まどかの夢
まどかには、祖母がいた。同居していて高齢ながらも元気な人で、よく二人で出かけたりもしていた。おばあちゃん子と言ってもいいぐらいに、仲良くしていた。
しかし、そんな大事な祖母が癌になった。
手術を受けて一時は元気になったが、数ヶ月後に再発・転移をしていることが解り、祖母は抗癌剤を拒否して、自宅で最期を迎えたいと家族に伝えた。
家族は大いに悩んだが、本人の意志が強く、結局それを尊重する形になった。
しばらくは元気に変わらずに過ごしていたが、しだいに身体が痩せてきて、食欲も落ちてきた。
「大丈夫?」
と聞くと、祖母は決まって笑いながら、
「身体が軽くなって、元気なほどだよ」
と心配をかけまいとしてくれた。
ほどなくして、ベッド上での時間が長くなり、かかりつけの医師が往診してくれるようになった。
医師が来ると、祖母は安心したように身を任せ、「よろしくお願いいたします」と言った。
まどかはそれが、「私の命を」よろしくお願いしているのだと気づいた。
医師もそれがわかっているようにうなずき、血圧を測ったり、声をかけていた。
しだいに命の火が消えてきていることを、まどかも感じていた。
心のどこかで、死ぬと言うことが信じられずにいたが、何とも言えない不安が心の中に広がり始めていた。
ほとんど食べなくなり、まどかがスプーンで口元に運ぶお粥数口が喉をやっと通る程度だった。
それでも、本人はそれほど苦しそうな様子を示さなかった。
時折、「ありがとう」と言われると、まどかも泣いてしまった。
あるとき、医師が「そろそろ覚悟をして下さい」、と言ってきた。
聞いていた家族のみんなに衝撃が走った。わかっていたが、胸が苦しくなるのをまどかも感じた。
祖母はもうほとんど反応がなかった。少し、息が苦しそうだった。
次の日、家族みんなが見守る中、祖母は息を引き取った。
医師が亡くなったことを確認すると、
「有り難うございました……」
と父が細い声でつぶやいて、泣き出すと、まどかも涙が止まらなくなった。
「皆さんも、よく頑張って下さいました。本当に、ご苦労様でした」
そう話した医師の目が赤くなっているのを、まどかも気づいた。
葬儀が済み、しだいに落ち着いた心の中で、まとがは思った。
今までは、自分のためだけに生きてばかりいたような気がした。
いつかはあの医師みたいに、誰かのために役に立ち、人と関わりたい、と。
それが、まどかが医師を目指すきっかけだった。
「……なるほど。うん、誠もこのぐらい話しなさいよ」
誠も素直にうなずいていた。
と言うか、ノートに何か書いていた。
何を書いたんだろう……。
「でも、私、それまで医者になるって、すごく大変っていうこと知らなくて。私学だととってもお金がかかるから、国公立しかないけれど、偏差値がとっても高くて……」
「あっ、それで勉強を教えて欲しいけれど、説明するのをためらったんだ」
まどかはうなずいた。
「確かに、難しいからね」
話しながらではあったが、それぞれに夕食はほとんど食べ終わり、誠が入れてくれたお茶をすすっているところだった。
「今の成績で医者になりたいって言っても、笑われそうで」
「でも素敵な夢よ。ぜひあなたみたいな人に医者になって欲しいわ」
「有り難うございます」
「となると……」
まどかが誠を見た。
後片付けをしている誠がびくっとした。
「あなたの責任は重大ね。とは言え、あなた一人で作戦を考えるのは問題がありそうだから、私も協力するわ。……何かちょっと面白くなってきた」
「すみません。ご迷惑をおかけします」
まどかが頭を下げると、真穂が困ったように否定した。
「迷惑じゃないわ。むしろ、願ったりよ。この子にもいい勉強になるし、私も楽しみだわ。まさか、自転車のチェーンからこんな事になるなんて思わなかったけれど」
「私もです」
二人ですこし笑った。
「あの……」
片付けの済んだ誠が、声をかけてきた。
「何?」
真穂がいいところで何よ、とでも言いたそうな表情で誠を見た。
「勉強していいですか?」
「……話は聞いていたの? ……って、いいか。今日からいきなり始めるわけじゃないし。作戦も必要そうだし。いいわよ、どうぞ」
「はい」
誠はそう言った、奥のもう一つの部屋へ入っていった。
麩を開けると、ベランダへと続くガラス扉が一面に広がり、その角に小さな机が見えた。一人用のちゃぶ台というか、本当に机とライトがあるだけの小さな空間だった。
よく見ると、その隣には不釣合なほど大きな本棚が、壁一面に広がっていた。
はっきりとは見えないが、教科書とノートが整然と並べられていた。
ノートの数がすごかった。何百冊とありそうだった。
誠は机の前に正座すると、かばんから今日の授業で使った教科書とノートを取り出した。
上に、鉛筆と消しゴムを並べ、ライトをつけて、居住まいを整えた。
そして、ひとつ深呼吸をして、深々と頭を下げた。
「えっ……?」
まどかはびっくりした。
誠は両手をそろえて床に付け、頭もその手につきそうなぐらいに下げていた。
勉強というよりは、茶道の礼を見ているようだった。
相手を敬うような、真摯な姿勢。
静かな、祈りを捧げているような、不思議な時間が過ぎた。
おもむろに顔を上げ、勉強を始めた。
静かな中に、教科書をめくる音、ノートに書く音が響いた。
強く集中しているのは、後ろから見ていても解った。
「こうなったら、もう横でテレビを見ようが、電話がなろうが気づかないのよね」
「神様を再現できるって、こういう事だったのですね……」
真穂がくすりと笑った。
「あの子は真面目すぎよ」
二人はしばらく誠の背中を見つめていた。