22:00
聖歌の準備と言っても大掛かりな事ではない。
教会の入り口を入って真っ直ぐの突き当たりに教会が崇める女神の像が置かれており、その周辺を飾るだけだ。後は、ただ聖歌を歌う衣装に着替えて時間まで待機である。
マーチェは控えの間にある椅子に座り出番を待っていた。
「今年も歌える……。神よ、感謝します」
目を瞑り、手を前で組みながら神に礼を述べる。
「来年、貴女様の前で歌えるか判らないわたしを許してください。代わりに、今日の歌は今までで一番の出来をお約束しますから」
聖夜に教会で歌える事。
マーチェにとっては誰にも渡したくないもの。
しかし、マーチェは来年の春には王都を出て別の街へと行くことが決まっていた。だから、教会で歌う最後の聖歌だけは手を抜く訳にはいかない。
「マーチェ、そろそろよ。行きましょう」
シスターが控えの間に入ってきてマーチェを呼ぶ。
無言で立ち上がりシスターの側まで行くと、彼女はマーチェの頭をひと撫でしてくれた。
「大丈夫。いつも通り歌えばいいのよ。貴女の声は、何よりも美しいわ」
「……はい」
シスターに言われると、どうしてか信じられる。
「頑張ります」
「はい。いいお返事です」
二人でクスクスと笑った後、女神像のある礼拝堂へと赴く。
「……では、私はここで。マーチェ、一人で行けますね?」
堂の手前でシスターとは別行動になる。彼女は途中から礼拝に来た人を案内しなければならない。
「はい、シスター。行ってきます」
シスターと抱擁を交わしたマーチェは一人、舞台となる礼拝堂へと足を踏み入れた。
神聖な空間に辿り着くと話し声がぴたりと止み、マーチェに視線が集まる。
女神像のある最前列中央まで行き、その前に跪く。
「神よ。我らを見守りし女神よ。今宵、貴女様に歌を捧げる事をわたしにお許しください」
前口上は毎年同じだが、心を込めるのは当然。
今年は尚更気持ちを入れているが、想いが大き過ぎて困ることはないだろう。
述べ終わり後ろを振り向くと、昨年よりも数の多い人々が自分を見ていた。
(大丈夫。わたしは出来る)
息を吸い込む。
歌が、始まる。
マーチェは心を空っぽにする。
無駄な感情を一切無くし、歌う事だけに集中する。
声と、息継ぎの音だけが聖堂に響く。
己の作り上げた空間に他者の入る隙を与えないように、完璧に紡いでゆく。
ーー与えて、なるものか。
神に捧げる歌は、神の為だけに歌われるのだ。
邪魔をする者は許さない。
誰であれ、神に心を曝け出し罪を告白するマーチェの歌を止める事は出来ない。
ーーどうか、どうか、許して。貴女の為に歌えなくなるわたしを……!
本当は城下から離れたくない。
本当は孤児院でずっと暮らしたい。
本当は教会でもっと歌いたい。
なのに、出ていかなければならない。
ーー貴女に誓った約束を破るわたしを、どうか…!
泣きたかった。
叫びたかった。
縋りたかった。
出来なかったのは、この想いを受け止めてくれる存在がいなかったから。
マーチェの歌を聞く人々は感嘆する。
歌で必死に神へ何かを訴える姿に、心を打たれる。
ただ歌うのではなく、まさしく『人が神に向かって歌っている』のだと実感する程、彼女はその場の空気を支配していた。
歌が終わると暫くの静寂ののち、拍手喝采が沸き起こった。
「素晴らしい!」
「今年のは一段と良かった!」
「毎年歌が上手くなっていると思っていたけれど……!感動したわ!!」
聖歌は見世物ではないので、毎年控えめな拍手だけだった。
(まさか、こんな風に言って貰えるなんて)
純粋に嬉しかった。
聖歌でこれだけの賞賛を貰ったのは初めてである。
(王都で最後の聖歌。とてもいい思い出が出来た)
それなのに居座りたいなど、欲が深いというものだ。
マーチェは礼拝者達に軽く会釈をして退場する。
肩の荷が下りた感じと踏ん切りがついたことで、気が抜けそうになる。その瞬間、鋭い視線を感じた。
(誰……?)
目だけでそちらへ顔を向けると、真っ直ぐマーチェを見つめる瞳とかち合う。
とても綺麗な、金色だった。
(金の瞳の人なんているんだ)
もっと見ていたかったが、退場途中だった為に視線を外すしかなかった。
そのまま、マーチェは礼拝堂から退がって行った。
だから、彼女は気づかなかった。
金の目が、獲物を狙う様に自分を見ていたことに。