間章 ある兄妹の日常①
「次兄様。具合が悪いの?大丈夫?」
気が付くと末姫が部屋に入って来ていて、次郎は驚愕して飛び起きた。自分の千里眼を使って人の情事を盗み見るのに夢中で、妹が部屋に入ってきたことに全く気が付かなかった。
「勝手にお兄ちゃんの部屋に入ってはいけませんっていつも言ってるだろ。」
妹にバレないように、そっと触っていたモノを隠す。完全に準備ができている状態の自分のそれに早く元に戻ってほしいのに、なかなか戻らなくて次郎は焦った。普通邪魔が入った時点で引っ込むもんじゃないの。本当、やめてよ。焦る気持ちとは裏腹にそれは一向に収まる気配はなかった。
末姫が心配そうな顔で次郎の顔を覗き込み、おでこに手を当てる。目の前に迫る妹の顔と、今の自分の状況を考えて、次郎は更に焦った。これじゃまるで七歳の妹に欲情してる変態じゃないか。こんな所、姉貴に見つかったらマジで殺される。本当、心配しなくていいから早くどっか行ってくれ。そう思うが、次郎の心叫びは全く妹に届かなかった。
「次兄様、顔赤いよ。風邪ひいたの?姉様呼んできた方がいい?」
本気で自分を心配している末姫に、お願いだからそれだけはやめてとお願いした。そんなことされたら姉に殺される。殺されはしないにしても確実にボコボコにはされる。姉にボコられた挙句、兄にも〆られる。そもそも昼間っからこんなことしてたこと知られるだけでもきついのに。次郎は泣きたくなった。
末姫が自分の所に来るなんてなにか失くしたに決まってる。次郎はそう考えて、さっさと自分の部屋から出て行ってほしい一心で妹の失くし物を千里眼で探した。
「お前の探し物、あれだろ?いつもお前が髪結んでる姉貴が作った組紐。あれならお前が四郎とよく遊んでるあそこら辺の木の上。って木の上って、お前またやんちゃしてただろ?また姉貴に怒られるぞ、四郎が。」
人の部屋に勝手に入ってきて勝手に余計なものを見つけるのも、木登りや格闘ごっこをしたいと言っては兄達を振り回しているのもこの妹自身なのに、それで姉に怒られるのはいつも自分達の方なのだ。本当、割に合わない。割に合わないが、
「ありがとう次兄様。大好き。」
満面の笑顔でそう言って走っていく姿を見ると結局きつく言えない自分がいて、次郎はため息をついた。結局、自分は年の離れた末っ子がかわいくて仕方がないのだ。
母は妹が生まれてすぐに亡くなってしまった。母を失ったことで父も気を病んで、部屋にこもっていることの方が多い。だから妹は兄弟皆で面倒を見てきた。特に兄弟の中で唯一の女性である姉は、本当によくやってたと思う。正直、脳筋で粗暴な姉に赤子の世話ができるとは意外だったが、姉は本当に細やかに気を配って妹の面倒をみてきた。ちょっと過保護すぎる気はするが、今でも本当に妹を溺愛しかわいがっている。上二人が父母の様に妹の面倒をみていたから、正直次郎はほとんど何もしてない。何もしてないが懐かれるとやっぱりかわいかった。
「次兄様。あったよ。」
そう言って末姫が戻ってきた。わざわざ戻ってこなくてもいいのに。そう思いつつ、本当に嬉しそうに組紐を掲げて報告してくる姿が愛おしくて、思わず口元が緩むのを次郎は感じた。
「そりゃよかったな。」
そう言って頭を撫でると、末姫はくすぐったそうに首をすくめた。
「お前、なんか失くしたら俺に頼めばいいと思ってるだろ。ちゃんと失くさないように気をつけなきゃダメだぞ。特に大切な物はちゃんと失くさないように気をつけないと、後で泣くことになるんだからな。」
次郎は小言を言ってみるが、疑問符を浮かべて自分を見上げてくる妹にはあまり伝わっていない様子だった。
「次兄様、探してくれなくなるの?」
そう訊かれて次郎は、いや多分探すけど、結局探すだろうけど、そうじゃなくてさ、としどろもどろに答えて、面倒くさくなった。そんな次郎を見て末姫は笑った。
「次兄様、大好き。」
この妹はすぐ大好きと言う。いったいどこで覚えてきたのか、兄姉にこうしていつも愛を振りまいている。
「本当、お前の好きって軽いよな。それ皆に言ってんだろ。」
ちょっと意地悪がしたくて、次郎は呆れたようにそう言った。
「だって、皆大好きだよ。」
悩むことなく即答したその笑顔の破壊力に、次郎はやられた。くそっ、かわいい。なにこのかわいい生き物。
「そんなに皆に大好きをばらまいてたら、信じてもらえなくなっちゃうぞ。せめてチューでもしてくれたらその大好き信じられるんだけどな。」
動揺した自分をごまかそうと、次郎は薄ら笑いを浮かべて冗談を言った。それを聞いて末姫がキョトンとした顔をしたかと思うと、次の瞬間唇に柔らかい感触がして次郎は頭が真っ白になった。
「ちょっと待って、末姫ちゃん。今、お兄ちゃんに何したの?」
末姫は意味が解らないという顔で首を傾げた。
「だって、次兄様がチューしたら信じてくれるって言ったから。」
言ったけど。確かに言ったけどさ。
「どこでそんなこと覚えてきたんだよ。」
そう嘆く次郎に末姫は答えた。
「えっとね。この間、三兄様と四兄様と一緒にお祭り行った帰りにね、ガサガサいうからなんかいるのかと思ったら、男の人が女の人にチューしてって言われてこうしてた。」
それを聞いて次郎は頭を抱えた。
「他になんか見た?」
末姫は首を横に振った。
「三兄様がね、見ちゃダメだって。目隠しされて、三兄様の力でおうちに帰ってきたから。何だったのかきいたら、お前たちにはまだ早いって言ってた。」
祭りの日に人混みを離れて情事に励む輩が多いことを次郎はよく知っていたが、そこに妹が遭遇したと思うと何とも言えないもやもやが胸に広がった。
「とりあえず末姫ちゃん。チューは禁止。誰にもしちゃいけません。」
次郎がそう言うと、末姫は何で?と首を傾げた。
「三郎にも言われただろ。末姫ちゃんにはまだ早いの。大きくなるまでそうゆう事しちゃダメ。」
「どれくらい大きくなったらいいの?」
「そうだな、せめて十五歳になるまでダメ。」
次郎はとりあえず三郎の年を答えておいた。解ったと素直に頷く末姫と指切りをして、次郎は肩の力を抜いた。わがままで奔放な妹だが、厳格な長男から厳しく言われている為か約束は破らない。だからこうして約束さえ取り付けてしまえばもう大丈夫だと思った。
「末姫ちゃん。皆大好きは解ったけど。お兄ちゃんお姉ちゃん達の中で誰が一番好きなの?」
ちょっと気になって次郎は聞いた。
「四兄様。」
即答する妹を見て、次郎は少しくらい悩んでほしかったなと思った。そっか、四郎が一番好きなのか。一番年も近いし、よく一緒に遊んでるもんな。そう考えつつどうしてか訊いてみる。
「遊んでくれるし、怒らないし、優しいし。あと強くてかっこいい。」
そう応える笑顔が眩しい。そっか、優しくて強くてかっこいいからか。確かにあいつは穏やかっていうか、ぼーっとしてるもんな。あいつが感情的になってるところを見たことがない。そのくせ姉貴の次に脳筋で暇さえあれば身体鍛えてるし、まだガキのくせにそこそこ背丈もあるしな。あと数年したら俺、身長抜かれるな多分。そんなことを考えて次郎は虚しくなった。
「四郎のどこがかっこいいの?」
そう訊かれて末姫は答えた。
「戦ってる四兄様がかっこいい。この間、熊倒してたの。凄かったんだよ。」
きらきら目を輝かせながらその時の様子を語る末姫を眺めながら次郎は、あいつ素手で熊倒せるのかすげぇなと思っていた。まだ十二歳の弟相手に喧嘩で勝てる気がしない。この調子だと末姫のヒーローはずっと四郎だなとか考えて、ちょっと気がふさいだ。どうせ俺は自慢できるとこないけどさ、それでもかわいい妹のヒーローには憧れるのよ。どう考えても自慢の兄ちゃんになれる要素ないけどな。うん、ないな。どうしよう、考えれば考えるほど俺ダメな奴だ。
「一番好きなのが四郎ならさ、兄弟の中で一番好きじゃないのは誰?」
ちょっと自虐的に次郎は訊いた。自分で訊いときながら、これで自分だと言われたら本気で立ち直れない。悩むかなと次郎は思ったが、悩むことなく末姫は姉様だときっぱり答えた。
「だって、女の子なんだからって、あれダメこれダメって何もさせてくれないし。なのに姉様は自分はやってるんだもん。ずるいって言うと、自分はいいけどわたしはダメなんだって言ってくるし、兄様達の事、すぐ怒って殴るし、イヤ。」
それを聞いて次郎は噴き出した。あれだけ妹を溺愛してるのに、こんなこと聞いたら姉貴ショックだろうなと思うと笑いが止まらなかった。
「姉貴が嫌なら、兄貴はどうなんだ?お前、兄貴によく怒られてるだろ。」
厳格な長兄はこの末っ子にも厳しい。そんな長兄も、結局末妹に弱いのだが、他の兄弟のように甘やかしたりはしなかった。厳しい挙句普段無口で威圧感を発している兄は、幼い妹には怖く感じるのではないかと思うのに、末姫は長兄によく懐いていた。それが次郎には疑問だった。
「兄様はイヤじゃないよ。わたしは兄様の味方なの。兄様のことはわたしが守ってあげるの。だからわたしは兄様の傍にいなきゃいけないの。兄様を一人ぼっちにさせちゃダメだって言ってた。」
あの兄貴を何から守るんだよ。ってか、言ってたって誰がだよ。そう思うが、きっと聞いても解らないだろうと次郎は思った。末姫がこう言うということは、きっとそれが必要な事なのだ。この末っ子の能力がいったい何なのかよく解らないが、末姫が突発的にこうしなきゃいけないとか、こういうことが起こるとか言った時は、本当にそうなのだ。多分、未来視の様なものなのだろうが、幼いせいか末姫は自分の能力をちゃんと認識していないし、制御もできない。
「確かにあの兄貴を守れるとしたらお前だけかもな。あの意地っ張りはお前の言う事しか聞かないからな。兄貴のことはお前に任せたよ。」
そうしみじみと言って、次郎は末姫の頭を撫でた。末姫は一瞬キョトンとした顔をして、それから満面の笑みを浮かべて、うんと言った。