---Light〈明日への陽光〉--(1)
猫が晶石兵装の保管庫へと襲撃してきた翌日、俺とフェイは渋い表情を浮かべる尾道さんのオフィスへと呼び出されていた。
「猫被枢という人間についていろいろ調べてみたよ」
パサ、と尾道さんは自らの机の上に数枚の資料を置く。
「戸籍については確かにある。だがいくつかの重要な必要な資料が役所の中にそろっていない。もっとも日常使われる範囲内では完璧にそろっているから数十年単位で時間が経たないと気づきはしないだろうがね。学校の方の情報に関しても同じようなものだった。家族はなし、住所に行ってももぬけの殻。ボコボコと普通の人間ならあるべきものが抜けている。特に四年前より昔の情報に関してはまったくと言っていいほど出てこない」
何の感情も読み取れない声で尾道さんがそう言葉を並べる。
淡々と述べられるその一言一言が俺の心に痛みを生み出す。
「ハッキリ言おう。これは白の特性、他存在支配を使えばすべて用意できる。白の力は高位のものならば人間の精神を根本から捻じ曲げることもできる。役所の人間を操って戸籍をでっちあげるなんて呼吸をするより簡単だろうね」
その断定的な言葉にさらに下を向く。
あの時、猫の顔を見たときから感じている今まで信じていたものが足元から崩れていくような空虚な感覚が強くなる。
「具体的なあの女の素性は?」
「不明だよ。もっとも白の力で痕跡を消しているのなら追いようがない。まぁそこらへんはこれから君たちに頑張ってもらうしかない」
「え?」
尾道さんの言葉に俺は呆けた声で返事を返す。
「君たちには猫被枢に対する索敵、及び白隔の奪還をやってもらう」
「!?」
その言葉に俺はこの上ない驚きを感じた。
「な……なんで! 俺がそんなことやっても……」
「わかってる。君に個人的感情を挟まずそんなことをやれ、と言われても難しいということくらい僕にだってわかってるさ。だがこの任務は君たちにしか頼めない理由があるんだ」
「なんですか理由って……」
「白の能力さ。さっきも言った通り白の能力はあらゆる存在を支配下に置くことができる。それは人間……ACHだって例外ではない。だがその白も無条件で他の人間を支配できるわけじゃない。自らと同等以上の晶石を扱う者は支配できないんだ。そして今現在動かせる中で、マザー級以上の晶石を所有しているのは君とフェイ君だけなんだよ」
「そんな……」
つまり猫とまた戦うということか。
「別に殺せと言っているわけじゃない。少なくとも当面は彼女の正体、目的等を探ってほしいのさ。鮫君は何なら猫君と仲良くしたって構わない。わかったことをキッチリと報告してくれるならね」
「でも仕留められるなら仕留めても?」
不意に、フェイの口からそんな物騒な言葉が放たれる。
そのフェイの一言に部屋の中の空気が硬質化する。
「……まぁ友好的でない君に関しては多少の戦闘行為もやむを得ないとは思っている、だが殺すのはダメだ」
「でもアレ、昨日のうちにマザー級の白のクリスタルホルダーとして正式に認知されたんですよね?」
「なっ!?」
猫が……クリスタルホルダーとして認知された!?
「どういうことですか尾道さん!」
「……フェイ君。何も鮫君にそんなことを言わなくてもいいだろう……職場の空気というものを考えてくれ」
「どうせ知ることですよ。すぐに」
ハァ……と深い溜息をつきながら尾道さんが重々しく口を開く。
「僕よりも上の人間がそう言う判断をしたのさ。彼女……猫被枢の力は物理的、戦略的に見て膨大だ。一刻も早い無力化を望んでいるということさ」
「でも! あいつはクリスタルホルダーなんかじゃ!」
「くどいわよ。竜ヶ崎」
冷たい響きの声が横から聞こえた次の瞬間、灯が燃えるような静かな、しかし強いエネルギーが感じられる音が隣から聞こえる。
そちらを見ると、フェイの足のホルスターに納められている剣から赤い光が湧きだし彼女の足の周りを燃やすように渦巻いている。
「貴方がどういうスタンスを取ろうと自由だけど、私は必ずもう一度あの女と戦う。止めても無駄よ」
そう言い捨て、フェイは部屋の外へと出て行ってしまう。
「相当怒ってるね、あれは。怒って無意識に晶石を起動させるとは……」
「そんなことってあるんですか?」
「そんなことがあるから、わざわざ君に学校をやめさせたのさ」
……あれだけフェイが怒る理由。心当たりはある。猫が使ったというあの白隔という兵器だ。
「オーバードライブ兵装って実際のところどのくらい扱いが難しいんですか?」
「唐突な質問だね……まぁどの晶石兵装でもそうだが、持って一日二日で扱えるというモノでは絶対にないはずなんだが。まぁ白の身体適合だというならやった事は想像できなくもない。恐らくフェイ君がオーバードライブ兵装を使ったのを見てその技術をコピーしたんだろう。フェイ君に気付かれない程度に白の力をフェイ君の体に取り付かせて神経や筋肉の動き、脳波なんかをモニタリングして、その動きを自分の身体で再現したってところかな」
「……」
猫の事について聞けば聞くほど……自分が持っていたアイツとかけ離れていく。
なんだか気分が悪くなり、俺もフェイに倣い外に出る。
「ああ、そうだ。鮫君。これは年長者としてのアドバイスだけど」
「……?」
「ま、いっぱい悩みなさい。悩んだ数だけ君は成長するよ」
本当に……十人並のアドバイスだな、と思った。
◇◇◇
「何やってんの? フェイ」
「見てわからない?」
フラフラとあてどなくさまよい、行き着いた先は待機所の三階の食堂だった。
どうやらフェイも腹を満たして英気を養うべくここに来たらしいが……
「……なんで天ぷらそば?」
「悪い?」
「日本人かお前は」
「日本人よ、メンタルは」
そんなことを言いながらズルズルと普通に音を立てながらそばをすする金髪美少女。
そう言えばフェイは小さいころこっちに帰化したとか尾道さんが言ってたっけ……余りにも違和感のある構図なのでつい突っ込んでしまった。
「金髪碧眼の美人が天ぷらそばなんて食べてたら誰だってツッこむって」
「お褒めの言葉どうも。言っとくけど私の朝のスタンダードは納豆とサケの切り身とお味噌汁よ」
うわぁ、納豆コネるの想像したら更なる違和感が。
「で? 何か用?」
「や……別に用ってわけじゃねーんだけど、まぁ会ったついでに言いたいことや聞きたいことはあるかな」
そう前置きし、俺はフェイの前に座りながら、心の中に引っかかっていることを聞く。
「怒ってるのはやっぱり猫が白隔を使ったからか?」
「……貴方のデリカシーの無さは驚嘆に値するわね」
呆れたようなため息をつきながらこちらをギロリと冷たい目で睨んでくる。
「小さいと思うなら思いなさいよ。私はこの剣を満足に振れるようになるまで一年かかったのよ。今でも満足に力を引き出すこともできやしない。それを一秒で否定されるような行いを見て冷静でいられるほど私は大人じゃないのよ」
「大人じゃない……か、なんか一番最初に見たイメージから随分印象が変わったような気がする」
「? どんなイメージだったのよ?」
「超絶クールな殺獣機械?」
「そのイメージは払拭されて正解よ」
あっはっは、と乾いた声で笑う俺。
そして、意を決し一番気になることを聞く。
「猫を殺すのか?」
「……」
その俺の質問に、ほんの少し弛緩していた空気が先ほどオフィスで会話していた時以上に張り詰める。
「別に殺したい、と願ってるわけじゃないけど殺すつもりでいかないとこちらが殺される。だから私は殺すつもりで戦いに臨むわ」
「じゃあ、別に戦わなくても……」
「さっきも言った通り、私はあの女に対して和平的な解決方法は一切取らないわ、そもそもあの女も私に対してあまりいい感情を抱いているようではなかったしね」
「は? どういうことだよ」
疑問を感じ聞き返すと深いため息をつきながらこちらを指差す。
「あの女、私が貴方を取ったと思っているみたい。全く冗談じゃないわよ」
「いや、意味が分からないんだが……」
フェイが俺を取った? 猫からってことか?
「……貴方あの女とはいつからの付き合い?」
「へ? えっと高校入学と同じくらいからだから一年と数カ月か」
「もし相当昔からだとしたら少し同情するわね……」
ボソボソと何か言ってるがあまりよく聞き取れない、なんだっていうんだ?
「と、とにかく! 殺すのは無しだって! 気持ちは分からないでもないけど人が死んでからじゃおそ……」
そこまで言った途端、ドン! とフェイが拳を机にたたきつける。
「わかるとか簡単に言わないでほしいわね、特にあなたには」
そう冷たく言い捨て、フェイはそのまま食器を持って歩き去ってしまう。
「だー……くっそ……」
結局フェイの意志は変えられなかった。短い付き合いだが、もう今ではフェイが最初のイメージと大きく違う人間だということくらいは分かる。
尾道さんの言うとおり怒りっぽくて、頑固な奴だ。
頭を抱えたい気持ちを抱きながら天井を仰ぎ見、ここの食堂についてあることを思い出す。
そう言えばここは猫がアルバイト先として働いているところだ。
あの食堂のおばさん、郷原さんはどうだったのだろう。猫があんなところで働くなんて無茶なことだと思ったけど、あの人も猫に操られていたのだろうか。
……確かめてみるか。
椅子から立ち、厨房へと歩いていき、客用のスペースから頭を出し名前を呼ぶ。
「すいません! 郷原さん!」
「はーい?」
そう言いながら恰幅の良い姿を奥から表す郷原さん。
もしも猫に操られていたのなら猫はもうこの人の中から自分の記憶を消しているはずだ。
「あの……猫の事なんですけど」
「猫ちゃんがどうかしたのかい?」
「え? 覚えてるんですか?」
「は? 覚えてる?」
どうやら別に記憶を消されている、というわけではないらしい。
それならば、と質問を重ねる。
「あの……猫が一昨日くらいからここにきてないと思うんですけど、どこに行ったかは知ってませんよね?」
「はぁ? 一昨日から来てないって……今日も来てるよ?」
…………………………は?
「ホラ、今もそこで料理作ってるし」
グリン! と首の骨がおかしくなりそうな勢いで振り向くと、そこには……
「あ、鮫? 昨日はゴメン!」
「ゴメンじゃねぇぇぇェェェェ!!」
何!? 何なの!? お前にとってここ敵地じゃねぇの!? 何その敵地の中にある厨房でバイトしてんの!? わっけわかんねぇ!!
「郷原さん!! すいませんがちょっとコイツ借りますね」
「ああ、別にいいよ、どうせ後十分くらいでアガリだし」
ラッキーなことにスムーズに許可が取れた。
「おら来い! 何から何まで全部説明してもらうからな!」
「わ、わかったって、そんなにあわてなくても全部説明するからさ」
ごまかし笑いを浮かべる猫を小脇に担ぎ、万が一にもフェイに見つからないようにACHの制服のジャケットを頭にかぶせ、俺たちはそのままACH待機所から出る俺達。
「ったく……とりあえず絶対にフェイに見つからないところ行くぞ」
「じゃあ私渋谷の方行きたい! あの女絶対に彼氏とかいないから見つかる心配も皆無……グヘッ」
腹にパンチを一つ入れた。
「てめー次にふざけやがったらもう一発行くからな?」
あんなことがあっても、こいつとの会話はいつも通りだという状況になぜだかため息が出た。
◇◇◇
「で! 何なんだお前」
「これまたストレートな質問だねぇ……」
ACHの待機所から出た後、とにかくフェイがいるところから離れようと電車に乗り、たどり着いたのが俺が以前学校に通っている時に使っていた駅のプラットホームだった。
現在は三時、学校が終わる直前のプラットフォームは人もまばらで、妙に開けた感じがしていた。
「まぁ確かになんで今まで隠してたとか、盗んだもの返せとか言いたいことは山ほどあるけど一番最初はそれだろ?」
「ですよねー」
にゃははと笑いながら猫はプラットホームのベンチへと座る。
「何から話したもんか……私自身を語るにはやっぱり物心ついた時からーってくらい長い話になっちゃうんだよね」
「……」
「まぁ早い話孤児だったんだ。私」
孤児。その重い単語が少しだけ真面目な世間話をするくらいの口調で猫の口から放たれる。
「孤児……ってのもまだマシな言い方かな? 別に孤児院にいたわけでもないし、そもそも何か食べさせてくれるような大人がいるような状況でもなかったし。捨て子、ってのが一番しっくりくる言い方だね、私は中国崩壊の時に現地で親に捨てられてたらしいんだ」
「……二十年くらい前のアレか」
中国崩壊それは二十一世紀の末に起きた前世紀最大の事件だ。
二十年前、巨大なクリスタルホルダーのコミューンがユーラシア大陸の中央、モンゴル近くに形成され、その規模が徐々に拡大。
その生息域は中国の領土内を侵食し、当時ACHの技術が未発達だったこともあり、その対策は難航。
世界中から当時発足されたばかりのACHが駆けつけ事態の処理を図ったものの巨大コミューンの成長は止められず、結局中国は西側領土の大半を放棄。
その際、韓国、北朝鮮、ロシアなどの近隣諸外国に難民が流れ込み、経済的、軍事的な混乱が起き、日本にも多大な影響が出た。
「うん、私の晶石は脳に埋まってるんだけど、その影響なのかな? 妙に記憶力がよくて、その時の事とかもはっきり覚えてる。お父さんに助けられた時とかのこともね」
「お父さん?」
「鮫達の言い方ではこういった方が正しく伝わるかな。白のアンセスター。天帝白龍」
その言葉に驚愕で目を見開き、思わず聞き返す。
「はぁ!? アンセスターって……まさか」
「狼少年ーなんて話があるみたいだけど、そういう言い方をするなら私はいわば……龍少女?」
金魚のように口をパクパクと開け、次の言葉が出てこない。
龍少女って、龍少女ってお前。寒すぎるだろ、ネーミング。
「じゃ、じゃあ何か!? 猫被枢ってのは偽名!?」
「とも一概に言い切れないんだよね……もともと私名前なんてなかったし。こっちに来るときに名前が必要だっていうからお父さんに名前つけてって頼んで戸籍を確認してみたら……なんでこんな名前にしたのかって問い詰めたよ」
やれやれとでも言いそうなその様子を見、衝撃を受ける。性も含めてその龍が付けたのかよ!? どういうセンスの龍だ!
「ともかく、私は三歳くらいの時お父さんに拾われて、その時晶石をもらったの、ここに」
そう言いながら額をトントンと指で叩く猫。
「それからはお父さんと一緒にいろんなところ旅して、普通に平和にしてたんだけどね。二、三年前私がちょっとこういう普通の人間の暮らしとかに興味を持っていろいろやってみたいっていうのがきっかけで日本に来たんだ。学校行ったり、買い物したり、美味しいもの食べたり、結構充実した生活だったよ。それに」
そこで猫は一瞬間を置く。
「……? それに?」
「鮫にも会えたよ。学校ってところに初めて行って、同年代の人間といっぱい遊んで、その中で鮫に会えた」
その言葉に俺は動揺する。
これは明らかに俺を特別視する言葉だ。なぜ俺をそこまで特別視するのか、その理由がわからなかった。
ただ俺のことが恋愛的に好きだというより深い、もっと深い理由がそこには込められているような気がした。
「えっと……それは……どういうこと?」
なんとなく、ものすごく野暮な質問をしているような気がするがそう聞いてみる。
「一切のためらいもなく全力投球で鮫の事が好きってこと」
「…………」
なんというか、これ以上ないってほど決定的な答えが返ってきた。
「まぁ、もちろんそれだけじゃないけどね、理由は」
「……それだけじゃない?」
「初めてだもん。私と同じ存在が隣にいるって」
ベンチから立ち上がりクルクルとステップを踏みながら猫はこちらを振り向く。
その髪は普段の濃いブラウンからほんの少しだけ、白い色に染まっていた。
「お父さんのほかにも仲間はいるんだけどねー、ライオンだったり、馬だったりで人間って私だけなんだ。まぁ直系の子供は私だけだからその分可愛がってもらえたってのはあるんだけど、やっぱり自分と同じ人がいるってのは、大きいよ」
そう言い、猫は微笑んだ。
「鮫に会った時から確信はしてたんだ。コイツは晶石を扱うことの天才だって。隠すの嫌だから告白するけど、私の力で頭の中さらってそう言う力があるかどうかとか見てたしね」
「……別にいいよ」
そんなことは今更だし、怒る気もない。
そんなことよりも、今の俺にとっては猫の話の方が百倍重要だった。
「私人間の友達ができたことなんてなかったからさ。かなり不器用にしか距離縮められなかったけど、でもいつかはお父さんに認めてもらって力をもらえれば、私と一緒になれる。そう思ってたんだ。でも運命って不思議だね」
微笑みを維持したまま猫は人差し指を俺の心臓に向ける。
「黒の祖の晶石。七年前、黒麒角端がやられた。っていうのは知ってたけど、あの女が分不相応に使ってるのを見たときは驚いたよ。間違いなくこれは運命だと確信した、だから私はあの時任された男の子を他存在支配の力で安全なところに置いて、鮫の前に来たんだ。流石にあの蛇は私でも支配できなかったから、鮫に晶石の使い方を直接脳に教えて私は陰から見てた」
そう笑いながらいう猫。
そんなことを言う猫に、俺はどうしても言いたいことがあった。
「なぁ」
「んー?」
「お前さ、あの時……蛇に襲われてる時さ、人が死んでるのは分かってたんだよな?」
そう、あのとき、あの場所では間違いなく人が死んでいた。
ならば、やることは一つだろう。
「なんで助けてやらなかったんだよ? お前ならできたんだろ!? いや、たとえできなくたってやるべきだろ!? そんなに俺に正体をばらしたくなかったのかよ!?」
「そ……それは……そう、だけど」
そう問い詰める俺に対する猫の顔には明らかな狼狽があった。まるで『そんなことを言われるなんて予想もしていなかった』などとでも言いたげな表情だ。
「だ、だってあの時は黒の祖の晶石なんての見て、それにばっかり意識が行ってたし……そんなの考えもしなかったって言うか……それに! できなくってもやるのが当然なんて言ってるけど、弱いやつが死ぬなんて当たり前じゃん!」
「当り前!?」
「そうだよ! 弱い奴が死ぬのだって強い奴が力を得るのだって全部当たり前だよ! 私は鮫が好きで助けたけどほかの人まで命を懸けて、私が必死で隠してたことまでさらけ出して……」
そこまで言って、猫は言いよどむ。
「……ごめん、今言ったことは最低だった」
「……いや、こっちも蒸し返すようなこと言って悪い」
そう返すが、俺の中には猫の、俺の問いかけに対する言葉のショックが沈殿していた
俺の中にあった『普通の友人』である猫はもういない。そのことがたとえようもない衝撃を俺の心に与えていた。
「と、とにかく、私が言いたいのはそんなことじゃなくて……私が言いたいのは鮫に一緒に来てほしいってこと」
「一緒に来てほしい?」
「うん、私たちのコミューン。家族になってほしいってこと」
そう言い、猫はこちらへと手を差し出してくる。
その顔には、こちらに対する期待と希望が現れていた。
「鮫ならいずれお父さんと並んで私たちのリーダーになれる。皆を引っ張っていける。そう思うから」
「……短い期間とはいえ俺はACHとしてクリスタルホルダーを殺してたんだぞ? っつーか現在進行形でその仕事やってるし……そんな奴にクリスタルホルダーのボスになれって言ってんのかよ……」
「そのクリスタルホルダーって言い方も私たちにとっては納得いかないんだよねぇ……私たちにとってクリスタルホルダー! って言われるのは人間に向かって動物! って言うのとおんなじような感じだし」
そう言いながらビシっとこちらに人差し指を向ける。
「身体に晶石を宿していようが、いなかろうが、区別はあるんだよ。十把一絡げにクリスタルホルダーでまとめているうちは私たちを理解なんてできない。少なくとも私は鮫が殺してきたクリスタルホルダーに関しては責め立てるつもりはないよ。でも」
そこで言葉を切り、押し殺したような声で続く言葉を発する
「このままACHを続けていれば、いずれ鮫は私の仲間を手にかけるかもしれない。ACHになるって言い出した時は焦ったよ。急いでACH関係者の頭さらってしばらくは実戦に出ないってことは分かってホッとした。その時に白隔のことも知ってね。宝の持ち腐れになってたみたいだから予告状突きつけて行ったんだ。もう鮫も実戦に出てたからバラし時だと思ってたし」
これで鮫が疑問に思ってることにはあらかた答えたかなぁ、と締めくくり、猫はふたたびすとん。と俺の横に腰を下ろした。
「私はあの女との決着をつけたらここを離れる」
「え?」
突如言われた言葉に俺は知らずのうちに手を握りしめていた。
「ま、お父さんが心配するしね。しばらく離れっぱなしだったし。こっちの楽しいことも一通りやりつくしたし。私も多忙なんだよん」
「多忙って……」
「色々あるんだよー、いろいろ」
猫が立ち上がり、わずかに白く染めていた髪を完全な白へと変える。
振り返ったその眼には寂しさとも、愛しさとも取れる色が浮かんでいる。
「鮫。もう一度はっきり言うよ。私は鮫の事が好き。愛って表現して何も間違ってない。それもただの恋慕の愛じゃなくて家族愛、同族愛、友人愛。いろいろな感情が混ざってる。だからお願い。私と一緒に来て」
それは、紛れもない告白だった。
ほんの十数秒で発せられた言葉の中に、決して逃げを許さないという忠告と、それをはるかに凌駕する自らの覚悟が込められていた。
「明日の夜。あの女と決着をつける。その戦いが終わるまでに答えて。来てくれるのか。ダメなのか」
そう言い残し、猫はプラットホームの階段を上り、去って行く。
残された俺は空を見上げ、見上げ……見上げることしかできなかった。
答えて、という猫の言葉が脳裏にこだまする。抱えるには……重すぎる言葉だった。
◇◇◇
気が付けば、俺は自宅のベッドに寝っころがり天井を見つめていた。
最近生活のリズムが大きく変わったのでその影響か部屋の中は相当ごちゃついている。
以前届いたACHの制服が入っていた段ボール箱が隅に積んであり、もう必要がなくなった教科書やノートもビニールひもで縛り付近に放置してある。
もともとそれほど使っていなかった学習机の上にはACHになる際に必要だった説明書類が山と積んであり、本棚にはわずかなマンガ本が置いてある。
あれから考えて、考えて考えて考えて考えて、そして答えは出なかった。
猫の事は確かに大事だ。告白される前からただの一友人というよりは重い存在だったし、告白されてからは言わずもがな、決して軽く見ることなどできない。
だが、だからと言ってすべてを捨てて猫と一緒に行く、という選択をできるかというとそれは難しい。
今までの生活を全て捨てるという選択をすることは容易ではないし、何よりも俺なりにせよ覚悟して進んだACHという仕事をそう簡単に捨てさるという道もまた簡単ではない。
その要因はやはりフェイだった。
恐らくACHの中でも彼女ほどひた向きにACHの仕事と真剣に向き合ってそれを全うしている人間はいないだろう。
相当ひねくれた所があるのは確かだが、彼女は彼女なりに悩んで、問題と向き合って、それを乗り越えようと頑張っている。
そんな彼女を見て、俺はACHになろうと思ったのだ。
今ならACHになろうと思った理由が自分の才能を試す以外にも、もう一つあることがわかる。初めて会った時、あの蛇に立ち向かうその姿を見て俺もこうなりたいと思ったからだ。
そして、俺は今その道を壁に当たりながらも進んでいる。
俺にとって猫が示す道も、フェイが示してくれた道も、等価なのだ。
だから迷ってしまう。
等価である以上、答えなど出ない。しかし結論を出さないわけにはいかない。
その矛盾を抱えたまま、ただ時間だけが過ぎていく。
気付くとカーテンを開けっ放しにしていた窓からはもう日光が入って来ていない。
もう、決断の時まで二十四時間を切ってしまったのだと思うと僅かな焦りが俺の中に生まれる。
そう言えばフェイにも言われたのに尾道さんに報告をしていない。
明日の朝にオフィスに行って報告しようか、とわずかに考えるがそれでどやされてもつまらない。
重々しくハンガーにかけてあるACHのジャケットの中から携帯電話を取出し、尾道さんの番号を呼び出す。
数秒呼び出しコールが連続し、その後に『はい、尾道です』という返事が来る。
「竜ヶ崎です……あの……猫に会ったんで報告を……」
「本当かい!? 詳しく話してくれ!」
あわてたような尾道さんの声を皮切りに俺はベッドに座り、猫と交わした会話、特に猫の素性の部分を抜き出して話す。
猫が中国崩壊の時の孤児であり、白のアンセスターに拾われた特異な出自を持つ人間であること。
ここ数年は普通の人間の生活に興味を持ち白のアンセスターの力を借り、身分を作り生活していたこと。
その過程で俺と出会い、黒のアンセスター晶石を俺に宿らせようと画策したこと。
流石に猫が俺のことを好きだと告白してきたことや、自分の家族になってくれという誘いなどは省いたが猫の正体という面ではほとんどすべてを素直に話す。
「ふむ……クリスタルホルダーが別種の生物を育てる……という事例は報告例がないわけじゃない。だが、まさか人間が、しかも白のアンセスターにそんなことをされるとはね……」
「猫は、その白のアンセスターのことをお父さんって言って慕ってました。何の根拠もないけど……嘘じゃないと思います」
もちろん俺がそんなことを言ったところで尾道さんにとってみれば何も信じる要因にはならないだろう。
むしろ俺が騙されているという可能性の方が客観的に見れば多いのかもしれない。
「ふむ……それで、白隔の奪還に関しては?」
「その時猫のヤツ白隔を持ってなかったんで……それに返す気もなさそうでしたし、取り返すならやっぱり戦って負かすしかないと思います」
「そうか……フェイ君の方もやる気だしねぇ……」
「明日の夜フェイとは決着つけるって言ってました、でも正直俺は……」
そう言い淀む、バカ正直に迷っていると告白するのは憚られたが正直今の精神状態で隠せる気もしなかった。
「……悩んでいるね?」
「そう言えば尾道さんには言われましたね、いっぱい悩めって」
「苦難に当たって、折れて、挫折して人は強くなるのさ。まぁとはいえ今回の場合は問題が特殊すぎるしねぇ……」
電話なので表情は見えないが、おそらく苦笑しているのか、僅かな笑い声が携帯電話のスピーカーから聞こえてくる。
「ま、もう一つアドバイスをするとしたら、答えが出ない問はいくら考えても無駄さ」
その言葉に俺は驚き、思わず唾を飲み込む。
「考えるな、感じろ(Don't think,feel)昔の映画俳優の言葉だけどね。頼れる人間はいないし答えは出ない。そんな状況になったら直感に頼るのも一手さ」
それじゃ君が納得できる結果を得られるように。とだけ言い残し尾道さんは電話を切ってしまう。
「もうちょっとマシなアドバイスねぇのかよ……」
バフン……と座っていたベッドに上体を倒し、部屋に掛けてある時計を見る。いつの間にか夜八時になっていた。
「寝よう……」
直感を信じろというなら、ただ今はもういろいろなことを整理するために休みたかった。
俺はLED照明のスイッチを消し、着替えもせず、布団をかぶって様々なことがありすぎたこの数日の疲れを癒すために、目を閉じた。
◇◇◇
朦朧とする意識を現実に呼び起こしたのは何らかの機械が鳴らすアラーム音だった。
目覚ましは設定していないのでこれは……携帯か。
手さぐりで寝る直前ベッドの下に置いてある携帯を取り電話に出る前に時間を確認。午前十一時、たっぷり十五時間も寝てしまったわけだ。
急いで携帯の画面を確認すると、尾道さんからであることがわかる。
「はい、竜ヶ崎です」
「ああ、鮫君か。体調が悪いところ悪いが仕事だ、こっちには来なくていいから直接現場に向かってくれ」
実のところ体調はまったく悪くない。
というより疲れるということすらフェイとの模擬戦くらいでしか最近は感じていないのだ。
今調子が悪いのは身体ではなく精神オンリーである。
「場所は?」
「江東区。あそこは昔の開発で入り組んでいるから一度見失うと厄介だ。今度も危険度はEクラスだから以前の仕事を考えて今回は一人でやってもらう。フェイ君は今日の夜のイベントに向けて牙を研いでいる最中だしね。現場への移動は晶石の力を使っての移動を許可する。悪いがこれも仕事だ。割り切ってやってもらいたい」
現在の位置情報とリアルタイムの位置情報は携帯の方へ送っておく、と言い残し電話が切れる。
気はこの上なく思い……が、仕事は仕事だ。やらなければならない。
玄関で靴を履き、ドアを出た所で足を強化。集合住宅四階のむき出しの廊下から飛び降りる。
この飛ぶようにビルを駆け巡るのは相変わらず好きだった。
高度や障害物による空気の流れやほかでもない自らの足が地を蹴り流れていく景色に対し感じる疾走感。
たまに気づく眼下の人間が例外なく向ける驚愕の視線にもわずかな快感を感じる辺り、俺は存外目立ちたがり屋なのかとうっすら思う。
俺の家は東京二三区の中央区にある。
数十年ほど前はこの国の中心である東京の中でも有数の繁栄を誇っていた場所だが、今となってはもはや海に面しているというだけで地価は安いという基準に当てはまり、一般市民用の居住区となってしまっている。
タン……と背の高い建物の屋上に上ると陽光を照り返す海面と付近にある築地市場が見える。
かつては世界最大の卸売市場だったそこも漁業の世界的な縮小により今では四割近くが跡地化してしまっている。
それでも曲がりなりにも市場として運営していけるのは漁業に同行できるほどACHの練度が高い日本ならではと言える。
今では漁業はタンカーのような超大型船で漁に出てACHを同行させ、死人が出ることなど日常茶飯事のACHばりにデンジャーな仕事である。
もっとも魚の値段が上がっているため採算は取れているらしいが。
高速の景色を楽しみながら海辺へと到着し、住んでいる中央区の隣の江東区へと駆ける。避難勧告が出ているせいか人も心なしか少なくなってきているような気がする。
仕事用に渡された携帯を取出し、インストールされた位置情報表示用のアプリを開き、クリスタルホルダーの位置を確認すると、ここから一キロ弱離れた所に表示用のポインタが存在していた。
「じゃ、お仕事しますか……」
そうごち、ダン! と足音を鳴らし跳躍。クリスタルホルダーの痕跡を探しながらポインタが表示されていた場所へと向かう。
コンクリで固められた埠頭のような場所を走りながら索敵作業を続け、対象を見つける。
「これまたもっさい野郎だな……」
そこにいたのは、体長おおよそ三メートルのオオサンショウウオならぬダイオウサンショウウオとでもいうべきトカゲとカエルを足して二で割ったような形状の生物だ。
額についている晶石の色は紫。
そいつはこちらを大口を開けぎょろついた目で警戒するように見つめている。
「……ごめんな」
そう言い、俺は足を強化し、ぬめったような眼球の目の前まで近づき、強化部位を右腕に変化させ一撃で首筋を貫き、ダイオウサンショウウオの命を奪う。
美学も矜持も何もない、ただの作業。
ぐちゃり、という肉と血が混ざった感触が指先に触れ、初めての仕事の時のように気分が悪くなる。
だが今回はフェイはいない。最後まで自分でやらなければならない。
血に塗れた右手をダイオウサンショウウオの額へと伸ばす。
さっき首筋を貫いたときはそんなことを感じなかったくせに、そのぬめった体表面に指先をつけると電流が走ったような錯覚を俺は覚えた。
晶石の力で触覚まで強化されているのか、死の直前、極限までパワフルになった心臓の鼓動の余韻と、それがどんどん失われていく死の亡失の感覚。それが改めて触るとはっきりわかる。
思わず手をひっこめ、数秒立ち尽くしてしまう。
浮かんだヴィジョンを振り払うようにブンブンと頭を振り、別に仏教徒でもないのだがパムッと両手を合わせる。
そして改めて右手を強化し、爪を額の晶石の淵へとかける。
そこからベリ……ベリ……と周辺の皮膚や筋肉、血管や神経、粘膜を丁寧に取り払い、紫色の晶石をソッと取り出した。
改めて見た紫色の晶石は命の結晶という言葉がピタリとあてはまるような深い色合いに輝いており、この上なく美しく思えた。
ふぅ……と安堵の息を吐き出し、俺はその晶石をポケットに入れようとしたところで血や粘液でぬれていることを思いだし、近くにあった公衆トイレの水道で洗ってようやくジャケットのポケットにおさめる。
相変わらず、慣れるということのない作業だった。
ただでさえ弱っている精神を更にガリガリと削られたような気がする。
心の中のモヤモヤがイライラに変わり、思わず公衆トイレのカベをガンッ! とやつあたりにたたいてしまう。
頭の中はグチャグチャだ。
猫の事、フェイとの関係、フェイと猫が戦うこと、仕事の重圧、責任。
全ての事が俺を押しつぶし、心を弱らせていくのがわかる。
しかし、悩んでいる時間はない、数時間後にはもうフェイと猫は戦うのだ。傍観者でいることなど許されない。
そのことがただ、自分にとって辛く、苦しく、何をしたいのかも見いだせない自分が、情けなかった。
数時間後、俺は尾道さんに呼び出され同時に呼び出されたフェイと『マザークリスタルホルダー』の討伐のメインアタッカーを務める旨を通達される。
それはもう猶予というものが存在しないことを意味していた。