終章 ある兄妹の今
「あ、ナル見つけた。」
そう言って沙依が成得の元へ駆け寄ってきた。沙依に逃げられることはあっても、寄ってこられたためしがない。これはどういう事なんだろう?成得は心底不思議な気分だった。
「あれだけ人見付けるとすぐおぶさって来てたのに、最近わたしのこと避けてたでしょ。わたしから逃げてたの知ってるんだからね。」
だって見つけたらこうぎゅってしたくなるからさ、今のお前がそうされることに恐怖感じるの解ってて出来る訳ないじゃん。だから避けてたのに何で追いかけてくるかな。そんなことを思いながら、成得はへらへら笑ってごまかした。
「まぁ、それはどうでもいいや。ナル、ちょっとそこ座って。」
沙依に言われるがままに近くの杭に腰を掛ける。沙依が何がしたいのか理解できなくて成得は疑問符を浮かべた。そして、沙依の胸に頭を埋めるような形でぎゅぅっと抱きしめられて、成得は頭が真っ白になった。
「え?ちょっと、沙依?何してるの?」
思わぬことに焦るが、沙依の心臓の音が聞こえてきてそれが心地よくて、引きはがすことができなかった。
「小さい頃さ、わたしが不安で怖くてどうしようもない気持ちだった時、姉様がいつもこうやって抱きしめてくれた。この身体に生まれた後も、そういう時、誰かがわたしの手を握って傍にいてくれた。不安な時、怖い時、わたしはいつも誰かの背中にくっついてた。そうしてると安心できた。」
そう言いながら沙依は成得の頭を優しく撫でた。
「思い出したんだ。次兄様がわたしを抱きしめる時はいつだって次兄様が辛い時だったなって。だから、ナルはいつも辛かったんじゃないかなって思ったの。誰かにくっついて安心したかったんじゃないかなって思った。」
それを聞いて成得は胸が締め付けられる思いがした。そっか、末姫にはバレてたのか。そうだな、お前はそういうとこ勘が良かったよな。好き勝手やってるように見えて、本当はお前が俺たち兄弟がバラバラにならないように繋ぎ止めようとしてたって知ってたよ。幼いなりに頑張ってたって知ってたよ。お前が俺を拒否しないって確信してたから、ずっと俺はお前に甘えてたんだ。それがバレてたなんてさ、お兄ちゃん恰好が付かないじゃんか。
「ナル。辛い時は泣いたっていいんだよ。」
その言葉を聞いて苦笑が漏れた。
「それさ、俺がお前に言ったんだろ。」
「だからさ、ナルにも我慢してほしくないなって思って。隊長やってるとさ、強がらなきゃいけない時って沢山あるじゃん。辛くても言えない事って沢山あるじゃん。だから、何があったかとか、どうして辛いのかとかは言わなくていいよ。でも、ナルがわたしにくっついて気持ちが落ち着くなら、それは我慢しなくてもいいよ。」
耳元で優しく響く声に成得は感慨深い思いがした。あんなちっちゃかった妹は、もうあの頃みたいな小さな子供じゃないんだな。いつの間にこんなに大きくなってたんだろ。いつの間にこんなこと理解できるようになってたんだろ。もう、敵わないな。本当、敵わない。そう思って、成得は恐る恐る沙依の身体に腕を回して、強く抱きしめた。
「怖くない?」
「怖くないよ。」
「本当?お前、我慢してない?」
「我慢なんてしてないよ。」
呆れたようにそう言う沙依に、成得は心の中で嘘つけと呟いた。俺にこうされて、お前の身体は拒否反応起こしてるだろ。そう思ったが、何も言わずにそのまま抱きしめていた。きっと沙依が言っていることは嘘ではないんだ。身体と心は違う。沙依が怖がっているのは俺じゃない。散々その身に浴びてきた恐怖が抜けないだけなんだ。それでもこうされるのは負担なはずなのに、なのにさ、どうして・・・。
「沙依。お前、後悔とかしたことある?」
成得の問いかけに、沙依はないと答えた。
「わたしは常にその時一番したいことをしてきたから。その結果を見て辛くなる時もあるけど、だからと言ってあの時こうしておけば良かったなんて思ったことがない。思ったことがあったとしても覚えてない。」
それを聞いて成得は、泣きそうな顔で笑った。
「俺はさ、後悔しっぱなしだよ。あん時こうしときゃよかったとか。あんなことしなきゃよかったとか。そんな事ばっかだ。」
こんなに苦しいのに、心が痛いのに、涙は出てこなかった。泣きたくても泣けない。どうしたら涙が出てくるのか解らない。出てくるのはいつもの薄ら笑いで、それもいつも通りにはいかなくて。成得は自分の感情の持っていく場所が解らなかった。
「ずっと辛かったよ。昔から。俺がどんなにあがいたってさ、出来ることなんて限られてて、どうにもできない事が多すぎて。自分で勘違いされるようなことばっかしておいてさ、嫌われるのも、独りになるのも怖かった。」
なんでこんな話してるんだろ。成得は自分自身が理解できなかった。こんなの本当に自分らしくない。こんな格好悪いとこ、沙依には一番見せたくないはずなのにさ。どうしてこんな話し聞かせてるんだろ。意味が解らない。いや、意味は解るか。意味は解るな。成得は自分の腕の中の沙依の存在を確かめて、顔を埋めた。本当は誰かに知って受け止めてほしかった。ずっと、こんな自分を受け入れてほしかった。誰かと確かな絆で繋がっていたかった。
「お前が傍にいてくれたから、俺は自分を保てた。お前が俺が必要な存在だって確信させてくれてたから、俺はくじけずにすんだ。ずっとお前は俺の心の支えだった。兄貴に記憶を奪われた後だってずっとそうだった。記憶はなかったけど、お前が俺の妹だって解ってたよ。お前にちょっかい出して、嫌がられて、逃げられて、でもお前が俺を心底嫌って拒否しないでくれることに安心感を覚えてた。お前に触れることでお前の存在を確認して、ここにいるって、大丈夫って、安心してた。どんなに辛くたってさ、お前がいてくれれば頑張れたんだ。」
そう言って成得は目を閉じた。
「沙依。お兄ちゃん、お前の事が大好きだよ。俺は四郎みたいにお前のヒーローになれないけどさ。自慢できるような兄ちゃんにはなれないし、こんなんだけどさ。お前のお兄ちゃんでいさせてくれる?」
それが成得の切実な願いだった。兄でいさせてくれるなら、兄だと思ってもらえるなら、それだけでいい。嫌われたって、避けられたって、最後の一本だけ家族として繋がってるっていう絆が信じられるなら、それ以外は何もいらない。それしかいらない。そんな成得に沙依は答えた。
「ナルはわたしのお兄ちゃんだよ。次兄様とナルは本当に同じだなって思う。変わらないなって。他の皆はさ、似てるとか似てないとか、やっぱどっか違うと思うけどさ、ナルと次兄様は同じだって思うよ。だから、何があってもナルはわたしの味方だって信じてる。次兄様はいつだってわたしの味方だったから。」
それを聞いて成得は胸が詰まった。自分は情報司令部隊を退くことはできない。普通の生活はできない。きっと必要なら、沙依のことだって躊躇なく殺せるんだと思う。どんなに大切なものだって、必要なら、それ以外方法がないなら、俺は躊躇なく殺すんだ。兄貴の時のような間違いはしない。誰かに背負わせたりしない。自分が殺して、自分が背負って、そんでもってその時は、いつもみたいに笑うんだ。どんなにそれが重くたって、辛くたって、苦しくたって、俺はきっと涙は流さない。流すべき涙なんてとっくの昔に失くしてしまったのだから。
成得が最後に泣いたのは、もう思い出せないくらい昔の話だった。長兄の葬式の時だって、その後だって、泣きそうになって、涙が出そうな気がすることは沢山あったのに、結局なにも出てこなかった。最後に泣いたのは多分、成得がまだまだ未熟で今なら絶対にしないような間違いをたくさんしてしまっていた頃だ。自分の間違いのせいで、自分が拾った命を、結局自分の手で終わらせ続けていた頃のことだ。大切にしたかった者を、守りたかった者を、自分を慕ってくれていたそんな奴らを、もうずっと昔から、必要なら殺し続けてきた。今更普通になんて戻れない。そんなこと許されない。俺はもうとっくの昔に壊れてる。そう思って成得は苦しくなった。
「俺のことはさ、信じちゃダメだよ。解ってるだろ?俺はお前のことだって平気で殺せるやつだぞ。」
そう言う成得に沙依は信じるよときっぱり言いきった。
「ナルはわたしのこと躊躇わずに殺せるだろうけど、平気では殺せないよ。ナルがどういう風に言われてるかは解ってるよ。でもさ、そんなのどうでもいいことだよ。わたしはナルを信じてる。もしナルがわたしを殺しにくる時が来るなら、その時はきっとわたしが間違ってる時だってわたしは信じられる。次兄様の事、わたし今でも大好きだよ。」
そう言って沙依が笑った気配がした。次兄様、大好き。そう言って満面の笑みを向けてくる幼い妹の姿が脳裏に蘇って、成得は心が温かくなった。いつもの薄ら笑いじゃなくて、普通の、心からの笑顔が成得の顔に広がった。
「本当、お前ってやつはさ。本当、大好き。大好きだよ、沙依。俺のかわいい末姫ちゃんのままでいてくれて、ありがとう。兄貴に毒されて変わっちまったように思ってたけどさ、やっぱ、お前は俺のかわいい妹のまんまだよ。」
そう言って成得は沙依を抱き上げて笑顔を向けると、下ろしてその額に口づけをした。本当、かわいい。そう言って抱きしめる。
「あのさ、こうやってお前に甘えるのお兄ちゃんの特権にしてくれない?」
成得のその言葉に沙依は疑問符を浮かべた。
「一歩譲って女の子に優しくするのは許す。でも、男にはこんな事しちゃダメ。そこら辺の男にこんなことして優しくしたら、お前にその気が無くても勘違いされるだろ。危ないから。」
その成得の言葉に、沙依は憮然とした顔をした。
「ナルだけ特別にはできないよ。それに誰にでもこんなことするわけじゃないし。わたしに害意があるような人にこんなことしないし。大切な人以外にしないし。」
沙依の言葉に成得は大げさにため息をついた。
「お前解ってない。お前が安全だと思ってる男が安全とは限らないの。そもそもこんなことされたら大抵の男は理性とぶから。百歩譲ってだ、お兄ちゃん以外にこんなことするなら、お前が男女の中になってもいいと思う相手だけにしなさい。」
いや、百歩でも足りないけど。勘違いしてお前の事押し倒した時点で、その男許さないけど。そんなことをぶつぶつ言いながら、成得は何かを思い出したような顔をして沙依を見た。
「お兄ちゃん以外って言ったけど、一馬と小太郎はダメだからな。あいつらはお前の兄ちゃん辞めてるんだから、あいつらはお兄ちゃん扱いしちゃダメ。兄貴もいなくなったし、お前のお兄ちゃんは俺だけだから。そこちゃんと覚えとけよ。」
真剣な顔で大真面目にそんなことを言う成得が可笑しくて、沙依は声を立てて笑った。一通り笑うと、沙依は真っすぐ成得を見つめた。
「ナルの言ってることよく解らないけど、それでもナルがわたしのお兄ちゃんでいようとしてくれてることは解るよ。昔と変わらずわたしのこと大切に想ってくれてるってことはちゃんと解る。」
そう言って沙依は満面の笑顔を成得に向けた。
「ずっとお兄ちゃんでいてくれてありがとう。ナル、大好きだよ。」
その瞬間、成得の中で何かがはじけた。ずっとこれが見たかった。この笑顔が見たかった。この笑顔が見られるなら、俺はなんだって出来るんだ。本当にそう思う。頑張って良かった。心からそう思えた。胸糞悪い思いをたくさんして、本当に気分が悪くて、そんなことばかりでやさぐれた心が、その笑顔で全て癒された。癒されていた。
お兄ちゃん決めたよ。やっぱりお前が嫁に行くのも、同意でも男とイチャイチャするのも耐えられないから、全力で妨害してやる。あの男になんて絶対お前のこと渡さないから。そんなことを思いながら成得は沙依の頭を撫でる。公私混同でも、使える物は何でも使って邪魔してやる。そう開き直った成得は、普段の薄ら笑いに戻っていた。