神様のお見送り
「確認ですが、黒板を写すとき、見てすぐにノートに写していますね?」
「はい」
「それは禁止します」
「駄目なんですか?!」
「その方法は短期記憶なので、頭に残りません。一度憶える作業を間に入れてください」
「短期記憶……」
またもや、誠から難しい言葉が出てきた。
「短期記憶というのは例えば、電話番号を一瞬だけ憶えるときに使われるものです。口の中で繰り返してつぶやいている間は覚えていますが、電話をかけた直後にはもう忘れています。これは、頭の中に電気信号は通すが、突起が伸びない状況です。電気の流れが無くなると、まったく元の状態に戻ってします」
「……つまり板書するだけでは、まったく記憶に残らないと……」
「まあ、そうです」
がーーん……。
今までの苦労は何だったのだろう……そういえば、授業が終わるとほとんど忘れていたような気がする。
くすん。
「理解出来ないところは、どうしたらよいでしょうか」
「? ……ちゃんと聞いていれば、それほど難しくはないと思うけど……昼休みの時間、図書室にいますので、聞いてください」
「はい」
やっぱり昼は図書室にいたんだ。
縁のない場所だったから、見かけなかったのね。
「なぜ授業の受け方から始まるかというと」
真穂さんが説明を加えてくれた。
「帰ってから1時間勉強をしようとすると大変だけど、学校の授業は1日6時限もある。これをしっかりやらない手はないのよ。先生の教え方の上手下手はあるかも知れないけれど、本当にちゃんと受けている人も多くない。熱心な生徒には先生も熱心に教えてくれたり、面倒をみてくれたりするものよ」
「わかります」
確かに、いきなり学校から帰ってから毎日勉強と言われたら、かなりつらかったかも知れない。それに、あんな誠のように授業を聞いてくれたら、先生だって教えがいがあるというものだろう。
……あの境地までは、とっても到達できそうにないけれど。
軽い確認事項の後、本日の作戦会議は終了した。
先程のノートの切れ端を渡され、また一週間後に報告・確認することになった。
勉強しようとしていた誠さんの首根っこをつかまえて、真穂さんはまどかを送るように言った。
誠は戸惑ったような顔をした。
「誠、帰りが遅くなった女性を家まで送り届けるのは、男性の大切な義務の一つよ。これも勉強。実技のね」
不平がありそうだが、誠は受け入れた。
「……解りました」
「門の前で帰らず、ちゃんとご両親に挨拶してから帰ってらっしゃいよ」
誠は頷いて、玄関へ向かった。
「あの、ごめんなさい。迷惑ばかりで……」
「いや……あの……いいから……」
誠はちょっと困ったように、視線をおよがせた。
勉強を教えるときは、落ち着いていたが、今はどこか戸惑っているようだった。
二人は駐輪場へ向かうと、それぞれの自転車に乗った。
「それじゃあ、ついてきてもらっていいですか?」
誠は頷いて答えた。
道中、会話はなかった。
まどかも話しかけようかと思ったが、誠が緊張しているのが解って、何となく声をかけづらかった。
家に着くと、まどかは自転車を中に入れた。
「ただいま!」
声をかけると、母親が出てきた。
「お帰りなさい。……あら今日は男の子?」
「うん、前に話した一柳誠さん。送ってもらったの」
「あら、有り難うございます」
母親が頭を下げると、上ずった声で応えた。
「いっ、一柳です……あっ、あの……えっと、帰ります。すみません」
少し顔を赤くしていたようだった。
すぐに自転車にまたがると、そのまま走りだしてしまった。
あっという間に角を曲がり、姿は見えなくなった。
母親はくすっと笑った。
「絵に描いたように真面目で、素朴な子ね」
「勉強の時は、すごく堂々としているんだけど……」
「そうなんでしょうね。まどかと反対」
「……はい。その通りです」
二人で少し笑った。
もうあたりは夜の闇に覆われていたが、ここだけは明るさと暖かな空気で包まれているようだった。