第4話 精霊ランプの東屋
貧しくも仲睦まじく常に幸せそうな両親を見て育ったアンナは、自分もいつかああいう結婚をしたいものだと、年頃の娘らしくそれなりに結婚願望を持っている。少なくとも、本人はそのつもりである。
しかし、貴族令嬢にとっての結婚適齢期を目前に控えているはずの彼女がとる最近の言動は、結婚や恋愛というものを捨てて生きてゆくつもりなのかと周囲に思わせるようなものだった。少なくとも、カルツェはそう捉えていた。
「ごきげんよう、カルツェ・ダッケル」
「……ご機嫌麗しゅう、殿下」
今日も今日とて『精霊ランプの東屋』にカルツェを呼び付けたアンナは、言い付け通りにやって来た男の苦り顔を見上げておっとりと微笑んだ。
「殿下……。戯れに私を惑わすのはいかがなものかと存じます」
「まあ、惑わすだなんて。貴方が何を迷っていらっしゃるか存じ上げませんけれど、私には与り知らぬことでしょう?」
「……ええ、ええ、そうでございましょう。悪いのはすべて私でございます」
どこか投げ槍な様子のカルツェを眺めながら、アンナは自らの頬に指先を当てた。
彼とこの場所で話すのはこれで何度目かになるが、顔を合わせる度によく分からない発言が増えている気がする。特に、アンナが悪いであるとかカルツェが悪いであるとか、脈絡のよく分からない善悪の話。これが一番の謎であった。
一方、完全に弄ばれているとばかり思い込んでいるカルツェは、まさかアンナが何ひとつ理解していないだなんて夢にも思わず、余計なことまで勘繰っては勝手に頭を悩ませているような有様だった。
中でも一番の悩みは、なぜアンナが自分を選んだのかということだ。『子ができても結婚できないこと』が重要だという言葉は聞いたが、それだけの条件であればカルツェに拘る必要はない。
しかし、カルツェは恐ろしくて尋ねることができないでいた。知識欲の強いカルツェが知ることを恐ろしいと思ったのは生まれて初めてかもしれない。
恐ろしいのはそれだけではない。アンナの突拍子もない発言がいつ襲い掛かってくるものかと、カルツェは東屋に居る間中いつでも身構えていなければならなかった。
例えば、前回の呼び出しではこんな会話が繰り広げられた――
「カルツェ」
「何でしょう」
「私、早く貴方との子が欲しいわ」
「…………」
「……ねえ、聞いていらして?」
「そんなに欲しいのでしたら、私以外にお声掛けください」
カルツェが絞り出すようにやっとのことで言葉を紡ぐと、アンナはほんの僅かに唇を尖らせるという狙っているとしか思えない仕種で不満を訴えてきた。
「私は貴方が良いのよ、カルツェ」
騙されてなるものか、と。カルツェは爪が食い込むほど強く拳を握った。
耳に心地よい言葉をあえて使ってくるところが尚のこと怪しいではないか。このような愛らしい顔をして心の内で何を企んでいるのか知れたものではない。
カルツェは普段の冷静さを完全に失った頭でグルグルとそんなことばかりを考える。カルツェの思考能力を奪うという一点においてアンナの言葉は絶大な力を持っていた。
結局、そのときの会話はカルツェが沈黙を貫いたことで途切れたのだった。
――さて、今日の話題はどうなることやら……。
「カルツェは学園を卒業したら如何お過ごしになるのかしら」
アンナにしては比較的まともな話題の切り出しだ。しかし、カルツェは何か裏があるのではないかと疑心暗鬼に陥ってしまう。カルツェは常時よりも何割か処理能力の落ちた頭をグルグルさせながら、できるだけ慎重に口を開いた。
「それが、まだ決めかねております」
「そうでしたの?意外だわ。その、差し出口ではありますけれど、卒業までもうあまり時間もありませんのに大丈夫なのかしら」
「私の場合は必ずしも卒業までに決断する必要はありませんので。しばらくは家業を手伝いながら勉学を続けるという道もありますし……」
そこまで口に出してしまってから後悔した。今の発言は無神経だったかもしれない。アンナにはカルツェのような時間的余裕はなく、そのせいでこんな無茶をするくらいに思い詰めているのだろうから。
そんなカルツェの焦りをよそに、アンナは気分を害した様子もなくおっとりと微笑んでいた。
「まあ、それは素敵ですわね。貴方ほど勤勉であれば学ぶ時間はいくらあっても足りるということはないでしょうし、焦ってわざわざ道を狭めることはないものね。その慎重さは貴方の美点だと思いますわ」
「……恐れ、入ります」
何の衒いもなく聞こえる褒め言葉と真っ直ぐな眼差しに、毒気が抜かれる思いでカルツェはテーブル越しの微笑みを見つめた。
「座学だけではなく剣術の成績も優秀なのでしょう?そちらの道は考えていらっしゃいますの?」
「ええ、可能性としては。ただ、正直あまり気は進まないのですが」
「あら、理由をお伺いしても?」
「そうですね……個人的な趣向の話になってしまうのですが、どちらかと言いますと経済や国政の分野に興味を感じておりますので。それに、武の道は些か今の時代に合っていないように思いますから」
「確かに、貴方ほどの才人が武の道に進むのはもったいなく思えますわね。戦時下であればまだしも……ただ、隣国セドウィーンとの関係は長らく緊張状態が続いておりますもの。今が平和だとてこの先のことは分かりませんけれど」
憂いだ表情を浮かべるアンナに「我が国にとって頭の痛い問題でございますね」と相槌を返しながら、一連の会話の中で何か意外な言葉を聞いたような気がして、カルツェはわずかに片眉を上げた。しかし、次の話題へと流れていく会話をこなしながらその小さな違和感をすくいだすことはできない。大したことではなかったのだろうと、カルツェはすぐにその違和感の正体について考えるのをやめてしまった。
「そういえば、そろそろ学園総会の時期が近付いていますわね。カルツェほど優秀であればさぞ素晴らしい発表をしてくださるのではと期待しておりますのよ」
『学園総会』とは、一年に一度、学園生が学習の成果を発表するための催しである。
生徒それぞれの得意分野によって発表内容は大きく異なる。例えば座学の分野であれば、学んだ内容を纏めるだけの生徒もいれば、独自の研究結果を発表する生徒、何かしらの制作物を展示する生徒もいる。 また、剣術の披露の場として武闘大会が開かれることになっている。
毎年なかなかの盛り上がりを見せるこの学園総会のために、一年をかけて念入りに準備している生徒も少なくない。また、発表自体にはあまり積極的でなくても、学園総会の最終日に予定されている舞踏会を楽しみにしている生徒も多かった。
そんな中、最高学年生の最優秀生徒――つまり、学園で最も優秀であるカルツェ・ダッケルの発表内容については、学園中の注目の的と言って過言ではなかった。
「この一年で仕上げた研究成果がいくつかありますので……まだどれを出すか悩んでおりまして」
「まあ……優秀過ぎてもそのような悩みがございますのね。……卒業後の進路についてもそうでしょうけれど、ほとんどの生徒にとっては選ぶ余地もございませんのに」
カルツェはドキリとした。恵まれている立場に甘えて大事な選択を後回しにしている悠長さを指摘されてしまったような気がした。選ぶ余地を持たない生徒というのも、傍系王族としての制約に苦しむアンナ自身を指しているように聞こえる。
そんな動揺を誤魔化すように、カルツェは学園総会に関係する話題を振った。
「ただ、武闘大会には出場が決まっておりますよ。剣術のデドウィン先生からどうしてもと頼まれてしまいまして」
「それは楽しみだわ。ぜひ観戦させていただきますね」
「それでしたら――」
武闘大会は学園総会の中で最も盛り上がるイベントである。その観戦者は多く、観戦席が壮絶な奪い合いになるのは毎年のことだ。このいかにもか弱そうな令嬢がその争いを勝ち抜けるようには思えなくて、カルツェは出場者が申請できる関係者席を融通した方が良いかと思いかけ、はたと我に返った。
関係者席の申請は数に限りがあるので、親族か婚約者に限って用意する場合がほとんどだ。気軽に友人などを座らせるようなものではない。そんな場所にアンナを座らせたら変な噂が立つかもしれなかった。
アンナは普段一人で行動することが多く、あまり人となりを知られていないけれど、その見目の美しさだけでも人を惹き付けるには十分だった。傍系王族という身分なので、第二、第三夫人として迎え入れたいと懸想している男子生徒は珍しくもない。
そんなアンナが関係者席に座っていたら、さぞ注目を集めるだろう。出場者の中に婚約者がいるに違いないと勘繰って、探りを入れてくる者もいるかもしれない。
カルツェとしては認めたつもりなど毛頭ないが、こうしてカルツェがアンナとの密会を繰り返していることが白日のもとに晒されてしまえば、そういう勘違いが起こってもおかしくなかった。
「――それでしたら、殿下のお目汚しにならぬよう、精進させていただきます」
「ふふ、期待しているわ」
朗らかな笑みを浮かべるアンナに、カルツェも対貴族用の取り繕った笑みを向けた。
関係者席を用意するだなんてとんでもない。余計な手出しはしないに限る。話を逸らしてしまおう。――という心の声が透けて見えるようだ。
「どころで、殿下は学園総会でどのような発表を?」
「私は王国法について研究しておりますので、それを纏めただけの簡単な発表になるかと思いますわ」
「ほう、王国法でございますか。となりますと、第五章辺りが題材でありましょうか?」
第五章『外交の掟』には、主に外交関係の条文が纏めらている。周辺諸国との諍いを発端として、国境の取決め方や国防戦力の有り様などが議論に上がる度、法改正が叫ばれたり、違法行為は慎むべきという意見が挙がったりする。より自分たちが有利になるよう立ち回りたい革新派と、歴史ある王国の伝統を守りたい保守派とで、熱い舌戦が繰り広げられるのも珍しい光景ではない。
こういった背景を持つ五章であれば普段から話題にも上がりやすく、発表の題材として扱いやすいだろう。カルツェが五章を挙げたのは当然の発想であったのだが、しかし、アンナは首を横に振った。
「いえ、私が研究しているのは第三章ですわ」
「……それは、」
第三章『王族の掟』。その名が冠す通り、王族に関する条文ばかりが集められた章である。扱いの難しさは他章の比ではなく、おいそれと話題に出すことすら畏れ多いとされている。その第三章を学園総会の発表題材にするなど、前代未聞であろう。
これには何と言ったものか。口どもってしまうカルツェを、アンナがそっと手を掲げることで制した。
「私は王族です。王族が王族について定められた法に言及して何の問題があるというのでしょう」
そう宣言したアンナの眼差しは鋭く、そのピンと張りつめた佇まいは気品に溢れていた。カルツェはそれに数秒見とれたあと、何も言わずにそっと首を垂れた。それは、忠誠を誓う騎士のような仕種であった。