今、どこにいるの!?
俺は真っ先に四宮の下駄箱を見に行った。
そして彼女の革靴が残っていることを確認する。
それからは半分以上祈るような気持ちで屋上へと向かって全力で走った。
購買部の前を突っ切ったとき、中古賀からなにか声をかけられた。
それからもすれ違う教師たちに何度となく呼び止められたけれど、それら全てを無視して走り続けた。
廊下を走っていることを注意しようとしたのだろうが、今はそんなことに構っていられるほどの余裕なんて欠片もない。
たぶん、帰りにしこたま説教を喰らうことになるだろう。
やっとの思いで屋上までたどり着いた。
その途端、激しい目眩と吐き気に同時に見舞われ、倒れそうになりながらも必死に四宮の隠れ練習場へと壁づたいに重い足をすすめる。
しかし、期待も虚しくそのスペースに彼女はいなかった。
――アテが外れちまったか・・・・・・。
そんなことを考えながら、少しでも体力が戻るのを待つためにも、とにかく一旦その場で足を止めた。
けれどいくら待っても呼吸が調うことはなく、ガキの頃によく襲われていた喘息の発作のときのような苦しさを覚える。
それに続いて聴力を奪われてしまったかのような錯覚にまで陥り、耳鳴りがし始める。
加えて平衡感覚さえも危うくなってくる。
視界はくしゃりと歪み、頭が割れてしまいそうなほどの頭痛までする。
最早、立っていることすら限界に近い状態らしい。
その理由は明白だった。
見事なまでの体力不足と、決定的な睡眠不足、この一ヶ月間、溜まりに溜まった精神的疲労感と極度の緊張。
それに加えて――たかが数階分と言えども、百段を遥かに超えるであろう階段と二百メートル近いか、もしくはそれ以上に長い廊下の――全力疾走によって俺の身体は遂に悲鳴をあげ始めたのだ。
今にも崩れ落ちそうになる下半身に精一杯の力を込めてなんとか踏みとどまる。
とりあえず顔を上げようとしたとき、いたく見覚えのある赤いバスケットシューズが目にはいった。
不思議なことに、それははっきりと見えたんだ。
それを確認してから徐々に視線を上向けていく。
真っ白でスラリと細く長い脚。
膝よりもだいぶ高い位置まで裾上げされた制服のスカート。
目も眩みそうな――既にクラクラなのだが――スカイブルーのカッターシャツ。
申し訳程度に、あるのかないのかわからないほどにいたく謙虚な胸。
襟元には深い緑色をしたリボン。
桜色の張りのある唇に、高くせり出した鷲鼻。
大きな黒真珠を彷彿とさせる、綺麗な二重瞼の双眸。
そこには間違いなく四宮が立っていた。
こう言っては大袈裟なのかもしれないけれど、奇跡と言うには小さすぎるほどの、ほんのささやかな、それでいて俺にとっては途轍もなく大きな奇跡が起こったと、俺はこのとき、たしかにそう感じた。
彼女はどこか不安げにも思える表情でじっとこちらを見据えている。ここまできたなら、もうなりふり構ってなどいられない。
あらん限りの力を振り絞って、カラカラに渇ききった喉と舌を懸命に動かしながら、なんとか言葉を紡いだ。
「しの、みや、さん・・・・・・」
俺の声に反応してか、彼女の唇が微かに動いた。
――畜生が・・・・・・。なに言ってっか、全然わかんねえわ・・・・・・。
残念なことに聴覚がおかしくなってしまっている俺には彼女がなんと言っていたのか、理解できない。
けれどそんなことはもうどうでもいい。
今はただ、彼女に謝るだけだ。
「・・・・・・やっと・・・・・・見つけた・・・・・・。俺、君に、言わなきゃいけないことが、あるんだ
・・・・・・。こないだは、ごめん、ね・・・・・・? アイドル、辞めろなんて、絶対に・・・・・・言っちゃいけない、ひどいこと言って、ごめん、ね・・・・・? 悩ませたかな・・・・・・? 苦しめたよね・・・・・・? 本当に、ごめん・・・・・・」
俺の口から漏れた声は、しっかりと言葉として、声として相手の耳に届いているのかということさえも怪しい――というそのことが自分自身でもはっきりとわかってしまう――ほどにか細く、力のないものだった。
四宮はその目に涙を浮かべて、何度となく首を横に振っている。
どうやら、なんとか伝えたいことは伝わったらしい。
赦してもらえるかどうかはわからないけれど、とにかく言葉は通じたというその事実が一気に安堵感をもたらし、胸のうちを満たしていく。
四宮はまたなにかを言っているけれど、相変わらずその声は俺の耳には届いてこない。
またもや視界が歪み、瞼が急激に重みをまして、そのまま意識が暗く深い闇に沈み込むような錯覚にとらわれながら暗転した。
☆
蒼次郎と向き合ってすぐに、彼の頭がゆっくりと持ち上がる。
前髪が顔を覆っているせいでその表情は読み取れない。
「しの、みや、さん・・・・・・」
彼が弱々しい声で私を呼んだ。
「なに?」
「・・・・・・やっと・・・・・・見つけた・・・・・・」
「・・・・・・え?」
一瞬、彼の言葉の意味がわからなかった。
なにかを聞き違えたのかとさえ思ったけれど、彼はたしかに『やっと見つけた』と、そう言った。
つまり、彼は私をずっと捜していたということだろうか。
どちらにしても彼からたとえ責められようと、その言葉を聞き届けなければいけないと思った。
「俺、君に、言わなきゃいけないことが、あるんだ・・・・・・」
不自然なほどに途切れ途切れの声。
明らかにいつもの彼とは違う。
様子がおかしいと、そう思ったけれども、彼がまたなにかを言おうとしたことで、私は身構えてしまう。
「こないだは、ごめん、ね・・・・・・? アイドル、辞めろなんて、絶対に・・・・・・言っちゃいけない、ひどいこと言って、ごめん、ね・・・・・?」
正直、驚いた。
本当は、謝らなければいけないのは私の方なのに、なにも悪くはないはずの彼の方が先に謝ったのだ。
なにか言わなければいけないと思うのに、声が詰まってしまって言葉が出てこない。
鼻の奥の方がツンと痛くなって、今にも涙が溢れそうになる。
「悩ませたかな・・・・・・? 苦しめたよね・・・・・・? 本当に、ごめん・・・・・・」
私は彼の言葉に何度も首を振って、そんなことはないと強く否定した。
そのとき、目から涙が少しだけこぼれた。
「そんなこと言わなくていいよ・・・・・・。私の方こそごめんね・・・・・・? 永篠くんはなにも悪くなんかないよ・・・・・・。全部、私があんなこと言っちゃったからいけないんだよ・・・・・・」
そのとき、蒼次郎がふわりと微笑んだ。
口許にちょっと皮肉っぽくも思える微かな笑みを、広角を僅かに上向けるだけの彼らしい微笑を浮かべた。
そして途端に彼はその場で倒れ込んでしまった。
――どう、いう、こと・・・・・・?
ほんの一瞬だけ、頭の中が真っ白になった。
「どうしたの!? 永篠くん!? ねえ!?」
私は彼の肩を抱えて軽く揺すってみた。
呼吸はあるけれど反応がなく、よく見るとひどい汗をかいている。
私は汗で張り付いた彼の前髪を指先で払う。
額にも凄い汗をかいていて、流れた汗が長い睫に少しだけ溜まっている。
――どうしよう・・・・・・。友達でも、だれでもいいから、人を呼ばなきゃ!
そう思って立ち上がった私は、絶望した。
私には呼び出せるような友達が琴音たち四人以外にいない。
しかも四人は揃って今日、学校を休んでいる。
ほかに校内でまともに話せる相手といえば、蒼次郎だけ。
かろうじてその友人四人とまでなら話せないこともないけれど。
――彼の、友達・・・・・・?
絶望直後の自分の閃きに、感謝せざるを得なかった。
蒼次郎は相変わらず苦しそうに横たわっている。
この状況なだけに背に腹はかえられない。
「永篠くん、ごめん!」
私はまた一言謝罪の念を述べてから彼の制服のポケットを探ってスマホを引っ張り出すと、端末を操作して連絡先の中から友人の欄を検索して一番上にある井ノ原一騎の番号に接続した。
数回のコール音の後に、一騎の明るく呑気な声がする。
「もしも~し、蒼次~? おっせーよ! みんな待ちくたびれてるってー!」
「井ノ原くん!? 今、どこにいるの!?」
「えっ!? もしかして、四宮ちゃん!? これって、どういう展開!?」
いきなり予想もしない相手から電話がかかってきたことに彼はひどく驚いているらしい。
けれど、だからと言って最初から順を追って説明している時間はなかった。
一切の説明を省いて勢いのままに問い質す。
「いいから答えて!! 今どこにいるのよ!?」
「えっと・・・・・・みんな一緒に教室にいるけど・・・・・・」
「今すぐに屋上まで来て!! 早く!! 永篠くんが・・・・・・永篠くんが倒れたの!!」
「えっ!? ぶっちゃけなんかよくわかんねえけど、わかった!! 今すぐ行くわ!!」
そこで電話を切られてしまった。
彼らが到着するまでにできうる限りの応急処置を施して救急車を呼んだ。




