それ以上のこと
今日は誠の家で勉強をする日なのだが、ひとつ大きな問題が生じていた。
話は夏休み明けに戻り、海旅行から帰ってきた誠に対して、真穂が質問をした時のこと。
「誠、まどかちゃんの水着写真、撮ってきた?」
「僕は撮っていません。撮ってくれた人が後でくれるので、待っていて下さい」
「何だ、楽しみにしていたのに」
真穂はしばらくブツブツと何かをつぶやいていた。
「あっ、それと、ちゃんとキスした?」
真穂の突然の質問に、誠は食べていたご飯を軽く吹いてしまった。
「まさか、一泊してキスもしていないなんて言わさないわよ」
真穂が冷ややかな視線で誠を見つめてくる。
「……………した」
「何? 聞こえない」
誠は大きく息を吸い込む。
「キスしました」
「おぉ!」
真穂が誠の背中をバンバンと叩き、また誠はご飯を吹き出した。
「よくやった! ヘタレなりに頑張った。まさかまどかちゃんの方からキスしてきたわけじゃないわよね」
「なんてことを聞いてくるんですか…………僕からです」
若干、周囲に煽られたり、まどかが催促はしてきたが。
「よし! よし! で、それ以上は?」
誠の箸がピタリと止まる。
「今、何と?」
「それ以上は?」
「……母親の言うセリフですか」
「母親だから聞くのよ。あんな可愛い子に、高校生にもなって手ひとつ出さないなんて、どこか問題があるんじゃないかと、私なりに心配しているのよ」
誠は、はぁ、とため息をついた。
「息子はヘタレで奥手ですが、正常だと思います」
「つまり、まどかちゃんを見て、その気になることはあると」
「げほっ!」
誠はご飯を思いっきり喉につまらせた。
何回か咳き込み、お茶を飲んでようやく落ち着きを取り戻す。
「なっ、何を言ってるんですか!?」
「だって、正常って言ったら、そういうことでしょう」
「いや、その、だから」
確かにその気になることはあるので、強く否定はできない。
誠は顔を赤くして、言葉を無くした。
「で、それ以上のことしたの?」
「やっぱり聞くんですね」
「聞くわよ。聞かせて」
「してません」
「してないの?」
「はい」
「……ヘタレ」
誠は頭を殴られたような衝撃を感じた。
確かに、機会はあった。でも、まどかが寝てしまったのだから。
いやいや、確かに寝なくても、それ以上行く自信はなかったのだけれども。
……やっぱりヘタレなのか?
「よし、解った。今度、家での勉強会の時に、ちょうど飲み会や食事会が入ったら、遅くまで帰ってこないから!」
「かっ、母さん……」
誠はだんだん母親の暴走についていけず、へたりこんだ。
「その代わり、無理はダメよ! まどかちゃんが怖がったり、嫌がったら無理しちゃ駄目。時間をかけて、ゆっくりと!」
「何の講義ですか……」
「保健体育よ」
以前に、そんなやり取りがあった。
とは言え、そう真穂も飲み会や食事会があるわけでもなく、誠もそのことを忘れていた。
今日、真穂は遅くまで帰ってこない。
「夜10時までは絶対に帰ってこないから。解った? 10時までは大丈夫よ。……と言っても、あまり遅いと親御さんも心配するから、9時までには帰したほうがいいか……。でも学校帰ってきてから9時までだから、十分よね! それじゃあ、行ってらっしゃい!」
真穂は今朝、出ていく間際の誠に、勝手にそう伝えて玄関の扉を閉めた。
最近は学校から家までふたり一緒に帰るので、家に上がってもいつも真穂はいない。
夕方頃に、真穂が帰ってきて夕食を一緒に食べるのがいつものパターンだった。
だから、今日も家に上がる時に、まどかは特に何も違和感を感じていないようだった。
ただひとつだけ部屋がいつもと違う所があり、それに気付いた誠はがっくりと膝から落ちた。
まどかも意味は解らなかったようだが、違いには気付いたようだ。
「あれ、奥の部屋に布団が敷いてありますね。真穂さん、風邪ですか?」
「……あれは罠です」
「罠?」
「母はとてもまどかさんのことを気に入っています」
「はい」
「私ともっと仲良くなって欲しいようです」
「?」
まどかは布団とこの話がどこで結びつくのか解らず、首を捻った。
「今日、母は仕事場の飲み会で、夜10時まで帰ってきません」
「あっ、そうなんですか…………え?」
「そういうことです」
誠の言おうとしている事を理解したまどかは、一気に顔を赤くした。
よく見ると、布団の横にティッシュまで。
誠が立ち上がり、台所と部屋を分ける襖を閉じた。
「見なかったということで」
「……はい」
二人は沈黙のまま、勉強を始めた。
いつものように復習から入り、誠が問題を出してまどかが答え……。
しかし、互いにいつものように集中してできていないのは、はっきりしていた。
速度が遅くなったり、手が止まったり、話を繰り返したりしてしまう。
誠の説明が急に止まり、動かなくなった。
「……師匠?」
まどかが問いかけても、誠が動かない。
どうしたのかと心配になり、まどかが誠の顔を覗き込もうとしたところ、誠はすっと顔を上げてまどか見つめた。
「まどかさん」
「はっ、はい」
「ちょっと話を聞いて下さい」
「はい」
まどかはシャープペンを置き、姿勢を正して誠の言葉を待ったが、誠はなかなか話しだしてくれない。
どうも話すべきかどうか、迷っているようだ。
声を掛けたくなったまどかだったが、何とか誠の言葉を待った。
「あの、正直に話しますけど、嫌いにならないで下さいね」
思いがけない出だしに、まどかがびっくりしてしまう。
「師匠のこと、嫌いになんかなりません。何ですか? 何でも言って下さい」
そう、まどかは誠のことだったら、何でも聞きたかった。
理解したいし、共有したいし、協力したい。
まどかは真剣に誠の言葉を受け取るつもりでいた。
「その、海の旅行から、まどかさんのことを意識してしまって」
「あっ……はい」
「キスしたかったり、抱きしめたかったり、その……触りたかったり」
まどかは黙ってうなずく。
「最近は、それ以上のことも望んでしまう自分がいて、困っています。
その……男は、精巣で毎日1億個の精子が作られるので、定期的に出さないといけないんです。
それこそ、トイレに行くように。
それで、精子がたまると出したい生理的な欲求が起きてきて、そうするとまどかさんのことを考えてしまって、その……したい気持ちになってしまうんです」
最後の方は、消え入りそうなぐらい小さな声で誠はつぶやいた。
誠も恥ずかしいに違いない。
まどかも聞いていて、頬が熱くなるのを感じる。
誠は言葉を続けた。
「そんな自分が嫌なんです。まどかさんを生理的欲求のはけ口にしたくない。
それに、例え避妊をちゃんとしたとしても100%ではないから、妊娠してしまうかも知れない。
そうしたら、まだ養うことも結婚もできないから、堕ろしてもらわないといけないかも知れない。
……それが僕は嫌なんです」
誠が悩んで出した結論だった。
したい気持ちがある。体も心の準備もできている。
でも、年齢のこと、責任のこと、受験のこと。
そして、命が授かったとしたら、愛し慈しんで育ててあげたい。
それには、まだふたりは若すぎる。
だからこれ以上、今は先に進めない。
まどかは何度もうなずいて、初めて口を開いた。
「師匠が正直に話してくれたので、私も話します。聞いて下さい」
「はい」
今度は、まどかが話し始めた。
「私も旅行の出来事は、忘れられません。キスすること、抱きしめられること、肌が触れることがこんなに気持ちよくて、嬉しくて、幸せなものなんて知りませんでした」
「…………」
「でも、女はその男にあるような生理的欲求はあまりないので、時折キスして抱きしめてもらうだけで、けっこう満足できます」
まどかの気持ちを聞いて、誠は深くうなずいた。
聞いてみないとわからない互いの気持ち。
恥ずかしいことだが、お互いに確認できてよかった、と感じていた。
「だから、師匠の考えで、私もいいと思います。ただ……」
「ただ?」
「その、男の人って、我慢ができるものなんですか?」
「いや、その……出してしまえば、しばらくは欲求は抑えられます」
「そうなんですか。その……どのぐらいの頻度で?」
まどかの問に、誠は頬が熱くなる。
誠は顔を下にむけて、小さな声でつぶやいた。
「1日に1度か2度です」
「そんなに!? ……男の人って大変なんですね」
「はい……」
「あの、手伝いましょうか?」
「……はい?」
誠は恥ずかしくなってもじもじしていると、まどかが何かとんでもない提案をしてきていた。
「手伝うって」
「その、私はよく解らないのですが、何か役に立てないかな、と思って」
「いっ、いや! いいです。大丈夫です!」
誠は想像してみて、あまりの刺激的な光景にめまいがした。
おそらく、まどかはよく解らずに発言しているのだろう。
それに、頭の中でまどかは十分に役に立っています、とは言えなかった。
「私に遠慮しないで下さいね。少しでも役に立ちたいんです」
「有り難うございます。気持ちだけでもう十分です」
まどかがちょっと残念そうな顔をしたのは、どう受け止めればよかったのだろうか。
誠は真剣に悩んでしまった。