図書室と繰り返し
「で、なんで私まで連れて行かれているの?」
ある日の昼休み、まどかに手を引っ張られ、曜子は図書室へと連れて行かれるところだった。
二人でいつものように食事をとった後に、「一緒に図書室へ行こ!」と返事を聞く前にまどかが引っ張り始めたのだ。
「師匠に報告があって。曜子ちゃんにもついて来て欲しいんだ」
「……なんだ、二人のラブラブな様子を見せつけられるだけなら帰るぞ」
まどかの足が止まった。
「ラブラブ?」
「違うの? 毎日はにかみながら挨拶を交わし、会えない夜はメールを交わし、週に一回は家に遊びに行き、週末は図書館で二人きりのデートをして、将来の夢を語り合ったんでしょ」
「……言葉だけ聞くとその通りなんだけれど、ニュアンスがだいぶ違うような……」
「しかし、一般的にはそう言うのを『付き合っている』というし、『ラブラブ』というのじゃないかな」
「付き合っていないし、ラブラブじゃないし……師匠と弟子です」
「認めない子だね……」
再び、曜子はまどかに引っ張られ始めた。
図書室に入ると、何名かの生徒が本を読んだり、勉強していたりしていた。
比較的奥の机に、いつものように勉強している誠の姿を見つけて、まどかは近寄っていった。
「師匠!」
まどかの声に誠は顔を上げた。
一瞬柔らかな笑顔になったが、曜子の姿を見つけるとまた元の表情に戻った。
曜子はその一瞬の動きを捉えていたが……まあ、そんなもんだよな……と受け止めて、まどかの為すがままに任せていた。
「報告と質問があってきました。いま少しいいですか?」
「……はい」
「あっ、先に紹介します。私の友人の神谷曜子ちゃんです」
曜子は軽く頭を下げた。
「どうも」
誠は戸惑いながら、頭だけは下げた。
明らかに警戒、あるいは緊張している様子だった。
まどかはこんな固い殻をかぶった人間の心に入り込んだなんて、ある種の才能ね……と曜子は心のなかで呟いた。
「師匠も、私とはもう話ができるので、もう一人増やしてみようかな、と友人を連れてきたのですが……やっぱり緊張しますか?」
「はい……少し……」
少しじゃないだろ……と曜子は心のなかでつっこんだ。
「曜子ちゃんなら大丈夫です。師匠、固すぎです。頑張りましょう」
まどかに爽やかな笑顔を向けられると、誠もちょっと顔を赤くして「はい」とうなずいた。
「相変わらずの破壊力ね」
「またもう……そんなこと言う」
「あっと……心の言葉が出てしまった」
曜子は口をつぐみ、二人は誠の前に座った。
「あの算数のことですが……あの、悲しいことに小学5年でちょっと引っかかりました……」
まどかの表情が一転して、自信なげな表情に変化した。
「あっ、ああ……小学5年あたりは算数から数学への橋渡しになるから、ちょっと難しくなります」
まどかの持ってきたドリルとノートを開くと誠はうなずいた。
「できているし、理解も悪くないと思います。あとは回数をこなして、瞬時に答えが出るまで繰り返して下さい」
「何回ぐらい繰り返したらいいですか?」
「問題を見ると、答えが口につくぐらいです」
そう言いながら、誠が問題の一ページを指さしながら呟いた。
「たとえば、15、32、8、34、62、といった具合です」
まどかと曜子の目が見開いた。
えっ、いったい今の……なに……?
「いま、まったく問題を読んだり計算したりする時間もなく答えていましたが……えーっと憶えているのですか?」
「いや、一瞬で計算式と答えが頭に浮かんで口についてくるのです」
「…………」「…………」
二人で呆然とした。
最初に口を開いたのは曜子の方だった。
「まどかから聞いていたけれど、実際に見ると凄いね。これは、首席どころじゃないわ。日本全国の模試でもいい線いくんじゃない?」
「そっ……そうですか? 受けたことがないので知りませんが……」
曜子との話になると、急に誠の口調が自信のないものに変わった。
「人見知りなのは解っているけど、あまりにも差があるなぁ……うん、私もちょっと興味が出た。私のことを曜子って呼んでもらってかまわない。私は誠って呼ばせてもらうから」
「……神谷さん」
「曜子で」
「…………神谷さん」
「曜子」
「………………神谷さん」
「………………それでいい」
たいした違いはないので、曜子の方が折れた。
誠はほっとしたような表情を浮かべていた。
「ここまで早くなくていいとは思いますが、小学生のレベルの問題は、悩むまもなく口につくレベルまで繰り返した方がいいと思います。そのために………」
誠はドリルの下の方に書いてある数字を指さした。
「一枚にかかった時間を記載するといいと思います。この数字が、だんだん減ってくることで上達を把握するといいでしょう。タイマーと一緒で負荷がかかり集中力もつきます」
「なるほど……」
まどかはノートに今のことを書いておいた。だんだんノートに書く習慣ががついてきていた。
誠はうなずいて、話を続けた。
「何故そこまでやらないといけないのか、ちょっと説明を加えましょう」
「はい」
「勉強で最も大切な基本的な項目は何か、と言われれば『読み、書き、計算』だと思っています。昔から自分の名前を書き、物を数えるのが最低限の教養と言われてきました。今でもすべての勉強の基礎はこの三つです」
まどかはうなずいた。
曜子は腕を組んで、黙って聞いた。
「読みと書きは普段の生活の中にもあるので、それほどできなくて……という事もないと思うのですが、計算は意識的にやっておかないとなかなか身につきません。しかも、その後の数学だけではなく、物理や化学といった理数系科目にはすべて関わってきます。勉強が嫌いになる一番の原因であり、逆に得意になると自信となる項目です」
「わかります」
誠がうなずいた。
「小学の頃は、音読することと筆写すること、そして計算することだけが徹底的に、しっかりできれば十分だと思っています。これは以前にも話した陰山英男先生も同じことを言っています。100マス計算が有名になったのは、計算を繰り返すこと、時間を測って負荷をかけて集中させること、といった重要な要素が入っているからだと思います」
曜子もうなずきつつ、誠に質問した。
「確かに君の話は納得できるし、面白い。ただ、誰もが100マス計算で実力を伸ばせるとは限らない。むしろそれで比較され、取り残され、脱落していく者ができるのではないかな」
曜子の言葉に誠は頷きながら、今度は力強く答えた。
「僕はむしろ、たくさんの人の可能性が潰されていることを危惧しています」
「…………」
「あまりにも勉強嫌い、勉強に自信がない人が多い。でも、まどかさんのようにちゃんと伸びる才能をもっていて、やり方によっては成績を上げることが出来る。僕自身も才能があるとすれば、勉強が好きだという才能があるだけです。理解力、記憶力が他人より優っているとは思えません」
曜子は黙って聞いていた。
誠が話を続けた。
「簡単な計算です。障害や病気がある方でなければ、時間をかければいつかは誰でも辿りつける道だと思います。しかも、簡単にできてしまう人より、努力してできた人のほうが喜びも大きく、最終的には簡単にできた人よりも成長することが多い。私は一人でも多く、自分の持っているものを伸ばして欲しいです」
「……なるほど。確かにね……」
「師匠、素敵です」
まどかの言葉に、誠が真っ赤になって頭をかいた。
いきなり歳相応の姿になった。
「まどかが懐いたのも納得できた。悪い奴ではなさそうだし、まあ、大事な友達なので、どうぞこれから宜しくお願いします。」
曜子がそう言って頭を下げると、誠も戸惑いながらもつられて頭を下げた。
「私……いま、何か、嫁に出されたような気分……」
「まあ、似たようなものじゃない?」
そう曜子が呟くと、まどかと誠がふたりで顔を赤くして、下を向いた。
……どこまで、二人は自分の、そしてお互いの気持を理解しているのかな……と曜子は考えた。
二人が恋の気持ちに気づくのは、だいぶ先のように曜子は感じていた。