第6話 武闘大会
「まあ、観客がとても多いですわね」
アンナは人混みに溢れた観戦席をぐるりと見渡した。
剣術の授業は選択制であり、よっぽど武に強い家系の出でもなければ剣術を習う女生徒は少ない。アンナもまた多くの女生徒と同じく剣術は履修しておらず、闘技場に来る機会自体があまりなかったため、この光景はとても物珍しく思えた。
「毎年このようなものですよ。姫様は武闘大会の観戦は初めてでいらっしゃいましたか?」
「ええ、毎年気になって入口までは足を運ぶのですけれど、この混雑でしょう?ひとりで入るのは憚られてしまって。中まで入ったのは初めてですの。こうして混雑に紛れてみると、外から見ているよりも圧巻されますわね。卒業前に見られて良かったです。貴方のおかげですわね、クルリケ殿」
「とんでもございません。姫様のためでしたら、関係者席のひとつやふたつ、いつでもご用意いたしますよ」
クルリケ・ディアドールはそう言って爽やかに微笑むと、混雑を回避しながら席へとアンナをエスコートした。
関係者席は本来、武闘大会に出場する者の親族のために用意される席である。しかし、アンナにはもちろん、クルリケにも出場者の中に親族はいない。にも関わらず、クルリケはどこからか関係者席の招待状を入手してみせた。
クルリケはその優れた家柄と容姿、社交性の高さから、男女問わずに多くの人間から慕われている。クルリケの言う通り、彼の伝手を使えば関係者席を用立てるくらい容易いことなのだろう。
アンナはクルリケと接するようになったこの短い期間だけでも、彼が持つ顔の広さと人を使う手腕の上手さを垣間見ることができた。なかなか頭の回転が速そうな男だ。
それなのに座学の成績がまあまあ止まりなのは、悪目立ちしない程度に要領よく力を抜いているからだと思われる。将来の道が決まっている貴族の子息令嬢にはこういうタイプが珍しくない。クルリケのディアドール家嫡男としての地位は、成績の善し悪し程度で簡単に覆されるようなものではないのだろう。
勉学とは、あくまでも己自身のために行うものである。どれだけ手を抜こうが個人の勝手だろう。しかし、アンナ個人としては、このように手を抜くのはあまり好ましくないと感じていた。傍系王族の縛りのせいで何の意味もないと言われながら努力してきた自分が否定されるような気がしてしまうので。
そんな理由から、アンナはクルリケのことを内心、悪い人ではないが尊敬できるような人物でもないと評価していた。
「しかし、こうして姫様と隣り合って観戦できるのは大変光栄なことですが、そもそも姫様は他の男を応援するために席を望まれたのかと思うと、なかなか複雑な心境ではありますね」
「それでもこうして用意してくださったのですから、クルリケ殿は本当にお優しくいらっしゃいますわ。ありがとう存じます」
アンナがおっとり微笑むのを見て、クルリケはひょいと肩を竦めた。
「……まさか、姫様がこのように剛毅なお方とは思いませんでした。やはり人は見た目で判断すべきではありませんね」
「まあ、私はお礼を申し上げただけですのに」
「失礼ですが、きっぱりフった男に対して他の男のためにオネダリまでしておいて、それを責められてもにっこり微笑んで押し切ろうとするところなんて、素晴らしいゴリ押しだと思いますよ」
「……高貴な立場の女性はおっとり微笑んでおけば大抵のことは何とかなるものなんですって。私、母を見て学びましたの」
「そうですね、騙される男も多いでしょう。実際、私も直接こうしてお話させていただくまでは騙されておりました」
「まあ、騙すだなんて人聞きが悪いわ」
アンナはコロコロと上品な笑い声をあげる。対して、クルリケは苦りきった表情を浮かべた。
――正直、求婚が受け入れられるかどうかは半々だと思っていた。
アンナ・ヴァンフィオーレは美の女神もかくやと言わんばかりに美しい令嬢である。数年前のある日、彼女を一目見た瞬間、クルリケは自らの立場を恨んだものだった。国内屈指の大貴族ディオドール家の嫡男であるクルリケには、当たり前のように婚約者が決まっていたからだ。もし自分にもう少し自由があれば、彼女を何としてでも手に入れて見せたのにと思うと、悔しくてならなかった。
しかし、その後アンナが傍系王族だということを知り、自分にもまだ可能性があると期待した。傍系王族を第一夫人に据える貴族家はそうそういない。クルリケも第二夫人としてならアンナを迎え入れる余地があった。
クルリケはすぐにでもアンナを口説きに向かいたかったが、いざそのチャンスに恵まれたとき、『ディアドール』の家名が利用できないかもしれないと気が付いた。両親ともに傍系王族であるアンナに、ディアドール家の伝手は必要ないだろう。アンナとその両親を贅沢させてやる程度であれば、ディアドールである必要はなかった。いっそ田舎の中小貴族に嫁いだ方がのんびりと快適に過ごせるかもしれない。
家の名前が使えないことを悟ると、クルリケは一気に尻込みしてしまった。彼は生まれながらにディアドールであり、その家柄の威光が通用しない場面を経験したことがなかったのだ。
そして、クルリケは情けないことに一度諦めてしまった。ディアドール家の威光を抜きにした自分がアンナに相応しい男かどうか、自信がなかったからだ。
こうして、クルリケは何年も二の足を踏み続けていた。しかし、アンナが卒業間近になってもまだ相手を決めていないという話を聞いて、どうせこのまま卒業してしまえば会う機会もないのだから、当たって砕けるつもりで思いを告げてしまおうと思うようになった。
それでも相変わらず自信がなくて暫くウジウジしていたのだが、とある廊下で偶然にも彼女の姿を目にした瞬間、クルリケは衝動的に跪いていた。
「フラれることは覚悟していましたが、まさか、他に好きな男がいるからと言ってフラれるとは思ってもいませんでした。普通の令嬢はそのような理由を正直に仰いませんから」
さすがに周囲の耳を気にしたクルリケが口元を隠しながらアンナの耳元で囁いても、アンナはその距離の近さに動じた様子もない。それを見たクルリケはつい諦めも悪く気落ちしてしまうのだった。
「私には決められた婚約者もおりませんし、貴族の権力争いも関係ありませんもの。正直にお話するのがよろしいと思いましたのよ」
「しかし、姫様が思いを寄せている男がいるなどと、そんな話を私は聞いたことがありませんでしたよ。他の男に対してはどのように言い訳していたのです?」
「……他の男性ですか?」
そのキョトンとした表情に、クルリケもキョトンとして返す。
「……姫様に求婚した男は私以外に何人もいたでしょう?そのときは何と言って断っていたのかと不思議に思ったのですが……」
「いえ、私に求婚してくださったのはクルリケ殿が初めてでしてよ。それ以外の殿方からお話をいただいたことなどございませんわ。……私の方から求婚したことでしたら一度だけございますけれど」
「えぇ?そんな、まさか……いや、だとすれば、あまりに高嶺の花過ぎて……?……って、求婚!?姫様からですか!?まさか、例の男に……?」
「ええ。……お話してなかったかしら」
「聞いてませんよ!私がお聞きしたのは、姫様には好きな男がいて、その男が今日この武闘大会に出場するから観戦したいと、それだけです。まさか、女性である姫様の方から求婚したなどと夢にも思いませんので……ということは、その男は姫様の求婚を断ったと?」
「そうですわね」
なんともったいないことをする男だろう。『もったいない』を意味する言葉が庶民の使うスラングにしか存在しないせいで口にすることこそなかったが、クルリケの魂がもったいないと叫びたがっていた。
「その男……先日は名前を教えていただけませんでしたが……。せっかくこうして隣り合って観戦しようというのですから、姫様がいったいどなたを応援しているのかくらい、教えていただけませんでしょうか?」
「……そうですわね。クルリケ殿にはどうせお話しなければならないことですし、お教えいたしますわ。その方のお名前は――」
――わあああ、と。アンナがその名前を最後まで言い切るかどうかというタイミングで、大きな歓声が上がった。
正面を見下ろしてみると、武闘大会の出場者と思わしき数人が、観戦席に囲まれた楕円形の闘技場に姿を現している。もうじき試合が始まるのだろう。
予選では会場を三つに区切り、同時に三試合を行うらしい。出場者の学生が六人と、デドウィン先生をはじめとした数人の先生が審判役や治療役として立ち並んでいる。
カルツェは最初の試合グループではないらしく、姿は見えなかった。
デドウィン先生が直々に参加を要請したらしいので、もしかしたら特別枠での出場かもしれない。となると、そもそも予選には参加しない可能性もあるだろうか……そんなことを思い浮かべつつ、アンナは隣に座った男をチラリと横目で伺った。
表情が随分強張っている。この様子を見るに、アンナが告げた人物の名前をしっかり聞き取ったに違いない。
このままクルリケの協力を取り付けられれば随分計画が楽になるだろう。今のところこの男はアンナに好意的であるが、危険な橋を渡ろうとしているアンナに協力してくれるかどうかは分からない。この先アンナの計画に加担するのは、武闘大会の関係者席を融通する程度とは訳が違うのだから。