アデコのドライヤー
宅配便が届いたのは、私が恋人に電話をかけているときで、昼の十二時過ぎだった。天気がよかったので私は恋人と会う約束をしかけていたのだが、受話器を定位置に戻し玄関へと向かった。運送屋はランドセルくらいの段ボールを両手で抱えていた。私は渡されたペンで、『浪江伸吾』とサインし、荷物を受け取った。中身が固定されていないらしく、中で何かが大きく移動していた。
部屋に戻った私は電話をかけ直そうか迷ったが、かけ直さないことにした。そこまで彼女に思い入れはないのだ。
彼女と出会ったのは去年の十二月、銀座のバーでウィスキーのオンザロックを嗜んでいるときだった。その頃私は仕事をクビになったばかりで、何処か落ち着ける場所を探していた。つまり悩みたかったのだ。初めは自分の部屋にこもっていたが、妙な気分がして逃げるように町へ繰り出した。そしていくつもの店を回ったが、結局行きつけのバーに来てしまっていた。
その日、私が来たときバーに客はいなかった。私はバーテンにいつものを頼んで、流れているレコードに耳を傾けた。私の知らない曲だったが、シックな曲でとても好感が持てた。
ウィスキーを飲みながら今後の人生について考えていた。アルコールは楽観的な思考にとって必要なものだ。元来私はペシミストなのだ。酒がないと迂闊に考え事は出来ない。
彼女が来たのは私が席に着いて三十分ほど経った時だった。タイトなジーンズにTシャツだった。随分ラフな格好だな、と思った。彼女は私の隣に座り、私と同じものを注文した。
「お一人?」と彼女は言った。
「そうだよ」と僕は答えた。
それから、数分間沈黙が続いた。何かまずいこと言ったと思い少し不安になったが、私は受け答えは正常だった。おかしいのは自分以外の何かだった。その時何かがおかしかったのだ。それが何かは自分でもわからなかったがそれが自分と周りをおかしくさせているに違いなかった。残り少なくなったウィスキーを見て、バーテンが注文を催促してきたので僕は「同じものを」と言った。
「他で飲まない? わたしと」と彼女は言った。
それも良いなと思った。実際彼女の容姿は――服装は別にして――魅力的だった。白くて細い腕に滑らかなうなじ、鼻筋の通った顔はロシア人を想起させた。黒く伸びて艶のある髪は肌の色と対照的でより際だって見えた。
「それも悪くないね」「そうでしょう」そう言って彼女は僕の肩に手を置き、僕に擦り寄ってきた。根拠はないが彼女はその時から私に抱かれる気でいたのだろう。彼女は言葉では言い表すことのできない甘い匂いを漂わせていた。抱いてもいいなと思った。
私はウィスキーを飲み終えたあと、近くホテルに向かいそこのバーで再び彼女と飲んだ。そしてそのまま客室に入り、欲望のままにセックスをした。それっきりのつもりだったが、彼女は連絡先を聞いてきた。もちろん断ったが彼女のしつこさに根負けしてついには連絡先を教えてしまった。しつこいものは嫌いなのだ。人でも、そうでなくても。
翌日、求人情報誌を読みあさっているとき、自宅の電話が鳴った。彼女がかけてきたと思ったので私はでないつもりだった。一回、二回と鳴るにつれて音が大きくなるように感じた。もちろん、そんなはずはないが何度も鳴らされると頭がおかしくなりそうだったので、いやいや受話器を取った。
「わたしが誰だかわかる?」昨日会った女の声がした。
「わかるよ。昨日の……」
そこまで言った後、次が出なくなった。名前を聞いていなかったのだ。
「名前を聞いてもいいかな」「トミコよ」
なぜ名前を聞いてしまったのか自分でもわからなかった。
「話を聞いて欲しいの。聞いてくれるだけで良いわ」
「あいにくだけど、僕にそんな時間はないんだ。早く仕事を見つけないといけない」
私は早く電話を切りたかった。
「わたし、ときどき世界が見えなくなるの。突然よ。もともと何かある場所には何も無くて、わたしの脳が錯覚させているだけに思うの。わたしの服もさっき食べたサンドウィッチもテレビも家具も家も道路も地球も、そういったものは全部わたしの頭にだけあるのよ。あなただってそうよ。わたしの中の幻。わたしが死ねばわたし以外のものは全部なくなるの。映写機を手で塞いだように。それっておかしいと思う?」
それは私にとっても同じではないのか、と思ったが言わなかった。私は彼女が少し気に入った。
「僕は聞くだけだ。それにまだ返事はしてない」と僕は言った。
「それでいいのよ。またかけるわ」そういって電話は切れた。それから毎日電話はかかってきた。彼女の話を聞くうちに悪い人間ではないように思えてきて、何度か会って抱くこともあった。会うとどうしてもペニスが勃起してしまい、ホテルに入らずにはいられなかったのだ。どういう関係か訊ねられれば交際していると言えるだろう。
私は居間に戻り箱を開けてみる事にした。はさみでガムテープを綺麗に切った。中を開けてみてみると、使用禁止と札の付いた包装もされていないドライヤーが入っていた。差出人は見知らぬ女の名前で、『石塚艶子』と書いてあった。恐らくアデコと読むのだと思った。私はそのまま送り返そうと思ったが、使用禁止という札が気になって、送り返すのをやめた。そう書いてあるとどうしても使いたくなってしまうは仕方なかった。そういう性分なのだ。若い頃は立入禁止区域をたむろしていたし、上ってはいけない柵に上ったりしたものだ。
私はコンセントを探し出し、アデコを使ってみようと思った。そこで重大なことに気付いて探すのをやめた。私はアデコを使う必要はなかったからだ。乾かすものなど何もなかった。そしてこれから先もたぶん使うことはないのだ。
自宅で風呂に入ることはなかった。銭湯に行く習慣もなかった。私は水が嫌いなのだ。触れたくなかった。雨の日は極力外出は控えた。そしてそれはお湯についても同じだ。要するにドライヤーなんてものは私にとってただの工業製品の塊なのだ。使用禁止という札だけに惹かれるのだ。
アデコを箱に戻し、その場に座り込んだ。それと同時にお腹から軋むような音がした。まだ昼食を取っていなかった。私は何か食べようとキッチンを探したが冷蔵庫にはドレッシング、棚には調味料とインスタントラーメンだけしか残っていなかった。
私は仕方なく家を出ようとした。インスタントラーメンを作ろうとは思わなかった。湯を沸かすのが嫌なのだ。特に薬缶が恐ろしかった。奴は文句も垂らさず数リットルもの水を収容するのだ。私はそんな薬缶を使いたくはなかった。それなのになぜインスタントラーメンを買ったのかは思い出せないが、私は衝動的にものを買ってしまうことが度々あったので気にもとめなかった。
私が水嫌いになったのにははっきりとした理由があった。洗面器で溺れたのだ。六歳で夏だった。その頃も私は水があまり好きではなかった。しかし――はっきり覚えてはいないが――理由は特になかったはずだ。今ほどではないが、出来るなら水に関わりたくない程度だった。
小学校にあがるとプールの授業が始まる。当たり前のことだ。幼い私はそれがどこか遠いことのように思えて、ほとんど気にかけることなく、四月から六月までの平穏な日々を過ごしていた。そしてそれは突如訪れた。
梅雨が終わりかけたある日の放課後、一年生は全て家庭科室に集められた。水泳の授業についての説明があった。私を言いようのない焦りが襲った。私はそれをどう切り抜けるか悩んだ。私は泳げないのだ。それは今も変わらない。海にも行ったことがない。
その日私は家に帰ってから対策を練った。授業自体をなくしてしまえば良いと思った。しかし小学生の自分にそれが出来るとは思えなかった。世界は変えられないのだ。休んでやろうとも思ったが仮病を使う勇気が足りなかった。やはり世界は甘くない。
結局私は洗面器で水に慣れる練習することにした。水に対して努力をしたのはそれが最初で最後だった。そして溺れた。肺に水が入った感覚があった。目は開けられなかった。すぐに母がやってきて洗面器から救出された。それが原因で水泳が免除されたので、結果的に私は世界を変えた。
何処からか視線を感じた。その時私は外食しようと財布を探していた。戸棚を探していた私は視線を感じ後ろを振り返った。そこにあったのはドライヤーの箱とそれを開けるときに使ったはさみだけだった。辺りを見まわしてみても変わった様子はなかった。再び財布を探し始めたが気分が悪くなってきて探すのをやめた。やはり何かいるようなのだ。私は家をくまなく歩いた。その何かを見つけるためだ。
風呂場には何もなかった。一度も使われていないシャワーと浴槽があるだけだった。もしかしたらそれ自体が何かなのかもしれなかったが、それは考えないことにした。
キッチンにも居間にも不審な点はなかった。何かの思い違いなのだ。そう思って他のことに取り組もうと思ったが、特にすることがなかった。私は無職なのだ。
テレビを点けてみた。ブラウン管の向こうではサングラスを掛けた男がにやけていた。この時間帯の番組を見るのは久しぶりだったので飽きずに見られると思ったが、十分もすると飽きてチャンネルを回してしまっていた。テレビは天気予報に変わった。明日は雨のようだった。今日中に買い物行かなければならないと思った。しかし気分が乗らないので行きたくはない。やれやれ、どうして天気はこうもよく変わるのだろうか。私はテレビを切ると財布の捜索を再開した。テレビを見ている間も私に向けられた視線は途絶えることはなかった。
私の家はそれほど大きくない。真剣に探さなくとも大抵のものはすぐに見つかった。しかし見つからないときはとことん見つからない。そうなってしまってはもうどうしようもない。今回もそれであると思ったので諦めて昼寝でもしようと思った。一日くらい食事をしなくても死ぬことはない。それに私は少しずつなら水は飲めた。水さえあれば数日は生きていけると思った。
昼寝をしようとフローリングに横になった。ひんやりして気持ちが良かった。相変わらず何者かの視線を感じていて、心底くつろぐことはできなかった。この家は前からこんなだっただろうか。気分転換にコーヒーでも飲もうと思い立ち上がった。ふとアデコが目に付いた。
アデコは床に置いてあり、コンセントに差せばいつでも使える状態だった。乾かすものがなくとも使うだけなら出来るのではないだろうか、と思ってそれを手に持ってみた。特別手にしっくり来るわけでもなく、持ちにくいわけでもなかった。ドライヤーがどういう風なものであったかさえ記憶になかった。最後にさわったのはいつだっただろうか。
私はどうしても使いたくなったので、コンセントを探した。自分に向けられた視線が強くなった気がした。嫌な気分だ。もしかしたら窓の外から誰かが覗いているかもしれないし、人形か何かの視線かもしれない。だがあいにく窓にはカーテンが掛かっており、人形なんてものはこの家に存在しなかった。
タンスの横にコンセントを見つけた。冬にはファンヒータ、夏には扇風機を差しているやつだ。今は梅雨なので必要はない。そこを使おうと思った。アデコのプラグをのばし二つの穴へと近づけた。本当に差していいものだろうか。使用禁止と書かれているのだ。このまま使って何か起きたら……。
私は使うのをやめた。やはり使わない方がいいと思った。そう書いてあるのだから。その時チャイムが鳴った。宅配便だったら出たくはない。これ以上怪しいものを持ち込まれるのは困るのだ。荷物を受け取るときは差出人を見てから決めよう。知らない人間なら受け取らない。
しかし玄関を開けると立っていたのは見知らぬ女性だった。顔にはしわがあり老けかけているように見えたが、しわのない場所にはハリがあり年齢は特定しにくそうだった。胸があったので辛うじて女性であることはわかった。
「すいません。ここに小包が届いてはいらっしゃいませんでしょうか。回収に参ったのですが」と女は言った。
届いていると答えたかったが、首を横に振った。アデコを渡してはいけない気がした。アデコを少し気に入ってしまっていた。それに女の素性がわからなかった。怪しい組織の一員で私を誘拐しに来たと言われても充分納得できる状況だ。それにさっきからの視線はこの女からのものかもしれない。
玄関を閉めて帰ってもらった。玄関の前で待っている可能性もあったが帰ってもらったことにした。あまり関わりたくないのだ。気味が悪い。
私はそれからもずっと視線を感じ続けた。何度も後ろを振り返り周囲を見まわしたがやはり何もなかった。こんなことは初めてだった。そんな時電話のベルが鳴った。あの気味の悪い女だと思ったので出ないことにした。これ以上私の日常を乱されたくない。
私の日常? 仕事はしなくていいのだろうか。そもそも半年前まではこんなではなかったはずだ。仕事をしていて給料を貰っていた。毎日クタクタになるまで仕事して、何処からか視線を向けられても気付くことなんて絶対になかった。あのときからは何もかも変わってしまったのだ。
電話は鳴り続けた。もし受話器を取らないならおそらく永遠に鳴り続けるだろうと思われた。うるさいので受話器を外すことにした。これで相手には料金が掛かるし切らずにはいられないはずだ。もちろん私は電話には出ない。
「もしもしシンゴ? さっきなんで切ったの?」トミコの声だった。
「ちょっと用事が出来たんだ。今はもう大丈夫」
「声が震えているわよ。何があったの?」
そう言われると少し顎が震えていた。しかし電話で気付くものなのだろうか。思い切って今までのことを話してみることにした。
「きっと疲れているのよ。明日になれば治るわ」
「そうかな。僕はこれが終わらない気がするんだ。もしかしたら一生このままかもしれない。それにさっき変な女が来たんだ。何かおかしいんだ。どこがかはわからないけど」
「意外と悲観的なのね。でも今そういう話聞きたい気分じゃないから。さよなら幻さん」
そういって電話は切れた。私はどうすれば良いのだろうか。明日になればなるのだろうか。
……そうだ。寝よう。それがいい。明日になってから。考えよう。
ベッドに横になった。まだ昼間なので寝られそうにはなかった。それに見られているのだ。今もちょうどベッドの後ろ側から視線を感じている。
朝になった。一睡も出来なかった。夜中中ずっと同じ場所で寝返りも打たず寝ていた。寝返りを打つとそちら側に何か居そうで打てなかったのだ。こんなことはおかしい。時計を見ると朝の四時だった。後ろからの視線はまだ続いていた。ベッドの裏側に何かいるのだと思い裏側を覗こうとしたが怖くなってやめた。おそらく裏側には得体の知れない何かがいるのだ。昨日からずっと見られずにいた。家から出た方がいいのかもしれない。職を失ってからはほとんど家から出ることがなくなった。失業保険も切れたのにのんきな話だ。幸いにも雨はまだ降ってはいなかった。
私はアデコだけ持って家を出た。ここに置いておけば誰かに奪われそうな気がした。それだけは避けたかった。散歩程度だから他に準備は要らない。曇ってはいたがすぐに帰るつもりなので大丈夫だと思った。服を見て気付いたが三日前から着替えていなかった。
とりあえず、近くの本屋にでも行ってみることにした。本でも読むと気分が変わるような気がした。本屋までは歩いて十五分程度なので散歩には丁度いい。未だに視線を感じていたが後ろは振り向かず歩いた。
本屋に行く途中に雨が降ってきた。霧みたいな雨で引き返そうとしたが、家が恐ろしくて躊躇した。あいつはまだベッドの下にいるかもしれない。いや、もしかしたら家を出て付いてきているかもしれない。一体ではないかもしれないし、町中に散らばっているかもしれない。そう考えている最中も視線は私に向いていた。
本屋に着いた。シャッターが閉まっていた。この本屋は寝坊しているのかと思った。すぐに考え直して自分が早すぎることに気付いた。たしか六時には開くはずだからそれまで待っていよう。待っている時間が退屈だったので得体の知れない何かについて考えることにした。
まず足は二本ある。その足で立ちゆっくりと近づいてくる。ある程度近づくと頭にある触角で獲物の位置を探る。体色はほぼ真っ黒でほんのり茶色っぽい。全身に毛が生えており、触角はヌメヌメしている。口は横開きで歯はない。代わりに虫のような顎があり、口からは神経毒を吐く。それに触れたら最期、獲物は動けなくなり全身を少しずつかじられていく。羽はないが空は跳べる。脚力が強く十メートルは跳べる。走るのも速くスキップするような走り方で獲物を追い詰める。
六時になったが店は開かなかった。本格的に雨が降ってきた。どうやら今日は日曜で店は休みのようだ。この生活になってからは曜日を意識することはなくなった。おかげで日曜も忘れてしまったのだ。今日が日曜かどうか確かなことはわからなかったが、開かない以上そう思うしかなかった。
家に帰ろうにも雨が降っていて帰れない。傘でも持ってくれば良かった。次からは天気予報を信じようと思った。
私は雨の中走り出した。心境の変化はこれと言ってなかった。ただ走ろうと思ったのだ。あいかわらず水は怖かったが夢中で走った。歩けば十五分、走ると五分。それだけ我慢すれば家に着く。思えばなぜ雨宿りをして帰ろうとしなかったのだろうか。
私は立ち止まった。雨は絶え間なく私を打ち続け、世界はほとんど変わっていなかった。
一つだけ以前と違う、すっきり無くなっているものがある。私は再び走り出した。
『もともと何かある場所には何も無くて、わたしの脳が錯覚させているだけに思うの』と彼女は言った。
全くその通りだと思った。
雨の降る中、自宅の前に立っていた。視線はもう気にならなかった。ドアを開け中へ入った。鍵はかけていなかった。右手に持っていたアデコをコンセントに差した。アデコにはスイッチがあったのでそれをいじって電源を付けようとした。暖かい風は出てこなかった。おそらくもともと壊れていたのだ。私は濡れて過ごすのも良いと思い、そのまま洗濯機へ向かい服を脱ぎ捨てた。全裸で居間へ戻り電話を確かめると着信履歴が残っていた。恐らく彼女からだった。私はあとでかけ直そうと思い、ソファに寝ころんで睡眠した。二日ぶりだった。
二時間ほど経ち目が覚めた。私は腹が減っていたのを思い出した。忘れるくらいの空腹なら耐えれば良かったが、どうしても何か食べたくなりキッチンへ向かった。そしてインスタントラーメンを作って食べた。思いの外旨かった。薬缶とも上手く付き合えそうだった。
あとでわかったことだがあの差出人の名前はツヤコと読むらしかった。
お読みいただきありがとうございました。何も考えずに思うまま書きました。
全く関係ないことですが、パソコンのキーを人差し指と親指だけで押してしまいます。どうにかしてこの癖治したいですね。一日に原稿用紙五枚以上書くとミスタッチが増えて困ります。どなたか詳しい方、ミスタッチの減らし方を感想にお願いします。切実にお願いします。