挨拶と睡眠
翌朝、まどかは学校で今日も誠が入ってくるのを待っていた。
噂があっても、やましいことはない。
むしろ、勉強の恩返しで、挨拶は教えようと心に決めていた。
そう思っていると、誠が教室に入ってきた。
入り口のところで一歩出ては戻ったりと、いつもとは違う動きをしていた。
「……?」
何度かそうした動きをしていたかと思うと、向きを変えてまどかの元へやってきた。
誠から挨拶しようとしてくれていることに気づいた。
誠の緊張感が伝わってきたのか、まどかまでどきどきした。
誠はまどかの側で立ち止まる。
周囲の数名も思わず、会話をとめて二人の様子を見てしまった。
「……おっ……」
がっ、がんばって!
「おはようございます」
誠が頭を下げた。
まどかは思わず、拍手したい気持ちを抑えて、笑顔で答えた。
「おはようございます!」
誠は軽く頭を下げると、自分の席に戻っていった。
席に着くと、隣の人にも同じように挨拶をした。
挨拶された人は、びっくりして、どもりながら返事をしていた。
まどかは思わず吹き出してしまった。
『師匠も頑張ってる……私も頑張ろう……』
まどかはあらためてそう思い直して、授業にむかった。
4回目となると、すっかり馴染んでしまった一柳家。
家に入るときのどきどきもすっかり無くなってしまった。
「ただいま!」
とまどかも思わずいってしまった。
「おかえり!」
真穂さんも嬉しそうに答えてくれた。
間違っていなかったようだ。
ただ、誠は「こんにちは」と呟いていたが。
「復習、毎日なんとか続けています。最近は30分ぐらいやっています」
「えらい、えらい。あまり無理はしすぎないでね。充実感や達成感とか、勉強に対してプラスのイメージが大切だから」
真穂はそう言って、いつものように頭をなでてくれた。これが意外に気持ちが良くて嬉しい。
「はい!」
誠が珍しく、勉強について初めから解説をしてくれた。
「今日は、この前のメールで気づいたけれど、睡眠についての注意を話しておきます」
「はい。師匠」
今までの反省から、まどかはノートと筆記用具を取り出した。
さあ、こい。
「成績を上げるためには、よく眠ったほうが良いか、睡眠時間を削って勉強したほうがいいか。どちらだと思いますか?」
まどかが、はいっ、と手を上げて答えた。
「睡眠時間を削って勉強したほうがいいと思います」
「間違いです」
「……私の常識、ことごとく破れています」
真穂さんが笑いながら補足してくれた。
「いつものように陸上に例えてみなさいよ。よく眠ったほうがいいか、睡眠時間を削って練習したほうがいいか」
「……よく眠ったほうがいいです」
「勉強も一緒よ。能力を発揮し、集中してやるためにはやっぱり寝たほうがいいのよ」
誠がノートを広げて見せてくれた。
「まず東大に現役で合格した人の平均睡眠時間ですが、6〜8時間程度と比較的しっかりとっている人が多数を占めています。これは、寝ている間に覚えたことが定着する頭の作用があること、集中するためには睡眠が必要なためです」
「意外にしっかりとっているんですね」
誠はうなずいた。
「早寝早起き朝ご飯、という運動を百ます計算で有名な陰山英男先生が提唱していますが、これも大切な言葉です。記憶を定着させるのであれば、寝る前に。理解するもの、考えるものは、朝方のほうが効率的です」
「早寝早起き朝ご飯、は出来ています」
陸上のためにやっていたことが、そのまま頭にもいいなんて意外な事実だった。
「では問題です。試験前はよく眠ったほうがいいでしょうか、徹夜してでも徹底的に勉強したほうが良いでしょうか」
「えっ……あれ? さっきの話だと眠った方が良さそうだけど、試験前日ってみんな遅くまで勉強しないと間に合わないから……えーっと」
誠は眼鏡を位置を直しながら、即答した。
「寝てください」
「えっ?」
「寝てください」
「それじゃあ、間に合わ……」
「日々の中で勉強してください」
「……はい」
誠の言葉は相変わらず容赦がなかった。
「毎日の睡眠と起床のリズムを、休みの日も試験の日もずらさないことが大切です。その方が試験の時間帯に頭がもっとも動くことができす」
「日曜日の朝はだらだらとしたいのですが……」
「1時間以上はずらさないように。寝溜めしたい場合は、日々の睡眠時間が足りていない証拠なので、平日の睡眠サイクルを見なおしてください」
睡眠一つで知らないことが沢山だ……とまどかはあらためてノートに書いていった。
・早寝早起き朝ご飯
・休みの日も試験の日も睡眠のサイクルをくずさない
・記憶は寝ている間に定着する、集中力は睡眠が必要
・睡眠時間はしっかり取る
・日々の中で勉強を重ね、試験前日に無理をしない
「あっ、陸上も試合の前日はかるいアップだけにします」
「大事なときに全力を出せるように、前日は休養が必要です。前日にはあまり無理せず、日々の中で勉強を重ねてください」
「……はい」
まどかは肩を落としながらも、誠の言葉に返事をした。
そんな中、真穂が話題を変えて話しかけてきた。
「ねえねえ、まどかちゃん。誠に挨拶を教えているんだって?」
「あっ、はい。勉強のお礼というか、学校でも挨拶してほしいな、って思って」
「ありがとうね」
真穂がまどかの手をとって、感謝の気持ちを伝えてくれた。
「……?」
「家の中では教えられても、学校では誰も言ってくれないからね。大事なことなのに、勉強ができることが免罪符になって、何となくのがれて来ちゃってるのよ」
真穂が誠の頬をつついた。
誠は表情を変えず、つつかれていた。
「良ければ、これからも少しずつ、この子に人とのコミュニケーションについて教えてやってね。びしばしと」
「はい、びしばしと」
そう言って二人は笑った。
誠は困った顔をした。
帰り道も、またまどかと誠は話しながら帰ることにした。
どちらからともなく、そんな流れになった。
少なくとも、誠が会話から逃れようとはしなくなったようだ。
「師匠。今日は朝の挨拶、有り難うございました」
「……緊張しました」
「伝わってきました。頑張っているのが伝わって、挨拶なのに久しぶりに感動しました」
まどかの素直な気持ちだった。
不器用な挨拶なのに、あの時は本当に心から嬉しかった。
それを聞いてほっとした誠が、少しだけほほえんだ。
「あっ、笑った」
「えっ?」
「笑った顔、初めて見たかも知れない」
まどかがまじまじと誠の顔を見ようとして、誠は顔を真赤にしてそむけてしまった。
「師匠、恥ずかしがらないでください。笑顔、素敵でしたよ」
「……! ……!」
誠は言葉にならなかったようだ。耳まで赤くなっていた。
まどかはそんな様子を見て、ちょっだけ声を出して笑った。
からかったわけではない、まどかの素直な気持ちだったけれど、だからこそ誠は照れてしまった。
しばらくは会話もなく二人で夜道を歩いたが、そんな時間もいつか心地よい時間に二人はなっていた。




