第2話 告白
もしかしたら勘違いかもしれない――ここまで来ていよいよ、そんな懇願混じりの考えを捨てざる得なくなってきたことを悟ったカルツェは、どう断れば少しでも角が立たないかを真剣に考え始めた。
そもそも、彼の常識からすれば、こんな事態は起こり得ない筈だった。
――フィオーレ王国法 第三章『王族の掟』
一つ、 王族と、貴族位を持たない血族との婚姻を禁ずる――
「その、私……、突然のお話でとても驚かせてしまうことかと思うのですけれど、」
そう、もしそんな事態が起こり得てしまえば、立派な王国法違反であった。特に、『王族の掟』に関する違法行為は重罪に値する。
法律学の授業も網羅しているこの学園の最高学年生にとって、この程度の知識は常識のはずだった。ましてや当事者たる王族のアンナにとっては言うまでもないだろう。
「カルツェ・ダッケル……」
一時の戯れで構わないとでも言うつもりだろうか?そんなことをして、うっかり公になってしまったら……平民のカルツェどころか、王族であるアンナですら重罰は免れないだろう。
「もしよろしければ、私と――」
そもそも、この時期の彼女にはそんな馬鹿げた遊びに割く時間の余裕などない筈だ。春はもう目前に迫っているのだから。それとも、もう相手が決まっているからこそ最後の思い出作りとして関係を望んでいる?
アンナ・ヴァンフィオーレが、そこまで頭の悪い女だったとは思いたくないが――
「――私と、子作りしていただけませんでしょうか?」
「………………は?」
――その瞬間。カルツェ・ダッケルの優秀な頭脳が一斉にストライキを訴えた。
聞き間違いに違いないと願いながらも聞き返すことすらできず、ひたすら固まっているカルツェには気付かず……否、こうなることを予測した上であえて無視しているのかもしれない。アンナはおっとりした様子で自らの頬に指先を添えた。
「もし貴方にお相手がいらっしゃらないのでしたら、一度、ご検討いただけないかしら?」
「……相手、とは、」
「もちろん、結婚をお約束している女性、という意味ですけれど。もし正式なお相手がいらっしゃるのでしたら、こちらを優先していただく訳にはいきませんでしょう?」
「…………、なるほど」
カルツェの頭脳はこのあまりの非常事態に一度敗北を喫していたものの、優秀なだけあって復活するのは早かった。今の二巡ばかりの会話の応酬から、アンナが何かしらの意図を持ち、あえて煙に巻くような話し方をしていることに気が付いたのだ。
そして、彼女が自分に言わせたがっている言葉の存在にも気が付いた。しかし、気が付いた上で、カルツェはあえてそれを口に出すことにした。何故ならば、それを口に出す以外の選択肢が既に残されていなかったからだ。
カルツェは思う。知らずうちに策に嵌っているのと、知った上であえて策に嵌ってやるのとでは、大違いである。
「……殿下の仰ることは、私がこの場で即答できる問題ではないように思います。つきましては、ご検討させていただきたく思いますので、そのためにもぜひ、私に詳しい事情をお聞かせ願えませんでしょうか?」
アンナは、そんなカルツェの言葉を聞いて我が意を得たりと満足げな微笑みを浮かべると「ええ、ぜひに」と頷いた。
その笑顔を見つめながらカルツェは確信する。この会話は、突拍子もない提案をにべもなく断られないために考え尽くされた、巧妙な作戦の上に成り立つものである、と。
カルツェに自ら「詳しく聞かせてくれ」と言わせることによって最後まで話を聞かせることを強制し、かつ、要求を真っ先に突きつけることによって本題を伝える前から躱されてしまう危険性への回避が成されていた。――と、カルツェは推察する。
「それで、殿下。その……子作り、とは、些か誤解を生じさせる言葉のように思うのですが……これはどういった意図でありますでしょうか?」
「あら、そのままの意味よ。私、一刻も早く子どもを産みたいの」
「……理由をお伺いしても?」
「今後お産まれになる直系王族――恐らく、第三王妃様の第二子になると思うのですけれど……私はその子の乳母になりたいと思うのです」
「それは、また――」
一体どうしてそのような、と言いかけた口を止めた。
アンナが何らかの理由から貴族家に嫁ぐことを良しとしておらず、職に就きたいと考えていたとする。そうすると、傍系王族の令嬢が就ける職種を考えた時、もしどこにも伝手がなかったとしたら――カルツェが考えつく中で魅力的に思える職のひとつが『直系王族の乳母』だと気が付いたからだ。
―― 一つ、 現王を除く王族による権力の掌握、またはそれに準ずる行為を禁ずる――
王国法第三章における条文のひとつがカルツェの頭に浮かんだ。この法律のせいで、傍系王族の就ける職は極めて少ないのだと聞いたことがある。
そんな中、乳母であれば政治的な立場ではなく、それでいて分別を知る高貴な身分の女性にしか任せられない。まさに傍系王族の女性にうってつけの職業であると言えるだろう。ただし、乳母とは文字通り赤子に母乳を与えるための人員なので、同時期に子どもを産んでいて母乳が出せるという条件を適える必要はあるのだが。
「……大変失礼ながら申し上げますと、あまりにも……実現性に欠ける話のように思えます」
「ええ、そうでしょうね」
アンナはあっさりと頷いてみせた。さも、そんなことは然したる問題ではないと言いたげに。
そもそも、タイミングを合わせて子どもを産んだからと言って、それだけで乳母になれるわけではないだろう。にも関わらずここまで自信たっぷりな様子を見るに、何か良い伝手でもあるのだろうか。
しかし、直系王族――つまり王位継承権を持つ王族の乳母になりたいという、この言葉だけ聞くとどうにもきな臭くていけない。まるで、良からぬことでも企んで国の中枢に取り入ろうとしているようではないか。権力が欲しいだけならまだしも、王位簒奪を疑われてもおかしくない発言だ。
こんな場所で、今までろくな交流もなかったような男に対して吐露するべき内容ではないように思えた。
そして、問題はこれだけに尽きない。
「万が一、殿下が望み通りの立場を得たとして、その後はどうされるのですか。乳母の仕事は赤子が育ってしまえばそれまででしょう。その後に教育係として雇われ続ける保障はないのではありませんか」
一般的に、乳母は家庭のある女性が務める。赤子を同時期に産んでいる必要があるので当たり前だ。家庭のある女性であれば、乳母としての務めが終われば家庭に戻るだけで良い。しかし、アンナとカルツェとの間で子を成してしまえばこの前提が崩れてしまう。
「私が相手では、どうにか隠し通して子どもを作ることができたとして、婚姻を結ぶことはできません。せめて、こんな話は貴族家の子息に持っていくべきです」
貴女とだったら今すぐにでも子作りしたいと願う男は探さずともいくらでもいるでしょうに――そんな言葉はあまりにも下世話が過ぎて、もちろん口には出せなかった。けれど、紛れもないカルツェの本心だ。
こうして問題点を挙げてもなお真っ直ぐこちらを見つめてくるアンナの瞳は直視に耐えず、カルツェは俯くようにその視線を避けた。
「……だからこそ、なのです。私と貴方とでは婚姻を結べません。例えふたりの間に子を成したとしても」
子どもは欲しいが結婚はしたくないという意味だろうか。望んだ道を進むために身体を投げ出すことはできても、愛してもいない男と結婚することは耐えられぬ。そう言っているようにカルツェには聞こえる。
その言葉が示す意味を考えると、カルツェは冷たい氷水でも飲み下したように喉の奥がキンと冷えたように感じた。
冷静なつもりでいた。なのに、ほんの僅かな期待を抱く馬鹿な部分が自分の中に存在していたことを自覚して、カルツェはこっそりと自嘲した。しかし、自覚したからと言って結論は変わらない。
「私に殿下のお考えのすべてを察することはできそうもございませんが……殿下の仰る通りに子を成したとして、事が公になれば揃って罪に問われるでしょう。それだけのリスクを冒す利益が私にありますか?」
「……それは、私が申し上げるべくもないでしょう」
……言うまでもない、か。カルツェは嘆息ひとつでその言葉を受け止めた。そう、わざわざ尋ねる必要はない質問だった。
何故ならば、カルツェにとっての利益は最初から提示されているのだから。
あとは、素直な欲求か、理性的な保身か。どちらを選ぶかというだけの問題だ。アンナは、すべて分かっていてカルツェを利用するつもりなのだろう。ああ、なんて、
「――悪いひとだ」
そこで初めて、意外そうに――もしくは心外であったのかもしれないが――アンナはキョトンとして目を瞬いた。
そして、カルツェはアンナの要求を丁重に断った。
だからと言ってカルツェが何らかの不利益を被る可能性は極めて低いだろう。傍系王族が持つ強制力というのは、王族の威光をいたずらに貶めてはならないという国家の見栄がそうさせるというだけのものだ。彼女本人は何の力も持っておらず、アンナ自ら世間に公表する可能性が想定されない時点で、国からの介入はないと見て良い。
つまり、本来であればカルツェがアンナに従う必要など最初からなかったのだ。
それでも、カルツェがあの場所までおとなしく着いていってしまったのは――彼の中にも、年頃の青年らしい馬鹿な部分が存在していた。それだけのことだった。