プラネタリウム
「人体と生物にもいろいろなコーナーがあるけれど……やっぱりこれかな」
誠が連れたきたのは、『脳』のコーナーだった。
脳の模型をぽんっと叩いた。
よく見たことのある模型に、まどかもうんうんとうなずいた。
「脳細胞は全部で約140億個あります」
「多いのか少ないのか、解りません」
「それが産まれた時を最大として、毎日10万個ずつ死んでいきます」
「…………えぇぇぇっ!」
誠の言葉に、まどかはワンテンポ遅れて驚いた。
「毎日どんどんと減っているんですか? 増えないんですか?」
「はい。日々減っていきます」
まどかは心配そうな顔をした。
「だって、そうしたらどんどん馬鹿になっちゃう……」
まどかのコメントに誠は思わず笑った。
「人生80年として、1年は365日。毎日10万個死ぬとして、何個になるか」
「えっ、えっと……」
まどかはノートを取り出して計算しようとした。
誠はそんなことはしなくていもいい、と手で止めて、言葉を続けた。
「こういう場合は、ざっとでいいんです。ケタだけ間違えないように。8x4で32、10のケタは万をおいておけば4ケタだから億。30億弱と言ったところかな」
暗算でざっと計算をした誠に、まどかは感心した。
自分でもできないほどではないが、誠のようには頭が回らなかった。
「なるほど」
「140億のうち30億だから、まだ110億残っています。まあ、そう心配することはないかな」
まどかも少し安心したように、ほっと息をついた。
「そうですね……あれ、でも年齢とともにいろいろ学習していきますよね。細胞が死んでいくのに、どうして?」
誠は脳の模型の近くにある、脳神経の絵を指さした。
「脳細胞から出る枝が増えるからです。網の目のように枝が増えて、電気の通りが良くなることで、成長していきます」
「あっ……最初の時に話していたことですね」
「はい」
「これがそうなんだ……本当に枝みたいですね。これがうにょうにょって伸びるんですか?」
まどかの表現に、誠は笑ってうなずいた。
「そう、うにょうにょっと。だからちゃんと記憶になるためには、枝が伸びる時間が必要だし、通りが良くなるためには何度も電気を通す必要があるし、電気が通らなくなった枝は弱っていくから、定期的に電気を通してあげないといけない」
「以前に話していた、記憶の原理ですね」
誠はうなずいた。
「ちなみに、大学受験は突き詰めていくと、ほとんど暗記だと思っています」
「そうなんですか?」
まどかの問いに誠はうなずいた。
「以前に話したように、国語も理論で突き詰められる答えがあり、理論を記憶して使いこなせば点数がとれます」
「数学は?」
「解法のパターンの暗記です」
「理科、社会、英語は……暗記ですね」
誠はうなずいた。
もう一度、脳の模型に手を置いた。
「知識から新たな物を発見することを試されているわけでもなく、多様性のある答えも求めていません。試験範囲も決められています。その試験範囲をどれだけ記憶し、理解しているかを確かめているに過ぎません」
「そうなんですか……」
そう断言されると、まどかも受験勉強という物に対して、何となく希望のようなものを感じた。焦りや不安があったが、何とかなるのではないか、という希望が。
「ただ量は多いですし、使いこなせるようになるまで繰り返すので、とても時間はかかりますが……」
「ですよね……」
結局、時間が必要だし、タイムリミットもある。
やっぱり大変そう……。
まどかはがっくりと肩を落とした。
そんなまどかの頭の上に、誠の手のひらが乗った。
えっ……とまどかは驚いた。
誠の手が、優しく、まどかの頭に触れていた。
「まどかさんなら大丈夫です。これまでの頑張りを見て、そう思いました。自信を持ちましょう」
そう言いながら、誠はすぐに手を引っ込めてしまった。
思わずまどかに触れてしまった自分の手を見つめ、顔を赤くしていた。
まどかの頭に、その手の温かさの感触が残った。
誠がまどかに触れたのは、これが初めてだったと思う。
まどかは少しだけ、胸がどきどきするのを感じた。
そして、誠の言葉と手に勇気をもらえた気がして、まどかは顔を上げ、力強く返事をした。
「はい! これからも頑張ります。よろしくお願いします、師匠!」
まどかはそう言って、笑った。
いくつかのコーナーを、ある時は身体を使って体験しながら、ある時は誠が解説しながら、ふたりは楽しく時間を過ごした。
そして、予約をした時間となり、ふたりはプラネタリウムへ向かった。
プラネタリウムの中に入ると、中は夕焼けのような明かりに包まれていて、ドームが天高くひろがっていた。
閉鎖された空間なのに、その広さは何となく外に出たような開放感を与えてくれる。
中央には、星を投影する蟻のような形をした機械が置かれていた。
ふたりは人のあまり座っていないあたりを選んで、横に並んで座った。
背もたれに寄りかかると、ぐっと倒れていき、空を見上げるような姿勢でとまった。
「わあ……」
まどかは思わず声を上げた。
今はまだ投影されていないドームの天井が、視界一杯に広がる。
横を見ると、誠も天井を見つめていた。
それがまた、わくわくとして嬉しそうで、まどかは思わず微笑んでしまった。
「プラネタリウム、大好きなんです」
誠はそう呟いた。
「見ていて解ります」
まどかは、ふふっ、と笑った。
「投影が始まってしばらくすると、『これからもっと山奥に入っていきましょう』という解説のあとに、満天の星が広がります。その漆黒の闇の中に、たくさんの星がきらめく瞬間が凄く好きなんです」
「そうなんですか。私も楽しみです」
そう言って、ふたりは始まるまでのひとときを待った。
平日と言うこともあって、席は半分ほど埋まったところで、あたりがすうっと暗くなった。
非常口の案内のアナウンスがあり、投影が開始された。
『皆さん、こんばんは。本日は科学館プラネタリウムにおこしいただき、有り難うございました。今からひととき、夜の空のご案内をさせていただきます』
男性の落ち着いた声のアナウンスが響き、ドームに夕焼けからいくつかの輝く星が見え始めた。
はじめは、夕焼けの時あるいは都会の空でも見られる星の説明があった。
惑星の中でもひときわ光り輝く金星について。
それに、夏の代表的な星座も、都会でも十分に眺められることが説明されていく。
まどかも、ゆったりとした気持ちになって、空の星と落ち着いた声に身をゆだねていた。
そしてアナウンスは、先ほどの誠が言った台詞とほとんど変わらないフレーズを言ったあとに、あたりはいっそう暗くなり、それまでは見えていなかった無数の星が空にきらめきだした。
「わぁ……」
そこかしこから、ため息のような、歓声のような声がもれる。
視界一杯に広がる星の瞬きは、それだけで胸にせまる感動があった。
「すごい……」
まどかは思わずつぶやいた。
「やっぱりこの瞬間が大好きです」
誠も嬉しそうに、そうつぶやいた。
まどかもうなずいた。
天の川が、無数の星のあつめて横たわっていた。
その白いきらめきは、たしかに夜空に広がる川のようだった。
そして、解説員により夏の星座の案内が次々に始まった。
こと座、はくちょう座、わし座。
七夕のベガとアルタイル。
さそり座にいて座。
温かな、胸がしんっとするような感動と、わくわくするような楽しさを与えながら、ふたりの夜の時間は過ぎていった。
「今日は楽しかったです」
科学館を出たところで、まどかは誠に礼を言った。
よどんでいた気持ちが、だいぶすっきりした感じがした。
晴々とした気持ちとなったまどかは、誠に感謝したい気持ちだった。
「良かったです。僕も久しぶりで、すっかり楽しんでしまいました」
そう言った誠も、満足そうな笑顔を浮かべた。
「全部は見切れなかったし、解説も途中でしたね。ぜひ、また連れていって下さい」
そう話すまどかの誘いに、誠は安堵した表情を浮かべた。
「そう言ってもらえて良かった」
誠の言葉に、まどかは不思議そうな顔をした。
「いや、またすっかりいつもの勉強モードになって、一人ではしゃいでいたので、楽しんでもらえたか心配でした」
誠がすまなそうな顔をして、そうつぶやいた。
なんだ、そんなことを心配していたんだ……。
まどかは、並んで歩く誠の背中を軽く叩いた。
「師匠! 自信を持ってください。師匠の楽しさは、人に伝わります。こちらも嬉しい気持ちになるんです」
誠の顔がいくらか赤くなった。
褒められたこと、背中を叩かれたことが、ちょっと恥ずかしかったようだ。
「自信はなかなか持てないですね。でもそう言い続けてもらうと、すこし前向きな気持になります」
「はい」
誠の言葉に、まどかは嬉しそうに返事した。
「それじゃあ、帰りましょう」
「そうですね」
そうしてふたりは自転車に乗って、夕暮れの道をつらなって走りだした。
いくらか涼しくなった風を切りながら、ふたりは家路へと向かっていった。