お相子
酒というのは、月や影法師と一緒に飲んでも楽しいという。ならば、気の置けない旧友たちと囲んで飲む酒は、さぞ楽しいことだろう。事実、私の両隣に座った男たちは、あの頃と変わらない屈託のない笑顔を、シワの刻まれた顔に浮かべていた。私も表面上は彼らに合わせていたのだが、どうにも落ち着かなかった。というのも、最近、息子が学校で虐めに遭い、信じていた友人に手ひどく裏切られたらしく、不登校になってしまっているからだ。なぜ気づいてやれなかったのか、担任は何をしていたのか。そんなことばかりが頭をよぎり、グラスに並々注がれたスコッチの味は欠片もわからなかった。
「そうだ、お前Aの奴、覚えてるか」
李白も斯くやというペースで酒を空けていた男が、声をかけてきた。ああ、A、忘れるわけもない。表情の消えた私を見て、彼は私がAのことを覚えていないと思ったらしい。顔を真っ赤にした彼は、機嫌よく早口に捲し立てる。
「AだよA。ほら、クラスでも浮いててさ―――」
今となっては恥ずかしい話ではあるが、学生時代の私は、贔屓目に見ても優等生とは言えなかった。父は仕事人間で、家庭を顧みない人だった。母は家に居ない夫に愛想を尽かし、真の愛を求め夜の街を彷徨い歩いていた。家に居場所などなかった。かといって、心の底から大切に思える人も、感情を分かち合える友人も、当時の私には御伽話の中の存在にしか思えなかった。
そんな頃だった。Aという男に出会ったのは。色白で、太った少年だった。常に何かしらの哲学書を持ち歩いており、難解な、含みのある言い回しを好んでいた。加えて吃音症の嫌いがあったのか、途切れ途切れに発せられる言葉は聞き取りにくく、何かを喋る度に周囲のクラスメイトたちに囃し立てられていた。やれ難しい言葉を言ってみろだの、お前はどうしてまともに喋れないのだだの、改めて思えば、あれは虐めだったのだろう。そんな言葉の暴力を受けても猶、彼は表情を変えなかった。どこか浮世離れした彼に、私は無意識に、彼との共通点を見出していたのかもしれない。だからだろうか、私が彼と友人と呼べる関係になるまで、そう時間は掛からなかった。
Aは強い少年だった。彼は自身が、何故虐めの対象になるのかを理解していた。だが、彼は、抵抗しないことが抵抗なのだと言い張り、何か行動を起こそうとはしなかった。また、私が彼を庇おうとすると目で制し、卑怯な暴力を一身に受け止めていた。難しいことはわからなかったが、彼が何か、確固たる哲学を持っているということだけは、私にも理解できた。とにかく、Aと私は、秘密裏ではあったが、友人であったのだ。
だが、蜜月はそう長く続かなかった。
ある日のことだった。学校へ行くと、クラスメイトたちがAを取り囲んで口々に罵っていた。最早日常と言うべき景色だったが、その日は少し毛色が違っていた。彼を虐めていたグループのリーダー格が私に気づくと、厭らしい笑みを浮かべ、勿体ぶったように喋りだした。
「おいオマエ、Aなんかとトモダチってほんとかよ」
背筋が凍るとは、あのようなことを言うのだろう。顔は引き攣り、私はAのように「あ、いや、その」などと、吃ることしか出来なかった。不思議だった。悔しかった。Aを友と認めていた筈なのに、言い返すことが出来なかった。本当ならば、「Aは俺の親友だ」と言うべきだったのだ。だが、現実の私は狼狽えるばかりで、何一つ意味のある言葉を発することは出来なかった。
そこから先は日に焼けたフィルムのような記憶しかない。だが、最後に目に焼き付いたAの冷たい表情だけが、あの出来事は現実だったのだと、私に教えてくれる。
「でさ、ほらあそこにそのAが居るんだよ」
Aが居る。その一言で現実に引き戻された。あの日のことを彼に謝らねばならない。そして、出来ることなら、また彼と友人になろう。
「A!」
大声で呼びかけると、仕立てのいいスーツを着た恰幅のいい男が振り向いた。ひと目でAだとわかった。酒が入っているせいか、肌は仄かに赤らんでいる。逸る気持ちをなけなしの自制心で押さえつける。彼は私を見ると、人当たりの良い笑みを浮かべた。
「やぁ、久しぶりじゃないか。元気にしていたかい。君は」
「ああ、A。元気さ。この通りだよ」
数十年ぶりに交わす彼との小気味よいやりとりは、私の中の子どもを刺激すると共に、罪悪感を肥大化させていた。
「なぁ、A。お前、いや、君に謝らなくてはいけないことがあるんだ」
「あの日、君を裏切ってしまったこと。君を傷つけてしまったこと。もし君さえ許してくれるのであれば、もう一度、私と友人になってくれないか」
Aは花の咲いたような笑顔を浮かべた。
「ああ、いいよ。許す。お相子だからね」
「お相子……。ええっと――」
私の言葉を遮り彼は続ける。
「そう、お相子さ。今度は僕の、いや、僕の息子の番さ」
そう言ったAの顔は、あの日、最後に見たものと同じだった。