第3話 両親
「大変申し訳ございませんが、私では殿下の望みを叶えかねます」
慇懃無礼とも取れるほど丁寧に頭を下げたカルツェの頭頂部を見つめて――まあ、そうだろうな、と。アンナは当然の結果として受け止めていた。
これでも即答で返さなかっただけ予想していたより親切な人だとすら思う。いつも不機嫌そうな顔をしているところしか見たことがなかったので、もっとドライな人付き合いをする人種かと思っていたのだ。
「まあ、勝負はこれからよ」
巻き込まれる形になるカルツェ・ダッケルには申し訳ないが、アンナはまだ諦めるつもりなど毛頭なかった。アンナにとってみれば元より初回の交渉は断られる前提で計画していたくらいなので、むしろ諦める訳がないのである。
「アンナ?今何か仰った?」
隣で野菜を水にさらしていた女性が、上品に小首を傾げながらアンナの顔を覗き込む。アンナよりも幾分か淡い色味の金髪を結い上げた、アンナ似の美人である。否、この場合はアンナがこの女性に似ていると言うべきか。
「何でもないわ、お母様。気にしないでちょうだい」
アンナはさらりと追及を躱して目の前の仕事に集中するフリをする。本当は、コフ芋の皮むきなど幼い頃から慣れ親しみ過ぎて目を瞑っていても難しくないくらいだったけれど。
少し腑に落ちない様子で「そう?」と首を傾げた母――アリッサは、その白魚のような指先に似つかわしくない慣れた手つきで手際よく葉野菜に付いた土埃を洗い落とした。そして次の手順へ取りかかる頃になってしまえば、疑問に思っていたことなどすっかり忘れた様子であった。
アンナの母アリッサ・ヴァンフィオーレは、物心つく前から貧乏暮らしであったアンナと違い、嫁入りするまではそれなりに王族らしい暮らしをしていたという。しかし、上品な物腰やおっとりとした言葉遣いにその面影を残しつつ、今ではすっかりこの暮らしに馴染んでしまっていた。
「もうポルフェ肉も食べ尽くしてしまいそうね……」
アリッサが食糧の保管箱を覗き込みながら憂い顔を浮かべた。
ポルフェとは二足歩行する猪のような見た目をした魔物である。駆け出しの冒険者でも倒せるくらいに弱いが、よく郊外の農村に出没しては畑を荒らすので冒険者ギルドでは常に討伐依頼が掲示されている。そんなありふれた魔物だ。
ポルフェの肉は固いが適切な加工を施せば食べることができ、味もそこまで悪くない。何より可食部が多くてとにかく安いのが素晴らしかった。豚や牛、鶏などの安定して美味しい家畜の肉には手が届かない貧民層の家庭にとって、貴重なタンパク源である。
しかし、アンナの家ではそんな庶民の味方ポルフェの干し肉を常備しておくことすら難しいくらいに懐事情が厳しかった。
現金収入は限りなくゼロに近い。アリッサの父方の実家であるオーウェン家が用立ててくれる僅かばかりの仕送りだけを頼りに、日々の生活を送っている状況だった。
オーウェン家は王都から遠く離れた国境に領地を持つ辺境伯であり、屈強な国境騎士団を有する武人の一族である。
オーウェン領が隣接している隣国セドウィーンとは、もう何年も緊張状態が続いている。そのため、オーウェンには隣国に関する機密事項が舞い込んだり、隣国から密偵が侵入する危険性があったりして、私的な荷物を気軽に王都へ送り込むことができなかった。
生活に困っているアリッサたち一家を助けてやりたい気持ちはあれど、どうしたものか……頭を悩ませた結果、王都からオーウェン領へ届けられる予定の支援物資から、食糧や生活必需品などをほんの少しずつ運び入れてもらうことになった。
元々、物資の輸送をオーウェン領側の人員が担っていたため可能だったことだ。とは言え、あまり表沙汰にできる行為ではなく、一度に運ばれる量や運び入れる頻度は最低限に控える必要があった。
それでも、こうした少々後ろ暗い援助の甲斐あって、アンナたち一家はこれまで何とか生活してこれた。
―― 一つ、王族による王都外での定住を禁ずる。但し、貴族位を持つ血族と婚姻を結んだ当人及びその未成人の実子に限り、当該貴族家が所有する領地においてはこの限りでない――
つまり、王族が王都以外に住むことは許されないと王国法によって定められている。例外は貴族家に嫁入りもしくは婿入りした本人とその子どもだけで、子は成人したら親元を追い出されてしまう。傍系王族が地方で力を付けて王位簒奪を企てないように目の届く場所で囲っておくための決まりだという話だ。
この定めさえなければ、アンナたちはオーウェン家に身を寄せてそれなりの生活を送ることができただろう。もしくは、アリッサが傍系王族のアーヴィスではなくどこか貴族家に嫁いでいれば……まあ、この場合はアンナが生まれてくることすらなかったわけであるが。
「ああ、アリッサ、アンナ。ここにいたのか」
「お帰りなさいませ、お父様」
「あら、アーヴィス。お帰りなさいませ。いつの間に戻られたのかしら、お出迎えできずにごめんなさいね」
気にすることはない、と穏やかに笑いながら台所に足を踏み入れてアリッサとアンナを順に抱きしめる男性が、アンナの父アーヴィスである。アーヴィスもまた王族の証である金髪を持ち、その金色はオーレという果実を彷彿とさせる赤みの混じった色味をしていた。すっきりと整った面差しには長年の苦労が滲んで見えるものの、衰えても尚その美貌は健在だった。
オーヴィスは、かつて王位継承権をもつ直系王族のひとりであった。成人を迎える直前に兄王子が即位したことで傍系王族へ転身してからすぐにアリッサと結婚し、それ以降この貧乏生活を続けているのだが、いまだに高貴な人種特有の浮世離れした雰囲気があった。
と言っても、アンナを含む三人が三人とも、どこか常識から外れている部分は多く――要は、アンナの常識外れを指摘できるような人間が、彼女の身内に存在していないということだった。
十歳になって国立学園の食堂でタダ飯にありつけるようになるまで、アンナは日々の食べるものにも困るような生活だった。そんな幼少期の栄養不足が祟ってか、同年代の少女らよりも一回り以上小さい身体のまま成長が止まっている。
そんな生活であったが、それでもアンナは自分が不幸だと思っていなかった。
自分がもし不幸であるとしたら、それは今までの生活が苦しかったからではない。自分が生まれるよりもずっと昔に定められてしまっている王国法や、将来夫となる男の気分や権力争い……そんな理不尽なものによって左右される生き方しか選べないことこそが、不幸なのだと思っていた。
アンナは、自分自身が決めた道を、自分自身の力で生きていきたい。それを実現するためなら手段は選ばないつもりだ。先日行われたカルツェ・ダッケルとの密やかな会合は、そのための第一歩であった。
「……お母様のお料理はやっぱり安心するわね」
家族三人で食卓を囲みながら、不穏な決意に燃えていることなどおくびにも出さず、アンナはスープをひと匙口に含んでにっこり微笑んだ。そんなアンナを見て、アリッサは困ったように眉を下げる。
「学園ではもっと美味しいものをいくらでも食べられるでしょう?私の料理なんてもう食べたくなくなってしまうと思ってましたのよ」
「食堂の料理は確かに豪華よ……でも、あそこには一緒に食事を楽しむ人がいないもの。家族と食べる食事の方が何倍も美味しく感じるわ」
「アンナ……。けれど、ポルフェも一欠片しか入れられないような質素なスープですのに」
「でも、これが私の親しんだ味だもの」
そんな娘の言葉に、アリッサとアーヴィスは揃って困ったように微笑んだ。娘が家族を愛おしんでくれるのは嬉しいが、こんな生活に慣れさせてしまっている自分たちの力不足は心苦しい。そんな複雑な親心が滲み出た表情だった。
アンナは今日、久方ぶりに学園の寮から実家へ帰省していた。最近、卒業を間近に控えた最高学年生の多くが諸々の準備を整えるために帰省している。それに便乗する形での里帰りであった。
アンナには卒業式で着飾る予定も余裕もなく、また卒業後に継ぐべく家もないので、実家で済ませなければならない用事があるわけではなかったのだが、久しぶりに両親の顔が見たくなった。
「でも、アンナ。お友達を作りにくい立場なのは分かるけれど、未来の旦那様となったら別でしょう?そろそろ考えておかなければ卒業してからが心配だわ」
「そうだな。父様と母様も学園で出会ったのだ。アンナだってその気になればきっと素敵な出会いが見つかろう」
「アンナは色々と考え過ぎてしまっているのではなくて?純粋に愛する殿方と結ばれるのもひとつの幸せの形よ」
「父様と母様のようにな」
「まあ、あなた……」
「アリッサ……」
国立学園で運命的な出会いを果たし大恋愛の末に結ばれたふたりは、歳をとった今も相変わらず熱々だ。
アンナは、両親が年甲斐もなく仲睦ましくしている様子を見るのが、ことのほか好きだった。年頃の娘としては複雑な心境もあるが、それ以上に温かな気持ちで満たされる光景だった。
ふたりが結ばれてからの道程が決して平坦ではなかったことを、アンナも身を持って知っている。けれど、ふたりはいつも幸せそうだった。この幸せはふたりが自ら掴んだ幸せに違いなかった。
アンナは不思議な色の瞳を決意の灯で煌かせる。
「心配しないでくださいませ。私、必ずお父様やお母様みたいに幸せを掴んでみせますもの」
「ああ、アンナなら大丈夫だ。母様に似てこんなにも美人なのだから」
隣で交わされている父娘の会話がどこかズレているように感じたアリッサは、しかし水を差すのも野暮かとおっとり微笑んでいた。
アンナはこの家で一番のしっかり者だ。私たちが下手に心配しなくても大丈夫だろう――お嬢様育ち特有の大らかさでそんな風に納得したアリッサは、いつもより食事が美味しく感じるのは可愛い娘が一緒だからかしら、なんてことを呑気に考えながら、コフ芋のスープをじっくり味わいながら飲み干した。