#8【その 悲しみの交差点で】
そんな事はさておき。
オゲル君の様子が変です。あの十和田湖のように深く、エーゲ海のように妖しげなエメラルド色の瞳を博士に差し向けて、ジーッと動かしません。あのセコイヤの大木のような腕を前に組み、タワー・オブ・バベルのような足を凱旋門のようにして立ち尽くすあたりは、まるで何事の恐れからも勇気を辞さない、いきり立った羅漢、仁王像さながらの構えです。
ああ、彼の辺りの空気が張り詰めています。湯気が立ち上っています。モヒカンがゆらゆら揺れています。一体なんなのでしょう。怒っているのでしょうか? 泣いているのでしょうか?
うーん、普通なら怒っていると思って間違いないでしょう。
ですが、博士が怒られる筋合いはありません。大体博士の大切な品をこんな風にしてしまったのはオゲル君なのです。博士が怒っても、オゲル君が怒るのは筋違いも甚だしいのです。でも、博士は怯えています。当然です。しかし! ヘタすりゃ地球さえ圧縮しかねないエセフランス野郎に逆らえる道理がありません。はっきり言って恐怖です。もろ恐怖です。つ○だじろう先生の漫画を読んだとき以来の飛び切りの恐怖です。博士はおもむろに目が菱形になっています。博士の後ろに何やら平安貴族のような人影が見えます。犬も喋っています。新聞も配られています! しかしそれは幻覚です。幽霊の正体見たり枯れ尾花。博士はとっても臆病なのです。
実のところ、オゲル君はちょっぴり反省していただけです。本当は「てへっ!」とか言っちゃたりして、謝りたかっただけなのです。
ああ、何て人間関係は難しいのでしょうか(片方は人間じゃないけど……)。こちら側が近寄ろうとしても、あちら側が慌てふためいてしまう。だからと言って簡単におどけた態度を見せる事なんて出来やしない。ああ悲しみや人間。ああ慈しみや人間。全ての人間がもっと器用であればよかったのに。全ての人間がもっと心を通い合わせる事が出来ればよかったのに。そうであれば、これから起こる悲しみなどあろう事はなかっただろうに……。
もうオゲル君は我慢出来ず、その箱を掻っ攫いました。それはもの凄い風圧でした。博士はビクッ! と体をすくめましたが、自慢のカイゼル髭が揺れただけでした。そのぶっきら棒な態度に博士は何かとんでもない怒りがあるのだと勘違いしてしまいした。「きっとオゲルちゃんはこのボクちゃんの態度が気に入らなくて怒っているのだ」と。
しかし、オゲル君はちっともそんな事考えていません。早く博士に自分の発明品を見せたくてウズウズしていたのです。とても大好きな博士に。心から尊敬と畏敬の念と愛情を贈っても贈りきれない松戸博士に。自らが発明したものを見てもらいたかっただけなのです。
それでも心は、まったく通じていません。マッド軍曹こと松戸博士は、子猫のようにブルブルと体を震わせ言葉ひとつなく立ち尽くしています。
「OH! ハカ……セ。」
オゲル君は、何とかかんとか心を通わせようと言葉をかけましたが、博士に反応は全くありません。博士は怯えたまま、こっちを見ているだけです。
その時、オゲル君は思いました。
(ワタシハ、ナンテ事ヲシテシマッタノダロウ)と。
地球人は儚い。自分と比べたら寿命も相当短い。殆んど一瞬にして命を終えてしまう。そんな地球人はこんな自分に自我と慈しみを分け与えてくれた。あれは六年前――。
ひょんなことからこの星に迷い込んで以来、いやな顔ひとつせず(?)住まわせてくれた。気さくに付き合ってくれた。
それまでの自分は、なんと殺伐として生きてきたことだろう。なんと味気ない時を過ごしていたことだろう。
空間を膨らませ、物質をかき集め、星を創り、海を創り、生命を創り、文明を創り。地獄の強制労働に明け暮れ、自我をどこかへ置き忘れてきてしまっていた。それからどの位の年月が過ぎ去ってしまったことだろう。そんな自分に心を教えてくれたのは、いうまでもない。そこにいる、目の前にいる博士なのだ。
だが、自分は甘えていた。この人に甘えていた。どこか人間として、地球人として馴染んできたと思っていたが、それでもワタシはワタシなのだ。地球人にはなれないのだ。
見たまえ! この地球人の繊細なるところを。
見たまえ! 地球人のこのひと時ひと時を大切に生きるところを。
自分に比べて遥かに短い一生で暮らす地球人は、そのひと時ひと時をこうも大事にして生きているではないか! 一瞬だけでも光り輝こうとしているではないか! その一緒に暮らしてきた大切な思いまでも胸に抱いて。
これでは地球人にはなれん! なれんのだ。このままでは一生、地球人になる事は出来ないのだ。だめだ、だめだ。だめだだめだだめだ! 博士だって御歳もう先が短い。どうにかしてこの人に認めてもらうんだ。この人に「あ〜ら! 凄いじゃない。オゲルちゃん」って言ってもらうんだ。
……とまぁ、オゲル君は茹だっていました。そう、怒って見えた湯気のたち具合は、オゲル君の心の葛藤の表れだったのです。