君がくれたもの
5月ももう半ばになるというのに少し肌寒く、いまいちスッキリしない空模様のある午後、昼というには少し遅く、夕方にはまだ早い、丁度小学生あたりが下校してくる時間だろうか。
人通りの然程多くない住宅の一角に、少し広めの公園がある。広いといってもその入り口から公園全て見渡せる広さではあるが、年齢を選ばないその場所は、いろんな人が休日や空き時間を思い思いに過ごしている。とはいえ、今日は平日に加え時間もまだ中途半端、おまけに今にも降り出しそうな空に人影はほとんどなかった。
「あんた、まだいたの……?」
そう呟いて公園の比較的端の方に備え付けられているベンチに座ったのは高梨涼子、高校3年生である。その手にはたった今拾ったぬいぐるみが抱かれていた。
「かわいそうに、お迎えがこないの? ……あぁ、右腕の部分が解れちゃってる。これぐらいなら私でも縫えるかな」
本来、まだ学校にいるはずの時間帯にふらりと公園にやって来た涼子は、2週間前からそこに置き去りにされている男の子のぬいぐるみを膝に置くと、鞄の中から簡易の裁縫道具を取り出し、その解れている部分を縫いだした。
「これでよし、あんまり得意じゃないからこれぐらいで勘弁してよね」
しばらく黙って空を眺めていた涼子はポツリポツリとぬいぐるみ相手に話し出した。空は先刻よりもさらに厚い雲に覆われていた。
「……私もずっと1人なんだ。寂しくなんかないよ?本当に。だって人間なんか大嫌いだもの。みんな自分勝手で嘘つき……嘘ばっかり。あんただってそうでしょ?まだまだ綺麗なのにこんな所に忘れ去られて……嫌になるよね」
空からは大粒の雨がポツポツと降り始めた。
「やだ、とうとう降ってきちゃった。私、帰るね」
そう言うと、涼子は鞄から折り畳み傘を出し、ベンチを立った。帰ろうと1歩踏み出して振り返り、少し考えてその傘をぬいぐるみに差してやった。
「これで濡れないから。……お迎え、来るといいね」
我ながら気恥ずかしい事をしているな……とも思いながら涼子は雨に濡れながら駆け出した。
公園にはすでに人影も無く、ただ雨の降る音だけが響いていた。さっきまでぬいぐるみがいたベンチには涼子の傘をさした若い男性が1人、涼子の後ろ姿を見送っていた。
「お礼……しなくちゃ。僕に何が出来るかな」
男はそう呟くと腕組みをし、首を傾げて考え出した。
「よぉ! 何ぼんやりしてるんだ? ユウ」
「うわっ!びっくりした~」
ベンチの後ろからふいに声をかけたのは傘を差し佇んでいる「ユウ」の知り合いらしい。
「ケイ……驚かせないでくれよ」
「悪い悪い」
へへっと笑って、『ケイ』と呼ばれた男はベンチにひょいと腰掛けた。
「だってさ、おまえが人間に化けてるのって珍しいじゃん? 200年ぶりぐらいか?」
「203年ぶりだ」
「細かいねぇ」
クスクスとケイが笑う。
「ユウをその気にさせたのがさっきの子か」
揶揄う様に言われたその言葉に少し眉間に皺を寄せ、ユウは答えた。
「変な言い方するなよ、僕はただ……それにあの子の瞳、少し気になるんだ」
「へぇ……」
神妙な話し方をするユウに、やはり珍しいこともあるもんだと内心考えながら相槌だけ返したケイは、それでもひと言釘を刺しておくかとユウに静かに伝えた。
「わかっていると思うけど、人間の姿でいるのは……」
「心得ているよ」
ケイの台詞を最後まで待たずにユウは答えた。
やれやれ、と肩をすくめたポーズで、
「(まぁ、いいか。決めたら最後、とことんまでってタイプだからなぁ)」
と、ケイは諦めた表情でため息をついた。
「まぁ、ユウなら大丈夫だろうけどな」
そして、そう言い残すとベンチをひらりと飛び越え、その後ろに姿を消すと同時に一羽の鳥が羽ばたいていった。その姿を見送ってユウは傘をたたみ、もう一度ベンチに腰掛けた。
「時間はたくさんあるからね」
雨はいつの間にか止んでいた。
次の日も同じ場所に涼子の姿があった。その日は昨日とはうって変わって快晴で、思い思いに過ごしている人影がまばらに見られた。とはいえ、時刻は午前11時を少し過ぎた頃で、小さな子供を連れた母親などはそろそろ昼食の準備をしようと1人また1人とその公園を後にし、今日は休みだろうか、軽くジョギングをして汗を流していた社会人らしき人も、気温が上がり出すこの時間にはいなくなっていた。
「お迎え、来たんだ……ちょっと残念」
そう呟くと涼子は昨日のベンチに腰掛け、ついで軽く辺りを見渡してぬいぐるみの姿を探したが、やはりどこにもその姿がない事を確認すると小さく溜息をついた。いつの間にか友人のような存在になりかけていた涼子にとって、あのぬいぐるみが無くなったと言う事は少し寂しくもあり、また多少の安堵感と不安が交差する微妙な気持ちだった。
「ちゃんと、持ち主の所に戻ったんならいいけど……捨てられてないよね……」
「大丈夫だよ」
「きゃっ!」
ふいに自分が座っているベンチの後ろから声をかけられて涼子は小さく声をあげた。振り返るとそこには人懐こそうな笑顔の見知らぬ若者が立っていた。声にならない声でどう対応したらいいものか戸惑っていると、若者の方から言葉を続けた。
「これ、この傘ありがとう」
そう言って若者は涼子が昨日ぬいぐるみに差してあげた傘を差し出した。
「えっ? どうして、これ……」
そこまで口にして涼子はまさかという口調で言葉を繋げた。
「もしかして、あのぬいぐるみの持ち主って……」
「え? あ……あ~あれ、うん、あれは僕の妹が失くしたものでさ、探していたんだ。君がいつもこのベンチに座っているのを見かけていたから、君が傘を貸してくれたのかな……と思って」
我ながら変な言い訳だと思いながらもユウは出来る限り自然な笑顔と口調で話した。
「そうなんですか」
良かった、変質者じゃないんだ……。今の涼子にとってそこが一番の重要ポイントらしい。このご時世、いつどんな危険が転がっているかわからないのだから用心するに越したことは無い。見ず知らずの男がいきなり自分の座っているベンチに近寄って……いたのか隠れていたのか声をかけてくるなんて、あまりにも不自然すぎて危険信号が点滅するには充分な状況である。
「僕の名前はユウ、よろしく」
そんな涼子の心の中を知ってか知らずかユウは当然のように涼子の隣に腰掛け、そう自己紹介した。
「高梨……涼子です」
自己紹介なんかされたらこっちも返すしかないじゃない。あぁ、何してるんだろう私ってば。
「ところで君、いつもこの公園に来てるよね。今日も……まだ学校にいる時間じゃないの?」
「え、ん……まぁ」
飄々と聞かれたくないことを率直に聞いてくるユウに対して、どう答えたものか思案しながら涼子は黙ってしまった。ふと、ユウの方に目をやると腕に白い包帯が巻いてある。
「ケガ、されたんですか?」
「あぁ、これ?ちょっと解れちゃって……」
「解れ……?」
一瞬しまったという顔をしてユウは訂正した。
「い、いや……その、切って……そう! 切っちゃって、たいしたことは無いんだけど、えっと……仕事で」
「そうなんですか。あ、包帯緩んでいますよ。治しましょうか」
そういって涼子がユウの腕を取ると、包帯の一部がめくれ、傷口が見えた。
「これ……ひどい縫い方ですね。どこの病院に行ったんですか?」
「えぇっ⁉︎ いや、あの、縫合の腕はあまり上手じゃないんだけど、よく診てくれて、凄く良い人なんだよ!」
あまりの必死さに涼子は少し可笑しくなった。
「よほど良い人なんですね、そのお医者さん」
「そうなんだ」
へへっと笑うユウにいつの間にか涼子の警戒心は薄れ始めていた。……いい人なのかな。
「ぬいぐるみ、もう忘れないであげてくださいね」
それだけ言うと涼子はベンチを立とうとした。が、その瞬間、ユウが腕を摑んで引き止めた。
「あの、僕で良かったら話し相手になれないかな? その、ぬいぐるみのお礼といっちゃぁなんだけど……」
きっと、いつか誰かにそう言って貰いたかったのかもしれない。現実となったその台詞を聞いて、涼子の中で一瞬時が止まったかのように思えた。
「話し相手って……どうして?」
「ん……深い意味はないんだけど、僕が見かける時はいつも君、1人で何か考え込んでいるように見えたからさ。何か解決したい事があるなら1人より2人、アイデアが多い方が可能性が広がるよ」
慎重に、しかし笑顔のままでユウは涼子に話しかける。
確かに話したいことは山ほどある。しかし、警戒を解きかけているとはいえ、やはりまだ会ったばかりの人間に何をどこまで話せばいいものか涼子は思いあぐねていた。
その様子を悟ったユウは立ち上がり、とんでもないことを言い出した。
「実は僕ね~、時間を操る魔法使いなんだ」
「へ……?」
(やだ、やっぱり変な人なの?)
怪訝そうな顔で涼子はユウを見上げた。
「あぁやっぱり、怪しいよね? でも本当なんだよ。ただ、まだ1人前じゃないから少し前の過去にしか行けないんだけど」
どう言ったら信じてくれるかなぁ……といった困った表情でユウは頭をカリカリ掻いた。涼子はと言えばそれこそ、この場をどう乗り切るべきか困惑していた。
「そうだ! 論より証拠! 行ってみようよ。ねぇ、いつに戻りたい?」
あまりの勢いの押され、涼子はポロッと言葉を口にした。
「えっ、いつって……じゃぁ、10日前の放課後……16時頃に」
「OK! お安い御用!」
キ~ンコ~ン カ~ンコ~ン
「ここは……」
「あ~いたいた涼子!探してたんだから~」
学校を出ようとした矢先、クラスメイトが涼子に声をかけてきた。彼女にはユウの姿は見えないらしい。ユウはただ傍観している。涼子はそのクラスメイトが声をかけてきた瞬間何かを思い出し、少し嫌悪感を顔に出しかけたが、なんとかその場は取り繕った。
「何か用?」
やや冷たいとも思える声で涼子はこれから言われることを知りつつ答えた。
「あのさ~明日、古文の小テストでしょ? ちょっとノート取り損ねた所あって……貸してもらえないかな?すぐコピーするし」
両手を合わしながらお願いと言われて、涼子はそれでも冷たく答えた。
「悪いけど、他当たってくれない? 今日はかなり急いでるの」
「ちょっと、そんな事言わないでさ~、すぐ! すぐ返すから、ね?」
食い下がるクラスメートに腕時計を見ながら、
「悪いけど、もう乗りたいバスの時間迫ってるから、ごめんね」
そう言って、背中を向けその場を後にしようとした涼子にクラスメイトの罵声が飛ぶ。
「何よ、ケチ! 感じ悪い~」
その声を無視して足早にその場を去った涼子は少し歩くとしゃがみ込んだ。
「何よ! こんな時だけ友達みたいな顔して近づいて来て! 普段はろくに声もかけないくせに!」
ユウが涼子の肩をそっと抱いて近くのベンチに座らせた。しばらくしゃくりあげていた涼子だったが、少し落ち着いたのかポツポツと話し始めた。
「この間、今みたいに声をかけけられて私のノートあの子に貸したの。困ってるなら……って思って。急いでたんだけど、すぐに終わるって言うし……でも、30分経っても戻って来ないから探しに行ったらあの子、他所のクラスの子にまで私のノートコピーして配ってたの! 1人や2人じゃないのよ? 何十枚も! こういっちゃあなんだけど私、今回はすごくがんばって授業も記録して、どんな質問されても答えられるようにしてたのよ? その先生、変わり者で小テストの時は自筆のノートなら持込OKって先生だから……」
ユウはたまに涼子の背中をポンポンと優しく叩いて、たまに相槌を交えながら話を聞いてあげている。
「それで試験が終わって昨日、答案を返すときに先生が言ったの、『今回は他のクラスでも皆、回答が同じですね。ちゃんと自分の答えを書いてください』って。知らない子に利用されたのはすごく腹が立つけどそれよりも、自分までもが先生に他人のノートを利用したずるいヤツって思われているのかと思うと、悔しくて……! 私のノートなのに……」
そこまで一息に話して涼子は少し落ち着いた。
「ひどい子がいるもんだね。利用する子がいて、それに便乗する子がいて……」
「……でも、ありがとう。今日はちゃんと断れた。それに昨日はこの一件のせいでお母さんとの約束の時間に大幅に遅れて大喧嘩しちゃったの」
「じゃぁ、今回は喧嘩しないで済むね」
「うん」
ようやく笑顔を見せた涼子にユウも嬉しそうに笑った。
「じゃぁ、元の世界に戻るよ」
いつの間にか最初にいた公園にユウ達の姿があった。時間は移動する前とほとんど変わっていない。
「なんだか夢を見てるみたい。それに気分がスッキリしてる」
「そう、それは良かった」
「今から、学校行って来る。あの子と顔合わすのは気が進まないけど」
そう言って少しはにかんだ笑顔を見せ、涼子はベンチを立った。
「ありがとう、ユウ!」
数歩踏み出すと振り返り、手を振って涼子は公園を後にした。
「いってらっしゃい!」
涼子の後姿を見送りながらユウも手を振った。
「おい」
「わっ、びっくりした!」
どうしていつも人を驚かすような登場の仕方しか出来ないんだろう? 自分のことはさて置き、ユウはそう思ったがそれについては触れずに言葉を繋いだ。
「なんだケイ、いてたのか」
「いてたのか……じゃないだろ。おまえ、あの『力』使ったな?」
見られていたか……と心の中で舌を出し、バツが悪そうにユウは答えた。
「まぁ……な。大丈夫だって。そう頻繁に使うわけじゃないし、史実を大きく変えるわけでもない」
「どうだか。だいたい、何が魔法使いだ。俺達はただすこ~しばかり不思議な力を託されたただの……」
言いかけたケイの言葉を遮るようにユウが語気を荒げた。
「わかってるさ!……ごめん、心配してくれるのはありがとう。でも、僕を助けてくれたように、僕はあの子を助けたいんだ、あの子の心を……」
「ユウ……おまえって奴は……」
真剣なユウの表情にケイはやれやれと肩を竦めた。
~約200年前~
小さな女の子がぬいぐるみを縫っている。小さな田舎町のさらに森の奥深く、その子は母親と2人で暮らしていた。ろうそくの灯りのもとで、女の子はぬいぐるみの糸を切り終えると嬉しそうにイスから飛び降りた。
「出来た! おかあさん、出来たよ!」
母親が近づいてぬいぐるみを手に取る。
「なかなか上手に出来たじゃないの、男の子ね。あなたの素敵なお友達になるわ。あら、こっちには小鳥のぬいぐるみがあるじゃない。がんばったわね」
「うん! この子が『ユウ』で、この小鳥さんは『ケイ』って言うの」
「あらあら、ちゃんと名前までつけてあげたのね」
「うん! ねぇ、お母さん、この子達連れて村に行ってはだめ?」
子供の悲しそうな表情を見ることになるのがわかりながらも、母親は優しく答えた。
「それは出来ないの。わかっているでしょ? 村の人に見つかったらあなたもきっとつかまってしまう。私たちは村の人達とは少し違って変わった力を持ってしまった。幸い、貴方にはその力がないけれど、それでも私の子供と言うだけで、辛い目にあってしまうわ」
ごめんね……と、小さく呟く母親の辛そうな顔を見て、少女はわざと元気よく声をかけた。
「私は大丈夫よ、だってお母さんがいるもの! それにこれからは『ユウ』と『ケイ』も!」
健気な少女の様子を見て、母親も明るく頷いた。
「そうね、この子達があなたの良いお友達になってくれるわ。困ったことがあったら、この子達に話しかけてごらんなさい。きっと、助けてくれるから」
そういって母親はぬいぐるみに不思議な呪文を唱えた。それの意味するものを少女はわかって、嬉しそうにぬいぐるみに話しかけた。
「うん! よろしくね『ユウ』そして『ケイ』、私の大事なお友達」
「あの時、託された『力』……あれから何年も何年もいろんな人の手に渡り、いろんな人の心に触れて来た。だけどここ数十年、世界は変わりすぎたんだ。僕達なんて見向きもされない、すぐに忘れ去られてしまう。ゲームやインターネット……夢中になるアイテムがたくさんあって僕達ぬいぐるみなんかを必要としている人なんてほとんどいやしない……。この傷、ある子供の手に渡ってたった1日でついたんだぜ? しかも、次の日には忘れた振りして公園のベンチに置き去りさ……」
ユウは腕の傷をケイに見せながらそう言った。
「ユウ……」
「あの子だけなんだ、ここ何十年の間で僕の目を見て話しかけてくれたのは……」
「確かにあの子……なんだか似てるな俺達の生みの親に」
そういってケイはニッと笑った。しかし、すぐにその表情は引き締まったものに変わる。
「でもな、ユウ。俺にとってもお前は大切な存在なんだからな。200年以上時間を共にした、大事な家族だ。それだけは忘れるなよ」
「あぁ、忘れないよ。あの子の心を救えたら、2人でのんびり旅行でもしようか」
ユウがおどけた表情で提案してみる。
「それって、おまえは俺の背中に乗ってるだけだから楽だけど、俺はず~っとお前を乗せたまま空を飛ばなきゃいけないじゃないか」
不服そうにケイは口を尖らす。
「あはは、しょうがないよな? だって鳥に作られてしまったんだから、諦めろって」
2人は顔を見合わせて、そして同時に笑った。
「やあ! また会ったね」
翌日も当然のように涼子は公園のベンチに座り、ユウが待っていたかのように声をかけた。
「……毎日こんなところで何してるんですか?」
少々呆れたというように涼子はユウに尋ねた。この人は仕事と言うものを持っていないのだろうか? 確かに不思議な人だけれど……などと他愛もない事を心に浮かべながら。
「それを言うなら君も同じでしょ? 学校、今日もサボり?」
あまりにも人懐っこい笑顔で聞いてくるから嫌味なのかなんなのか区別がつかない。
「好きでさぼってるんじゃありません」
ぶっきら棒に涼子は答えた。
「……また何かあった?」
ユウは心配そうに涼子の顔を覗いた。
「いろいろです。ほんと~にいろいろ……もう疲れてきちゃった。……昨日、学校に行ったらクラスの子全員がシカトですよ。ノートを貸さなかった事の腹いせに……ガキですよね~やることが。情けないのは関係の無い子までが多分あの子に言われたんでしょうね、一緒になって……友情ってなんなんでしょうね? わからないです、私には。親もそう、自分達の事ばかりで私のことなんてわかろうともしない」
「僕がよけいな事しちゃったから……ごめん」
「ユウさんのせいじゃないですよ、どっちにどう転んでも似たような結果にしかならない……そういう運命のもとに生まれたんです、きっと」
そう言うと涼子は空を仰いだ。ユウにはその姿が涙を堪えている様に見えて切なくなった。
「人間関係って難しいよね。みんながみんな自分の思いを押し付けあうと必ずトラブルになる。どうして共存が出来ないんだろう……相手を受け入れて認める事が出来ないならせめて、そこにいることぐらい気に留めなければいいのに。同じ時を過ごす期間なんて、一生のうちのほんの少しの時間なのに……」
ユウは少し目を伏せて呟いた。
「でも、親はそうはいかないでしょ?」
俯き加減にポツリと涼子の口から漏れた言葉にユウは悲しくなった。
「お父さんやお母さんが君に何かしたの?」
「お父さんは毎日帰りが遅くて、一緒に食事した記憶は何年もないわ。休みの日にも接待ゴルフや飲み会。お母さんは趣味の習い事に夢中で食事も作らない。お金だけをテーブルに置いて毎日出かけてる。お互い干渉なしで自由にが信条なんて聞こえはいいけど、単にお互いに無関心で自分勝手なだけ。そのくせプライドだけは高い2人だから私がだらしないと育て方の責任をめぐってお互いに問題を擦り付け合っているわ」
「それで……君は?」
吐き捨てるように言う涼子にユウは静かに尋ねた。
「君はどうしたいの? 君が望む状態になる為に、君は何をしてきたの?」
「えっ……?」
意表をつかれた様に涼子は口を噤んだ。
「ごめん、意地悪な質問だよね。確かに、君になんの非も無くて君が嫌な思いをしていることもわかるよ。でも、全部が全部回避出来ない問題ではないと思うんだ。君が心を開けば解決される部分もあるんじゃないかな?」
黙る涼子にユウが続ける。
「嫌な事は嫌だって……伝えなくちゃわかってもらえないよ? 自分ならこうすれば人が傷つくとか、悲しむとかわかっていても、相手もそう思える人かはわからないじゃない? 皆、それぞれに違うボーダーラインを持っているんだ。君はここまでで嫌だと思うものでも、別の人には許容範囲なのかもしれない。ある人にとってはただの汚いぬいぐるみでも、君にとっては話し相手だったりするように……」
言葉にならない思いが涼子の中に溢れていく。
「私は……いつも自分はなんて不幸なんだって……人なんて信じられないって……私は何も悪いことしてない、した覚えも無いから……」
「うん、わかるよ。君が悪いわけじゃない……だからこそ、君は君でいるべきなんだ。卑屈になって逃げるなんて、本当の君の姿じゃないはずだろう? そんな相手の為に君が『不幸な、可哀想な人間』に変わる必要はないんだ」
「あ……あはは……すっごい理屈……でも、なんかわかる気がする」
泣き笑いといった表情で涼子はユウの言葉に素直に耳を傾けた。
「人間なんて信用出来ない、大嫌いって……まだ思っているけど……でもユウさんは信じられる気がする。もっといっぱい話が聞きたい……1つお願いしてもいいですか?」
「何?」
「もう一度、過去に連れて行ってもらえませんか? ちょっと遠い過去だけど、私が小さかった頃に。両親が私をどう愛していてくれたのか、見てみたいんです」
その言葉には何かを決意したような響きがこもっていた。
「いいよ、君が望むなら、僕は叶えてあげたい……ただ、明日でもいいかな?」
ユウはそういって微笑んだ。
「明日ですね。はい、わかりました! じゃあ、約束……なんだか元気貰えた気がするので逃げないで学校、行ってきます」
涼子は何か吹っ切れたようにそう言うと、ゆびきりげんまんをした。そして、ユウにペコリと挨拶して小走りに公園を出て行った。途中何度か振り返り、大きく手を振りながら。その様子を立って見送ったユウは涼子の姿が見えなくなると急にその場に倒れこむように崩れ落ちた。
「ユウ!」
倒れこんで意識が朦朧としているユウをケイは抱き起こし、ベンチに座らせた。しばらくすると、ユウが目を開け、ケイに力無く微笑んだ。
「ケイか……」
「この馬鹿野郎! 何百年も使ったことのない力をここ数日、毎日のように無理して使うからこんな事になるんだ! 人間に化けるのにだって長時間になればなるほど体力を消耗することぐらい、お前だってわかっているだろう!」
怒りにまかせてケイは怒鳴った。
「耳元で怒鳴るなよ……頭に響く……」
力の無い声で、しかし冗談っぽくユウは言った。
(まったく、こいつときたら……)と怒りを通り越して呆れているケイを見て、ヘヘっとユウは照れ笑いを浮かべた。
「とにかく、しばらくは力を使うんじゃないぞ。時間移動なんてもってのほかだ」
「また、盗み聞きしてたのか。そうはいかないよ……彼女と約束したんだ。明日、過去に連れて行くって」
事の成り行きは知ってはいるが頑なに涼子との約束を果たそうとするユウにケイは苛ついた。
「お前達のやり取りなら聞いていたから知ってるさ。でも、何も明日じゃなくてもいいだろう? お前のその様子じゃせめて10日、いや1ヶ月は休まないと」
「彼女は何か大切な決意をしたんだ。あの時の瞳……明日、自分の心に決着を着けようとしている。必ず明日連れて行ってあげないと」
そういうと、やはり体が辛いのかユウはまた少し瞼を閉じた。
「いい加減にしろよ! お人好しにもほどがあるぞ! 自分の命削ってんのがわかんないのかよ!? 頼むから止めてくれよ……この状態で力使ったらお前……」
ケイの声が小さくなる。黙って聞いていたユウはしばらくして静かに言った。
「僕のこと、信じてくれたんだ。人間なんて信用出来ないって心閉ざしていた彼女が、人間の姿の僕に心を開き始めてくれた。今、約束を破ると、彼女はきっとまた自分の固い殻の中に閉じこもってしまう。あの中から出してあげたいんだ……とてもかわいい顔で笑うんだぜ? もっと他の人の前でもあんな風に笑って欲しいんだ」
「だけど!」
「僕なら大丈夫だよ、ケイ」
これ以上、何を言っても無理だろう。ケイはそう感じ取って、かける言葉を失ってしまった。
「とにかく、今日は休むんだ。変身も解いて」
「そうだな、そうするよ……」
その提案は素直に受け入れたユウを肩を貸しながらケイは人気のない場所へ連れて行った。次にケイが人目に触れる場所に姿を現したときには、その手の中に小さなぬいぐるみを大事そうに持っていた。
次の日はまた、昨夜から降り出した雨のまま天気は一向に回復の気配を見せなかった。特に時間を約束していたわけではないが、だいたい涼子が公園に姿を見せるのは午前11時前後だった。それぐらいが丁度暑くなってくるし、お昼ご飯の準備時らしく、人影が少なくなるからである。しかしながら、気持ちがはやる為かこの日は10時前には涼子の姿が公園にあった。
「さすがに、少し早く来すぎたかな?」
ざっと辺りを見回したがユウの姿はどこにもなく、当然と言えば当然のことなのに涼子は少し肩を落とした。自分勝手と言ってしまえばそれまでだが、なんとなくユウならば涼子の逸る気持ちを汲み取って早めに来て待ってくれているのではないかという期待が少なからず彼女の中にあったからだ。
「まぁ、しょうがないよね。ユウさんにも予定はあるだろうし」
それが当然と素直に解釈して、涼子は傘を差しながら、それでもなるべく雨のあたりにくい場所を探して待っていた。もちろん、いつものベンチの近くで。
どれぐらい経っただろう、少々疲れを覚えて涼子は読んでいた単行本から顔をあげた。さほど難しくない内容の本であった為かページは半分と少しを過ぎたくらいだろうか。携帯電話を取り出し、時間を確認してみる。
「11時20分……」
いつもなら、このあたりでどこからともなく現れて声をかけてくるはずだ。しかし、今日に限って気を持たせているのだろうか? そんな気配が一向に無い。
「どうして?」
不安が悲しみに変わりそうになったその時、声が聞こえた。
「よお」
「ユウさ……!……あの、どなたですか?」
振り返ったそこに立っていたのはユウではなく、別人だった。安堵の気持ちが一瞬に砕かれ、表情を曇らす涼子に男は声を掛けた。
「あんた、涼子さんだろ? 俺、ケイっていうんだ。ユウの友人だよ」
「あの、ユウさんは?」
不安そうに尋ねる涼子に罪悪感を感じながらもケイは一呼吸置いて話出した。
「悪いんだけどさ、実はユウの奴、今日は……」
そう言いかけた瞬間、
「ごめん、遅くなって! 寝坊しちゃったみたいで」
「ユウさん!」
急いで走ってきましたとでも言うように、息を切らせながらユウが現れた。その姿を確認して初めて涼子は本当に安堵した。
「もう、心配してたんですよぉ!」
そういって傘を持たずに近づいたユウに傘を差し出しながら涼子は笑顔を向けた。ケイはユウの腕を引き寄せ耳元に小声で話しかけた。
「何で来たんだよ! まだ、全然体力も戻ってないんだろ?」
心配するケイの肩にそっと手を置いてユウは涼子には聞こえないようにケイに伝える。
「大丈夫だよ……ごめん、僕の我侭だってわかってる。でも、ケイにはわかって欲しいんだ。僕は自分で望んで行動しているって事」
「ユウ……」
「待たせたね、さぁ、行こうか!」
「はい!」
涼子に優しくそう言うと、ユウは最後にケイをもう一度振り返り、軽く頷いて言った。
「行って来るよ」
その場に1人残されたケイは小さく、
「バカヤロウ……無事に帰って来いよ」
と呟いて2人を見送った。
いつからだろう、親離れしたのは。
いつからだろう、子離れされたのは。
ずっと、ずっと小さい頃、両親だけを支えに生きてきた……と思う。叱られても、叩かれても、この人達に見放されることだけが一番の恐怖だった。そしてまた、この2人が大好きだった。母の匂いを嗅ぐと安心して眠れたし、父が帰ってくると、なんとも言えない心強さがあった。
時が過ぎて、中学生ぐらいからだろうか、母親の言葉がいちいち鬱陶しくなった。父親が汚らわしく感じられるようになった。世間で言う多感な時期、思春期。時間が経てばいずれ落ち着いてくれるはずの感情、親との関わり方が、少しずつずれ始めた。
(こんなはずじゃなかったのに)
「何を考えているの?」
ユウの声に涼子はハッとした。
「着いたよ、君が3歳の頃かな」
そういってユウは窓を指差した。そこには小さな女の子を膝に座らせて優しく抱きしめている女性がいた。少し夕暮れには早い時間だろうか。それでも、あちこちから夕飯の準備をしているのだろう、いい匂いが漂っている。
「涼子、今日は幼稚園で何して遊んだの?」
「きょうはね~おえかきしたの。それとどろだんごつくったり、おうたもうたったの」
「そう、楽しそうね。何の絵を描いたの?」
「パパと~ママと~りょうちゃん」
「上手に描けた?」
「うん!」
他愛も無い会話をとてもキラキラした笑顔で答えている少女。
「あれが、私……」
(お母さんもなんて優しい顔しているの)
「今日は涼子の誕生日だからパパも早く帰って来るって」
「パパ、早く帰ってくるの?」
「そうよ、ケーキ買ってきてくれるって」
「わぁーい、やったぁ! ケーキ、ケーキ!」
母親の膝から飛び降りて少女は嬉しそうにピョンピョン飛び跳ねている。丁度その時、玄関を入る男性の姿が見えた。
「ただいま~、ハッピーバースデー涼子! ケーキとプレゼント買ってきたぞ~! 早く帰りたくてパパ、がんばって仕事終わらせて来たよ~」
満面の笑みで両手にプレゼントを抱えて涼子の父親が帰ってきたのだ。
「パパだ~! おかえり~!」
嬉しいような、くすぐったいような。たったこれだけのやり取りなのに、どうして涙が込み上げてくるんだろう。
しばらくの間、涼子は小さい頃の自分の様子を食い入るように眺めていた。ユウはその様子をただ静かに見守っていた。
どれぐらいの時間が過ぎただろう。
「こんな時もあったんだね……なんだか成長するに従って、だんだん素直になれなくなって、親が手を焼いてるのがわかるようになったの。そうすると、よけいに気持ちが頑なになって。でも、そういう風にしてしまったのは私自身かもしれない」
視線は幼い自分に向けたまま、涼子は呟いた。
「それで、放って置かれてる……なんて自分勝手かな、やっぱ」
自嘲気味に笑う涼子にユウは微笑んで言った。
「目に映る状態だけが真実じゃない、僕はそう思うんだ。でも、親でも友達でも自分とは別の人格を持った人間なんだから、言葉を交わさないと本心なんて見えてこない。だから不安に感じたり、誤解してしまうんだね、きっと。目を向けていないようでも、きっと心の中はいつも君の事を一番に考えているんじゃないかな、ご両親は。でも、大切にしたい事を一番に出来るか、その優先順位は必ずしもいつも一緒ではないんだよ……それは立場であったり、責任であったり……現実的な事もいろいろあるだろうしね」
「そうね、お金もないと欲しいものも、食べさせたい物も手に入らないしね。……私ね、やっぱり不安だったの、今までは大事にされていること、認めてもらえてる事、そういった事がなんとなくでもわかったから自分の存在価値を確認出来てたのに、それがだんだんわからなくなって……」
「比べるべきではないものと自分を比べてしまうんだね。仕事と私とどっちが大事? 趣味と私、どっちが大事? あの子と私とどっちが友達? って。聞かれた方は大変だ」
ユウはクスクスと笑い、涼子も釣られて照れ笑いした。
「まだまだ子供だもん!」
「もう、いろいろ考えられる年頃だと思うけど?」
お互い、冗談めいた口調でそう言い合うと、2人はおもいきり笑いあった。
しばらくの空白の後、涼子は落ち着いた口調でユウに言った。
「ありがとう。ユウさんのおかげで少し、変われる気がする。全部が全部自分の心の持ちようが招いた事だとは思わない。やっぱり理不尽な事がいっぱいあるし、傷つくこともあるもの。だけど、解決できる部分も見つける事が出来る気がするの。全てに背を向けるのはやめにするわ。だって、こんな私の為にこんなに一生懸命関わってくれる人もいるんだもの……ユウさんを信じて良かった、本当に」
「その言葉で、僕は救われるよ」
空はオレンジ色に染まり、一番星がその姿を誇らしげに輝かせていた。
2人がもといた公園に戻ってくると、さほど時間の経過はなく、空も雨こそ止んでいるものの、どんよりと重たい雲を湛えていた。
(現実なんだよね、今までのこと全部)
放心している涼子の肩をポンポンと叩いて、ユウは、大丈夫? というように微笑んだ。そのまま涼子はユウに促されてベンチに座り、ユウもその横に腰掛けた。
「なんだか、夢みたいで。こんな事が現実に起こるなんて。でも、すごく嬉しいの、ユウさんに会えた事。ユウさんにはもっともっといろんな話を聞いて欲しいなぁって、迷惑かもしれないけど……」
「僕でよければ話ぐらいいくらでも聞くよ。でも忘れないで。今感じている心の強さ、それは君自身が見つけたものだよ。僕は少しばかり手伝いをしただけなんだ。これからも、何か壁にぶつかっても、きっと乗り越えられる、君の事を信じている人間も必ずいる、それだけは……」
「あの……1つ聞いてもいいですか? どうして、ユウさんは私にここまでしてくれるんですか?」
今まで、気になりながらも聞けなかった質問を涼子は投げかけた。ぬいぐるみを拾ったという縁だけで、ここまで自分の為に力を貸してくれるなんて、ただ、「いい人」という理由では片付けられなかった。
「そうだなぁ、どこから話そうか……」
そう言ってユウは空を仰ぐ。涼子はユウが次の言葉を口にするのを黙って待っていた。
「ユウさん?」
長い沈黙にふと目をやると、ユウはスヤスヤと寝息を立てていた。
「疲れちゃったんですね」
そう言って自分の上着を脱ぐと、涼子はユウにかけてやり、そっと前髪を掻きあげた。「おやすみなさい」と小さく呟いて。
「帰って来てたのか。あぁ、寝てしまったんだな。あとはいいよ俺が見ておくから、君は帰るといい。いろいろ考える事もできただろうしな」
ケイは2人に近づいて、眠っているユウを見ると涼子にそう言った。
「え? でも……それじゃあお願いしていいですか?私、帰って両親と話がしたくて、今までの事やこれからの事……」
自分のために疲れさせてしまっただろうユウが眠っている間に帰ってしまうのはかなり失礼だろうと涼子も躊躇したものの、今、自分の気持ちが湧き上がっているうちに両親との関係を修復したいという思いもあり、悩みながらもその場をケイに任せることを決めた。
「わかってるよ、大丈夫。目が覚めて君がいないからってへそを曲げるような奴じゃないから」
冗談ぽくそう言うと、ケイはニッと笑った。
あら、この人もこういう笑顔が出来るんだわ……などとこれまた少し失礼な事を思いながら涼子はベンチを立った。
「じゃあ、私、帰ります。ユウさんによろしく伝えてください、必ずお礼伝えにまた来ますから」
「あぁ、わかった」
走り去る涼子の姿を最後まで見届けると、ケイは先ほどまで涼子が座っていた場所に陣取った。
「もう行ったぞ」
ぼそっとケイが呟くとユウはゆっくりと少しだけ目を開けた。
「さすがケイ……ばれてたか」
「長年の付き合いだからな」
ユウの言葉に笑いもせずケイは答えた。
「僕は……悔しかったんだ。200年前、もっと力があれば僕達の生みの親であるあの少女の心を救えたかもしれないのに、それが出来なかった事……村人に迫害され、たった1人孤独なまま……何も悪いことなんかしてないのに差別されて……誰も本当の彼女の心なんて……知らないくせに……」
「あぁ、わかるよ」
「思ったんだ、もしかしたら……あの子……彼女の生まれ変わりだったんじゃないかって……そうだったら……いいな……って……」
「そうだな……」
静かに話し続けるユウの邪魔をしないようにケイはただ頷く。
先刻まで止んでいた雨がまた静かに降り出し、空はさらに暗さを増した。
「でも……結局、僕の力はこの程度のものなんだな……最後まで……彼女の幸せを見届けることは出来そうもない……種を蒔くだけ蒔いていなくなるなんて……酷いよな……」
「後は俺が変わってやるから心配すんな」
「悪いな……最後まで面倒かけて……」
「全くだ……でもまぁ、気にするな」
そういうと2人は顔をあわせて互いに笑顔を見せた。
「嬉しかった……最後の最後に……少しは生まれてきた意味があったんだって……本当に良かった……」
「意味があるから生まれてくんだよ、人も、物も……」
空を見上げてケイは呟いた。肩に少し重さが増したように感じ、ケイは視線をユウに向けた。
「ユウ?」
そう声をかけた瞬間、ユウはただのぬいぐるみへと姿を変えていた。
「ユウ……ゆっくり休めよ」
次の日の朝、制服姿の涼子は登校前にいつもの公園に顔を出した。辺りをさっと見回すと、いつものベンチに人影がある。喜んで駆け寄った涼子はそこにいた人物に驚いた。
「ケイさん? どうしたんですか珍しいですね、ユウさんはお疲れ大丈夫ですか?」
「今日は学校に行く気になったんだな。その姿を見たらユウも喜ぶ」
涼子は少し恥ずかしそうに俯いて微笑んだ。
「両親ともいろいろ話をしたんです。今日は学校に行って帰ったら久しぶりに家族そろって食事に行こうって」
「そうか、良かったな……そうだ、これ、ユウがありがとうって」
そう言うと、ケイは昨日涼子がユウに掛けた上着を返した。上着を受け取りながら視線をケイの手の先に向けると、涼子の目にケイの左手に握られているぬいぐるみが映った。
「ケイさん、それ……どうして?」
それは涼子がよく話しかけていたぬいぐるみであり、ユウの妹の物だったはずだ。何も答えずにただ、ぬいぐるみを差し出すケイを訝しんで見上げながらも、涼子はぬいぐるみを受けとった。しばらくぬいぐるみを大事そうに見ていた涼子はある事に気がついた。
「この包帯……これって確かユウさんの腕に……」
ハッとして、涼子はケイを見た。ケイは黙って頷いた。
「あなただったの……? ユウさん」
見る見るうちに涼子の目には涙が溢れてきた。
「喜んでたよ、ユウ。君が元気になっていく姿を見ることが、あいつにとってとても幸せだったんだ」
「私のせいで……」
「君のせいじゃない、君のおかげであいつも幸せだったんだ。だからこれからも忘れないで欲しい、前を向いてしっかり生きていくことを……」
「ユウさん……」
ぬいぐるみを胸に抱きかかえ静かに涙を流し続けた後、涼子は顔を上げた。
「ユウさん、私はもう大丈夫だから、安心して見ていてね……時には落ち込む時もあるかもしれないけど、でも必ず立ち上がるから」
そう言うと、涼子はケイを振り返った。
「あなたはこれからどうするの? あなたもユウさんと同じ仲間なんでしょう?」
「君の状況適応能力には感服するよ。普通こういった事態にはパニックを起こすなり、もっといろんなリアクションがあってしかるべきだと思うんだけど」
「今更でしょ?」
「確かに」
肩を竦めてケイは言った。
「ここ数日、俺も少し変身し過ぎたから、少しばかり休息を取ろうと思ってね。ユウを連れて旅行でもしてくるよ」
そういって、ケイは涼子からユウを受け取った。
「約束したんだ、ユウと」
「そっか……じゃあ疲れたらここに戻ってきて。私はいつでもここに来るから、あなた達を見つけたら私の家へ連れ帰ってあげるわ。約束……ね?」
「まったく不思議な子だな、君は。ユウの言ってた通り、本当に彼女の生まれ変わりかもな」
「何か言った?」
「いや、その時は頼むよ。ほら、そろそろいかないと遅刻するぞ」
「いけない!行かなきゃ。……じゃあ、ケイさん……ユウさん、必ずまた戻って来てね」
早口でそう言うと手を振って涼子は公園を後にした。何度も何度も振り返りながら。その姿が見えなくなるとケイはやれやれと一息ついて、ユウに話しかけた。
「それじゃあ約束どおり、行こうか? 相棒」
「おかあさん、あの鳥さん、背中に何か乗せてるよ~」
「はいはい、変なこと言ってないで、バスに遅れるわよ」
親子の会話を耳にして、ふと足を止め、涼子は空を見上げた。そこに見えたのは。
「いってらっしゃい」
小さく呟くと涼子は遅刻遅刻と言ってまた走り出した。
≪ 完 ≫
もともと舞台脚本に出来る物語を書こうと思って書いたもの。