---Aweken〈起動〉---(1)
この仕事を始めてから二週間、業績は今のところビギナーとしては好調、未来への展望はなかなかに明るい。
それでもため息が出るのはこの仕事に命の保証がないからなのか、それとも最近あったいろいろというには波乱万丈すぎる日々のせいなのか。
そんなことを思いながら俺、竜ヶ崎 鮫は上司への報告をしに待機所のエレベータホールへと向かった。
人ごみに混じり、いつもヘアバンドでまとめている硬い髪をうっとうしいと思いながら、散髪を近いうちにしようと決意する。
最近は色々ありすぎて心が参っているのだ。気分転換をするのも悪くはない。
そんなことを思いながら俺が経済的に困窮しなくなった理由、制服の黒ジャケットのポケットの中にあるブツを取出し、改めて見てみる。
紫の透き通った石。
初めて見たときは綺麗と思ったが、今では見慣れてしまいそんな感慨は薄れてしまった。
晶石というのがこの石の名称だ。
二十一世紀後半、この石が自然界から発見されたことにより、科学技術は大幅な進歩、進捗を遂げることとなる。
が、それは人類の栄華とは直結しなかった。
晶石は鉱山から発掘されるわけではない。
何かほかの物質から精製されるわけでも、宇宙から降ってきたわけでもない。
晶石はとある生物体系の生物のみがその体に宿している。
数十年前その存在が確認され、その後爆発的な勢いで増えていったその生物を今ではクリスタルホルダーと呼んでいる。
そのクリスタルホルダーを狩り殺し、内部に宿している晶石を回収してくるのが俺の仕事、ACHというわけだ。
重い足取りで歩きながらエレベーターのボタンを押し、数十秒後エレベータから降り、上司のオフィスへと歩を進め、扉を開ける。
「どーも、目当てのもんは持ってきました」
「おお、それはありがとう。ついでに一つ報告事項だ」
そんな間延びした声でこちらへ面倒くさい言葉を投げてきたのは尾道 春雄
俺の直属の上司である中年のバーコード親父だ。
「つまらない用だったら途中で寝込む自信ありますけど」
「問題ないよ。鮫君にとってはつまらなくなくなる御仁が来るからね」
「……それはどういう……」
その俺の言葉を遮るように、後ろの扉が開いた。
そこに立っていたのは。
「遅くなりました。尾道さん」
その聞き覚えのある声に俺はクルっと振り向く。
そこにいたのは女の子だ。
年は俺と同じ十六。
長い金髪を結わえて黒いキャスケット帽子の中に入れ、服装は俺と同じ黒いジャケット、アンダーウェアにカーゴパンツというスタイル。
堂々たるその姿は美人ではあるが、その美しさはよく研がれた刃が持つものと同じ鋭さを孕んだ物だった。
フェイルク・ヤストレブ・ソーヴァ。この関東ACH管理局のACHであり、俺の先輩にあたる人間だ。
そして俺がクリスタルホルダーを狩る際のチームメイトでもある。
「よし二人ともそろったね、では話に入るとしよう」
そう言い、尾道さんはデスクチェアへと深く座りなおす。
そして、声のトーンを真剣なものに変え、
「一時間前、東京湾においてマザークリスタルホルダーが確認された。晶石色は白、その討伐のメインアタッカーを君たちに努めてもらいたい」
その言葉に俺は天井を仰ぎ見た。
◇◇◇
~十七日前~
西暦二一一九年
二十二世紀に入り、時代は一つの転換期を迎えていた。
二〇八〇年代から急速に発展した晶石技術が取り巻きつつある世界で大量発生するその資源……クリスタルホルダーへの対策はもはや世界規模の問題だった。
形状こそ既存の生物と似通ったものが多いものの、それまで出現したどのような動物よりも大きく、攻撃性能が高く、そしてその異常なまでの耐久力は前時代の兵器では太刀打ちができなかった。
そんな中、開発されたのがクリスタルホルダーの力の源である晶石の技術を応用して作られた兵器の数々、晶石兵装だ。
都立メトロの座席に揺られ俺は晶石兵装が開発される前の遺物、港区の湾岸に設置された対クリスタルホルダー用のミサイル発着基地が窓の外を通り過ぎるのを視線で追った。
「鮫ー、何見てんの?」
不意に横からそんな声がかかってくる。
「別に、ただボーっとしてただけだよ」
「鮫はただでさえぼーっとしてるんだから、意図的にぼーっとなんてしてたら気づいたらパンツ一丁だよ?」
「俺はどんだけヌけてるんだよ!?」
にゃははーと笑い声をあげながら横で笑っている女は猫被 枢……冗談のような名前だが、これで本名だ。
名字からして嘘が得意そうな名前だが、実際には別に嘘を日常的につくでもなく善良に暮らしている女である。
小柄な見た目、ショートカットの茶髪がくせっ毛になっているのとアーモンド形の瞳のせいか名前の猫という文字がぴったりとくるような奴だ。
事実猫という名字の文字は気に入っているらしく周囲には「猫って呼んでねー!」とか言っているのだが猫被と呼ぶと怒り出すのだから訳が分からない。
何を気に入ったのか、入学時から俺に事あるごとに話しかけ……まぁ嬉しかったのだが……今ではよくツルんで遊んでいる仲だ。
「むむむ……鮫が何を見てたのか推理……あ! わかった。あのミサイルの発着基地でしょ?」
「窓から身を乗り出すな、危ないぞ」
空いているのをいいことに本当に上半身を車両の窓から出しかねない猫の襟首をつかみ車内へと引き戻す。
「むうー、今の時期は風があたって気持ちがいいのにー」
「アホ、そんなに風を感じたきゃ自分で走って風になれ」
「うん風になる、鮫もどう?」
「……遠慮しとく」
ホントに適当という言葉が服を着て歩いているような奴だ。
そんなボケたやり取りをしながら、俺たちは電車を降り、風になるぅー! とかいってそこそこ広いホームを走り出す猫を小走りで追いかけなが軽い溜息をつく。
最近のご時世は安全とはほど遠い。
クリスタルホルダーがいつ都市部に入ってくるかもわからないような状態でみんな心のどこかに不安を感じているのだ。
湾岸部にある都道府県のクリスタルホルダーによる年間平均死者数は四ケタに上り、年々少しずつ減ってはいるものの画期的な対策は見いだせないのが現状であり、そんなご時世だからどんな放任の親でも子供に携帯を持たせ、クリスタルホルダーに対する危険性は口を酸っぱくして教え込まれる。
そう考えればこいつの能天気さは今の時代貴重だというべきなのかもしれない。
「鮫ー」
「どうしたー?」
「今あっちの方で何か光らなかった? なんかキラキラした……」
そんなことを言いながら走るのをやめて目線を斜め上に向けて、じぃーっと中空を凝視する猫。
「妖精さんでも見えたのか? 嘘はよくないぞ嘘は」
「嘘なんてついてないっ! 名前にかこつけてうそつき呼ばわりするなぁぁぁぁぁっ!!」
ぎにゃー!! と怒る猫。
繰り返し思うが、日常生活においてはこういうやつが一人くらいいても悪くない。そう、日常においては。
俺はそう直感的に思った。
突如耳障りな電子音が駅のスピーカーから聞こえてくるまでは。
『東京都港区沿岸において危険度Aクラスのクリスタルホルダーが確認されました。近隣にいる市民の皆さんは至急屋内に避難してください。繰り返します。東京都港区沿岸において……』
そのスピーカーから流れた音声に今の今までふざけていた猫さえ一瞬で表情を真剣な物へと変える。
「鮫……!」
「……ああ、避難しよう」
今の時代このようなことは日常茶飯事だ。二週間に一度はこのようなサイレンが鳴らされ屋内避難が呼び掛けられる。が、危険度Aクラスというのは数年に一度あるかないかだ。
はっきり言って大規模な地震よりもレアであり、そして危険である。
危険度Aクラスのクリスタルホルダーが陸地に出現した場合、平均で三ケタは死者が出る。
港区なんて言うピンポイントな地域名まで重なっている以上その三ケタに俺たちが含まれない保証などどこにもないのだ。
緊張感がつばを飲み込ませ、冷や汗が落ちるのが自覚できる。
「クッソ……なんでこんなことに……!」
「なんか今日は私たち運が悪いみたいだね……」
そう言いながら猫は顔を伏せる。
その気持ちはよくわかる。なにせ危険度Aクラスのクリスタルホルダーが町に出現したということは百パーセント死人が出るということだ。
自分の身の回りに死人が確実に出るような危険が迫ってきて不幸だと嘆かない人間は少ないだろう。
無駄話をしている暇はない。なるべく早く大きな建造物の中に逃げ込まなければ。
駅自体に隠れるのはあまり得策とは言えない。駅は開けた構造をしているため内部にもクリスタルホルダーが侵入しやすい。
俺たちはホームの階段を急いで降り、ICカード入りの定期入れを改札に押し付け、急いで走り抜け、あたりを見回し隠れられるような場所がないかと辺りを目を皿にして探す。
「鮫っ! あそこならたぶん大丈夫!」
そう言った猫が指差したのはビル街に立ち並ぶオフィスビルの一つだ。外見上は確かに頑丈そうでたしかに避難所としては手頃だろう。
急いでビルの入り口へと走り込み、受付へと走り『避難させてください!』と叫ぶ。
受付のお姉さんは『避難者の方はあちらへ!』と半ば焦ったような口調でホールの隅にある外部が見える休憩スペースのような場所を指差す。
急いで二人でそこに行くとそこには数人俺たちと同じような避難者の人がいた。
ふぅーっと走ったことで乱れた息を吐き出し設置してあるソファにどさりと腰を下ろす。
その横にちょこんと猫も腰を下ろし、同じようにため息をつく。
そして……少しの間互いに無言となる。
「……いつまで避難してればいいのかなぁ……」
つい口から出た、という感じで猫がボソリとそんなことを言う。
「まぁ夕方まではここに缶詰めだろうな……警報が解除されるまでは外に出ないのが賢明ってもん……」
そこまで言いかけた時外から低いズズゥン……という地響きのような音が聞こえてくる。
それに続き爆音や、小さいが、叫び声のようなものも。
「…………!」
自分の心臓の鼓動がハッキリと聞こえ、心の自分では見えない所が警鐘をガンガンと鳴らしていた。
今ここは危険なのだと。
他の集っている人間も俺と全く同じにその顔に不安を浮かべている
「怖い……な……」
つい猫にそうこぼしてしまう。
その俺の情けない言葉に猫は少しの間何も言わなかった。
ほんの僅かに、空白の時間が生まれる。
そして数十秒たってから猫は普段の彼女からは少し想像のできない静かな、暖かな声で言葉を返してくれた。
「大丈夫だよ。私は知ってるから。鮫がとっても強くて、優しい人だって」
その猫らしくもない穏やかな笑顔を向けられ、なぜか恥ずかしくなり顔を背ける。
なんだよ、猫のくせに生意気な。なんだかちょっと幼いとからかわれたような気分になり、俺はガラス張りの窓の外を見つめる。
窓の裏側から空を見上げ、俺はハァ……とため息をつき、視線を下ろした。
そしてその瞬間、今までの恥ずかしい気持ちなど一瞬で吹っ飛び、その視線の先に在ったものに俺は眩暈を覚えそうになった。
オフィスビルの向かい側、四車線ある道路の向こう側の歩道に、五歳程度の子供が一人トボトボと歩いている姿を見つけたのだ。
窓に食いつき、その周囲を凝視しても親らしき人間の姿はどこにもいない。
その子は泣きじゃくり、声は聞こえないがおそらく親を呼んでいるのだろう。周りを見回しながらどこへ行こうという意志も見えずただあてどなく頼りない足取りで歩道を歩いている。
「ウソだろっ……!?」
「鮫……?」
怪訝に思ったのであろう猫も俺の視線を追い窓の外を見、そして息を呑む。
「…………」
わずかに逡巡する。助けに行くべきか否か。だが迷ったのは一瞬だった。
「行ってくる」
「みっ鮫っ! わ、私もっ!」
付いてこようとする猫を一瞬止めようかと思ったがそんなことをしている時間が惜しい。
行って、帰ってくればそれでいいのだ。二分で済む。
俺たちは驚愕する受付の人間を尻目にオフィスビルの自動ドアをくぐり、警報のせいかまったく車の走っていない四車線の道路を全力疾走し、その子のもとへと走りよる。
息を乱しいきなり現れた俺に対しおびえた目を向けるその子に向かってつい声を荒げてしまう。
「何やってるんだ! 避難するぞ!」
え……? と微妙に声を出したその子を抱きかかえ、元いたオフィスビルへ取って返そうとするとき……
突如、すぐ近くに落雷が落ちたような凄まじい轟音が『周囲のビルすべて』から聞こえた。
「なっ!?」
気が付くと、自分のいる車線側のビルの壁面がまるで極大のバーナーかなにかであぶられたかのように黒く焼け焦げていた。
何が起こったのかわからなかった。一瞬自分は今の『何か』に殺され死体も残らず一瞬で幽霊になってしまったのかと錯覚したほどに自分を取り囲む状況が理解できなかった。
俺も、猫も、助けに来た子供も、何も考えることができずにただ立ち尽くしていた。
そんな空白の思考を突き動かしたのは、『何か』が来た方向の交差点から現れた新たな存在だ。
ズル……という重苦しい音が聞こえてきそうな巨大な、巨大な蛇。
頭の大きさは俺の身長と同程度、長さは尾が交差点の向こうに隠れているのでわからないが、普通の蛇の縮尺で考えればおそらく百メートル近くはあるだろう。
そして、ところどころ汚れかあざのように黒っぽい色の混じった毒々しい鱗の赤と、それと対をなすように純粋に輝いた晶石の牙の透明度のある赤
体からは赤い雷光のようなものがバチッ、バチッ、と絶え間なく放出されており、一目で危険だと感じるその姿。
間違いなく、間違えることなどありえないほどに間違いなく。先ほど警報で言われていた危険度Aランクのクリスタルホルダーだ。
蛇に睨まれた、というのはこのことなのだろう。避難するべき場所に走ることも忘れ思考も止まり、俺たちはただただ立ち尽くしていた。
その恐ろしい牙を備えた口を閉じ、蛇は細い舌を普通の蛇のように突き出し艶めかしく動かす。
蛇特有の蛇行した動きで俺達のほうへと迫り、その鋭い形の瞳孔でこちらを見つめ……
そして、蛇の来た方向から素早い人影のようなものが見えた。
音もなく、凄まじいスピードで蛇の頭部の側面へと移動した人影は、突如人影から赤い光へとその存在を変え、とてつもなく大きな破裂音とともに巨大な蛇の頭部をビルの壁へと吹っ飛ばした。
その直後、人影が来た方向から様々な色の光が飛んできて爆発とその衝撃で蛇を更にビルの壁面へと押し付け続ける。
そこに至ってようやく俺は気負うこともなく蛇を吹き飛ばした人影の姿を静止した状態で見ることができた。
それは女性だった。
金髪の長い髪を黒いキャスケット帽子の中に入れ、ジャケット、ズボン、サングラスに至るまですべて黒で統一されている。
その身に着けているもので黒でないのはただ一つ。
両手に一つずつ持つサーベルのような剣とその柄についている『晶石』その右手の方の晶石のみルビーのような真紅に彩られていた。
その彼女はツカツカとこちらに歩み寄り、そして俺の襟首を強引に掴む。
「貴方こんなところで何をしているのかしら」
サングラス越しに見える青い目が歪みこちらを睨みつける。
「一秒でも早く屋内に行きなさい。あなたとその二人の命が惜しければね」
その言葉だけを俺に放ち、彼女は赤い右刀の血糊を振るうことで払い再びあのバケモノへと立ち向かおうと眼光鋭く構える。
美しい。
つい数秒前に言われた言葉も忘れ、俺はその姿に見入ってしまっていた。
あの人間が及ぶべくもない強大な存在に一切の迷いなく立ち向かう刃のようなその心の在り様が俺には眩しく感じた。
ああ、もっと見ていたい、この子があのバケモノに対しどういう風に立ち向かうのか、この目で確かめたい。
そのような衝動が俺の中に生まれ、数秒呆けてしまった俺に。
ガン!! と猫が机に備えられたスイッチを叩き押すように握りしめた手を小指の方から頭に叩きつけてきた。
「……何してんの!? さっさと逃げる!」
そういいながら猫は助けに来た子供の手を引き、巨大な赤蛇の反対方向を指差す。
「わ……悪い……」
そう言いながら、俺は意識は後ろの彼女へと向けたまま猫へとついていき走り始める。
だが、再び先ほどのものと同じ電気が流れる時特有の耳障りな轟音が響きわたる。
それと同時に地響きのような音が周囲のビルの根本から発された。
走りながら振り返るとそこには……
「は……!?」
口をガパァ……と百八十度に近い角度で開き、その真紅の牙をビルに突き立てているクリスタルホルダーの姿があった。
その牙からは先ほどあの蛇の体から放出されていた赤い雷光が先ほどとは比べ物にならない濃度で渦巻いている。
そして、その雷光が焼け焦がした軌跡は先ほど地響きのような音がしたビルの根本へと続いていた。
その意図は考えるまでもない。
「走れ!!」
先ほどの女性のとてつもない叫び声が後ろから聞こえてくる。
地響きの音は一秒ごとに増していき、そしてついにその時は訪れた。
地面が響く音から、崩れる音への変化。その変化が俺達に与えたのはただ一つ。絶望だった。
周囲のビルが、まとめて逃げ道を防ぐように倒壊してくる。
その絶望的な状況に俺は…………ただ、足を止めるしかなかった。
◇◇◇
何時間、何分、何秒、気を失っていただろうか。気が付くとそこは地獄絵図だった。
ガラ……と背中にいくつかあった小さな瓦礫を払いのけ座りなおしてみると、俺は目の前の光景にめまいを覚えそうになった。
周りにあったビルのいくつかは倒壊し、そのうちの数棟は先ほどの蛇が放った雷光が火種になったのだろうか轟々と炎上している。
散乱する瓦礫の中に見える……倒れて動かない人間とそれを囲む人々……中には先ほど俺が見たような武器を持った黒衣の人間も多数いる。
周囲からは人のうめき声や悲鳴、親や友人を探す声が聞こえ、そのほとんどが俺が先ほど感じたものと同じ絶望に彩られている。
そして、倒壊しなかったビルのうちの一つにその絶望の根源が絡み付き、俺達を見下ろしていた。
その眼は雄弁に語っている。さあ、どの獲物から裂き殺してやろうか。と。
「鮫……」
ふと、隣から声が聞こえる、
そこには俺たちが助けに来た子を抱えた猫がいた。
抱えた子はどうやら気絶しているらしく胸は呼吸で上下に動いているものの一言もしゃべらない。
「本当に今日はついてないね……」
半ばあきらめが入ったような声で猫はつぶやく。
本当にその言葉には同意する。こんな絶望的な状況、あきらめも入るというものだ。
そうして立ち上がりかけた腰をどさっと下ろしもう一度周りを見たとき、この場にもう一人人間がいることに気が付いた。
「あ、この人……」
そこにいたのは、先ほど俺たちを助けてくれた金髪の剣士だった。
なぜか彼女も俺と同じように気絶し時折うめき声をあげている。
持っていたサーベルのような剣は彼女のそばに二つとも無造作に転がっていた。
「その人が私たちを助けてくれたんだよ、ビルの倒壊に巻き込まれそうになってる私たちを後ろから突き飛ばしてくれたみたい。私気絶しなかったから見てたんだ」
そうなのか……その行動に俺は心から感謝し、そしてまたため息をついてしまう。
せっかく助けてくれた命なのに、俺達はそのチャンスを生かすことができず、死に至る。
そのことが何とも情けなく、そして笑えるほどに滑稽だった。
「おい……あんた……起きろ……」
なんとなく彼女を起こしにかかる。
残り少ない命とはいえ命の恩人なのだ。最後に会話の一つでもしておきたい。
「う……」
体をぐらぐらと揺らされているのに気付いたのか彼女がゆっくりと目を開け……
そう思った瞬間、ガバッと起き上がった。
そして、俺の襟首を強引につかみ尋常ではない目つきでこちらの目を睨みつける。
「剣は?」
「は?」
「私の剣は?」
その問いかけに俺は無言で転がっている剣を指差す。
彼女は一瞬でその剣へ飛びつこうとし……足を痛めていたのか転倒する、しかしそれでも手だけで這って剣を手に取り柄をいじくりまわし始める。
「な……何してんだよ……」
思わず俺と猫は彼女の手元を覗きこむ。
「この剣の晶石を取り外しているのよ……よし、外れた」
カキン、という金属音とともに指輪のように爪で止められていた赤と黒の二つの晶石がハズされる。
そして、その石を……
「へ?」
「持って逃げなさい。少なくともあの蛇の手の届かないところまで」
俺に黒い石を、猫に赤い石を差出しそう言い放った。
「この晶石は人類にとって大切なものよ、できれば私が持っていきたいけどあなたたちのほうが逃げ切れる可能性は高いわ」
そう言い、彼女は悔しげに自分の足を見る。そこは先ほどのビル崩壊の際にがれきでもぶつかったのだろうか、かなり深い裂傷ができていた。
今すぐ命に係わるほどの傷ではないが……立って歩くのは難しいだろう。
「ちょ……ちょっと待てよ! あんたを置いてここからとっとと逃げろっつうのか!?」
「そうよ、あなたたちは意地でも生きなさい、この晶石は……」
「そういうことじゃない! あんたはここで死ぬつもりだってのかよ!?」
その俺の言葉に彼女は深く息を吸い、静かにこう言った。
「そうよ」
どこか投げやりに響いたその言葉に俺は目の前の女と、先ほどまでの自分達に対して強い憤りを覚えた。
なんだこれ?
さっきまであんなにすごい事をやってた人間がこんな道端にゴミを捨てるように簡単に自分の命を捨てるって言ってるのか?
そして俺達はさっきまでこの女と同じように死ぬことを前提に諦める思考で物事を考えていたのか?
正気じゃねえ、在り得ねえ、バカか俺は。
俺は目の前の女から差し出された石を二つとも右手で掴み、そのまま拳を握り、それを自らの額へと押し付け……
思いっきり自分の顔を真正面から殴りつけた。
目の前にいる女と猫に変な顔をされようが知った事か。
フラつきながら俺は思いっきり目の前にいる女を睨みつけ、彼女の目の前に歩いていき……
「……何をしているのかしら貴方は」
「見りゃわかるだろ、アンタの命を救おうとしてんだよ」
俺は彼女からもらった黒い晶石を左の胸ポケットに入れ、彼女の体を背負いあげた。
「離しなさい、ただでさえあなたたちが逃げ切れる可能性は低いのに私を背負って逃げようとするなんて楽観的を通り越してただの馬鹿よ」
そんなことを言いながらも彼女は暴れようともしない。
そんなことをしてもどうにもならないとあきらめてしまっているのか一切の抵抗を本気で試みない。
だから俺はこう言った。
「アホか。生きようともしないであきらめるのなんて自殺と一緒だろうが。俺はあいにくあんたみたいに訓練を受けた人間でもなんでもないから見捨てることなんてできない甘い思考なんだよ。猫!」
そう言い俺は猫の方へと向き直る。
「お前は足怪我したりしてねえよな?」
「え? う……うん……大丈夫」
そう言う猫に二つの晶石のうちの赤い石を放り投げる。
「よし、ならお前はその子を背負ってついてきてくれ、逃げるぞ」
先ほどまで呆けていた自分を呪いながら俺はあの蛇へと背を向け、走り出した。
あの赤い雷光がビルを崩すほどの威力を持っている以上、もう屋内は安全とは言えない。
ならば逃げ切るしかない。どこまでもどこまでも、あの蛇が手を出せない場所まで。
「電車……は動いてるわけねえよな……車も望み薄……となると」
走るしかない。力の限り。
俺と猫はお互いに人を一人抱えたまま、必死に全力で力の限り走った。
後ろで蛇が威嚇する音が聞こえる。
普通の蛇の軽い空気を吐き出すような音とは違う、大気が震え、俺達を心胆寒からしめる地獄からの声だ。
それが俺達に向けられたものなのか、他の誰かに向けられたものなのか確かめるような勇気は俺にはなかった。
あきらめの感情はあっても逃げ切ろうという意志は残っているのか後ろの女が俺に話しかけてくる。
「逃げる上でいうことがあるわ。あのクリスタルホルダーはあの放電能力のほかにもピット器官を進化させた能力がある。半径五キロ以内ならある程度体温があって大きい動物、人間くらいの大きさなら楽々探知して見せるでしょうね。だからあなたたちは反対方向に逃げなさい。あのクリスタルホルダーは私たちの持つ晶石を狙うでしょうけど、これならどちらか一方が助かる可能性はあるわ」
「ああ、わかった! 猫!」
「うん……でも逃げ切れても私鮫が死んだなんて思わないから!」
そう言い、俺たちは襲撃された現場から二百メートルほど進んだT字路で二手に分かれる。
そこから歩道を走り、走り、走り続ける。
アドレナリンが多量分泌されているせいか、疲れなど微塵も感じない。
人一人担いでこのスピードで走れるなら上々だろう、半径五キロ以内なら感知できる。ということは半径五キロより外に逃げてしまえばいい。楽勝だ。
そんなことを思っているとき……ふと背中の方からかすかな声が聞こえる。
「……剣……もう壊されちゃってるかな……」
そのかすかな声を聞こえたと言おうか、聞こえなかったフリをしようか、一瞬迷った。
だがこれで最期かもしれないのだ、こんなくだらない心残りは残したくなかった。
「あの剣大切な物だったのか?」
息を乱しながら、俺はそう聞いた。
「……ええ、兄の形見よ。貴方に預けた黒い石を勝ち取るのと引き換えに命を落としたわ」
それだけを言い、彼女は沈黙した。
そこにはわずかに、ほんのわずかにだが、寂しさというべき感情が混じっていた。
そして、なぜか俺はその声を聴き……とても惹かれた。
「鮫っ」
「……なに?」
だから俺は。
「竜ヶ崎鮫っ! 俺の名前! アンタは?」
だから俺は彼女のことを知りたいと思った。
「………………フェイルク。フェイルク・ヤストレブ・ソーヴァ」
ほんの少し、心の中が弛緩した。
こんな危険な状況だが、ほんの少し彼女のことを知れたのがうれしかった。
そんな心の隙があったからだろうか。
突如轟いた雷鳴のような音に反応が遅れたのは。
数分前に聞いた轟音がまたしても鼓膜を引き裂いた。
足を止めず、ほんの少しだけ振り返り。
そこで俺は死神というのはいるのだと思い知った。
赤い蛇眼は俺達を見据え、その舌を先ほどと同じくチロチロと揺らめかせている。
恐らく幾人かの人間を食い殺してきたのだろう。赤いルビーのような晶石の牙には黒っぽい血液がいくらか付着している。
ズルズルと蛇行しながら俺たちを追う姿を見、冷や汗が出るのを自覚した。
無言で俺は大通りから蛇が入ってこれないであろう裏道へと逃れる。
袋小路で戻らなければいけない状況に陥る危険を考え今までは使わなかったがそんなことを言っていられる段階はとっくの昔に過ぎた。
右、左、右、右、と考えなしに進み別の大通りに出られる道を探す、が。
絶望はそれよりも先に訪れた。
再び雷鳴が響き、俺の脚に今までの人生で感じた中で最も強い痺れと痛みと熱が襲いかかった。
そして背負ったフェイルクが投げ出され、俺も転倒し、仰向けになってビルとビルの合間から上を見上げたそこには赤い蛇の牙があった。
ああ、本当に終わりか、そんな思いがほんのわずかに胸の中に出る。
だがそんな思いは一瞬で消し飛んだ、死ぬことを前提に考えるのは嫌だった。たとえ死ぬとしても、こんな惨めな死に方をするとしても、後ろから無残にあの牙に刺されて死ぬのはゴメンだと思った。
どうせ死ぬなら一矢報いて死にたいと思った。
フラフラの足に鞭打って立ち上がり拳を握った。こんなチャチな、あの蛇にしてみたら豆鉄砲にも劣るような武器で一矢報いようとは俺も馬鹿だなと自嘲する。
胸が熱くなった。心臓がドクンドクンと鼓動する。反骨というのがこんなにも気持ちいいと生まれて初めて知った。
ただ肺と腹と喉を限界まで酷使し、咆哮した。
耳は自分の声を、目は眼前の蛇を、全身は自分の中の血液の流れを感じ、こんなに気持ちいい気分なら地獄に向かうのも悪くないと、思った。
8/9
余りにも長すぎると自覚したのでこれから少しずつ分けて行きます。