田中省三 70歳 遺言を書く
困ったな、美佐子は全然信用しないし。こんなにはっきりあの世の者が見えるのに。
もしかしたら宜保愛子を超えるかもしれない。いや、平成の丹波哲郎と言うべきか。
とにかく困るんだよ。区別がつかないから。しょっちゅう独り言を言ってるとか言われるし。
判断できるのは服装だな。この店はよく法事に利用されるのだが、紋付き袴に口ひげをはやして来店したらいにしえの方だと思って、話しかけられても無視するのだが。
ここ十年であちらに行った人はまったくわからない。
まあ、法事の時にはよく見るな。坊さんも来ることもあるからな、お経と線香が何よりの供養なのだろう。
そう思っていたのだよ、あの時までは。
「今日桔梗の間で予約しているものなのですが、私は代理なのでどのような料理かお聞きしたいとおもいましてな。恥ずかしい食い意地が張っておりましてな」
この頃省三は手の空いた時には電話番をしていた。この予約は省三が受けたものだった。
「これは松コースで一番高額です。食べごたえがありますよ」
「そうですか。頼まれた方とは血縁関係はないのですが、何だか嫌気がさしているようで。高額の料理を出したのに包んだ金が少ないとか、お返しが貧弱だとか。そんなもの聞きたくないそうです。
そうでしょうな。ま、私の場合は関係ありませんから。陰膳が楽しみですな」
また瞬時に消えたよ。普通の人だと思ったのだが。しかしあの世に行ってもメシは食えるのだな。
「美佐子帰ったぞ」
「お帰りなさい」
「今日は褒められたんだよ。仕事は遅いけど仕上がりが丁寧だとな」
「あのそれ全面的に褒めているわけではないと思うけど」
「なんんでだ。俺は褒められると伸びるタイプなのだよ」
余計なことは言わないほうがいい。ああ、そうか取扱方法を習得したのね。
「今日の晩飯は何だ」
「仕事に行ったのでトンカツにしました。油ものは控えていたのですが」
「ああよかったかぶらなくて」
「何ですかこのかぶると言うのは」
「賄い飯とお前の夕食がかぶるのだよ。俺は賄い担当の奴とお前が密かにかに連絡を取っているのかと思ったよ」
「何で私がそんななおバカなことをしなければいけないのですか」
「何だかそんな気がして」
「だってなマーボー豆腐とチンジャオロースがかぶったし。まあ俺は控えめな性格だから言わなかったが。まあな好物だったから許せたが」
「あなたに好物以外のものはあるんですか」
「そんなことを言っている場合ではない遺言状を書くぞ」
「遺言状を書くような財産なんてないではありませんか」
「美佐子、世の中には財産以上に重要で大切なことがあるのだよ」
「大きく出ましたね。家訓でも書くのですか」
「まずは法事の会食について」
「何ですかそれは」
「一周忌は寺の和食でいいが、三回忌は都ホテルのフルコースにして欲しい」
「余命宣告でもされたのですか」
「そんなことはないが。月命日には好物を供えて欲しい。一月は雑煮は欲しいな、春はちらし寿司だし。
夏場は冷やし中華とウナギははずせないな。すき焼きと鍋はどこに入れればいいのだろう。
12月はそばにしてくれ。雰囲気も味わいたいし。
外食と旅行の際は必ず遺影を持参すること。以上」
「それのどこが重要なのですか」
「重要なんだよ、これが」