其ノ五
さらさらと風が渡り、純白の長い裾が揺れた。乱れなく結い上げたうなじを見せ、俯いた女は美しかった。ふっくらと弓形に張った唇が、次第に左右に引かれる。路場戸出 は、匂うような微笑みを意外には思わなかった。
「……的中ですか?」
「ええ」
主の名が刻まれた墓石の前で、ふたりの僕は揃ってあんぐりと口を開けていた。小林少年がうわずった声を出す。
「こんな突拍子もない謎解きは初めてです」
「何にでも」「初めてがあるものですわ」
言葉尻を取られた探偵は、これも口を開けたままで止まった。ぽかんと開いた口が三つ、虹子がきゃんきゃんきゃんと三度鳴いた。
「この子はあまり陽射しに強くないんですの。わたくしも疲れました。続きは日を改めてもよろしいかしら」
「こちらとしても有り難い。今日わかったことも多いですから、少し整理して出直します」
裾を翻した財閥の女主人は、日傘の陰からちらりと探偵を見た。長い睫毛が影をつくり、目元がくっきりと笑っている。
「ふふ、どうして気がついたのかしら」
「念書を追っかけていたら、そうとしか思えなくなりました」
「そう」
わずかに腰を振り、ほっそりとした後ろ姿が遠ざかってゆくのを、探偵とその助手はぼんやりと見送った。小走りで後を追い始めた元次と富士子もすぐに消え、黒光りのする自家用車が走り去ると、墓所はしんと静まり返った。
ズボンのかくしに両手を突っ込み、歩き出した探偵が振り返った。突っ立って首を傾げていた助手が、尻を叩かれた馬のように走ってくる。それを待たずに再び踵を返し、背中越しに少年に声をかけた。
「ここまで来たんだから、桝屋にするか」
明らかな脱力を見せて足取りが緩む。
「そろそろ洋食でもどうですか」
追いついて並んだ少年に、二郎は横顔で応えた。
「俺の身体は」「蕎麦でできてるんですよね」
諦めた調子が可笑しくて、くす、と笑いが漏れる。同じように言葉尻をとられた場面を思い出し、美しい後ろ姿の足元が、白いエナメル靴であったことなどを、探偵はつらつらと思い浮かべていた。
呼び鈴を押したが応答はない。しばし間を置いた探偵は、もう一度、力を入れて小さなベルを鳴らした。さらに間があり、やっと出て来たのは若い女中だった。なんとなく富士子の姿を期待していた路場戸出 は、肩すかしを食ったような気になった。応接間の豪奢な調度は以前と変わりないが、どこかがらんと間延びして見える。ソファに沈み込んでいるのは住吉財閥の惣領だ。殿上人の白い顔は、先日の会見時よりいささか削げていた。
「これは失礼。二人前しか持参しませんでした」
「妻はいませんよ」
ことりと音を立てて風呂敷包みを置いた探偵は、完璧に肩に沿った上等なウールの縫い目をまじまじと見つめた。鉄朗はがっくりと肩を落として座っていた。
「探偵が謎解きをしに来たのに、依頼人がいないとは」
「私がご相伴に預かりましょう」
前のめりに蕎麦猪口へ乗り出すと、足裏で赤絨毯がふかりと沈む。ずるずると蕎麦を啜る音がし始め、幼さを残した女中はやっと茶の支度にかかった。
「蕎麦ってのは、一気に啜り上げるもんです」
箸を止めて上目に見る探偵に、鉄朗はぼそりと返した。
「上手くないだけで、知っています」
ふん、と鼻を鳴らした探偵はそれきり黙った。ずる、ずるずる、と二人前の音が響き、柱時計がぼんぼんと長閑に正午を告げた。
「いつも午どきにいらっしゃるんですか」
「並木の蕎麦をひとりで食うのもなんですから」
「なみき」
「浅草です。絶品でしょう」
満足げに箸を置いて茶を啜る。まるで縁のない街の名に、さしたる反応も見せない美しい男をじろじろと眺め、探偵の視線は鉄朗の傍らに留められた。小さな額が椅子に沿って置かれている。
「…ろうそ」
「は?」
「ど、うぞ」
蕎麦を飲み下した鉄朗が、箸を置いて額を渡して寄越した。優雅にハンケチを使って口元を押さえ、鷹揚に長い足を組んで茶を含む。彫の深い端正な顔は、少しだけ血の色が戻っていた。
額は、例の奇妙な絵であった。兎と狼が、互いに尻尾を喰い合って輪になったあれである。住吉家と青梅家のそれぞれが筆を入れたのだと由美子が言っていた。
「なるほど。確かに拙い」
探偵の呟きに、鉄朗は薄い茶碗を置いた。
「両家の確執を描くとこうなる。住吉家と青梅家は、長い間持ちつ持たれつの間柄でした。うん、少し違うな。汚れ仕事を一切合切引き受けて、裏の世界で蓄財に勤しんだのが住吉。あまり資産はないが、表世界で綺羅綺羅しく名家をやっていたのが青梅。何百年もそうやって続いて来たらしいですよ」
「これが盗まれたことがあったとか」
「ああ、かぐや座にね」
「え?」
「よりによって金を借りている相手から盗んで、呉右衛門はさぞ驚いたことでしょうね。どうやって返したのか、いきさつは知りません」
「……それは蘭子さんと権蔵氏のなれそめだったりするのでしょうか」
「さあ」
いきなり本題に切り込んだ気がして、探偵は柔らかなソファに埋まった尻をもぞもぞと動かした。髪を掻き上げた青年は、やはりどこか投げやりな調子で薄く笑った。
「始めてください」
不審げに眉を顰めた路場戸出 に、財閥の惣領は優雅に続けた。
「蕎麦もお話も、私がお相手をします。あなたが知り得ないことを加えて、謎解きを完遂するには私の方がいいはずだ。ねえ。蕎麦戸出 さん」
そういえば、人の名を覚えないと公言して憚らない男であった。さてもう一度訂正するべきかとぱちぱち目を瞑った探偵に、鉄朗はゆったりと笑い、繰り返した。
「始めてください、路場戸出 さん」
いざそう言われるとやりにくいものだ。女中が代わりの茶を満たし、探偵は改めてううむと唸った。どこから始めたものか、定めぬまま口を開くと、鉄朗が早々に言葉を奪った。
「念書」
「ええ」
「存在しないことになっている書面です。よく調べましたね」
「いや、まあ、いろんな伝がありまして」
「額を外してください」
長く白い指先が卓上を指した。茶や蕎麦つゆを避けておいた額を、引き寄せて裏返す。人に命じることが、これほど自然な男はいないだろう。
ツメを回して板を外すと、黴臭いボール紙が現れた。黄ばんだ薄紙は、その下に挟まれていた。
路場戸出 の手が止まった。口を開いて顎を上げ、鉄朗の顔を見た。
「どうぞ」
探偵は慎重に薄紙を広げた。目につくのはいくつもの判である。ずいぶん大きなものが重なり合うように押されていた。
中華民国政府において本前貸金の利息支払に支障なき様
兼て政府において御配慮相成度
万一支障を生じたる場合には政府は督促の交渉をせられ
結局銀行の損失とならざる様相当の御考慮願度事
「日本政府と御竹銀行が交わした念書です」
なるほど、ずらずらと並んだ署名捺印には銀行の役職が添えられている。最も大きなものが頭取印で、すぐ後ろに当時の蔵相が続いていた。
「住吉銀行による買収は、あなたが仕組んだと言われましたね」
「ええ。国に裏切られたのをきっかけに、とても大きな公私混同を組み立てましてね。すべてを収めようとした結果です」
「公私混同?」
「由美子を手に入れるには、荒技が必要でした。青梅と住吉は、けっして血筋で交わってはならなかった。我々にとっての住吉家は卑賤なもの、しかし不可欠な者でもある」
「住吉家が何を請け負って来たにせよ、ここ数代は金融でそれをやっていたと?」
「大陸では、奇麗事では何も出来ません。しかし放っておくにはうま味が多すぎた。それで住吉に仕切らせたのです」
中国の入り乱れた軍閥、怪しげな野盗に至るまで、住吉銀行は金を貸しまくったと言われている。返せない相手に金を貸し、返済できないとなると利権をもぎ取った。
「反日分子にまで融通したと聞いています」
「ええ。たとえば呉右衛門とかね」
「ははあ」
もう何度めか、探偵は唸った。確かにこの男抜きで、謎は解けそうにない。いくら是武須凡人が現役官僚であっても、外務省を通した裏世界の情報には限りがあった。
「なぜこれがあなたの手に?僕の推理では、これは上海にあると…」
「当たりです。上海にあったのを、私が貰い受けたのです」
「貰ったって…一体誰から」
「知っているくせに」
すっかり調子を取り戻した鉄朗は、にこやかな笑みを浮かべた。ギリシャ彫像が微笑むとこんな風なのかと、探偵は再び念書に目を落とした。外枠の罫からはみ出した蔵相の署名の、さらに外側に目立たぬ朱書きがあった。細い女の蹟である。
大正七年 吉日 紅蘭拝受
細かな日付はないが、紛れもなく権蔵が死んだ年だった。やはり夫の死後に蘭子が持っていたのだ。己の推理に確かな裏打ちがされ、探偵の背中が興奮にぞくりと粟立った。夫の死を「吉日」と書いた思いにも、首筋がちりりと引き攣れた。
「上海で、蘭子さんに会ったんですか」
「いいえ、まさか。私もちゃんと、亡くなったと思っていました。当時、私はロンドンに居ましたが、富士子を通じて連絡があった。仕事で上海を訪れたとき、呉右衛門に呼び出されて渡されたのです」
「なぜこちらに寄越したんでしょう。これは中国にとって、ないほうがいい書状です」
「私が娘の夫だからか、もしくはこれが、ただの紙切れになったからかもしれない。これを貰った年、政府は回収不能になった中国借款を、国民に黙って国庫金で埋め始めた。そう、あなたの納めた税金でね」
む、と押し黙った探偵は、もう一度黄ばんだ紙を見つめた。読めば当然、政府が承知した借款であるとわかるし、嫌がる銀行に頼み込んだのではないかと勘ぐりたくなる。
「御竹はこれを盾に中国への督促を求めましたが、中国政権にいい顔をしたい政府は拒否しました。借款などなかったのだという態度に終始したのです。蔵相に至っては、国会の承認がない念書に効力はないと開き直った」
「買収直前のことですよね」
「貸し倒れはすぐに決定的になりました。三行ほど、同じ理由で廃行にされています。私は大岡を使って、住吉に情報を流した。どんな不良債権を抱えていようが、権蔵が御竹銀行を買うことはわかっていましたから」
「兎と狼が逆転する絶好の機会というわけだ」
「その通り」
「そうやって両家を併せて…あなたは由美子さんと結婚した」
「婿に入れば、事業を動かすのは私です。名などどうでもいい。実を取ったと、そういうわけです」
はあ、と探偵は大きな溜息を吐いた。それは目の前にいる優男の、底なしの恐ろしさに対する賞賛であった。
「いくらあなたでも、大岡が婿入りするとは思わなかったんじゃないですか?いわば先を越されたようなもんでしょう?」
優雅さを崩さずに、鉄朗はくすりと笑った。
「あの男は辞めた後も大蔵省に操られて、これを必死で探していました。政府が泣き寝入りして一般会計にコッソリ混ぜたなんて、新聞にでも漏れたら大変だ。ま、内々で片付けてくれたようですが、そうでなければ大岡は違う死に方をしたでしょう」
「恐ろしい人だ」
微笑みを浮かべた鉄朗に、探偵は心底感じ入ったという顔を向けた。一方住吉財閥の総帥は、肩を竦めて小さく茶を含んだ。
「それで、蘭子さんはどうやって自分を殺したんです?」
「は?」
「死んだことになっていて墓もある。死亡診断書が出たはずです」
「ああ。そっちですか。おそらく簡単なことです。医師は口を割りませんが、立ち会ったのは由美子さんだけです。葬式は簡素なものだったと聞いています」
「それでも住吉家の葬儀ですよ。弔問客もそれなりの数だし、元次まで騙している」
「おそらく河豚の毒を処方したのじゃないですかね。仮死状態に近いことができるのはあれだけです。抱きつかない限り、死人に見えるでしょう」
「ずいぶん危ない手に聞こえるが」
気味悪そうに眉根を寄せた鉄朗に、二郎は胸の内で毒づいた。あんたが一番危ない、と。
「西洋にもそういう毒草があるようです。神懸かりに使う類いで、いずれも同じ成分だと聞きます。抜け出した後の棺桶への細工は、由美子さんが居れば何とでもなる」
膝に肘をついて屈み、両手で顔を覆った鉄朗は、肩を揺らして笑い出した。ひとしきり笑うと、口元を撫で下ろして探偵を見上げた。
「いずれにしても、大魔術師紅蘭の、最後の大技だったわけですね」
「魔界転ショー」
「は?」
府抜けた声を出した鉄朗に、路場戸出 はにやりと微笑んだ。ゆっくりと頭を廻した探偵は、背筋を伸ばし、虚空に向かって息を吐いた。
「奥様に最後まで報告したかったのですが、まあ、あれだ。蘭子さんの件は、こっちが聞きたかっただけかもしれません。一体どちらにお出かけなんです?」
「上海」
片肘を椅子に預け、鉄朗は短く答えて笑った。探偵もまた、目を座らせて、はは、と乾いた笑いを返した。魔都上海。富士子と元次も一緒なのに違いない。
「初めて会ったのは十三の時で、あろうことか、彼女は私をおじさまと呼んだ。ふふ、これはしばらく待つことになるだろうと、そう思った。初めて抱いたとき、あの子は十五だった」
「…全然待っていませんな。そもそも奥様はなぜ今になって、謎解きを思いついたんでしょう」
「紅蘭が亡くなったそうです」
あっ、と小さな声が漏れた。なぜこんな奇妙な依頼を仕掛けたのか、ずっと小骨のように引っかかっていたのである。どのように訃報が届いたのかは知れないが、これで母の全てを知ってもよかろうと、娘は思ったのに違いない。
無言で立ち上がった探偵は、耳の底でもの悲しいジンタを聞いた。切々としてなお明るい、見せ物の前口上が重なった。男装の美少女の背後に、元次と富士子が嬉々として控えている。少女は不意に踵を返して去っていく。ちらりと振り向いた濃い睫毛の横顔は、いつの間にか由美子であった。
「浅草の並木蕎麦に電話をして、器を取りに来るように言ってください」
「由美子は帰ってくるだろうか」
仕立てのいい襯衣が音を立てた。両手の指を組んで顎を載せた鉄朗が、辞する探偵を見上げていた。
「もちろんです」
力を入れた足の裏で、分厚い絨毯がもわりと動いた。
さあさあお立ち会い。魔術師紅蘭の大脱出だよお立ち会い。
いつも消えるのはこちらの醜いせむし男だが、
今日は紅蘭みずから消えてみせまする!
奇麗さっぱり抜け出して、はい、さようなら!
はい、さようなら。
門柱に乗った石の兎に声をかけると、探偵はぶらぶらと歩き出した。蘭子は一切の過去を切り捨てて、消えたくなったのだろうか。それを切り出された娘は、さぞかし困惑したことだろう。なにしろ自分の存在も、そこに含まれるのだから。
──魔術師は二度死ぬ、か?
あの美しい夫人は、全てを知った上で、母の死と対面しに行ったのだ。探偵はぶるぶると頭を振り立てた。珈琲でも飲んでしゃきっとしなければ、纏わりつくジンタは当分消えそうになかった。
(了)