国語と宮沢賢治
「おっ、おっ……お邪魔します」
誠は緊張のあまり、何度もどもってしまった。
「どうぞ、お待ちしていました」
まどかの母親が誠を招き入れた。
いつも一柳家で夕食を御馳走になって申し訳ない、とまどかの母親が誠を招待したのだ。
真穂はたまには自分で作るから行ってらっしゃい、とにこやかに誠を追い出した。
誠の緊張は極度に高まりながら、言われるままに中に上がった。
「師匠、緊張しすぎです」
まどかが誠の様子に笑いながら招き入れた。
居間に案内され、ソファーに座った。
家はいわゆる日本家屋だが、中はややリフォームされていて、居間はソファーやカーペットなど、やや洋風になっていた。壁には昔の家族写真などが飾られ、一方の壁にはテレビが設置されていた。
「喉が乾いたでしょう。お茶をどうぞ」
母親が冷たい麦茶を出してくれた。
「有り難うございます」
誠は深く一礼した。
「もうすぐしたら、夕食が用意できますから、それまでこちらで待っていてくださいね」
「はい」
そう言って母親は台所へ消えて行った。
代わりにまどかが現れて、横のソファーに座った。
「ははっ、何か変な感じですね」
「はっ、はい」
「もう。少しは緊張をといてください。師匠、これも勉強です」
「……はい」
そうは言われたが、誠の緊張はなかなかとれずにいた。
「……いい家ですね」
「そんなことないですよ。もうだいぶ古いです」
「前に話していたお祖母様もここに」
「そうです。ここはもともと祖父母が建てた家なんです」
「そうなんですか」
誠はあらためてあたりを見渡した。
ふと一枚の家族写真が目についた。
「いいですよ、見てもらっても」
まどかの言葉に、誠もうなずいて近くに寄って見てみた。
まどかが10才ぐらいの時の、おそらく旅行先での写真のようだ。
まどかと両親と祖母が一緒に写っていた。
「かわいい……」
幼いまどかの写真に誠が思わずつぶやいた。
「あっ、ありがとう……」
まどかの顔が赤くなると、誠も気づいて顔を赤くした。
「えっ、えっと。旅行の写真ですか?」
「はい。家族で温泉に行ったときの写真だったと思います。なかなか家族全員の写真がないので、これを飾っているようです」
「いい写真ですね」
まどかも笑顔でうなずいてくれた。
誠は、まどかがとても家族に愛され、大事に育てられていることを感じた。
いいご両親なのだろうな、と思った。
「用意できましたよ。さあこちらへどうぞ」
母親が招き入れた。
4人がけの食卓に、誠の分の食器も用意されていた。
「今日、父は遅くなるようなので、先にいただきましょう」
まどかの声に、誠は少しほっとしながら両手を合わせた。
「いただきます」「いただきます」
母親が笑顔で「どうぞ」と答えた。
夕食は肉じゃがだった。
誠は最初にお味噌汁をいただき、
「とっても美味しいです」
とつぶやいた。
「ありがとう。誠さんは家で食事を作られているんですって?」
「はい」
「いつもまどかがお世話になってしまって」
「いえ、大したものを作っていないので、申し訳ないです」
「そんなことないですよ。いつも美味しいです。私は大して作れないので、凄いです」
「母が働いているので、しょうがないです」
「まあ、えらいわ」
まどかの母は、誠のことに興味津々だった。
「入学試験で首席だったとか」
「あっ、はい。入学したときに先生から言われました」
「凄いわね」
「いえ、そんな……」
誠が恐縮して、声をつまらせた。
「どうやって育てられて、勉強ができるようになったのかしら」
「……母は勉強のことはまったく……放置されていました」
「先生に褒められたり、自分で将来の夢を見つけて、勉強するようになったみたいよ」
まどかが代わりに補足した。
「ねえねえ、今日は私も一緒に聞いてもいいかしら」
「えっ、勉強する様子をですか?」
「うん」
「えっ……!」
まどかも誠も驚いたが、母親は真面目なお願いだったようだ。
しばらくして食事がすんで、母親が食器を食洗機に入れる間に、まどかも勉強の用意を整えた。
誠が戸惑っていたが、用意が整い、二人が座って誠の話が始まるのを待ち始めたことで、誠も覚悟を決めた。
一度、大きな深呼吸をすると、誠が話し始めた。
「今日は、国語の話をしようと思います」
「国語?」
「はい。前回、大切なのは読み、書き、計算、と話して計算の勉強をしてもらっています」
「はい」
「今回は、読み、書き、について話をしたいと思います」
「はい!」
元気の良い返事に、誠は一度うなずいてから、言葉を続けた。
「皆さん、国語という授業が何故あるのか、解っていない人が多いと思います。こうして日本語で会話できるのに、何を勉強するのか。平仮名や漢字を覚えて、読むことが出来るようになり、感想文などを書いて文書をかけるようになったら、いいのでは、と」
「正直、私もそう思っています。違うのですか?」
「実は日本語の読む書きにも勉強すべきことがたくさんあります。短時間で理解してもらえるかわかりませんが、実例を用いて話してみます」
「……はい」
「宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』という詩をご存知ですか?」
「雨にも負けず、風にも負けず……というやつですか?」
「はい。一度、全文を読んでみましょう」
そう言って、誠が目を閉じ、暗唱し始めた。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
欲ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシズカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコワガラナクテモイイトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハ
ナリタイ
誠は静かにゆっくりと暗唱し、そして目を開けた。
まどかは全文を暗記していたことも含め、その朗読に感動した。
「師匠、うまく言葉に出来ないのですが、とても良かったです」
誠はうなずいた。
「一つ目は、まず一読したときに受ける言葉の美しさや、内容から来る感動です。これは比較的、理解されやすいところです。次は時を超えて残った文章だけが持つ力です。これを100回程度音読したり、筆写して暗記してください」
「100回ですか……」
「おおよその目安です。例えですから、やらなくてもいいですよ」
肩を落としたまどかをなぐさめるように、笑いながら誠は続けた。
「100回ほど口にしてなじむと、本当の意味で理解が進みます。自分の行動が変わるほどです。そして、時を経てまた読み返すと、また更に違う感触を持って読むことができます。これが良い文章の持つ、強さであり、美しさです。こうして初めて、文が自分のものになったことになり、読み・書きができたことになります」
「…………」
まどかは唖然としていた。自分が理解していた国語とはまったく違う次元の話のようだった。
「次に背景についてです。この文書はどのようにして書かれたか。宮沢賢治についてなにかご存知ですか?」
「東北の……確か、石巻に住んでいた人で、注文の多い料理店や銀河鉄道の夜を書いた人、ということぐらいしか」
誠もうなずいた。
「そうですね。もう少し解説を加えましょう。宮沢賢治は比較的裕福な家庭に産まれました。一方で東北は農家が多く、地震や津波などの災害、冷害などの天候不順から、貧しい家が多くあり、宮沢賢治は申し訳ない気持ち、何か人の役に立ちたいうきもちを小さい頃から強く持っていたようです」
「……はい」
「現在の岩手大学農学部に首席で合格し、卒業後は37才という若さで亡くなる日の前日まで肥料の相談に応じていたと言われています」
「童話を書いて食べていたわけではないのですか?」
「生前には、原稿料はほとんどもらったことは無いようです」
「……」
「強い仏教信仰と相まって、土を愛し、人を愛していました。自らが肺の病気で長くに渡り療養を続け、最後は肺炎で亡くなっています。この詩は、療養生活をしていた亡くなる2年ほど前の手帳に書かれたものです」
「……知りませんでした」
「こうした背景を知って、もう一度、読み返してみてください。また違った思いで読めると思います」
確かに、まどかにも先程の詩がただの言葉ではなく、人の人生、思いの詰まったものに感じられるようになってきた。
そうなると、また一層、美しいと感じられるようになってきた。
「また、あらためて、何となく感動しました」
「宮沢賢治については、グスコーブドリの伝記をお勧めします。これは、ブドリとネリという兄・妹が、冷害のために農家をしていた両親がいなくなってしまい、残された二人も離れ離れになります。兄のブドリは倒れているところを拾われて、働きながら勉強して、火山局に就職します」
「はい」
「そこで、再びあの小さい時にあった冷害が起きます。このままでは、あの時の同じように飢饉が起こり、たくさんの命が落とされてしまいます。ブドリは火山噴火を人工的に起こすことで気温をあげられ、冷害を防げることがわかります。ただ、噴火を起こすためには誰か一人、火山の近くでの作業が必要で、命を落とす可能性が高かった」
「…………」
「ブドリは自分がやると名乗りを上げて、無事に噴火させ、冷害を防ぎました」
「ブドリは亡くなったのですか?」
「最後は『ブドリはそしてちょうど、このお話のはじまりのようになるはずの、たくさんのブドリのおとうさんやおかあさんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るい薪で楽しく暮らすことができたのでした。』で終わっています。書いていないのです」
「……でも亡くなったのでしょうね」
「おそらく」
「温かいけれど、悲しいお話ですね」
「宮沢賢治自身も妹がいらして、彼よりも先に亡くなっています。」
「…………」
「 この話は彼の人生と思いが、とてもよく出ている作品なのです。とても良い話です 。一度、読んでみてください」
「……はい」
まどかは深くうなずいた。
宮沢賢治さんの作品は著作権が切れているため、インターネットで全文が読めます。グスコーブドリの伝記もありますので、皆さんよろしければご一読下さい。