神様発見
授業の終了のチャイムが、眠っていた如月まどかの意識を引き上げた。
顔を上げると教師はすでに扉を出ていくところだった。
授業は終わったらしい。
あの光景は夢なのかと思ったが、何ということはない、あの神様に思えた彼は、今も静かに座って次の授業の用意をしていた。
彼の名前は、確か……一柳だったはず。
ほとんど目立たず、周りの人の会話にも入らないため、まどかも今ひとつその名前に自信が持てずにいた。
高校入学して一月たったが、勉強ができるらしい、という話以外は聞いたこともなかった。
いつも授業が終わると静かに消えてしまっている。部活にも所属していないようだ。
しかしまどかは、先の光景で確信した。勉強を教えてもらうなら彼だ、と。
まどかは中学の頃から陸上部に所属していて、勉強よりは運動が得意な活発な女の子だった。
中学は髪も短くしていて、整った顔立ちだったが、性格的には男の子のような存在だった。
高校生となり髪もやや伸ばし始め、女の子らしい可愛らしさが見られるようになってきていたが、本人はあまりそのあたりは意識していなかった。
ただ、本人はやや悪い成績のことを気にしていた。
今まではそう気にしてもいなかったが、彼女は高校に入り、あらたな夢を見つけてしまった。
そのためには、何としても成績を上げる必要があった。
ただどうしたら良いか解らずに悩んでいた彼女だったが、彼に教えてもらうことで、何かこの壁を超えられそうな予感がした。
直感に近いものだったが、今までも彼女はそうした直感を大事にしていた。
今回もその思いを大事にし、次は行動にうつす番だと考えていた。
そう考えているあいだに、次の授業が始まってしまった。
物理の時間は、先程よりは授業らしく進み、生徒たちの間に彼の姿も埋もれてしまった。
『この授業が終わったら、声をかけてみよう』
そう決心したまどかだったが、うまくはいかなかった。
授業が終了して、親友の神谷曜子と話しを交わしているうちに、彼の姿はなくなってしまった。
ほんの数分の出来事だったが、本当に気配なく、彼は静かに帰ってしまったようだ。
「しまった……」
「どうしたの?」
「一柳くん……だったっけ、あのあたりに座っていた眼鏡の人。ちょっと聞きたいことがあったのだけど……」
「一柳くん? 誰だっけ……もしかして、あの目立たないけど勉強ができそうな彼?」
「多分そうだと思う」
まどかは自信なげにうなずいた。
曜子も自信がないのは同じだった。
「その彼に何の用だったの?」
「うん、ちょっとね」
理由はまだ話すことが気恥ずかしかった。
勉強や成績が関わるし、夢についても話さなくてはいけなくなるかも知れないことで、何となくためらってしまった。
まだできたての、あわい、実現できるかどうか分からない夢だった。
「あっ、部活が始まるから、またね!」
まどかは曜子に手を振ると、陸上部の部室へ向かって走りだした。
まどかは陸上のなかでも短距離走を得意としていた。
走りこみは決して楽なものではなかったが、あの一瞬の集中と駆け抜けた後の達成感が大好きだった。
中学の時はさいわいにして県大会で準優勝までいった。
高校でも迷わずに陸上部にはいった。
いつもの練習を終えると、あたりはやや日が陰り始めていた。
ジャージのままで身支度を整えると、先輩たちに挨拶をして、駐輪場に留めていた自転車に乗って家に向かって走り始めた。
こうした夕方の風景が、まどかは好きだった。
どこからか夕ごはんのいい匂いがしてきたり、帰りを急ぐ子供たちの笑い声を聞くと、胸がなんとなく幸せな気持ちになるのだ。
まどかはいつも、わざと商店街の道を通って帰る。
その方が車も通っていないので安全だし、夕方の人々の賑わいを見ることも好きだった。
その視界の中に、思わぬ人物を見つけてまどかは急ブレーキをかけた。
制服は着ていなかったが、あの一柳くんがいた。
買い物袋を下げてひとり歩いていた。
今までもこうしてすれ違っていたのかも知れない。
しかし、今は彼が浮き上がるように見えた。
『神様発見!』
まどかはドキドキするのを感じながら、いきなり声を掛けることができなかった。
教室内で声を掛けることは自然でも、こんな商店街では不自然だ。しかも、相手はたぶん私のことを知らない。
『どうしよう……あぁ、見失いそう』
どうするかを決めきれず、自転車を押しながら後を追ってしまった。
『これじゃあ、不審者だよぉ……』
そうは思うが、何となくこのまま見失うのはもったいない気持ちがして、しばらく後をついて行った。
彼はさいわいそのことに気づかず、商店街を抜け、路地を曲がると団地へと歩いて行った。
8階建てのやや古い4つほどの棟で団地が形成されていた。
その高い建物に夕陽があたり、なんとなくノスタルジックな印象を与えている。
棟の間で遊ぶ子どもや、同じように家路につく主婦などが、まばらに歩いていた。
その中の一つに、彼も入っていった。どうやらここに住んでいるらしい。
まどかは立ち止まった。その視線の先で、彼は棟の中に消えてしまった。
ついに声を掛けることはできなかった。
「はぁ……」
ため息をついた。
いつものまどからしくなかった。
いつもは、知らない人の輪でもすぐに入り込んで仲良く慣れる、垣根のないまどかだったが、今回はためらってしまった。
何となく、緊張してしまったのだ。
「どうしよう」
建物を見上げながら、ひとり呟いた。
あの神様のような教室での光景を見たとき、何かの運命のような直感を感じた。
きっと縁があるはずだ、と信じていた自信が揺らいでいた。
「帰るしかないよね」
まどかはもういちどため息をついて歩き始めた。