「えー! なんで可愛くていいじゃん!」
何をムキになっているのか知らないが、同じ二十五歳としてそれは相当イタいから本当にやめていただきたい。
「あとうるさいから、いつもみたいにメッセージにして」
「えー!」と言いたげなユミを制す意味で俺はスマートフォンを取り出し、さらにイヤホンを耳につけた。
ここまでしないとユミは永遠喋り続ける。
俺も容姿の良い女性を不満顔にさせるほど腐ってはいないが、電車の中であることとユミの性格を鑑みればこれが最善策だ。
そしてこの問答をしているうちにドアが閉まり、再び身を揺らすこととなる。これももはや日常の一部となった。
電車が走り出してすぐ、スマートフォンがブブッと震えた。
『いっつも嫌な顔するのになんでこの時間のこの車両に乗るの?』
メッセージアプリに通知されたユミのコメントを見て、すかさず俺もコメントを返す。
『俺はずっと変わらずこのルーティンを続けてるんだ。転勤してきたかなんだか知らんが、お前が変えるんだな』
この問答も何回か行われた気がするが、毎回ユミは睨み返してくる。最初はさすがに怒らせたかと思ったが、すぐケロッとするもんだからきっと気にしていないのだと思った。
『何かあった? なんか表情固いよ?』
『何もない。無愛想なのは昔からだ』
正直ドキッとした。心臓に矛先を突きつけられたような痛みが走った。
こいつのことが苦手な理由の一つとして、このように何かを見透かしてくるところだ。
決して嫌いではない。ただ、目の奥がキラキラしているというか、そこらにいる死んだ目をした奴にはない瞳を持っているのが気に食わないんだ。
『お前は気落ちしたりしなさそうでなんかいいな』
『どうしたの急に(笑)気持ち悪いよ』
次いで送られたクマのスタンプが、人を小馬鹿にしているようでとにかくムカつく。
ちょっとした嫉妬と何も考えていないんだろという小馬鹿にし返すつもりで文章を送ったのだが、同時に少しだけ勇気を出して書いたつもりでもあったからダメージが少し残る。
だがちょうどタイミング良く次の駅に着き、一呼吸入れることができたのは心情的に良かったかもしれない。
終点に行くまでの間で止まる最後の駅というだけあり、人の波はさらに強くなる。
同時に、ユミともはぐれかけた。
本来ならメッセージを飛ばすだけだし、あまり積極的に接したいわけでもないし、ましてやどうせ終着駅で出くわすだろうからこのままでいいのだが、なぜか不思議と人に飲まれるユミの手を強く引いてしまった。
「あっ……。いや、つい、手が」
きっと究極的に気持ち悪い反応をしてしまったと思う。恥ずかしい……。
しかしユミはそんな俺とは正反対で、一瞬ポカンとした表情を見せたが、すぐさまニヤニヤと頰を緩めた。
続けて電車が動き出し、その直後に彼女は赤みがかった茶髪のポニーテールを揺らしながら何かを入力する。
『マサ君いつも嫌そうな顔しながらそんなこと考えてんのね』
もはやワンセットになった小馬鹿にするクマのスタンプを添え、鼻息を荒くした。
『うるせえ』
俺が今送る一言はこれに尽きる。というか、早く電車から降りたい。
九時五分。
終点到着まであと五分くらいだろうか。
俺が最後にメッセージを送ってから三分ほどが経った。
いつもはすぐ返信がくるのだが、今日は遅い。しかし一生懸命何かをタップしているので、きっとゲームをしているか別の人間にメッセージを送っているのだろう。
俺としてもその方が助かる。特に今日はな。
だがそんな予想を裏切るように、一通のメッセージが飛んできた。
『昔ね、私をかばって事故にあった人がいたの。その時は落ち込んだなぁ。私のせいでその人は大怪我したんだもん』
メッセージを一目見た時、妙な親近感を覚えた。するとすぐさま次の通知が届く。
『その人は子供の頃から泣き虫な私の手をよく引っ張ってくれてね。それがきっかけで医薬の勉強も頑張った。だから今の仕事もある』
彼女が書く文字はどこかチカラを感じるものだった。チカラといっても何かを奮い立たせるようなものではない。なんと言うか、そっと寄り添うようなものに近いかもしれない。
あと俺も事故で一部の記憶が飛んでいる。それが付随効果として現れているのかもしれない。
俺はユミがその“一部の記憶に含まれる一人”だったらどうするかと、ふと考えてしまった。
そう思った時、不思議と指が動いた。
『その人に伝えるとしたらなんて伝えたい?』
これは俺の中で眠る本能のようなものが突き動かしたのかもしれない。
自分が助けた人間が、自分に対して何を思うのか。純粋に気になるはずだ。
思えば、ユミとの出会いも唐突で、今日に至るまでの流れは不自然だった。
半年前、大事故から職務復帰した初日だ。
あの駅、あの場所で、俺とユミは出会った。
どういう流れで連絡先を交換したかは事故の後遺症の影響で思い出せない。でもユミが強引に連絡先を交換したんだと思う。
俺の性格上、いや、誰でも見覚えのない人間に連絡先を迫られたらかなり怖いはず。
まあ、その時の感情でさえ曖昧なんだけどな。
だがユミが遠くに行った旧友と再会したような、驚きの表情を浮かべていたことは薄っすらと覚えている。
メッセージを送って一分ほど。終着駅にもあと一分もしないうちに到着するだろう。
特別返事がないからと言って死ぬわけではないし明日もどうせ会う。
それに、ユミが返す言葉は俺に当てたものではない。あくまでもユミの恩人に当てたものだ。
モヤモヤとした思いを抱き、体を左右に揺さぶられながら電車は終着駅にゆっくりと入っていく。
その時、スマートフォンが再び震えた。
『ありがとうと諦めないでって伝えたいかな』
たったこれだけのメッセージなのに、俺は胸の奥がカアッと熱くなった。
俺の真横でどこか哀愁を漂わせるユミ。その表情は、俺の心でさらに鈍く音を立てた。
そして俺はたまらずイヤホンを外し、口を開いた。
「なあ、もしかして——」
同時に電車のドアが開き、ユミは——
「じゃあマサ君、今日も頑張ってね!」
そう言い残しバッと姿を消してしまった。
声をかける暇さえなかった。いや、正確には声をかけられなかった。
彼女の姿と事故にあってから燻ってばかりいた弱い自分を重ねた時、情けなくなってとても声をひねり出すことさえできなかった。
ユミと事故の前に会っていた確証はないし、それを今探ったところでどうにかなるわけではない。
でも、少なくとも今、確実に出会い、そのことを覚えている限り、彼女と面と話しても恥ずかしくない自分でありたい。
そう思ったのは事実だ。
車両から降り、ホームから改札口に向かうまでの導線は今日のように風が強いと雨まで吹き込んでくる。
時々当たる雨は冷たく、風は俺を押し倒すようの身をぶつけてくる。
しかし、次にスマートフォンが振動しメッセージを開いた時、雨風は俺の背中を優しく押した。
『また、あえるのを待ってます』
ポツリと頰を刺した雫は、不思議と生暖かった。
(終)
ここまで読んでいただきありがとうございました。
この作品はSSの会メンバーの作品になります。
作者:蕎麦うどん