1.さんぼんゆびの大地 ―そして逃走か―
結局、あのハレア嬢のいない隙に毒を盛るのに成功したものの、スゴロフ共々見つかり、追われ、あまつさえ何だか得体の知れない女のせいで命も助かりそうな勢いだ。
「……なあんで、生き残っちまったかねえ……。」
暗殺に失敗して敵に捉えられた密偵の行く末なんざ、見え切っている。
「死んだ方がましだったか?」
驚き、声の方を向けば、真っ黒なフードを被った、あの女がいた。その背後の戸は、開いていない。
「……どっから入ったんだか。」
これも彼女の言う怪しげな術とやらの力なのか。女は、気にした風でもなく喋る。
「死にたいのか?」
「死にたかあ、ないね。痛い目見るのだって嫌だな。だがここにいりゃあ、確実拷問されて酷い末路だろうねえ。」
暗殺決行前に、色々調べて、どこの領主の屋敷でも置いてある拷問道具一式が揃っているのは確認済みである。しかもそれらは最近も使われた形跡があった。
「……誰もお前を知らない、そういう世界に連れて行ってやろうか?」
思わず、薄ら笑いを浮かべる。
「そんであんたにはどんなメリットがあるっていうんだ?」
女は首を傾げ、そして考え込んだ。
「人間との契約となると限られてくるが……。死んだ時にその身体を提供する、というのでどうだ?もしくは薬の実験体でもやるか?」
人間、という言葉が引っ掛かる。
「そんじゃああんたは死神か何かなのか?」
死神に連れてかれる世界なんざ、今とそう大差あるものか。大体今のとこ保障してんのは、誰も俺を知らない、ってだけで、今よりましな世界かどうかなんざ、こいつは一言も言ってない。
と、笑い声が、響く。それは、女のものではなかった。ぎょっとして声の方を見ると、女より背丈が高く、同じく真っ黒なローブで、女と違って本当に全身覆ってる輩が、どうして気づかなかったものか、女のすぐ横に立っていた。
「死神ねえ?中々おもしろいこと言う坊やじゃあないか。」
頭からローブを被っているために、銀色に光る瞳しか見えない。その光を見て、ぞくり、と背筋が震えた。……死神、というならば、きっと奴の方がふさわしい。
「……ラーダ、余計な口を挟むな。」
「あらあ、私が何を喋ろうと契約違反にはならないはずだよ?私ら魔女と違って、親切心と同情心とで契約結んであげようってミュゼルちゃんを、死神呼ばわりだなんておかしくってねえ。」
ころころと、笑う。彼女はますます眉根を寄せ、溜息を吐いた。
「考えておけ。三日後、また来る。」
それだけを告げると、背の高い女に向かって頷く。女はころころと笑い、マントを翻した。……次の瞬間、二人の姿は消えていた。
「……何だってんだ。」
そうして俺は、会話を噛みしめる間もなく眠りについた。
三日の間、毎日その女とハレア嬢が来るのが、俺にとって時間を知る唯一の手段だった。食べ物も、治療と同じく、彼女が手ずから用意したらしきどろどろの粥を、渡され、口に運ぶ。
不思議なことに、その間俺が拷問や詰問にあうことはなく、かえって不気味なくらいだった。二人は一般的におしゃべりな生き物である女どもの例外とでもいわんばかりに、あの日以来、無口で寡黙であり、領主殿の容態がどうなったのか知る由もなかった。
そして三日後の真夜中、わずかばかりでも期待していなかったと言えば嘘になる。……しかし聞こえてきたのはあの時と違って賑々しい鎧の音で、格子の向こうに姿を現したのは麗しのハレア嬢だった。
がちゃがちゃと音を立てて、戸が開き、ハレア嬢以下数名が、中に入ってくる。
「おやまあ、賑やかなこって。」
「取引に応じる気は?」
余裕で肩をすくめてみせるも、ハレア嬢の目配せで、すぐに取り押さえられ、一人が何か液体を無理矢理口に含ませる。……がはっ、ごほっ、こんなん呑みたくねえに決まってらあ!
それでも液体は喉を通り、意識が朦朧としてくる。……頭の片隅で、初めて自白剤飲まされたな、とぼんやり思う。
ベッドから引きずりおろされた俺の頭を、がっしりつかみ、否が応でもハレア嬢の麗しき顔と対面する。
「……それで?貴様の雇い主はどこのどいつだ?」
……ああ、上手く口の端あげて笑えたらしい。思い切り傷口を蹴りあげられる。
「雇い主は?」
雇い主、やといぬし、ヤトイヌシ……。ああ、俺を拾ってくれた親爺の顔が見える。
「……ちっ、やはりゲルグの狐か。他にも潜り込んでる連中がいるのか?」
そう言えば、スゴロフのチビはどうなったのだろうか。あのままおめおめと逃げおおせたのだろうか。それとも……。
ぎりぎりと、傷口を抉られる。悲鳴をあげる。……そして急に、痛みが途絶えた。
遠い場所で、剣戟が聞こえた気がした。朦朧とした頭でそれだけを認識し、必死に目を開けるも、何もわからない。
「鼠がかかったか。どっちだ?」
「侍童です!しかしいなくなった様子で……。」
苛立つように、再び舌打ち。そしてまたもや、鋭い痛み。目を閉じることは許されない。
「ゲルグは、他にもああいう子供を育てているのか!?」
爛々と怒りに燃える瞳が、やはり美しい。
「あの子供は何者だ!?」
傷が、開かれる。悲鳴――。
「……あ……いの……あんさつ……しゅうだん……」
「藍の暗殺集団だと?」
藍の暗殺集団、伝説、噂、本物がいたなんて…………。
そこから先は、自白剤で何を喋ったか覚えておらず、治りかけの傷口をわざわざ抉られた痛みしか記憶にない。