第8話 舞踏会のその裏で
全校生徒が参加する盛大な舞踏会。学園総会のフィナーレである。
カルツェは壁の花となっていた。学園総会が始まって以降はしっかり睡眠時間を確保できているので、研究明けの倦怠感はもうほとんど残っていない。つまり、眠くてぼうっとしているわけではなかった。
まず、ダッケル家は平民なので、貴族同士のお付き合いや上下関係とはあまり関係がない。貴重な大口顧客の宝庫なので全く無関係というわけにはいかず、将来的に貴族の令嬢を娶る可能性がないこともない。ただ、どうしても繋がりが欲しいと思うような特定の貴族家は今のところいなかった。
となれば、無理に女性をダンスに誘う気は起きない。周囲の令嬢からチラホラと視線を感じても気が付かないフリをして過ごしていた。
カルツェが個人的にダンスを誘いたいと思う女性はただ一人だけだ。そして、その女性は決してカルツェがダンスを誘えるような立場ではない。
一方その頃、アンナは人を探していた。舞踏会の会場は広い。目的の人物はなかなか見つからなかった。
「おや、姫様ではないですか。お一人でしょうか?もしよろしければ私と一曲……」
「まあ、クルリケ殿。丁度良いところに」
パッと顔を上げたアンナの慌てた様子に、クルリケは続く言葉を飲み込んだ。
「クルリケ殿、その……『彼』を見かけませんでしたでしょうか。先程から探しているのですけれど、一向に見つかりませんの」
「『彼』ですか?うーん、見たような、見なかったような……」
「はっきりしてくださいませ」
「そうは仰いましても、『彼』はこういった場で目立つような方ではないでしょう。もし見かけていたとしても覚えてなんかいませんよ」
「それはそうかもしれませんけれど……」
本人が耳にしたら微妙な表情を浮かべそうな、若干失礼な内容の会話を平然と行っているふたりを、遠目に見つめている視線があった。
どこを見るでもなく会場全体をぼんやり眺めていたカルツェは、視界に見覚えのある金色が入り込んだのに気が付いて思わず視線を向けた。そこには、アンナとクルリケがふたりで楽しそうに談笑している姿があった。
知らぬ間に、随分親しげな様子である。これから一曲踊るのだろうか。それとも真っ先に踊った後だろうか。どちらでもいいが、イチャつくのなら自分の視界に入らないところでやって欲しい。
沈痛な思いを込めながら、しかし視線を逸らすこともできなかった。
――いつも、そうだ。カルツェはいつだって、アンナをこうして遠くから見つめていることしかできない。
手の届きそうな距離であれば見る度に違った色に見える不思議な瞳は、この距離ではまるで空気の壁が厚すぎるとでもいうようにその色を隠してしまう。それが残念でならなかった。
しかし、これで良いのだろう。本来であればその瞳を間近で見ることなど一生許されないはずだったのだから。そして、これからも許される日は訪れない。あの時間は、精霊が見せた幻だったのだ。
――いくらあのランプを増やしたところで何も変わりやしない。結局、そう簡単に忘れることなどできる訳がなかった。むしろ、何故この程度で忘れられると思ったのだろう。
でも、寝食を忘れて研究に没頭しているときだけは、思い出さずにいられた時間も多かったように思う。けれど、完成してしまえばそれまでだった。
……それならば、もっと完成まで途方もない労力を要するような内容を研究するのも良いかもしれない。幸い、今回齧った精霊魔法はなかなか奥が深かった。このまま精霊魔法士の道を進んでもいいと思えるくらいに、興味深い――
カルツェがそんなことを考えていた、その次の瞬間。起こり得るはずがないことが起こった。
気が付くと、アンナの瞳がこちらを向いていた。記憶にある瞳と同じ、真っ直ぐな視線。
その時、カルツェは自分の思い違いに気が付いた。アンナの瞳は遠いから色を隠してしまうのではない。視線が合ったとき初めて、その不思議な色を煌かせてくれるのだと。
「カルツェ、こんな隅の方にいらっしゃったのね」
「……ご機嫌、麗しゅう。殿下」
カルツェは何の衒いもなく自分に近寄って声をかけてきたアンナを信じられない思いで見つめながら、無視することもできずに恐々と頭を下げた。
「ごきげんよう。随分探しましたのよ。まさか、こんな人目につかない柱の陰にいらっしゃるなんて」
「それは……大変、失礼いたしました。けれど、何故私なんぞをお探しに……?」
「……そうでしたわ。雑談している時間はありませんでした。陛下をお待たせしているのですもの」
カルツェは自分の耳が捉えたとんでもない単語について、一度考えることを止めた。脳が受け入れを拒否している。きっと聞き間違いか、もしくはアンナの言い間違い、そうでなければ『ヘイカ』という自分の知らないスラングでもあるのだろう。そうに違いない。
「着いていらして、カルツェ。急ぎますわよ」
有無を言わせず踵を返したアンナに、着いて行かないわけにはいかなかった。アンナが堂々と行動していたせいで、あまりにも衆目を集めすぎていたからだ。
仕方なく黙って付き従いながら、初めて東屋に連れて行かれた日のことを彷彿とさせる後姿に、カルツェは嫌な予感がするのを止められなかった。
かくして、行き着いた先は、今回もあの『精霊ランプの東屋』であった。
しかし、そこには先客がいた。カルツェはその人物と顔を合わせたことこそなかったが、その顔は当たり前のように見知ったものだった。
「……国王、陛下……?」
人魚石と呼ばれる貝の体内で生成される宝石を彷彿とさせる光沢のある白に、金色の絵の具を垂らしたようなプラチナブロンドの髪を持つ、精悍な顔つきをした壮年の男性。時に王国騎士団を自ら率いることもあるというだけあって、その身体はよく鍛えられ引き締まっていた。優秀な人材は身分を問わず積極的に登用する政策で大いに国を発展させていることもあり、賢王との呼び声も高い。
現国王陛下、アルフリードだ。
平民のカルツェであっても顔くらいは知っている。ダッケル家は王室とも繋がりがあるため、親の商談を後ろから眺めた経験もあった。しかし、それも学園に入学する前の話。幼いカルツェがアルフリード王と直接接する機会はなかった。
――なるほど、先程耳にした不穏な単語はどうやら聞き間違いではなかったらしい。本当に、アンナは国王を待たせていたということだ。しかし、一体、どんな経緯があってこんな状況に……?
ただ、待ち合わせ場所がこの『精霊ランプの東屋』になった理由だけは、カルツェにも検討が付いた。このランプには周囲の目を惑わす効果がある。この東屋の外からは中の様子が曖昧にしか見えなくなるのだ。
カルツェがその効果を知ったのは、ランプを再現しようと試み始めた後のことであったが、長い学園の歴史の中には知っている学生もいただろう。案外、ちゃんと聞いておけば噂話の中にそんな情報も含まれていたのかもしれない。
ちなみに、カルツェが開発した火精霊のランプには目隠しの効果が再現できなかったのだが……そんなことは今どうでもいい。
「お主がカルツェ・ダッケルか」
「は、い。お初にお目にかかります、陛下」
殊更丁寧に頭を下げたカルツェを眺め下ろして、アルフリード王はふむ、と頷いた。挨拶を述べたその言葉尻は緊張で少し震えていたが、その程度は些末なことだろう。カルツェの行った挨拶は、平民にしては十分すぎるくらいに立派な所作であった。
「そなたの精霊魔法に関する研究は見させてもらったが、なかなかのものであったぞ」
「ありがたきお言葉でございます」
「ふむ……、そなたほどの稀有な才能を持つ人物であれば、平民の身であれど、次期国王の父親となっても許されるであろう」
「は、…………っ!?」
辛うじて叫び声を飲み込んだだけでも、褒めて欲しいと思えるほどの衝撃だった。
目を白黒させているカルツェを見て、台本通りの言葉を選んだくらいのつもりであったアルフリード王は、訝しげに片眉を上げる。
「む?はて……、アンナ。そなた、もしや何も説明しておらぬのではあるまいな」
「……陛下の許可もなく、このような国の大事を他人に漏らすべきではないと考えておりましたので」
「……さもありなん。このような機密事項をペラペラ喋られては堪ったものではないな」
「そうでございましょう?しかし、詳細な経緯こそ説明しておりませんが、一部のことは既に伝えてございますのよ。私との間に子を成して欲しい、と」
「……もしや、それだけしか伝えておらぬのではあるまいな?それではただの求愛にしか聞こえぬではないか。よもや、それが国を救うために必要なこととは誰も思うまい」
呆れたとでも言いたげな様子で額に手を当てたアルフリード王を尻目に、アンナはしれっとした表情を崩さぬまま小首を傾げてみせる。
「それをカルツェに説明し、納得いただくために、こうしてわざわざ陛下の貴重なお時間を頂戴しておりますので」
「そういうことか……。お主、余に対しても説明が足りておらぬぞ。この場では、そなたらの関係が余の認めるところであると、宣言してやるだけで事足りるかと思っておったわ」
「大変申し訳ございません」
「ううむ……まあ、よい。であるならば、余が一から説明するのが良いであろう」
血の繋がりがある故の気安さなのか、旧知の仲であるかのように軽快な会話を交わす王族ふたりの間に割って入ることなどできるはずもなく。呆然と成り行きを見守っていたカルツェは、唐突にこちらを向いた二対の瞳にハッとして背筋を伸ばした。