挨拶と噂
翌朝。
まどかは、教室で誠が来るのをちょっと楽しみに待っていた。
教室に入ってきた友達と、いつもの挨拶を交わしながら、ちらちらと入り口を確認していた。
HRが始まるいくらか前になり、誠が静かに教室に入ってきた。
にぎやかな教室の喧噪にまぎれるように、自分の席へとむかう。
まどかは席を立ち、誠の席へ歩いていった。
誠は席にたどり着くと、バッグを置いて、いつものように座ろうとした。
「おはようございます!」
まどかが元気よく誠に声をかけた。
その声に、一瞬教室が静かになり、視線が二人に集まった。
誠は顔を赤くして、すこし戸惑いながらこたえた。
「おっ、おはようございます……」
眼鏡をなおしながら、うつむいて、そのまま席に着いた。
まどかは、うんっ、と嬉しそうにうなずいて、満足げに自分の席へ戻った。
再び、教室に喧噪が戻った。
ただそれは、接点がないと思っていたまどかと誠が挨拶を交わしたこと、それもまどかの方から近寄っていって、ということと、誠が挨拶をしたのを初めて見た人たちの、戸惑いの喧噪だった。
誠は自分から挨拶することはなかったし、挨拶をしても軽くうなずくだけだったので、そのうち誰も挨拶をする人がいなくなっていた。
まどかの横の席の桜井宗志がまどかに声をかけた。
「如月さん、一柳と友達なの?」
「えっ、だって、クラスメイトだもん」
にこやかに不思議そうな顔で答えられ、宗志もそれ以上聞けなかった。
クラスメイトと挨拶しただけではない、インパクトを周囲には与えていた。
まどかは自分が喧噪の話題の的になっていることには気づいていなかった。
やがてチャイムが鳴り、教師が教室の中に入ってくると、自然と静かになった。
ただあたりを見渡すと、嬉しそうにしているまどかの様子を見つめる男子生徒が数名いた。
そんな様子を見て、曜子はため息をついていた。
昼休み、曜子はまどかを連れ出し、中庭でお弁当を食べることにした。
「時には、中庭も静かでいいね」
とつぶやくまどかに、曜子がため息をついた。
「なっ、なに? なんでため息なの?」
「本気で気づいていないの?」
「何が?」
「…………この前、可愛いと噂になっている話はしたよね」
まどかはうなずいた。
実感はないのだが。
「一柳さんとどういう仲なの?」
「仲って……、その……、勉強を教えてもらっているの」
曜子はじっとまどかの目を見つめた。
「それだけ?」
「それだけって……他に何か……?」
曜子はしばらくまどかの目を見つめた後、またため息をついた。
「嘘をついている様子はないわね。じゃあ注意しておくけど、今朝の挨拶はあまりにも不自然だった」
「ああ……師匠が挨拶することってないからね」
「師匠?」
「あっ、うん。勉強のお師匠様」
「…………えーっとね」
「はい」
曜子はどう説明していいか、頭を抱えていた。
「つまり、あなたに好意を持っている男子生徒が何名かいるみたいなの。そんな中で、あんたがわざわざ近寄っていって、あんな笑顔で挨拶するから、二人は付き合っているのか、っていう憶測や心配から、またさらに噂が広まっているの」
「…………私の?」
「他に誰がいるの」
「挨拶しただけだよ?」
「あなたがしたことに問題があるの」
「師匠のせいではなく?」
「まあ、あいつも数割は問題があるけど。あなたの行動は思っている以上に影響力があるみたい。気をつけなさい」
意外な曜子からの指摘だった。
まどかは戸惑った。
てっきり、挨拶をしない誠が挨拶したことが話題になっているだけだと思っていた。
誠が挨拶をすれば応えてくれる人だと解れば、もっと挨拶をする人が増えるかな、としか考えていなかった。
「そう言われても……」
「何度も言うのも、だんだんむかついてきたけれど、あなたは可愛いの。知らず、話題になってしまうの」
「…………はい、気をつけます。でも、挨拶ぐらいはしたいなぁ」
「まあ、なら、噂にされるぐらいは覚悟してね」
「どんな覚悟をすればいいのか解らない……」
「そうね。私も具体的にはどうなるかまでは解らないけれど」
そんな話を交わしていたところに、ひとりの男子生徒が現れた。
二人を見つけると、近寄ってきて声をかけた。
「まどか!」
声に振り向くと、知った顔にまどかも笑顔になった。
幼なじみの武田悠太だった。
「あっ、悠太。久しぶり」
「ちょっと探したよ」
「どうしたの?」
悠太はまどかの横に座った。
「まどかが付き合っている男がいる、って噂を聞いて、本当かと思って」
「…………」
「ほらね」
まどかはびっくりして悠太に聞いた。
「えっ、だって悠太のクラスって、隣の隣だよね。なんでそんな噂が伝わっているの?」
「知らないよ。で、本当なの?」
「違うよ」
「やっぱりそうか」
悠太はほっとしたように笑顔になった。
「武田くん、嬉しそうだね」
曜子がにやにやしながら聞いた。
「……っ、そんなことない! 男の噂のないまどかに、とうとう男ができたのかって、幼なじみとして気になっただけだよ」
悠太の頬がわずかに赤くなったのを曜子は見逃さなかった。
ただ、まどかはそのことに気づかなかった。
「どうせ、私にはそんな恋の噂なんてありませんよ」
いーっだ、とまどかは悠太にやってみせた。
その様子が可愛かったのか、悠太はさらに顔を赤くしてうつむいた。
「? どうしたの?」
「なっ、なんでもない。……でもなんでそんな噂が立ったんだ?」
「今朝、クラスメイトに挨拶しただけなんだけど……」
悠太は振り向いて、驚いた。
「それだけ?」
「それだけ」
「まどかがわざわざ近寄って行って、笑顔で自分から挨拶したからよ」
悠太が、あー、と言いながら納得した。
「えっ、それで納得できるの?!」
「だって、まどかは挨拶に応えたり、近くの人たちとは挨拶するけれど、自分から近寄って挨拶するのは、基本的に本当に仲のいい女友達だけだろ?」
「……言われてみれば」
「男にしたのは初めてだよね」
「……そうかも知れない」
「だから、噂になったんだよ」
曜子が補足した。
「あんたが気になる男が多いから、噂になって伝わるのよ」
悠太の顔がまた赤くなった。
「そうなの?」
まどかが悠太の顔をのぞき込んで聞こうとすると、悠太は顔を背けて答えた。
「そうじゃないの」
曜子がくっくっと、笑った。
「ちくしょう、神谷め……」
「なに? どうしたの?」
「いや、なんでもない。……で、その男とは仲いいの?」
まどかはうなずいた。
「勉強を教えてもらっているの」
「勉強なら俺が教えてやるよ」
「そういえば、悠太も頭いいよね」
悠太はそれほど勉強している様子は見せないのに、だいたいいつも上位の成績だったことをまどかも知っていた。
「おまえよりはな」
「あっ、ひどい」
まどかはふくれてみせた。
やっぱりみんな、私にはそんな印象なのね……と落ち込んだ。
「でも、事情があって、しっ……一柳くんじゃないと駄目なんだ」
「事情って?」
「悠太にもそのうち話すよ、今はまだちょっと恥ずかしくって」
悠太は首をかしげた。
「まあ、とにかく付き合っている訳じゃないんだ」
「うん」
「わかった。いつか教えてな」
「うん、ありがとう」
まどかは笑顔で悠太を見つめた。
悠太も笑って、「じゃあ」と言って立ち上がり、行ってしまった。
「……本当に気づいていないの?」
「何が?」
「……まあ、いいや」
「……?」
まどかはにぶいこともあるが、今まで告白されたり恋愛したことがないから、自分に対する好意というのが、まだ信じられないのかも知れない。
このあたりは、本人が気づかないとしょうがない。曜子もあえてつっこまないことにした。
悠太は勉強もできるし、顔だってまずまず。幼なじみだし、お似合いなのだが……と曜子はため息をついた。
まどかはそんな曜子の心配をよそに、嬉しそうにお弁当を食べていた。
その日の夜、寝る前の時間。とはいえ、まどかの就寝時間は10時と早めだ。いつも朝に走るので起きるのが早いのだ。
教えに従って、復習を始めようとしていた。
しかし、教科書とノートを開くと、反射のように眠気が襲ってきた。
「眠い……これで復習なんて、できるのかしら……」
まどかは思わず呟きながら、眠気覚ましに周囲を見渡すと携帯があり、手に取った。
曜子にメールをしようかと思ったがためらい、悩んだ末に真穂にメールを打った。
『師匠、勉強しようとしているけれど、眠たいです……。まどか』
誠は携帯を持っていないので、真穂にメールした。
迷惑だったかな……もしかして真穂さん夜勤かな……と心配しているなか、メールの返信が届いた。
まどかは急いで、メールを開いた。
『まどかちゃん頑張れ! 誠からの伝言。タイマーを設定してやると効果的です。声に出したり、書いたりすると眠気が来にくいです。だそうよ。真穂』
「タイマーか……」
タイマーらしき物はないので、携帯のアラームを15分後に設定して、15分だけは集中してやってみようと決心した。
「よし、よーい、スタート!」
自分でかけ声をかけて、勉強を始めた。確かに、頭で考えていることを声に出したり、手を動かすと眠気が和らいだ。
気持ちの上でも、たった15分と思うと何となくやる気が出た。
時間は気になってちらちら見てしまうが、15分で理解して記憶をと思うと、集中はできた。
時間はすぐにきた。何とか慌ただしくはあるが、1教科の復習はできた。
まどかは早速、真穂にメールした。
『師匠、真穂さん! 15分だけですが、集中してできたと思います。有り難うございました! まどか』
片付けをして、明日の用意を始めると、メールはすぐに返事が来た。
『頑張ったね! その調子。えらい、えらい。おやすみなさい。誠、真穂』
まどかは嬉しくなって、メールを何度か読み返した。
そして、もう一度だけメールを打った。
『有り難うございます! おやすみなさい。まどか』
それだけを打って部屋の電気を消し、まどかはベッドへ行き、携帯をそばに置いて眠りについた。
たった15分のことだったが、まどかは満足感の中、深い眠りにつくことができた。