#6【その ツンとくる香辛料は……】
あれは十五才で夜逃げをして、悪の組織の片棒を担いでいた若かりし時代の事です。その悪の組織が壊滅。追い討ちをかけるようにして迫り来る『組織狩り』から逃れ、単身でこの町にやって来たのはもうロングロングアゴー。
そんなよそ者の博士に、この町の人たちはとっても冷たかったのです。
「さぁ、行った行った! 怪しいよそ者に食わす売り物なんかないね!」
お店に顔を見せれば、たちまち門前払い。店主にしつこく食い下がれば、フライングトルネード回し蹴りを食らう有り様。米の一粒たりとも買えなかった。住むところもない。雨をしのぐ所も、風をしのぐ所も、涙を拭くハンカチさえなかったのです。
「アララ……。ボクちゃんの自慢のお髭もお腹が空きすぎてへし折れてしまったわ」
涙の類はとうに枯れていました。ただ腹の虫だけは見事な大合唱。動く気力さえないのに、お腹の中だけは空元気……。
空き地の土管の中から見えるのは、雲ひとつない夜空。あの輝く星の一つ一つが氷砂糖で出来たお菓子に見える。博士は、それを一つ一つつまんでは口の中へ贅沢に放り込む。放り込んだ瞬間、ひんやりとした舌触りがする。まるでお口の中がクーラーです。そのひんやりは頬の裏、舌先、下の裏側、また舌先、そして顎の裏と舌の上でサラリ……と溶けてしまう。甘い甘い。それがご馳走。こんなに美味しいもの、今は博士だけの独り占め。だからまた土管から首を出し目一杯手を伸ばしてみる。
「今度はあの星なんかどうかしら……」
それを指で摘まむ。今度の砂糖菓子はとびきりでかい。白く光っていて大人の味。苦い? 甘い? ううん……しょっぱい。どうして? 砂糖菓子のはずなのに……
「ボクちゃんの涙はとうに枯れたはず……。なのにこの目の中から出てきている液体は一体なんなの……?」
博士の痩せっぽちの体は、もう何日も飲まず食わず。追われるものの宿命ってやつ? お金は持っているけど五百円札が二枚だけ。きっとかけそばなら二、三杯くらいなら食べられるかな?
でもこの町の人だーれも相手してくれない。そればかりか塩まで撒かれちゃった。
「きっと子供のころインチキ商売なんかして儲けたから、天罰が下ったのね。ボクちゃんこのまま干からびてお星様になるのかしら」
博士はそんな事を言いつつ、夜空に浮かぶしょっぱいお星様を次から次へと運んでゆきました。
「あら素敵! 何をなさっているの?」
土管の中から上半身だけ出して仰向けの博士。春風の舞う生暖かい夜。星を食らう怪しい男。その姿を見て何の疑いもなく声をかけてくるのは、真っ白な割烹着に三角巾。襟元からピンク色のカーディガンといういでたちのうら若き乙女。
博士は涙も拭かず言いました。
「ボクちゃん……い、いや小生、今は握りずしを愛でながら月と語り合っていたところです。ちょっとだけワサビがきついようで……。ご一緒にどうですか? 貴女も」
どう考えてもやけくそです。ちょっぴり気取ってみたけれど、やっぱりどうして何か変です。でも彼女は楽しげな顔をして言いました。
「宜しいのですか? お邪魔しちゃって」
「どうぞどうぞ。こちらの席が空いております」
博士は隣りの土管に寝転がったまま手を添えた。
「ではご相伴にあずかって……」
うら若き乙女は、真っ白な割烹着が汚れるのも気にせず、持っていた岡持ち(※出前など運ぶもの)を置いて、その中へ入った。
彼女の目前に広がるもの。それはいつも当たり前に広がった夜空。必然の夜空。でも、今まで味わった事のない世界。金や銀に光る星。無限を流れるプラチナの大河。銀河を走る永遠の超特急。見える見える。信じられない。この世界の中にこんな美しいものがあったなんて。気が付かなかった。夜はお店の閉まる時間。寝る時間だと思っていたから。明日も朝早いんだなって、準備をする時間だと思っていたから……。
「ステキ……」
彼女の口から、自然と言葉が漏れた。いや、それだけではない。その満天の星空を見つめる瞳からは、ぽろりぽろりとしょっぱい液体が……
「あれ? 何だかわたしもわさびが効いちゃったみたい。えへへ……」
乙女は、恥ずかしそうに照れ笑いをしてみせました。博士はその笑顔に思わずドキッ! 横においてある岡持ちの中身の美味そうな匂いにもドキッ!!
「あら? アナタお腹空いているの? おかめうどん。出前先の注文ミスで余っちゃったの。冷めてのびちゃってるけど食べる?」
乙女は、屈託のない笑顔で博士に言いました。
「え? あーえーと……。ボクちゃ、じゃなかった。しょ、しょ小生、今寿司をたらふく食べて腹がはち切れそうだけど。ま、ま、まぁいいわ。食べてやらないでもないわ。丁度小腹が空いてきたところだし。うどんは別腹って言うしね」
「あら? うふふ。うどんは別腹なの? うん、いいわ。素敵なご馳走してくれたお礼よ」
乙女は、そう言って冷め切ったおかめうどんを博士に手渡しました。勿論博士はカール・ルイスさんより早く食べきりました。
「おいしかった?」
「ま、まあまあね。おつゆの滲みた伊達巻が特に……」
「そう、よかった。わたしは絹子、そこのうどん屋の娘よ」
「しょ、小生は群荘。松戸群荘。みんなはマッド軍曹なんてよんでるわ」
「まっどぐんそう? うふふ、面白い名前ね」
博士は、絹子さんの透き通った笑顔に魅了されました。今まで殺伐とした裏世界に従事していた事を思うと、天と地ほどの差がありました。
博士はその後、絹子さんのその笑顔が欲しくて欲しくて一生懸命頑張りました。町の人たちに認めてもらい、絹子さんにも認めてもらえるよう、得意の発明でその名を轟かせました。そして第756回『天下一発明工夫武闘会』に出場して、あらゆる敵を済崩しにしました。その大会の賞金で買った唯一の家財道具が、あの檜のタンスだったわけです。
「ああ〜ん!! きぬこぉ〜!!」
松戸博士の涙はわさびの涙ではありません。