ムダなんかじゃない!
殺伐としていてなにもない屋上に人影はなく、心地よく解放的な春風が吹き抜けている。
その風がいくらか、俺の苛立ちを鎮めてくれた。
フェンス際に腰を下ろして、溜め息を吐いてからパンの袋を開封して、それを咀嚼する。
口の中にソースの芳醇な香りと味がいっぱいに広がり、後を追うようにしてピリッとした紅生姜の味がする。
それらを存分に堪能してからいちごオレで流し込もうとした瞬間、軽快なリズムのサウンドが耳に届いた。
ダンスミュージックとは違う。
これはアイドルソングのようなノリのよさがある。
ストローを咥えたままで音源の方向を探るべく辺りを見渡してみる。
どうやら音は俺の位置から死角になる場所から流れているらしい。
俺は立ち上がってコの字型になっている空間の中心地点から向かって右側の突き当たりを目指して歩いていく。
するとそこにはスマートフォンをスピーカーに接続して音楽を流しながら熱心にダンスと歌の練習をしている四宮の姿があり、彼女の向かいには姿見の鏡までがセットしてある。
軽快なステップを踏みながら、汗を流して歌っている彼女の姿に、ただただ呆然と見とれ、音楽が丸一曲終わってしまうまでの間ずっと釘付けになり、その場から一歩たりとも動けないでいた。
彼女は曲が終わるのと同時にスマートフォンを操作して音楽を停め、深く息を吐いた。
その瞬間、元の場所に置き去りにしたパンのことなんかすっかり忘れて、半ば無意識のうちに拍手をしていた。
薄暗い場所にいるはずの彼女が、俺の目にはたしかにステージ上に立っているアイドルのように輝いて見えていた。
スポーツタオルで汗を拭っていた四宮は、拍手の音に反応してこちらを向き、驚きに目を丸くしている。
練習に熱中していたからか、俺の存在感がひどく薄かったのかはさだかではないけれど、それまでは俺がいることにすら全く気付いていなかったらしい。
「み・・・・・・見た? 見てたの? いつから? いつから見てたの? なんで、いるの?」
四宮がしどろもどろになりながらも矢継ぎ早に言うから、俺が挙動不審気味に頷くと、彼女は頭を抱えてこの世の終わりを見たかのように――過去の俺の叫びに匹敵するほどに――絶叫しながらその場にしゃがみこんでしまった。
なにがまずかったのだろうか。
なにがいけなかったのか俺には全くもって判断できない。
「すっげえよ! マジで凄かったよ! うまく言えねえけど、すげえかんどうしたよ!」
思わず口走って、そこで自分がとんでもなく重大な失敗をやらかしたことに気が付いた。
初めて声をかけるにしては馴れ馴れしいにもほどがある。俺がだれなのかを認識しているかどうかも怪しいのだから、気持ち悪がられても叫ばれても仕方がないのかもしれない。
なんとかしなければいけない、という思考が光速レベルで脳内を駆け巡る。
「あ、あの・・・・・・ご、ごめん!」
言いながら可能な限り腰を深く折って低頭した。
よくわからないけれど、彼女の顔を見ることさえも申し訳なくなってしまった。
「え? どうして謝ったりするの? 顔、あげてよ」
そう言われて俺はゆっくりと頭を上げた。
「いや。それは、俺が急に馴れ馴れしく話しかけたりしたから四宮さんがパニクっちゃったのかと思って・・・・・・」
「そんなことないよ。・・・・・・私のこと知ってるんだね? ・・・・・・って、それは当たり前か」
――なにを今更・・・・・・。目が赤いけど、夜ふかしでもしたのかな・・・・・・?
「そうだよ、当たり前じゃん。四宮さんはクラスでも有名人だしさ・・・・・・」
俺は彼女から返ってきた言葉によって自分の発言内容をひどく後悔した。
「有名なのはクラスで浮いてるからでしょ? みんなから嫌われてるもんね、私さ・・・・・・」
四宮の声と表情にはなんとも言い表せない哀しさがあるように思えた。
そんなことはない、と言おうとしたけれど、緊張と焦りでうまく声が出せずに言葉を詰まらせてしまった。
そして悲運なことにそれがまたしても裏目に出てしまう。
「やっぱ、そうなんだ。そうだよね・・・・・・」
四宮はそう言い残して数歩足を進めた。
そのとき、咄嗟に彼女の腕を掴んでいた。
慌てて手を離したけれど、正直なところ気まずさは一向に拭えない状況。
それどころか重苦しい雰囲気はより一層色濃くなったように思える。
けれど、どうにかして今のこの状況だけは打破したい。
どうしても、出会って一ヶ月越しの念願の、初めての会話を気まずいままで終わらせるようなことだけはしたくなかった。
「そんなことないよ!」
少しだけ遅かったかもしれないけれど、俺は立ち止まった彼女の背に向けて叫んだ。
「少なくとも俺は四宮さんのこと嫌いじゃないよ! ・・・・・・そりゃあ、よくない噂とかも耳にしたりしたけど、そんなの関係ねえよ! 俺は四宮さんのこといい人だと思ってるよ?」
振り返った四宮の表情は、この世のものとは思えないほどに柔らかく優しいものだった。
「ありがとう。・・・・・・それで?」
「え? それで、って?」
「永篠くんは私の噂って、どんなことを聞いたの?」
俺は驚いた。
まさか四宮が俺の名前を知ってるなんて思っていなかったから。
「えっ!? なんで俺の名前知ってんの!?」
「当たり前じゃない、同じクラスなんだからさ。私の二つ後ろの席で名前は永篠蒼次郎。私立本杢聖倫中学校出身。中学時代はいつもの五人組でバンド〝DO5〟を結成、ボーカルとして活動していた。アイドル、アニメその他あらゆるジャンルに精通していて、入試成績はトップ。ライター所属。最初の自己紹介とか、毎日の会話聞いてたら覚えちゃった。・・・・・・ってか、最初に質問したのは私なんだけど? それには答えてくれないわけ? それってなんかズルくない?」
驚いた次には、どう答えるべきか困り果ててしまった。
自分で蒔いた種とは言えども、本人を目の前にして彼女の悪い噂の内容を暴露することは、ただならない罪悪感がある。
俺が尻込みしていると、痺れを切らしたように四宮が溜め息混じりに言う。
「実は大体わかってるんだよね・・・・・・。どうせあれでしょ? 私がウリやってるらしいとか、教師をたらしこんでるらしいとか、実はレズらしいとか、そんなところでしょう?」
たしかに全てが耳にしたことのある噂ばかりで、俺はやむなく頷いた。そして反駁する。
「あっ、で、でも・・・・・・俺はそんなの全然信じてないよ!? 本当に!!」
四宮は突然大声を上げて笑い始めた。
そして笑いを収めても尚、腹を抑えたままで言う。
「その言い方、全然説得力ないよ? 慌てすぎ。本当は少しでも疑ってたんじゃないの?」
すぐには返答できなかった。思い切り図星だったから。
そんな様子を見てまたしても笑い始めた四宮を見たとき、俺は確信した。四宮は噂とはほど遠い真逆の人間なのだということを。
「そりゃあ、た、たしかに初めて聞いたときはマジかって思ったし、ダチが四宮さんが女とホテルにはいるとこ見たって言ってたし、もしかしたら事実かもしんないと思わないでもなかったけど、今は違うって信じられる。ただの根も葉もない噂だったって信じられる」
その言葉にはなに一つ嘘はなかったけれど、自分で言いながら死ねるほどに恥ずかしい。
「全部ただの噂。たしかに知り合いとホテルに行ったには行ったけど、それも色々と詳しくは言えない事情があるの。とにかく私はウリもやってないし、教師をたらしこんでもないし、レズなんかじゃない。好きになるのは、恋愛対象は、ちゃんと男の人だもん・・・・・・」
俺は心底安心した。
四宮が、普通に会話を交わせる人間だということと、〝普通の女子高生〟であることに安心しながら、少しでも疑ってしまったことを申し訳なく思った。
「ところで四宮さんって、もしかして〝ドル〟なの?」
「うん。・・・・・・全然、出席日数は足りてないから、いつもここでダンスと歌の練習してるの。せめて実技だけでも落とさないように・・・・・・。まあ、所詮ムダな足掻きなんだけどね・・・・・・」
ちなみに〝ドル〟というのは〝アイドルコース〟の一部をとった略称で、俺が所属する〝ライター〟の場合は〝ライターコース〟のこと。
この学校には〝創作科〟と〝芸能科〟の二つの科しか存在せず、それぞれの科に五つのコースが設けられているのだ。
「ムダなんかじゃない! ・・・・・・と思う。地道な努力は経験は絶対に嘘はつかないって。バカみたいだって思われるかもしれないけど、俺は、夢は叶うって信じてないと叶わないと思ってるんだ。逆に叶うって信じてやってれば、いつか必ず叶うはずだって信じてるんだよね・・・・・・。だからさ、きっと四宮さんもなれるよ、アイドル。だって、だれかが歌って踊ってる姿見て、あんなに釘付けにされたのは初めてだもん。俺なんかと違って・・・・・・」
俺の言葉に四宮は小首を傾げる。
「俺なんかと違って、ってどういう意味?」
そう訊ねられて俺は思わず苦笑してしまう。
「俺はライターの専任から、作品を提出するたびによく言われてるんだよね。『お前の小説はいつも、発想と人物描写はそれなりにいいけど、ストーリー全体の展開が雑すぎてダメだ』って。だから、俺には才能がないんだよ。入試でも一般学科はたしかにトップだったけど、専科の作品提出はいつもダメだしばっか・・・・・・。入学早々に現実叩き付けられたって言うか・・・・・・。まあ、簡単に言うなら、早くも挫折しちゃったんだよね・・・・・・」
「なにそれ? さっき言ってたことと真逆じゃん。思いっきり矛盾してるじゃん」
そう言った四宮の声には呆れの色を帯びていた。
「永篠くんの小説、今度私に読ませてよ。才能があるかないかは私が判断してあげるよ!」
突然の提案に、どう反応していいものかわからなくなり、思わず混ぜ返してしまう。
「四宮さんって小説読んだりするの?」
「意外だった?」
「かなり。そういうのは全く読まなそうなイメージだったから」
本心では、読書をしている四宮はきっとかなりサマになるだろうな、なんて思っていた。
目の前にいる彼女は俺の心中など露知らず、心外そうにどこか拗ねたような口調で言う。
「失礼な! ・・・・・・って言いたいとこだけど、実際はあんまり読まないんだー。小説ってさ、文字だけだから、読んでるとどうしても眠くなっちゃうんだよねえ、これが・・・・・・」
そう言ってあっけらかんと笑ってみせた。
その笑顔があまりにも無邪気で、直視することさえ躊躇ってしまった。