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エピローグ 物語が終わる頃

 春。花が咲き、鳥が歌う。いのちの芽吹きの季節。


 それでも、少女──ミーティアの体は、もうろくに動かすことができなかった。手足は痺れ、舌は鉛のようであった。

 それでも、ミーティアは待ち続けた。開け放たれた窓辺で、ベッドへそよそよと吹く春風を感じながら、彼を。──ルカを。


 昼食にミルク粥を食べ、再びゆったりとベッドに横たわる。食べることすら、彼女にはもう大仕事であった。ひとが誰もいなくなった部屋で、窓辺に小鳥が来ては、ちちちと鳴き飛び去っていくのを、ミーティアは眺めるのみであった。


(死ぬって、体がどんどん軽くなっていくものだと思っていたわ)


 彼女の場合、その逆であった。まるでベッドの中へどんどん沈み込むように、自身の体が重くなっていくのを感じる。呪われて石像になった物語の王女のように。石になってしまったら、きっと王子さまのキスで目覚めるのだ。──そう、ミーティアは思ってもいた。願っていた、とも言う。

 ルカ、ルカ。会いたい。いつ来てくれる? それとも、わたしが来るのを、待ってくれている?

 ミーティアの頭の中は、ルカのことでいっぱいだった。もしも、ルカが自分をずっと待っているのだとしたら、それはとても悲しいことだと彼女は思うのだ。彼女の死を知らず、ひとりぼっちで待ち続ける彼のことを思うと、少女は胸が病よりも痛くなる。


「ルカ……」


 思わず、少年の名前を呼ぶ。

 ちちち、ぴぴぴと、小鳥の声がする。……そして、草を踏む足音がした。いつもはどんな時も足音を立てない存在が、ミーティアへ存在を告げるための、足音が。


「……。……ミーティア」


 その優しい声の主は、窓際に腰掛け、彼女の髪を撫でた。名前を呼ばれたミーティアは、思わずその手をふわりと掴み、頬ずりをした。


「ルカ。ああ、ルカ……」

「遅くなって……会えなくて、ごめん」

「いいの、いいのよ。またあなたに会えた、わたし……それだけでじゅうぶん」

「じゅうぶん、なんてことはないだろう? 本当は、もっとしたいことがたくさんあるはずだ」

「……ふふ、ばれちゃった」


 いたずらっぽく、しかし弱々しく、ミーティアは笑った。


「ダンスも、おでかけも、一緒にお菓子を食べるのも、またしたかった。でも……もう、だめなの。ごめんなさい、ルカ」

「謝るな。謝らないでくれ。……ミーティア、渡したいものがあるんだ、起こしても良いか?」

「ん……なあに?」


 ルカはそっとミーティアの部屋に入る。彼のぼろぼろの革靴から、ミーティアの部屋には不釣り合いな土くれがいくらか散ったが、ミーティアは気にしなかった。そっとルカはミーティアの半身を起こす。そして──彼女の頭に、ふわりとやわらかな香りのそれを被せた。……星の形をした、美しい白い花のかんむり。


「アステリシア……」

「そうだ。これだけは……ミーティア、お前にあげたかったんだ……。僕の、お姫さまの、かんむり」

「……うれしい。ルカ……」


 何度も、何度も、ふたりはお互いの名前を呼んだ。指と指を絡め、寄り添い合う。


「ルカ」

「……ん」

「ぎゅうってして」

「……うん」


 宝物を閉じ込めるみたいに、ルカはミーティアを腕の中におさめる。それだけで、ミーティアは全てが許された気持ちになった。だから、「もっと強くしていいのよ」なんて、わがままを言ってしまうのだ、けれど、それは許される。ルカは許すのだ。ルカは、それこそぎゅうっと、絶対に離れないように彼女を抱きしめた。

 ミーティアの心臓の鼓動は、もうずいぶんと弱々しくなっていた。ルカはそれを、彼女を抱きしめることで嫌でも感じ、泣きたくなるのであった。けれど、彼は泣かない。涙に濡れた視界では、彼女をよく見ることができない。だから──泣かないのだ。


「……花が、次々咲いていってるよ。ミーティア」

「もう、春なのね」


 ミーティアは自身の頭の花冠を優しく撫でた。


「あと少しだけ、夏に近づいたら……青硝子鳥(あおがらすとり)も、森に戻ってくる」

「あの綺麗な青い羽根の?」

「ああ」

「ふふ……ねえ、青硝子鳥は雛も青いの?」

「うん。でも、おとなの鳥より少し濁ってる」

「まあ、そうなの。……ねえ、今夜は満月よね。この花冠も月に照らしたら光るかしら」

「すぐしおれてしまうから……でも、今夜中はもつと思う」

「そう、そう……嬉しい」


 他愛のない話を繰り返す。春の風がいっそう強く吹いて、ルカはミーティアを守るようにより強く抱きしめた。ルカの体からはみどりの匂いがする。そうミーティアは思った。土や草木の匂い。外の世界の匂いだ。元人間の王子さまとは思えない匂いであったが、それが彼女にとってはたまらなく愛しかった。やはり、ミーティアにとっては彼は妖精の王子さまなのだ。


「ねえ、ルカ……わたし、覚えているわ、あなたと出会ったばかりのこと」

「……あんまり思い出すな。恥ずかしいから」

「ふふっ、でもいじわるしちゃう。あなたはぶっきらぼうで、でも優しくて……アステリシアのお花畑を見せてくれたわ。ねえ、どうして? どうしてあのとき、わたしの手を取ってくれたの? 鉄が嫌いだったのはなぜ?」

「……。……ミーティアの髪が、月の色をしていたから。瞳の色が、明け方の空の色をしていたから。きれいで、放っておけなくて。それに鉄は……剣とか、思い出すし……」

「まあ、そうだったの……」

「今思えば、一目惚れだったのかも……って、こんな話、もういいだろう……」

「あら、もういいなんてことはないわ。わたしもね、あなたのその金色の目と……そのかんむりのようなツノに、どうしようもなく惹かれてしまったの。わたしたち、おんなじね」


 ──そっと、ミーティアはルカの頭に手を伸ばす。かつて拒絶されてしまった触れ合い。しかし、今度は彼は拒まなかった。巻いたしろがねのツノに、ミーティアがそっと触れると、ルカは目を閉じた。


「……最初から、こうしておけばよかったのかもな」

「なあに?」

「ううん、最初からミーティアにこのツノを触らせておけば、僕はお前ともっと早くに仲良くなれたかもしれないのにって」

「あら、ふふ。わたしは……この一年、とっても楽しかったわよ。春にお花を見に行って、夏に泉に足をひたして……秋に、恋をして、冬にダンスを踊って。あなたといて、楽しいことしかなかった。……ねえ、ルカ。あの大きな木はまだ生きている?」

「……ああ、生きてるよ。僕も、ミーティアといるときは楽しかった。……いや、ミーティアがいない間……待ってる間も楽しかった。ミーティア、あの秋の葉の花束、もうぐしゃぐしゃになっちゃった?」

「そう、そう……うれしい。いいえ、一個一個、押し花にしたの。本で挟んで、乾かして……だから今でもきれいよ」

「そうか……」


 げほ、げほ。とミーティアが咳き込む。ルカは慌てて彼女から身を離そうとするが、ミーティアはけして彼から離れようとしなかった。ぽたぽたと、シーツに血がにじむ。


「ミーティア……」

「……ね、ルカ。もうずっとあなたにお願いしてばかりだけれど、もうすこしだけお願いがあるの、聞いてくれる……?」

「聞くよ、聞く……僕に叶えられる願い事なら、何でもするから」

「ほんとう? じゃあね……」


 青白い顔のミーティアは、それでも微笑んでルカに想いを紡いだ。


「キス、してほしいの」


 それを聞いたルカは、何も言わずミーティアの頬を手で包んだ。すっかり痩せ細って、くぼんだ頬。けれど、ルカにとっては誰よりも美しいひとのからだ。


(魔法使い。今ならお前の想ったこともわかる。先に逝く者を愛するって、こんな気持ちなんだな)


 そして、少年は指で少女の頬を撫でながら、ゆっくりと唇と唇を重ねた。つめたい彼女の唇は、ルカの心を痛めたが、それでも、愛しさの方がまさっていた。


 お互いこんなにこんなに冷たくて寂しいのに、同じくらいに愛しくてあたたかいのだ。


 唇が離れる。触れ合うだけの子どものキス。けれど、それでじゅうぶんであった。


「……ルカ」

「ミーティア」

「孤独に負けないで。わたし、いつだってあなたのそばにいるわ。わたしのこと、忘れないでね」

「……ああ。ミーティアこそ、僕から離れないで。僕たちはずっと一緒だ」

「ええ。もちろん。……ルカ、ルカ」


 そっと再び、ミーティアがルカの胸へ顔をうずめる。


「だいすきよ」


 ──そして、それがさいごであった。



 ルカは森の中を歩いている。静かに、早足で。……しかし、その足取りはだんだんと遅くなっていく。やがて足が完全に止まる。

 いつも手を引いていた少女にこんな姿を見られたら彼女はきっと言うだろう。


『ルカ? どうしたの?』


 と。けれど、その少女はもうこの世にはいない。彼の腕の中で、安らかに冷たくなっていった。ルカは冷たくなった彼女の口のはしに付いた血を拭い、布団に優しく寝かせ、彼女の部屋を去った。彼女の頭に被せられた花冠は、あえて外さず。


「……ミーティア」


 そう呼べば、今でも「なあに?」と返事が返ってくるような気がして。ルカは懐から彼女からの贈り物である、青い羽根に青いリボンを付けた羽根飾りを取り出して、じっと見つめた。透き通るような青は、今日の天気と同じ色をしていた。


「……ミーティア」


 名前を呼ぶ。返事は無い。ここに彼女はいない。


「……っ! ミーティア……!」


 獣の少年は吠える。ずっと我慢をしていた涙を溢れさせ、目にしみるほどの青い空を見上げ金色の瞳を潤ませた。

 人間が死んだ人間のなかで最初に忘れるものは、声だという。だが、ルカは人間ではない。人間ではないのだから、きっと──ずっと、忘れないのだ。


「ミーティア、大好きだ……」


 獣の少年は、妖精の王子さまは、空に向かって再び吠える。そして誓うのだ。


 もしこの世に生まれ変わりがあるのならば、また愛しいひとに会える日を何千、何万年でも待とうと。たとえ無いとしても、自分の胸の中で、ずっと一緒だと。


 永遠の愛を知った永遠の少年は、もう不幸な獣ではなかった。彼は涙を袖で拭い、再び歩き出す。


 やがて、森の屋敷の近くに小さな白い墓が建った。中に眠っているのは十五歳の小さな少女。いつも整えられているそこには、彼女の両親が供えた花の他に、星の形をした花が、毎年春になるとかんむりとして編まれて置いてあった。

 それは、彼女の両親が亡くなり、この屋敷から人がいなくなっても、何度星が巡っても、ずっとずっと続いた。


 花冠を置く者(かれ)の正体は、誰も知らない。

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