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其ノ四

 墓石は瀟洒な色白、磨き上げた硬質な表面にかっきりと文字が抉られている。

 住吉家代々之墓

 大きな石の囲いの中に、墓石はひとつではなかった。蘭子のものは別にあり、素っ気なく名だけが刻まれた墓石は、ちんまりと添えられたように見えた。

 「家名のわりに、ずいぶんま新しいお墓ですな」

 路場戸出(ろばとで)の呟きに、純白の日傘がくるりと揺れた。

 「長いこと一家で大陸に出向いていたので、こちらはお守も杜撰になっていて。帰国した後で直したようです」

 陽光の元、真っ白い洋装の由美子が輝いている。腕に抱かれた虹子という犬が、ふるっと白い巻き毛を揺らす。緑に囲まれた墓所は全体がしんと白茶気て、控えた富士子と元次の姿も例外ではない。大柄な女中の黒いお仕着せは毛羽立って光り、背中に瘤を載せて傾いた姿勢の男は、高さが揃わない両の拳を握ったり緩めたりを繰り返した。乗り入れた自家用車が黒い車体を艶つやと震わせている。込み入った話なのだ、エンジンを切って待っておれと言いたくなった探偵の、胸の内を読んだように助手が走った。間もなく車は胴震いをやめ、墓前の空気は改めて一段沈み込んだ。

 「お呼び立てをして、申し訳ありません」

 「いいのよ。きっと訳があるのでしょう?それで、進んでいますの?」

 「先日は鉄朗氏を煩わせました」

 「あら」

 「聞いていらっしゃらない?」

 「ええ」

 青梅家の地所も残っている。両家にはいくつも家屋がある上、本宅はあの広い屋敷だ。夫婦といえども、会わずにいることは十分に可能だろう。それにしても、昔から妻にベタ惚れだという夫の言に対して、夫人はあからさまに冷たい。年の差もあって、路場戸出(ろばとで)の目には由美子がまるで拗ねているようにも見える。

 「いくつか興味深いお話を伺いました。昔の、大陸でのことも。住吉銀行は随分と上海に力を入れていたようですね」

 「事業のことはあまり存じませんの」

 「面白い絵を拝見しました。兎と狼」

 探偵はくるりと話を変えた。案の定、由美子の大きな瞳が面白そうに細められた。

 「ああ」

 由美子はくすくすと笑った。

 「あれは住吉と青梅の先祖が一緒に描いたそうですわ。ふたりの素人の筆が混じっているんですもの。拙いに決まっておりますわね。なのに一度盗まれかけたそうです。目の利かない盗人だと、父が皮肉を言っておりました」

 「へえ」

 女はもう一度身を折って笑う。日傘がくるくると回り、娘のような仕草は、とても人妻とは思われない。探偵は大きく腕を差し上げて、がりがりと首筋を掻いた。

 「誰かが何かをしなかった、と証明するのは、たいへん難しいものです。もっとも堅実な方法は、他の誰かがそれをしたと証明することです。奥様のご用はそういうことだと、僕は解釈しておるわけですが」

 探偵の息継ぎのあい間に、令夫人はにこりと笑った。

 「ええ、そうね」

 音を立てずに小林少年が戻った。それを契機に、路場戸出(ろばとで)は目についた小石を蹴って、話を始めたのだった。



 「住吉権蔵、大岡平次、住吉蘭子。死に至った原因はみな違います。…死んだかわからぬ方も混じっているわけですが」

 ぼそりと呟いた探偵は、草臥れたフェルト帽のつばを指先でちょいと持ち上げた。

 「権蔵氏が遺体で見つかった前日、蘭子さんはご友人の弔問で鎌倉へ発った。確か富士子さんもご一緒で?」

 不意をつかれた女中は一瞬間をつくった。笑いを消した由美子がぴちりと跳ね返したものが、よもや自分に降り掛かろうとは、思いもしなかった様子である。

 「は、ええ?いえ」

 否定とも肯定ともつかぬ声を出し、骨張った背中を丸めた。問われた意図を計りかね、思案げに横目を流した先では元次が、不敵な視線をひっそりと探偵に当てている。

 「その日の鎌倉は雨だったそうです。当時の小間使いだった加納トメさんから、蘭子さんは車で出られたと証言を得ました。彼女はこうも言っている。訃報で近郊に行かれるにしては、大きなトランクでしたと。引退した運転手も訪ねました。どちらも物覚えのいいご老人ですな。秋山さんは休みをとって甲府に帰っていたそうで、お葬式に間に合わなかったと悔やんでおられた」

 じり、と元次の足先が動いた。小林少年が踵で砂利を躙り、威嚇のような音を立てて応じた。

 「蘭子さんがお屋敷を出た翌朝、権蔵氏は階段の下で、遺体で発見されました。検証にはこうあります。衣類が湿り、ステッキに少しの泥を認める、と。トメさんに確認を取りましたが、銀の持ち手のステッキはお出かけ用だ。邸内で絨毯を歩くときは、もっと華奢なのを突いておられた。湿っていたというズボンはツイードだし、僕ならこう考える。権蔵氏は、お屋敷の外で殺された。東京から西の、雨が降っていたところで」

 うう、と微かな唸り声がしたのは、犬ではなくせむしの男だ。探偵は構わずに言葉を重ねた。

 「そうならば、由美子さんの無実は保証される。でも先ほど言った通り、最も堅実なのは真犯人を立証することです。僕はしつこい質でして、鎌倉へ行ってきました。女中さんが不思議なことを言っていましたよ。蘭子さんをひとり降ろし、車はすぐに発ったと。ではあなた方二人は?その後どちらに?」

 「あっしは関係ねえでしょう…」

 せむし男の言葉に、しゅ、と奇妙な音を立てたのは富士子だった。鋭い溜息を吐き出して小刻みに首を振っている。元次の足元でまた砂利が鳴り、一歩後ずさったところへ小さな影が次々に飛びかかった。

 「なんだ、このガキどもは!」

 由美子の瞳は見開かれ、地面に転がった元次を眺めている。五人ばかりの子どもたちが退いた後に現れた姿は、最前までとははっきり異なっていた。

 「げん…じ?」

 「元次さん、あなた運転ができるのじゃありませんか?鎌倉まで蘭子さんを送り届けた運転手はてっきりあなたかと」

 「自動車なんぞ、あっしの身体で扱えるわけがねえ」

 砂利に尻をついて伸びた男の顔からは、醜く爛れた皮膚が消えていた。奇妙な肉色の塊を掴んだ少年が、気味悪そうに小さな掌を開いている。これといって特徴のない顔立ちを食い入るように見つめていた由美子が、あッと小声を上げて口元を押さえた。

 「おっちゃん、脚なんか悪くないじゃないか」

 「背中だって、ほんとは真っすぐなんだ」

 子どもたちの糾弾が甲高く飛び交う中、由美子の視線が庭師を刺していた。その瞳に促され、観念したというように、元次はゆっくりと立ち上がった。

 しゃんと伸びた背中、真っすぐな脚。異形の獣の姿は跡形もない。年かさの少年が、鼻をつまんで垢染みた上着を広げてみせる。いまや瘤はそちらに移っていた。

 「からくりはお手の物、どんな姿にだって化けられそうだ」

 「お前が大岡さんを轢いたのね」

 揶揄を含んだ探偵の声に、静かな声が被さった。



 「男はみんな、蘭子奥様を手に入れたがる…どうしたって人目を引く方なんです。頭のいい方で、銀行の株もずいぶんお持ちで、はじめはうまくいっていたんです」

 「お前は子どもだったから知らんのだ。住吉権蔵は俗物で、金の亡者だ。あいつが大陸でしたことを知ったら、みな何と言うかな。蘭子のことだって──」

 言葉遣いまですっかり変わっている。上着を剥がれた元次は、寒々しい襯衣姿で真っすぐに立っていた。由美子の視線には応じずに、ぱらぱらと場を取り囲んだ子ども達に目を移す。探偵が首を振り、助手が合図をすると、小林軍団はしぶしぶ遠のいていった。

 「俺は十五にならない子どもにする話は、分けてるんだ」

 じろりと視線を向けられた小林少年は、頬を膨らませた。

 「僕は十六だ。子ども扱いしないでください」

 「ふうむ。ぎりぎりだな。まあいい」

 すっかり場を仕切られて、探偵は苦笑いを浮かべた。しかしここからは、今となっては調べようがない話なのだ。黙って聞くしかない。由美子はゆっくりと犬を撫で、富士子は直立して唇を噛んでいた。

 「住吉は、蘭子を無理矢理モノにした。日本に連れ帰っても過去のことで脅し続けた。それがとうとう爆発して、蘭子は逃げ出そうとしたんだ。あの日、鎌倉へ行ったまま、戻る気はなかった。それが権蔵にバレて、あの男は追って来た。妻に逃げられた不名誉のせいか、こっそり来てくれたのはよかったよ。こっちの車に移ってすぐに言い争いになり、俺と富士子は一部始終を聞いていた。見ちゃいない。だからどうやって扉が開いて、どうやってあの男が落ちたのか、それは知らん。とにかく俺は、首が折れた男を車のトランクに押し込んだ。蘭子を送り届けて富士子と戻ったんだ。母屋に運び込んだ後、細かいことは富士子に任せた。俺がうろうろするわけにはいかないが、万が一見られても、富士子ならお嬢さんと間違われて済むからな」

 ぽつぽつとした語り口は殺人なのか事故なのか、ともかくその隠匿の自供であったが、探偵は無駄のない元次の話ぶりに感心していた。そしてかつての女主人を名で呼び捨てる様子にも思いをやった。元次を連れ帰った蘭子こそ恩人と思ったが、昔は一座の仲間であり、それをこの男のほうが守っていたのかもしれない。

 「蘭子は…大奥様はお嬢さんを捨てようとしたんじゃありません。迎えにくるつもりだった」

 絞るような声を出し、元次は初めて由美子に向き直った。間合いを計ったように虹子がきゃんと鳴く。止まっていた細い指が、白い巻き毛を梳いた。

 「わかっているわ。それはいいの。母とはもう、ちゃんと話したのよ。だからこそ、わたくし──」

 言葉尻がすうっと消え、長い沈黙が場を覆った。咳払いをして口を開いた探偵は、再び場を取り戻した。

 「ああ、その、順を追ってもよろしいですか?奥様の目の前で大岡氏を轢いたのは、確かに元次さんですか?」

 「ええ」「そうだ」

 ふたりは同時に答えた。路場戸出(ろばとで)は首筋を撫で、そのまま額に手をやって目を瞑った。

 「上海からの指示を実行するとしたら、元次さんしかいない。ただ、今ひとつしっくりこなくてねぇ…」

 「上海?」

 小林少年が訝しげに呟く。自分の知らないことがあるのは許せないとばかりに、紅い頬を膨らませて探偵を睨んだ。

 「凡人(ぼんと )から、だらだら情報が入ってくるんだ。ああ、凡人(ぼんと )というのは外務省の気障ったらしい友人です。こいつが面白いことを教えてくれました。かぐや座には、呉右衛門(ごえもん)というからくり師が居たそうですね」

 面通しと証言があり、自白があったが、それきり元次も由美子も無言だ。肩を竦めた探偵が言葉を継いだ。

 「蘭子さんにすべてを教えた奇術師は、外務省に目をつけられている反日分子の親玉です。最近の調べに依れば、政治活動歴はずいぶん古く、資金を調達するためには何でもやる。あくまで想像ですが、奇術師というのは盗みもきっと上手いでしょうな。その頃権蔵氏は、上海で派手にカネを回していました。危ない話が山ほど出てきます。おそらく後ろ暗いカネの流れが、住吉銀行とかぐや座の接点でしょう。

 大岡氏は何か秘密を握っていた。御竹銀行を買収した後、住吉銀行は大陸からすっぱり手を引いていますから、殺されるほどの秘密は、昔のことに違いない。舶来ものを扱う洋品店を通じて、元次さんは上海と連絡を取っていましたしね。ただしっくりこないのは」

 首を傾げた探偵の一挙手一投足を、全員の視線が追っていた。虹子でさえ、黒い目玉をきょろりと差し向けた。探偵はそれが癖なのか、また首筋をがりがりと掻いた。

 「殺された間合いが気になるんですよ。婿に入って三年も経っている」

 「それはあなた」

 諦めと嘲笑が混じった奇妙な声だった。元次はびくりと顔を向けたが、富士子は躊躇しなかった。

 「秘密は昔のことでも、知ったのは家に入ってからですもの。あの役人は何かを手に入れようと躍起になっていて、大奥様を脅したんです。お嬢様の本当の父親のことをバラすって」

 「おい!」

 男の声は悲鳴に近かった。元次の慌てようとは裏腹に、由美子は落ち着き払っていた。

 「それも、お母様から直に聞いたわ。心配要らないのよ」

 膝の抜けた粗末なズボンがへなへなと崩れた。砂利に膝をついた男を足先で蹴り、富士子が続けた内容は、小林少年の頬をさらに少し赤らめさせた。

 「そもそもはあの役人が蘭子奥様に惚れちゃって。かぐや座のことで脅して、無理矢理犯したんだ。一座の全員が盗みに関わってたのは事実だし、買収のすぐ後で権蔵が死んだから、銀行にはいろんな人が入ってきてぐちゃぐちゃ。蘭子奥様の立場は微妙でした。株を手放せってあちこちから虐められて。昔のことが知れたら、体よく追い出されちまいます。大陸へ逃げようかと悩んだけれど、青梅の惣領に、お嬢様を見初めたって言われたところでしたから。もう数年堪えて、お嬢様を嫁がせたらと……あいつは何か探してた……あの役人は、大奥様がそれを持っていると思ってたんです……お頭が切れたのは、お嬢様のことまで脅しの種にしたからですよ」

 「呉右衛門(ごえもん)…お前らの頭領が…」

 「わたくしの父です」

 知っていたのか、と元次は何度も呟き、呆然と頭を上げた。その視線を捉えた由美子は、眉をしかめて微かに笑った。

 「でも、大岡のおじさまを殺したことは知らなかった」

 「まさか、目の前にいらっしゃるとは知らずに…待ち合わせをなすってたなんて」

 「お誕生日だったのよ」

 由美子からすれば、変装をとった元次は見覚えのない男だが、運転台にいた元次にすればさぞ驚いたことだろう。けっしてばれないとわかっているのに、明らかに見られたという事実。

 「婿取りをして跡を継ぐはずのお嬢様が、住吉の血筋でないとわかったら大変です。しかもお頭のことが知れたりしたら、大喜びするのが一杯いるんですよ」

 実の父親が離別した母を護ったのだと、愛ゆえに殺しを命じたのだというロマンチックな幻想に浸るわけでもなかろうが、由美子はどこか高揚して見えた。うっすらと薔薇色に染まった頬を昂然と上げている。

 「このふたりは母の僕だから、損なうようなことはなにひとつ聞き出せませんの。本当のことが知れて良かったわ。噂のとおりに腕のいい探偵さんね」

 フェルト帽を持ち上げた路場戸出(ろばとで)は、上目遣いに由美子を見つめた。

 「長くなって申し訳ないですが、まだあと一件あります。お母様、蘭子さんの死について」

 幕引きを促した由美子の様子から、探偵は、蘭子の件は付け足しなのだと確信した。権蔵と大岡のことが焦点だったのに違いない。それを証するように、由美子の頬から一気に笑みが消えた。

 「こればかりは本当に裏の取りようがありませんでした。ただ、庄野医師は見つけましたよ。当然何も答えてくれなかったけれど」

 「だから墓前に呼んだのですか」

 向かい合った白い墓石を見つめて由美子が固い声を出した。膝を伸ばした元次も、自分の指先を握りしめた富士子も、何事かと女主人を見つめている。続いた探偵の声に、ふたりの僕はぐえ、と揃いの声を上げた。

 「お墓は、空ですね?」


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